校長だより

便利すぎる世の中

二泊三日の伊豆大島見学旅行(5年生)を皮切りに、各学年の遠足行事が始まりました。伊豆大島の行事の様子は、ホームページでご覧いただけます。是非、ご覧ください。 遠足は、子どもたちが楽しみにしている行事です。梅雨入り前の遠足日和に当たることを祈っています。

さて、先日、7月末に行う幼稚園・保育園・小学校連携のシンポジウムにパネリストとしてお招きする幼稚園の園長先生を訪ねました。初めてお目にかかる先生でしたが、お忙しい中、温かく迎えて頂きました。初対面にもかかわらず、教育観が一致していたせいでしょうか、話が弾み、あっという間に時間が経ってしまいました。その会話の中で、園長先生がお話になったことの中の一つに、こんなことがありました。

「この子たちが大人になる頃には、AI(人工知能)が発達して、今ある職業の3割くらい しか残っていないそうですね。」

この言葉は、私も最近どこかで目にしていました。園長先生とお話ししていたときは、低学年の実践に関わっていた頃、原体験の不足を感じ、お買い物ごっこなどを授業に組み入れながら算数の授業に取り組んでいた話をしました。園内を案内して頂いた時、水槽に入ったおたまじゃくしを眺めながら、

「子どもたちは、カエルの子がおたまじゃくしであることは知っているのですが、カエルになりたての尾がなくなって前足まで出そろった小さな黒いカエルを見 ても、カエルじゃない、と言います。」

と、話してくださいました。カエルとは、それなりの大きさをしていて、緑色で…、という概念は絵本などで知ってはいるものの、その成長過程は全く理解されていないのです。実際に飼育してみて、毎日の変化を自分の目で追いかけて初めて理解できることでしょう。これは、正に私達が「総合」の授業の中で大切にしている「体験に根ざした事実認識」に他なりません。思わず、大きく頷いてしまいました。

幼稚園を出て、帰りの道すがら、AIのことが頭の中で引っかかっていました。そして、いつの間にか、自分が小さい頃の絵が断片的に脳裏に浮かび上がってきました。その園長先生も小さい頃、吉祥寺でお育ちになったということをうかがったせいでしょうか…。 私が小さい頃は、子どもにも家庭で様々な仕事が割り当てられていました。風呂の水張り、ゴミの焼却、練炭の火おこし、ストーブの給油、鶏の世話(キャベツをきざむなど)…。(小学校低学年頃までの記憶が混ざっていますが、…。)今、覚えていることだけでもこれだけあります。風呂はガスコンロのようなものがあり、栓をひねり、マッチで火をつけるものです。ボオーと凄い音がするので、怖かったことを覚えています。いえいえ、決して、田舎で育ったのではありませんよ。先程も少し触れましたが、私は、4年生まで吉祥寺で育ちましたから。水道道路がまだ砂利道で名店会館や中央線の大踏切があった時代です。昭和45年(1970年)頃の話です。

今日では、風呂の水張りも自動ですよね。スマホで水張りから追い炊きまでを操作することもできるようです。ですから、今の子どもたちは、私たちが子どもの頃にいつの間にか知っていたこと、出来ていたことの経験や知識がありません。灯油の暖房機はまだ使われていますが、そこでもマッチを擦ることはなく、ボタン一つで自動点火になっているでしょう。  すっかり昔話になってしまいましたが、この30~40年ぐらいの間に科学技術はめざましい発展を遂げ、私たちの生活は本当に便利になりました。しかし、こうした便利さ、安全性と引き替えに私たちは、人間として多くの物を失いかけているのかもしれません。

あと、30~40年経つとしたら…。こう考えると…。改めて園長先生がおっしゃったことの重大性に気付かされました。そうした時代を迎える子どもたちに、どのような力をつけさせれば良いのか…。

2020年の学習指導要領改定に伴い、文部科学省から様々な情報が発信されています。「主体的・対話的で深い学び」に関しては、何ら異存ありません。明星学園は、そうした学びの老舗です。「知りたがり」「やりたがり」「話したがり」そして「つながりたがり」。便利すぎて仕組みが見えなくなってきている現在の生活の溝を埋めるいちいちの営みが、現象と本質の見えないつながりをひもとく営みに繋がっていきます。この先50年、100年先を見据えた時に、こうした日々の実践がより大切になってくるように思います。7月30日(日)のシンポジウムにも、お時間ありましたら是非ご参加ください。

