300台のヒッチハイクと日常のちいさな旅

絵本作家、「ぺぺぺ日めくりカレンダー」作者 渡邉知樹(卒業生 66回生)



 この度は明星学園創立100周年おめでとうございます。

 わたしは1993年から1999年までの6年間を明星学園中学校と明星学園高等学部で過ごしました。44歳となった今は、絵の展覧会を軸にアーティスト活動をしています。
絵の展示は20年以上、多い時は年に5、6回。最近は東京よりも地方や海外などで開催することが増えました。それと月に2、3回だけですが重度の障害者の方が利用している福祉施設で絵画講師を務めています。
 代官山蔦屋書店のカレンダー部門で週刊売り上げ1位になったこともある、来年で12年目となる「ぺぺぺ日めくりカレンダー」は代表作のひとつ。他にもピアノを弾いてCDを出したり、詩を書いて詩集を出したり、当時美術の先生をされていた古屋先生の影響で漫画を描いたり…。
 なんだか自分でも何をしているのかよく分からないところもありますが、一明星学園卒業生として、折角いただいた機会なので少し自分の話を書いてみようと思います。






ヒッチハイクと寝袋と似顔絵の旅

 明星学園高等学校を卒業後、志望していた東京藝術大学の油画科を受験するも不合格。当時お世話になっていた日本画家の土屋禮一氏に「渡邉くんはもう絵描きなんだから美大なんて行かなくていいじゃない。美大は芸術家を諦めに行くところだよ。」と言っていただいたことを真に受け、卒業後から表現活動を始めました。

 とはいえ表現活動と言っても何をすればいいのか…。当時は土日になると井の頭公園で似顔絵を描いたり、(が〜まるちょば*1、キンシオタニ*2といった当時から有名人だった方々の脇でひっそりと…。 )それ以外はアルバイトや、ご縁をいただいて展覧会をしたり、夏になると毎年のように似顔絵道具と寝袋と薄っぺらい財布を持ってヒッチハイクの旅に出ていました。
*1 が〜まるちょば=パントマイムアーティスト  *2キンシオタニ=イラストレーター

 19歳の時に勢いだけで初めて旅に出た時は、誰にも言わず東京から大阪に来て、公衆電話から「しばらく帰らないので犬の散歩お願いします。」とだけ言って電話を切り、結局「おばあちゃんの体調が良くない。」と嘘をつかれて帰るまでの2ヶ月間、何の目的も持たぬまま旅をしていました。




 これまでに300台をこえるヒッチハイクをして、ヤクザの家に連れて行かれたり、彼女のためにバイクを二人乗り仕様にした翌日別れたので代わりに乗ってほしいと言われたり、年配の女性の方の別荘に半ば無理やり連れて行かれたこともありました。ここで詳細は書けませんが車に乗っている時に怯えて、赤信号で車が止まっている時に走って逃げ出したこともありました。

 旅先では日中は似顔絵を描いてお金を稼ぎ、夜はなるべく人の迷惑にならない、そして安心して眠れるような場所を探して寝袋で寝る。旅に出る時はなるべくお金を持たずに、旅先で使うお金は旅先で稼ぐ、ということを決めていました。(が、今考えると別に普段からお金がなかったので、決め事でもなんでもないですね…。)
 「似顔絵0円。よろしければカンパをお願いします。」という看板を出して、帰る頃には30万円くらいの稼ぎになりました。別に似顔絵描きとして生きていくつもりは当時からなかったのですが「何かあってもどうにかできる!」という自信には繋がったと思います。

