明星学園創立100周年という大きな物語を前に、ここで読まれるのに相応しい文章というのはなんなのか。例え芸能人であったり、何かを成し遂げた人であったり、もしくは人一倍明星学園が好きなんだ!という気持ちのある人でも、簡単に書けることではないでしょう。しかし考えてみればこのリレーエッセイこそが、いわゆる明星学園の教育理念として掲げている「個性尊重」「自主自立」「自由平等」を体現しているものだと思いました。おぎママとわたしが等しく並べられる場所で、わたしの責任の中で、わたしらしい文章を自由に書けば良い、ということです。たとえそれがどんなに大きな物語の中であろうと、わたしという主語でわたしの物語を語ることに価値があるということを、明星学園は教えてくれたのだと思います。いくら教科書で戦争を学ぶよりも、友達のおじいちゃんに実際に体験したことを聞いた時に、初めて心が動かされたことに似ています。
そして、実は旅の話が全く関係ない訳でもなく、わたしの個人的な物語を書きながらも、明星学園のモットーというべき「自由」について書いた文章でもあるのです。自由でいようとするということは、つまり日常を解体するということです。そこに自然と旅がうまれる。
例えば明星学園の帰り道にみんなで吉祥寺駅に向かっていたとする。みんなで帰る時は、なんとなくいつも同じ道で帰るのだけど、1人で帰る時はどの道で帰っても良い。なんの提案もなく、なんの説得もなく、なんの比較もなく、ただ気が向くままに道を選べば良い。そしていつもと違う道を選ぶそれが旅となるのです。
旅とは実は素朴なもので、日常の中に無限にあるものです。
そうそう先ほど、デモに行った友人たちが「こっちが正しい、あっちが悪い」ということばかりを話している時に、気付いたことがあると書きました。それはよりフラットに、政治や社会問題について教えてくれた人たちがいたのですが、それがみな明星学園の卒業生だったのです。これは偶然かもしれないし、思い込みかもしれませんし、実際そうでない人もいたのですが、とはいえぼくにとっての明星学園卒業生のイメージを端的に表しているエピソードとも言えます。それは単純に「物事をフラットに見る目が養われる」ということではなく、「大きな主語に対して懐疑的な感性が養われる」ということなんだと思います。
少し理屈っぽい話になり過ぎてしまいましたが、ともかくわたしが明星学園に通って育んだ自由のことや、卒業後にした目的地の無い旅の話をしてきました。
そして繰り返しになりますが、旅というのは日常に無限にある。わたしはここで間接的に、旅に出ることの素晴らしさについて( そしてハプニングについて)書いたつもりです。そしてそれは同時に、明星学園の素晴らしさと言えるのではないかと思った訳です。
明星学園が掲げる「個性尊重」「自主自立」「自由平等」という、ある意味当たり前でしかない理念は、無くなる日はこないでしょう。それは社会が常に完璧ではないからです。これからも明星学園が、子供たちの明るい未来を願う大人たちの希望の光としてあり続けることを、切に願っています。
最後に、このような素晴らしい企画にお声がけいただいた河住先生、SAORIに感謝します。ありがとうございました。