※シンポジウムに関しましては、学園HPをご覧ください

明星学園 Q&A ~創立記念日特集~

連休は天気にも恵まれ、ご家族でゆっくりとされたことと思います。いよいよ1学期の第二ステージに入ります。5年生の伊豆大島見学旅行をかわきりに遠足行事、日曜参観へと続きます。新しい学年・クラスの土台を作る季節を迎えます。

さて、今回は明星学園の93回目の創立記念日を迎えるにあたって、改めて明星学園をご紹介することにします。

質問1 明星学園は、いつ、どのようにして誕生したのでしょうか?

1924年(大正13年)5月に成城小学校に集まった赤井(あかい)米(よね)吉(きち)、照井(てるい)猪(い)一郎(いちろう)、照井(てるい)げん、山本(やまもと)徳行(とっこう)という4人の教師によって、明星学園は誕生しました。

明治時代の2つの日清(にっしん)・日露(にちろ)戦争(せんそう)が終わると、日本だけでなく、世界の経済(けいざい)は大きく落ち込みました。不況(ふきょう)です。しかし、その後第一次(だいいちじ)世界(せかい)大戦(たいせん)が起きると、日本は空前(くうぜん)の好景気(こうけいき)を迎(むか)えます。この戦争(せんそう)でヨーロッパは大打撃(だいだげき)を受け、たくさんの工場(こうじょう)が壊(こわ)されました。アジアへ盛(さか)んに市場(しじょう)を求めていた日本にとっては、なんでも作れば売(う)れる時代(じだい)を迎(むか)えました。その結果、日本の経済(けいざい)はうるおい、都市には人々が集(あつ)まり、人々の生活(せいかつ)には余裕(よゆう)が生(う)まれました。そして、そうした生活の余裕(よゆう)は、人々に新しい文化(ぶんか)を受(う)け入れる余裕(よゆう)を生み出しました。ヨーロッパの最新(さいしん)思想(しそう)、芸術(げいじゅつ)、文化(ぶんか)が紹介(しょうかい)され、新聞(しんぶん)や雑誌(ざっし)などの発行(はっこう)も増(ふ)え、人々はこれらをどんどん吸収(きゅうしゅう)していきました。鈴木(すずき)三重(みえ)吉(きち)という児童(じどう)文(ぶん)学者(がくしゃ)が刊行(かんこう)した『赤い鳥』という児童(じどう)文学誌(ぶんがくし)もこの時期(じき)に発行(はっこう)されています。明星学園行進歌(こうしんか)の作詞者(さくししゃ)である北原(きたはら)白(はく)秋(しゅう)も同誌に新しい内容(ないよう)、形式(けいしき)の童謡(どうよう)を数多(かずおお)く発表(はっぴょう)していました。『ごんぎつね』で皆さんがよく知っている新美(にいみ)南吉(なみきち)も『赤い鳥』に投稿(とうこう)したものでした。この様(よう)な人々の考え方の変化(へんか)は、政治(せいじ)の世界(せかい)でも民主(みんしゅ)主義(しゅぎ)(デモクラシー)的(てき)な要求(ようきゅう)となってあらわれるようになり、のちに「大正(たいしょう)デモクラシー」と呼(よ)ばれました。</p>