 似顔絵を描いた男性が家に泊めてくれるとのことで行ってみたら寝ている間に襲われたり、寝袋で寝ている時に「こんないい寝袋で寝やがってよぉ!!」とホームレスの人に思いっきり蹴られたり、酔っ払いのキャバクラ嬢たちに寝袋の周りで大声で子守唄を歌ってもらったり、今考えると貴重な体験をたくさんしました。
 良いことも悪いことも、若い時に色々なことを経験したことは、結果的に今の心の豊かさに繋がっていると思います。
 わたしが31歳の時、東北の震災をきっかけに初めて政治的な主張を持ちました。「わたしはわたし。世界は世界。」と、何でもかんでも好き勝手に自分のことばかり考えて生きてきたわたしが、「日本人」や「わたしたち」という大きな主語を使うようになりました。
 ところがあるデモに参加した友人たちの話は、プラカードに書かれている言葉だけでなく、彼らが話す話し言葉までもがどこかからコピペされたような内容に聞こえて、強い違和感を覚えました。
 少なくともわたしはほとんど無知で「色々と教えてほしい。」というスタンスの会話だったはずなのに、パッションばかりでこちらが正しい、あちらが間違っている、と言うことを延々と話す姿は教育的態度ではなく、むしろ洗脳に近いものだと思いました。(そしてわたしはそのような態度に強い反発心を覚えました。)
 ところがわたしはそこで面白いことに気付いたのですが、更に脱線してしまうので後ほど紹介します。

 34歳の時に結婚。今年で結婚10年目。
 明星学園を卒業して26年経ちますが、今は当時よりも近く、自転車で行ける距離に明星学園があります。そして今回のリレーエッセイのお話をいただき、また別の流れで創立100周年を記念した展覧会にも参加させていただく予定だったりと、なんとも不思議な、ありがたいご縁をいただきました。





2つの自由について

 明星学園在学中から考えていた自由のことについても少し書きたいと思います。
 まず当時のわたしが「自由」を考える時、大きく2つの自由がありました。

 1つ目は「他人の自由を尊重する」という権利としての自由です。正直当時「自分は自由だしみんな自由だし、そんなの当たり前じゃん。」というくらいにしか捉えてなかったと思います。そう言う意味でコロナパンデミックで感じた不自由はとても教訓的なものでした。その頃感じていた自由が、全く当たり前のことではないと知れたからです。

 そして2つ目は「自由たらしめる」という自由。これは自分が卒業後も長いこと向き合ってきたテーマでもあります。
 「人は自由であるなら、自由たらしめるべきだ。自由な環境にありながら、自分で自分を縛り付けているような人は、弱い心の持ち主だ。」と。
 そういう行き過ぎた考え方のせいか、高校生の頃はよく「ラクダシャツ、モモヒキ、ハダシ」という遠くから見ると全裸にしか見えない服を着て満員電車に乗って学校に通っていたり、髪型だって頭のてっぺんだけ丸く剃ったり、( つまりハゲアタマですね。)とにかく「変なことをする」ことが自由だと勘違いしていました。
 とはいえ変なことをするというのは、わたしらしさの演出であり、また他人を自由にさせる力もあります。所詮自由とはある特定の不自由に対して使う以外は、思い込みのようなものなのかもしれません。
 もちろん先ほど書いた「自分で自分を縛り付けているような人は、弱い心の持ち主だ。」と今は全く思っていませんし、人間社会で生きていくということはむしろ適度に縛り付けることを学ばなくてはいけない。それを学ぼうとしない態度の方がよっぽど弱い心の持ち主かもしれません。

 ともかく自分なりに自由という言葉と向き合い、ある時はこじらせ、前述したヒッチハイクなどの旅の話しかり、それは高校卒業後も続いていくこととなります。
高校を卒業して、そこから大学にも行かず定職にも就かず、実家でクラゲのようにプカプカと浮遊する日々を過ごしていました。
 けれど先ほども書いた通り自由である以上は自由を謳歌することが自分の仕事だとも思っていました。「わたしはなぜ生まれてきたのか?」という巨大な疑問符に向き合うためにも、わたしは自由と向き合う必要があったのです。

 ところが社会に出てみると、もちろん自由は尊重されるべきですが、自由でいようとすることが必ずしも良いものではないということが分かりました。
 「あるところにいた動物が環境の変化により野生で生き残ることが困難になり、人間の家畜として共生することを選び絶滅を逃れた。」という話があります。
 少し極端だし、語弊を招きそうな例えでもありますが、つまり自由と引き換えに手に入れられる良いこともあるだろうということです。時としてそれは新しい自由なのかもしれません。
 いつの日か地球以外の星と自由に行き来できるようになれば、地球にいなければいけないことに不自由を感じることがあるかもしれませんし、逆に牢屋に入れられていても得られる自由はあるでしょう。






