明星学園

トピックス(中学校)

お知らせ

〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(4)本当の厳しさとは何か?

中学校ニュース
*日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第4話目をお届けします。毎週土曜日の10時に配信しています。

(中学校副校長 堀内)


4 本当の厳しさとは何か?

「厳しい先生」「やさしい先生」、そんな言い方をよくされます。しかし、厳しさとはいったいどういうことを指すのでしょうか? すぐに大きな声で叱る先生を「厳しい先生」というのでしょうか。それとも要求度の高い先生を「厳しい」というのでしょうか。要求度が高くても、やさしく教えてくれたら? 訳が分からなくなってしまいます。職員室で同僚と話していると、教員の間で「厳しい」と思われている先生と、生徒の間で「厳しい」と思われている先生が全く別だったりすることがあります。私自身も卒業生から「やさしくていろいろ相談にのってもらえた!」と言われることもあれば、「怖くて、自分から話しかけることができなかった!」と、卒業後になって初めて言われることもありました。

私は、「厳しさ」と「やさしさ」は相対立するものだとは考えません。本当に生徒と真剣に向き合っている先生なら、どちらも備わっているものでしょう。表面的な「厳しさ」や「やさしさ」にとどまっている限り、見えないものがあります。自分自身を振り返れば何とも恥ずかしいばかりです。


かつて、ある先輩の言った「明星学園は〝柔らかな鍛錬主義〟の学校だ」という言葉が、なぜか今でも私の心に強く残っています。「明星学園」と「鍛錬」という一見不似合いなつながりが、「柔らかな」という言葉をつけた瞬間、私の中でしっくりおさまりました。その当時の私は、明星のいう「個性尊重・自由・平等」が「鍛錬主義」と相反するものだといった常識に、ある違和感を持っていました。本当に「鍛錬」は「個性」をつぶすものだろうか? 「個性」をみがくためにこそ「鍛錬」が必要な時もあるのではないか? しかし、その違和感について語る言葉を当時の私は持っていませんでした。ただ、感覚として感じていただけです。「言葉」は、使われていくうちに手垢がついていきます。「善・悪」「右・左」「新・旧」といったように単純な二項に分類され、与えられたイメージと引き換えに、その言葉が本来持つ大切な何かが失われていきます。言葉から意味が失われた時、それを使う人間の心もまた単純化されていきます。「鍛錬」という言葉には「根性」「管理」「苦しい」といったイメージがつきまといます。そのイメージと明星学園とは結びつきません。しかし、「個」を伸ばすために必要な「鍛錬」も絶対にあるはずです。〝柔らかな鍛錬主義の学校〟——この言葉は、私の明星学園に対するイメージを最も端的に表す言葉となり、試行錯誤を続けていた私が、先輩教員たちとこの感覚を共有しているのだという安心感を得たときでもありました。


一部の学校では、今でも登山行事や遠泳、歩行大会などを実施しているところがあります。本校においても中学校1年生による八ヶ岳登山は、伝統的な行事です。中学1年生全員が八ヶ岳最高峰の赤岳(2899m)に登るなどという学校はそうはありません。長野県の地元の中学校でも多くは硫黄岳登山です。「鍛錬主義」はここでも生きています。高山では自分の足しか頼るものはありません。もちろん、車もコンビニもありません。立ち止まれば自分が遅れるだけです。ではなぜ「柔らかな」なのか? 明星学園の登山が、山ですれ違う他の学校と異なるところがあります。他のほとんどの学校は、全員が1列になって歩いています。引率の先生はトランシーバーを手にし、集団が離れないよう連絡を取り合っています。それに比べて明星は、全員を登らせることは同じであっても、全体を9人グループ16班に分け、グループごとに教員がつきます。子どもたちの体力はさまざまです。足の強さも一様ではありません。足の速い子に合わせるとグループは崩壊してしまいます。弱い子を先頭にし、体力のある子には全体を見る役割を与えます。たった2泊3日であっても、そのグループの中では大きなドラマがあったり、成長があったりします。明星の教育・授業を象徴しているとも言えます。グループを引率する教員の力量も問われます。力量とは体力ということではありません。子どもたちの様子を観察する力、疲労の度合い、わがままの見極め、グループを「同質の個」の集団としてまとめるのではなく、「異質の個」を互いに認め合えるようにまとめようとする志向性。

昔から山で生徒を引率するとき、教師がやってはいけないことをいくつか言われてきました。一つは、疲れ切った子どものリュックを教員が一人で背負わないこと。その教員に体力的な余裕があるかないかは関係ありません。その子のリュックの中身は、グループの生徒みんなで分担する。もう一つは、生徒を背負うこと。本当にそうしなければならない非常事態の時は、小屋に何とか連絡を入れ、助けを求める。今になってやっとその意味が分かるようになってきました。山は非日常です。日常の常識が山では非常識であることも多々あります。大人だろうと子どもだろうと自分のことは自分で守らなければなりません。自分を守れない人間が他の人を守ろうとしたとき悲劇が生まれます。もちろん、「本格登山」と「学校登山」はちがいます。でも、自然の厳しさを忘れてはいけません。自然の厳しさの前では、謙虚さが求められます。

(*次回は7/31配信予定です)