この大正(たいしょう)デモクラシーは、教育界(きょういくかい)でも様々(さまざま)な新(あたら)しいものを生み出しました。欧米(おうべい)では既(すで)に19世紀(せいき)の終(お)わり頃(ごろ)から「新教育(しんきょういく)運動(うんどう)」という動きが起(お)こっていました。ルソー、ペスタロッチ、デューイ等(ら)の考え方に支(ささ)えられ、「画一的(かくいつてき)」「知識(ちしき)注入(ちゅうにゅう)主義(しゅぎ)」ではなく、「子ども中心」「感性(かんせい)」を大切にする学校がいくつも築(きず)かれました。日本では、1912年(大正元年)成蹊(せいけい)実務(じつむ)学校(がっこう)(現在の成蹊(せいけい)小学校)、池(いけ)袋(ぶくろ)児童(じどう)の村小学校、自由(じゆう)学園(がくえん)など多くの学校が誕生(たんじょう)しています。その大きなきっかけを作ったのが、1917年(大正6年)澤(さわ)柳(やなぎ)政太郎(まさたろ)によって創立(そうりつ)された成城(せいじょう)小学校(しょうがっこう)でした。そして、その成城(せいじょう)小学校(しょうがっこう)に集まった4人の教師によって、明星学園は誕生(たんじょう)しました。5月9日に設立(せつりつ)許可(きょか)を与(あた)えられ、15日に開校式(かいこうしき)を挙(あ)げました。開校当初(とうしょ)の敷地(しきち)は千(せん)坪(つぼ)で、1,2,3年生21名での開校だったそうです。 1924年(大正13年)、創立(そうりつ)同人(どうじん)の赤井(あかい)米(よね)吉(きち)、照井(てるい)猪(い)一郎(いちろう)、照井(てるい)げん、山本(やまもと)徳行(とっこう)の4人が井の頭のこの地に標(ひょう)木(ぼく)を打(う)ち立てたのは、正(ただ)しくは大正13年3月16日のことだったそうです。その創立(そうりつ)に向けての高鳴(たかな)る心と緊張(きんちょう)を照(てる)井(い)猪(いの)一郎(いちろう)氏は以下の様に残(のこ)しています。

大正(たいしょう)13年3月29日、むさし野はまだふかぶかと冬のとばりの中に眠(ねむ)っていた。霜柱(しもばしら)にふくれ上がった麦(むぎ)畑(ばたけ)を、一足一足かみしめるようにきざんで行く4人の一団があった。一行はぼくぼくの黒土の上をとりつかれたもののようにむさぼり歩いた。  畑中の小高い一地点に最後(さいご)の歩(あゆ)みをとめた一行(いっこう)は、やおらかついで来た一本の標(ひょう)木(ぼく)を打ち立てた。「明星学園建設地(けんせつち)」… … したたるような墨(すみ)あとがあざやかに白木のおもてに読(よ)まれた。彼らはそれをかこんでいっせいに大空をふりあおぎ、さて、思い深げにまわりの森や林をながめまわした。誰(だれ)からとなく無言(むごん)のほほえみがかわされた。大海(たいかい)の底(そこ)のように静(しず)まりかえったひと時だった。真昼(まひる)の太陽(たいよう)は真珠(しんじゅ)色(いろ)のスポットをこの謙虚(けんきょ)な開拓者(かいたくしゃ)たちの上におとした。輝く(かがやく)日光、すみきった大気、ゆたかな土壌(どじょう)、それは彼らの久(ひさ)しくあこがれていた求道(ぐどう)の聖地(せいち)であった。池近く富士(ふじ)遠(とお)き森の大地  彼らはこの日この地に真教育の精舎(しょうじゃ)の礎(いしずえ)をすえた。

質問2  なぜ、「明星」という名前をつけたのですか?

新しい学校を建てる場所を探していた先生方が、その帰りに西の空に輝く美しい星(金星)を見て、その名前を学校の名前につけたそうです。

金星(きんせい)は、明けの「明星(みょうじょう)」、宵(よい)の「明星(みょうじょう)」という呼ばれる星で、昼間も出ているのですが太陽(たいよう)の光が明るいために朝や夕方しか見えない星です。二月頃、一番寒い頃、西の空に美しく輝(かがや)く星です。  学園の名称(めいしょう)は、同人の間で「啓(けい)明(めい)」「黎明(れいめい)」「三鷹」「井の頭」「桜の丘」など色々と議論(ぎろん)されたそうです。ある日、敷地(しきち)を見に行った帰りに、その美しい星の光に驚(おどろ)かされたそうです。そして、その美しい星、つまり金星の別名(べつめい)から「明星(みょうじょう)」と決定(けってい)されたそうです。幼(おさな)い子等の心の明星、人類の憧(あこが)れ、理想(りそう)の明星、それを慕(した)って、それをみつめて伸(の)びよう、精進(しょうじん)しようとの意味であったとされます。こうしたところからも、当時の同人達の強(つよ)い思(おも)いを感(かん)じます。

質問3 「強く、正しく、朗らかに」の意味は?