自由な心は素朴な旅に出る

 明星学園創立100周年という大きな物語を前に、ここで読まれるのに相応しい文章というのはなんなのか。例え芸能人であったり、何かを成し遂げた人であったり、もしくは人一倍明星学園が好きなんだ!という気持ちのある人でも、簡単に書けることではないでしょう。しかし考えてみればこのリレーエッセイこそが、いわゆる明星学園の教育理念として掲げている「個性尊重」「自主自立」「自由平等」を体現しているものだと思いました。おぎママとわたしが等しく並べられる場所で、わたしの責任の中で、わたしらしい文章を自由に書けば良い、ということです。たとえそれがどんなに大きな物語の中であろうと、わたしという主語でわたしの物語を語ることに価値があるということを、明星学園は教えてくれたのだと思います。いくら教科書で戦争を学ぶよりも、友達のおじいちゃんに実際に体験したことを聞いた時に、初めて心が動かされたことに似ています。

 そして、実は旅の話が全く関係ない訳でもなく、わたしの個人的な物語を書きながらも、明星学園のモットーというべき「自由」について書いた文章でもあるのです。自由でいようとするということは、つまり日常を解体するということです。そこに自然と旅がうまれる。

 例えば明星学園の帰り道にみんなで吉祥寺駅に向かっていたとする。みんなで帰る時は、なんとなくいつも同じ道で帰るのだけど、1人で帰る時はどの道で帰っても良い。なんの提案もなく、なんの説得もなく、なんの比較もなく、ただ気が向くままに道を選べば良い。そしていつもと違う道を選ぶそれが旅となるのです。
 旅とは実は素朴なもので、日常の中に無限にあるものです。

 そうそう先ほど、デモに行った友人たちが「こっちが正しい、あっちが悪い」ということばかりを話している時に、気付いたことがあると書きました。それはよりフラットに、政治や社会問題について教えてくれた人たちがいたのですが、それがみな明星学園の卒業生だったのです。これは偶然かもしれないし、思い込みかもしれませんし、実際そうでない人もいたのですが、とはいえぼくにとっての明星学園卒業生のイメージを端的に表しているエピソードとも言えます。それは単純に「物事をフラットに見る目が養われる」ということではなく、「大きな主語に対して懐疑的な感性が養われる」ということなんだと思います。

 少し理屈っぽい話になり過ぎてしまいましたが、ともかくわたしが明星学園に通って育んだ自由のことや、卒業後にした目的地の無い旅の話をしてきました。
 そして繰り返しになりますが、旅というのは日常に無限にある。わたしはここで間接的に、旅に出ることの素晴らしさについて( そしてハプニングについて)書いたつもりです。そしてそれは同時に、明星学園の素晴らしさと言えるのではないかと思った訳です。

 明星学園が掲げる「個性尊重」「自主自立」「自由平等」という、ある意味当たり前でしかない理念は、無くなる日はこないでしょう。それは社会が常に完璧ではないからです。これからも明星学園が、子供たちの明るい未来を願う大人たちの希望の光としてあり続けることを、切に願っています。
最後に、このような素晴らしい企画にお声がけいただいた河住先生、SAORIに感謝します。ありがとうございました。





渡邉知樹

【プロフィール】
渡邉知樹

1980年生まれ、明星学園66回生

明星学園高等学校卒業後、絵の展示を軸に様々な表現活動をはじめる
代表作「ぺぺぺ日めくりカレンダー」は今年で11年目
絵本作家と名乗るも主な著作無し

[2024年の個展]
2月 練馬区 ALDO
4月 北海道/札幌 context-s
6月 中国/北京 鈴木商店
6月 阿佐ヶ谷 context-s
7月 熊本県/天草 本屋と活版印刷所の屋根裏
12月 阿佐ヶ谷 context-s

個展詳細はblogをご覧下さい
http://ameblo.jp/suetomi1980/

渡邉知樹ホームページ
http://suetomii.wix.com/tomoki