明星では、当初(とうしょ)から、自主(じしゅ)自立(じりつ)、個性(こせい)尊重(そんちょう)、自由(じゆう)平等(びょうどう)という3つの柱をうたっていました。自主(じしゅ)自立(じりつ)は人の意志(いし)を強くきたえる。個性尊重は、人権(じんけん)不犯(ふぼん)の原則(げんそく)で、正しい人格(じんかく)は是(これ)に根(ね)ざします。自由(じゆう)平等(びょうどう)は、人間の生活を明朗にし、人類(じんるい)に永遠(えいえん)の平和を与(あた)えるとされたのです。

私の“みいつけた”

早いもので4月が終わります。新しい教室、先生、メンバー、時間割…と、新しい生活に胸をときめかしながらも、正直、少し疲れた頃でしょう。夏と冬ぐらいの気温差のある日が続いたりするのも、気付かないうちに体の負担になります。その影響でしょうか、季節外れのインフルエンザ流行により、休校措置をとる学校もあったようです。連休は、楽しい計画も沢山あると思いますが、どうぞ無理のないように、のんびりお過ごしください。

さて、いよいよ連休です。5月になると木々は芽吹き、新緑の季節を迎えます。生き物たちは、次の世代へ命のリレーを始めます。そう、まさに子育ての季節。生命が躍動する季節です。井の頭公園の池でも水鳥たちが子育てに忙しく動いています。今回は、先日、ある方からうかがった、この水鳥に関するおもしろい話をご紹介しましょう。

A氏:「先生、カイツブリの足は、カモと違うのですね! 水かきが…」

私 :「え?」

会話は、ここから始まりました。私の頭の中には、図の様ないわゆる水鳥の水かきの絵が浮かんでいるのですが、それと違うという指摘が、どうしてもイメージできません。潮干狩りなどで出かけた際など、チドリなどの仲間が潮の引いた湿った砂地を歩き回っていると、丁度、お化けのQ太郎の髪の毛のような足形がつきます。かわいらしい足跡を眺めながら、鳥たちが砂をつつきながら忙しく動き回る姿が浮かびます。また、井の頭公園の池などでカモの仲間がゆったりと泳ぐ姿も目に浮かびました。頭を下げ、水面でくちばしを忙しそうに動かして、水面に浮いている水草などを食べている仕草が浮かびます。勿論、泳いでいるときの足の動かし方も想像に難くありません。引き寄せるときはジャンケンのグーの様に閉じ、水をかくときはパーの様に大きく広げる。水の抵抗をできるだけ少なくするために、理にかなった動かし方をしているのでしょう。愛くるしい表情で水面を泳ぐ姿は、私たちの心を癒やしてくれます。 それなりに外で鳥の姿を見てきてはいますが、カモとカイツブリの泳ぎ方や足がどのように何が違うのか、私にはイメージできませんでした。

A氏:「カイツブリが泳ぐときは、足が後ろに見えますね!」

いわゆるカモなどの水鳥は、図のように足の指の間に水かきの膜があり、それを器用に使いながら泳いでいます。こうした足を蹼(ぼく)足(そく)と、呼ぶそうです。浮いている体の真下で水をかいているのでしょう。泳いでいる時に、足はほとんど見えません。ところが、カイツブリは、体の後ろで水をかく足が見えるというのです。土曜日に用事で出かけるついでに、井の頭公園の池でカイツブリを探してみました。居ました、居ました。確かに、体の後ろ側が船のスクリューの様に大きく波立っています。少し離れていたので、細かな様子は分かりませんでしたが、確かに泳ぎ方が違っているのが分かりました。そこで、頭の中に色々なことが広がります。

「なんで、カモと違うのだろう?」

「そう言えば、カイツブリは、モグリッチョ?鵜の様に潜るのが得意なはずだ…」

「カモは潜ったかな?」

「まてよ、アヒルが逆立ちしている姿は見たことがあるけれど、完全に潜ることは…」

自分が海で潜るときは、ジャックナイフと呼ばれる姿勢を取ります。水面で上半身だけを直角に折り曲げ、そのまま頭から水面に対して垂直になるように、一気に体を水の中に落とし込みます。ここで体が少しでも浅い角度になっていると、どんなに潜ろうとしても上手く潜ることができません。そんなことを考え始めたら、井の頭水生動物園の水槽に潜るカイツブリの子の姿を思い出しました。潜るときには、体の後ろ側に足ひれがないと、水中での推進力が得にくいのでしょう。

図鑑で調べてみると、カイツブリの水かきは、図の様な形になっていることが分かりました。弁(べん)足(そく)と呼ぶそうです。カモのような 膜とは異なり、指の一本一本に膜が太く広がっている作りになっています。なぜ、この形が都合良いのでしょうか?潜るときに、体の後ろ側で水をかく方が、水中では有効なのだろう、ということまでは分かりました。でも、この形状に関してはまだ理由がよく分かりません。第一、潜ることが大得意の鵜の足は、カモに近いのです。 疑問はまだまだ続きそうです。連休中にどこかへ出かけた際に、 鳥を眺めながら考えてみることにします。

桜の個性

 お子様のご入学、ご進級おめでとうございます。 新年度がスタートしました。4月に入り、桜も満開となり、子どもたちの新しい生活を祝福してくれています。学校も、お子様のご入学、ご進級にあわせて、新たな体制でスタートします。

 3月の終業式を終え、オーストラリア短期留学チームが出発した後の春休みは、肌寒い日が続きました。そんな中、桜の開花宣言がなされました。学校でも、やはりその頃、幾輪かの桜が咲き始めました。毎年、他の桜に先駆けて花を咲かせる木もあれば、しばらく経ってから一気に満開になる桜もあります。桜が植えられている場所の条件にもよるのでしょうが、私には、どうも一本一本の桜の個性があるように思えて仕方ありません。そう思うと、今年卒業していった12年生、9年生、6年生の顔が浮かんできます。特に、12年生は、満開に花を咲かせた桜と卒業生達の姿が重なります。

 明星学園では、100周年に向かう記念行事の一つとして、今年5月に卒業生を招く「ホームカミングデイ」を企画しています。満開に花を咲かせた卒業生、まだ三分咲きの卒業生もいるかもしれません。しかし、その一人ひとりと会えることがとても楽しみです。

 早咲きもあれば遅咲きもある。自分らしく、ゆっくりでもかまいませんから、一歩一歩しっかりと歩みを進めて、自分らしい花を咲かせて欲しいと思います。

 「強く、正しく、朗らかに」 いつまでも子ども達の目標として生かされる学校にしたいと思います。 本年度もどうぞ皆様のご協力、ご支援をお願い致します。

磁石花の謎

 17日(金)の卒業式では、在校生の素敵な歌で卒業生を送ることができました。卒業証書授受の際、私の役は、やはり特等席なのだと思いました。この晴れの舞台で輝いている一人ひとりをじっくり、真正面から見せてもらえるからです。担任したことのある学年でしたから、卒業生たちと、目で会話を楽しみました。そして、その成長ぶりに感動しました。

 ところで、ここ数日の暖かな日差しで、校庭の片隅にあるコブシの花が咲き始めました。今日は、このコブシとよく似たモクレンの話をしましょう。(実は卒業式に生けてもらったお花にもモクレンが入っていました!)

 モクレンは、漢字では「木蓮」と書きます。昔はランの花と似ていることから「木蘭」と書いたそうですが、今は蓮の花に似ているということからこの様に書くようです。  モクレンの花は、「磁石花」とも呼ばれます。3年生は総合で磁石の勉強をしたとき、どの磁石も同じ方向を向くことを実験したことでしょう。モクレンの花をよく見てみると、どれも北側へ反り返るように咲きます。花が北を指し示すという意味から、「磁石花」とも呼ばれるのです。

 ところで、このモクレンの花は、なぜ、どれも北を向いて咲くのでしょうか。いくつかの理由が思いつきます。

 1)花の中に、磁石の働きをする物が入っているから

 2)太陽が当たる南側の成長が北側に比べて早く成長するから

 3)春は、春一番のような強い南風が吹くから

 さて、正解はどれでしょう。もしかしたら、これ以外のことが原因かもしれません。コブシの花が終わり、もう少しするとモクレンの花が咲きます。もし、春休み中にモクレンの花を見かける機会があったら、よく眺めてみてください。そして、「磁石花」と呼ばれる理由が分かった人は、先生に教えてください。

 明日から春休みです。怪我や病気に気をつけて、4月からの新しい生活を楽しみにしていてください。

変わっても決して変わらないもの

 4年生の教室前にある河津桜は満開です。確実に春がもうすぐそこまで近づいてきていることを感じます。学習発表会の参観、お疲れ様でした。今年も、笑いあり、涙ありとどの劇も質の高さを感じました。衣装などご協力頂きありがとうございました。  さて、2020年に改訂される新しい学習指導要領に関して、文部科学省からも新しい情報が発信されています。これを受けて、新聞・ニュース等の報道でもよく耳にします。英語教育、コンピュータ(プログラミング)教育に関しては、塾産業などが先取りをして様々な企画運営している様子が、伝わってきます。今回は、先日新聞に載っていた記事についてお話しします。

 『「対話学習」現場手探り』と、題されたその記事は、毎日新聞2月18日(土)朝刊に学習指導要領改定に関する連載記事として発表されたものでした。テーマは、「(凸)多角形の外角和」でした。子どもたちが2~3人のグループを作り、画用紙に書かれた多角形の図を囲んで話し合うもので、東京都新宿区落合第六小学校5年生の算数の授業に関するものでした。授業の詳しい内容は記事からでは読み取りきれませんが、推察するに、四角形の外角の和を担当したグループの1人の子が次のような式を書いたようです。

 記事によると、聞かれた子は、図を指し示しながら丁寧に答えていたようです。しかし、この式をいきなり見せられて、一体どれだけの子どもたちがその式の意味を深い認識に達したでしょうか。詳細が分からないので、一概に言えませんが…。

 現行の明星カリキュラムでは、この内容を4年生で扱っています。丁度少し前に4年生がスイカ割りゲームからの一連の授業を行っていました。目かくしをした状態で「右へ45°」という指示を受けると、多くの人が片足をそのまま進行方向へ残したまま、もう片方の足だけを右へ45°向きを変えます。この残した方の足が、進行方向を示す基準線になっているわけです。内角は、二辺が与えられていて、片方の辺が基準線になります。この基準線から何度回転するかを捉えさせています。(回転量として捉えさせないと、扇形の面積と混同してしまうからです)ところが、外角はそうではありません。基準となる線を決めない限り分かりません。また、外角その物を間違って捉えてしまう場合も少なくありません。そこで、スイカ割りゲームを初発に組み、外角を認識させているのです。

 外角が認識できたら、今度は「辺-角-辺…」という約束に従って、作図をしていきます。 作図を重ねていくうちに、子どもたちは、どの多角形でも外角の和が360°になっていることに気付きます。勿論、多角形の外角和の件が落ち着いた後は、多角形の内角和の話題へも進みます。スイカ割りゲームの感覚から数学的な外角という概念へ導き、そこから更に多角形の性質へ導いているわけです。子どもたちの深い理解を創るためには、こうした段階がどうしても必要になります。

 この明星プランは、かれこれ20年ほど前に組み立てたものです。当時、「ゆとり教育」に関わって、多くの学者が多方面に関して色々な論文を発表していました。関沢正躬氏は、岩波ブックレットNo.513『算数があぶない』の中で次の様に指摘しています。 「…次に、小学校における図形について考えてみると、まず初めに折れ線がある。それが閉じたとき、多角形ができる。多角形には、その辺の数(あるいは同じことだが、角の数)が変わっても決して変わらない「量」がある。それは、多角形の外角の和である。つまり、平面上の多角形の外角の和は、どんな多角形でも、360°である。この事実を教えるのが小学校における幾何学の目標の一つである。…」

 今回の新しい学習指導要領の目玉の一つである「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)は、能動的に課題を探求し、対話や討論で他者とも協働して解決に取り組む学習スタイルのことです。学習方法ですから、学習内容が問われます。系統性のある学習内容を基本に置かないと、対話形式になっていても、結局知識だけを与える結果になってしまう危険性があります。

 2月14日に文部科学省から案として発表された新・学習指導要領。私たちもこの2020年改定に向けて、様々な準備に取りかかっています。先ずは、文部科学省が提案している内容を吟味し、公立学校で何をどのように実践されようとしているのかを正確に捉えておく必要があります。そして、明星学園ではそれらの内容についていつ、どのような方法で実践していくのか。そうしたことを逐一吟味しなければなりません。勿論、こうした改定に伴って教科書もその内容や構成を新たにしてきます。プログラミングも話題になってきています。この明星プランの「辺-角-辺」という指示は、実はプログラミングに移行することが可能です。子どもたちが、先のような多角形の外角和は360°になるのではないか?という仮説を立てた後に、その検証実験として自分でプログラムを書き、正三十六角形をコンピュータで描かせることへ発展させることも可能です。今後の検討課題です。

 時代が変われば、教育の内容も方法も変わるでしょう。しかし、世の中がどれだけ変わっても決して変わらないもの、つまり本質的な内容があるはずです。時代に添いながらかつ教育の本質を見失わない、次世代へ繋がる教育を読み解く時期が来ています。

職人

 大寒を過ぎ、一年で一番寒い時期を迎えています。学校ではインフルエンザが流行し始め、3クラスが学級閉鎖になりました。どの学年でも劇に向けての準備が始まっているので、早く治まってくれることを祈っています。  さて、先日、久しぶりに校内の授業研究を行いました。3年生と5年生の国語の授業でした。3年生は、「水のこころ」という高田敏子さんの詩を教材にして、5年生は定番教材である幸田文さんの「あか」を教材にした授業でした。私たちが何故、授業研究を大切にしているのか、今回はそのことをお話ししましょう。

 私たち教師が研究授業を行うのは、教授法に関する技術・技能を向上させるために必要不可欠なものです。教師一人ひとりが互いに切磋琢磨し、授業技術を磨き上げ、質の高い学びを実現していきます。自分の実践を校外の研究会へ持ち込み、様々な広い視点で分析してもらうことも欠かせません。自分の実践研究を謙虚に進める為です。 実際の授業研究では、その授業を分析する際、「教材論」と「授業論」という大きな2つの柱で分析を行っていきます。料理を例えにして話を進めてみましょう。 「今晩、何が食べたい?」 「お肉!」 普段何気なくかわされる親子の会話。この「肉」は、「水のこころ」という詩そのもの、「あか」という物語そのものを意味します。授業では、これが教材というものに当たります。どのような食材(教材)で、どのような栄養素(何を)をどのような料理(方法)で子どもたちが喜んで、美味しく食べてくれるのかどうか、ということを追求する必要があります。 そして、その教材分析が不十分では、子どもたちにまちがった知識や概念を教えてしまうことになります。この教材分析に関わる部分を「教材論」と呼んでいます。国語の作品分析は難しい側面がありますが、ここを丁寧に行わないと、偏った独りよがりな解釈を子どもたちに押しつけてしまう危険性が出てきます。授業研究の場では、あらためてそうした事前の作品分析の是非が問われます。

 また、調理方法が理にかなっていないと、消化不良を起こす場合があれば、ひどい時には食あたりを起こしてしまう場合もあります。授業実践では、この調理方法が「授業論」というものに相当します。料理の場面では、ハモのような小骨の多い魚には骨切りする、大根などに味がしみこみやすいように隠し包丁を入れるなど、食べる人のことを考えた仕込みが料理人の手によって事前に行われます。授業では、私たち教師の手によって、教えたい内容や子どもたちに触れさせたい世界に対して、発達段階やそのクラスの状況などを考慮に入れ、より親しみやすく、より分かりやすくなるように様々な仕込みをしていきます。 今回の授業では、どちらの教室でも子どもたちが活発な意見交換を行っていました。この授業中の意見交換、子ども同士の対話は、「租借」という行為に相当します。それまでの自分が考えたこともなかったようなことを自分の中に繰り入れるためには、それなりの時間と段階が必要です。食べた物が消化しやすいようによくかんで食べることと非常によく似ています。授業中の子ども同士の意見交換がただの言い合いで終わっているのと、きちんとした対話が行われているのとでは、認識の質が大きく異なってしまいます。もちろん、意見交換、対話が本筋から逸れた場合には、教師はその方向性を修正しなければなりません。 こうした教師の仕込みと子どもたちの対話が、その授業の学習内容に対してどのように行われていたのかを分析することが「授業論」ということになります。

 さらに、教材論、授業論だけでは語り尽くせない領域があります。それが、食事をする場の雰囲気です。しつけが厳し過ぎるお家のお子さんが、摂食障害を起こしやすいというデータを何かの本で見たことがあります。確かに、食事のマナーは大切です。しかし、家族団らん、楽しく食事をすることが前提にないとせっかくのご馳走も味気ないものになってしまうでしょう。授業でも全く同じ事があります。授業中の秩序は必要です。しかし、友達の意見に耳を傾けるのは、強制的な環境で作られたものでは決して身につくものではありません。互いに考えを深めるものにはなり得ません。自分の考え方に対して、みんなはどのように考えているのだろうか。彼の意見に賛成だが、この部分に関してはちがうのではないだろうか。そうした主体的で相手の気持ち、考え方を想像的につなぐ営みが欠かせません。今回のどちらのクラスも教師からの一方的な働きかけではなく、子どもたち同士が探求していく姿がうかがえました。お互いが安心して、わかり合っていこうとする姿がとても印象的でした。日常の学級経営がそのまま表出してくる部分です。教科と学級経営が両輪となって回っていく大切さがここにあります。

 2020年の指導要領改訂では、英語教育、道徳、アクティブラーニングという3つがその柱に据えられています。私たちの日常の営みの真価が改めて問われるときでもあります。私たち教師が子どもの動き、気持ちを想像して、新しい授業を創造することは、確かな学力、知識を活用する能力となり、それを元に新しいものを創造することまで可能になるはずです。その為にも、私たち教師は、目の前の子どもたちに寄り添い、こだわりのある授業を練り、実践し続ける職人でいなければならないと思います。

創造と想像

 

 明けまして おめでとうございます。穏やかな年明けとなりましたが、皆さん如何お過ごしでしたか。また、新年を迎え、今年1年、どのような過ごし方を考えていらっしゃるでしょうか?  11年生(高校2年生)、12年生(高校3年生)は、自分の将来の夢と向き合い、進路を決め、受験に挑戦する時期を迎えています。多くの卒業生から年賀状が届き、その活躍ぶりを嬉しく思っています。 皆さんは、今年の抱負を決めましたか。今年初めての通信ですから、私なりの1年の抱負をお話ししましょう。

 

 「ソウゾウ」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは、「創造」です。「創造」は、文字通り、「これまでにないものを新たにつくりだすこと」です。これまでにない新しい物を創り出す作業は、なかなか思い通りに行かず、苦しい時期もあります。しかし、その難しさを楽しむような感覚さえあれば、必ずそうした困難を乗り切ることができ、道は開かれるものです。ついつい、面倒だなと思いがちなことも、どうせやるなら楽しくやろう!と思えてしまえば、今まで考えつかなかった色々な側面に気付くものです。この「気づき」が実はとても大切です。そして、そのことに繋がってくるのが、「想像」です。  昨年、5年生と「三角形の合同」の授業に取り組んだとき、通り一遍な内容を扱うことにとても抵抗がありました。「二辺夾角」「二角夾辺」「三辺相当」などの合同条件だけを見つけて終わりでは、あまりにも味気ないからです。もちろん、こうした学習は後の「対象な図形(線対称図形)」で役立ちますが…。なにか、もっと子どもたちに数学的なきれいな世界を見せたい、そんな思いで色々考えました。「何を教えることなのだろうか?」「何か良い教材はないものだろうか?」「合同な図形で何がきれいに見えるだろうか?」「身の回りにはこうした物がないだろうか?」等々。2週間ほど悩んだある日、お隣の某先生が持っていた万華鏡を見て、ひらめきました。「何故、気付かなかったのだろう!」  気付いてからは、忙しさも忘れ、材料をそろえ、プリントを作り…、あっと言う間に授業準備が進みました。この準備にあたる時間が、楽しくて仕方ありません。色々なことを想像した結果、創造することができた喜びの瞬間です。 新しい物を創造する活動に身を置いているとき、周りの色々なことに思いを寄せることができないと、新しい物を創造することができません。視点を変えることができません。気分転換も大切です。そして、この「想像」する営みこそ、その場を楽しむ秘訣と言えます。

 

 「想像」と「創造」。この2つの言葉は、その意味は異なります。しかし、それらが別々に存在するのではなく、「想像」なくして「創造」なし、と言えるのではないでしょうか。 今年は、特にこの言葉を大切にしてみたいと思います。