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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(7)自由について②

中学校ニュース
*日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗も第7話目となりました。毎週土曜日の10時に配信しています。先週は「学校において自由とは何か」について考えました。自由とはけして好きなことができるといったうすっぺらなものではありません。自分を律する厳しさと他者の心を思いやる優しさが求められます。今回は中学校卒業前の生徒の声を紹介します。



7 自由について②

数年前、卒業を迎える中3の国語の最後の授業で、大澤真幸の『もうひとつの自由-思考のヒント-』の一部を読みました。エンデの作品に『自由の牢獄』という童話があります。かぎのかかっていない、無数の扉のある部屋に入れられた男は、ついにどの扉を開けることもできなくなってしまうという寓話が語られます。自由と言われる現代社会において、「決められない」ということが何かキーワードになっているような気もします。「ニート」「ひきこもり」「自分探し」といった言葉を持ち出すまでもなく、自分や現実とかけ離れたところに責任や理想を求め、そのせいで逆に身動きがとれなくなっている空気が充満しているように思うのです。

中学校最後の期末試験、時間が余った人のためのボーナス問題として次のような設問をつくってみました。

あなたが考える「自由の困難さ」とは何ですか。いくつかの具体例をあげながら、わかりやすく説明しなさい。また、それに対する現時点でのあなたの意見があれば述べてください。
15歳の彼らにとって、この問いは切実な問題として響いたに違いありません。まさに、悩みの真っ最中なのだと思います。大きすぎる自由の前に束縛を求めてしまう声は意外にも多かったのです。それはそれでわかる気はします。たしかに大人社会に反発し、自由を求めていたかつての状況とはまったく違います。そんなに単純なものではありません。

自由とは自ら判断し、選択できる状態をいうのだと思います。ただ、知恵や経験がなければ多すぎる選択肢は人を途方にくれさせ、命令さえ望む状態にさせてしまう。結果的にそのほうが短時間で形としてはうまくいくことはあるわけです。でも、それでいいのかということです。

自由は大切です。自由の前で臆病になってほしくはないと思います。自分の力で選択し、判断する力を身につけることができれば、それだけ自由の範囲が広がる。自由をつかむには努力が必要なのです。



ここでは、彼らの書いた文章を抜粋の形でいくつか紹介したいと思います。テスト時間内の限られた10分程度の時間の中で書かれたものです。過去をふりかえっての文章でもありません。揺れている言葉だと思います。でも、だからこそ正直な思いが表出されているようにも思います。



・私は今まで「自由には責任がつきまとう」の意味がわからなかった。ミヒャエル・エンデのあの話でようやくつかめた。それは、「自由になりたかったら、自分で選びな」という話だ。私は自ら選んでこの学校で勉強している。それなのに、好きで来ているんじゃないという態度をとったこともある。「好きで来ているんじゃない」。つまり、自分では選んでいないということで、私には自由がないことになってしまう。私は自由でいたい。だから自分のことはすべて自分が選んだことでなければならない。でも、どうだろうか。私は自分の体の一割も自分で選んではいない。なにもかも自分で選ぶのは難しいとは思う。誰かに責任をなすりつけたら、その時点で自分から自由をつぶしたことになる。自由と責任の関係はそういうものだと思う。だから、自由を獲得するのは難しい。 (もえこ)



・むかし、あるコマーシャルで、あるサラリーマンが手帳をいつも行く店に買いに行く。その店には手帳は黒と茶の二種類しかなく、サラリーマンはいっつも黒を買っていた。それが嫌でサラリーマンは、別の店へ行った。すると、ものすごい種類の色の手帳があり、サラリーマンは嬉しく思ったが、同時にどの色を買おうか悩んだ。そして考えこんだ挙句、いつもと同じ黒の手帳を買っていった。

これはある学者がたてた法則で、「現状維持の法則」というそうだ。人はいつもと違うことがあると「いつも」と同じに戻そうとする、ということらしい。このコマーシャルの別のバージョンもあり、それは夫婦だったが、二人ならどうにかなるわけでもなく、その夫婦も結局は「いつも」と同じ物を選んだ。

よく「マンネリ化からの脱出」とか聞くけど、そう思うなら下手に考えてはいけないと思う。よく言えばカン、悪く言えば当てずっぽう。そのくらいしないと「いつも」から抜けだせない。なかなかそれが出来ないから「非日常」を楽しく感じる。時間が早くすぎる気がするのは、多分その所為だ。「日常」はつまらない。だから「非日常」が楽しい。                      (はづき)



・私は小学校の美術の時間、「学校の風景画を描く」という授業を受けた。しかし私は、何故「自由に絵を描く」でなしに、学校の風景を描かねばいかんのだ、と先生に反発したことがある。結局私はふてくされたまま、紙は白いままにその授業は終わった。

そして次の授業はなんと、「自由に何でも描け」というものになった。私は「描いてやるぞ」という気持ちで紙に向かうが、一向に描けない。そしてそのまま、期間が過ぎてしまったのだ。自由というのは恐ろしいもので、いざ自由にどうぞ、と言われたら何もできなくなってしまうのである。やはり与えられたものをこなすほうが楽だ。だが、自由には「楽しさ」がある。そこをとるか、楽をとるか。私が選ぶのはそれでも「楽しさ」をとることに専念しているつもりだ。            (はやて)



・自由=反抗と思っている人が多くはないかなと私は思う。でも、反抗は束縛につながるんじゃないかな。だって自分にあきらかに反抗してくる人がいたら、それを止めようとする。だから反抗は、一番自由から離れているんじゃないかと。止められちゃったら自由にできないもの。だから、その人たちの話を聞いて、それでそーだなって思ったものを自分の中に入れられればいいなって思う。

その人がとても良いこと言ってるとき、反抗してて、聞きそびれたらとても損だもの。私の考える自由がもっと広げられたかもしれないのに。

だから私は、最小限にしか反抗しません。素直に聞いてみます。 (きょうこ)



・自由というのはすごく難しいと思う。何もかも自由になってしまったら、人々の考え方は一人一人違うから、世界は混乱するし、逆に争いも起こりやすくなると思う。

基準をつくれば、その範囲での自由をよしとするならいいかもしれない。ただ、その基準の決め方も人それぞれ違うだろうから、わからなくなる。生きている人には、みんなそれぞれの考え方があるから、平等にしてしまうのもなんだか変。人間には気もちというものもあるから、何でも基準の考え方のみで決めてしまうのも何だかなぁ…と思う。

こうやって考えていると、本当の「自由」って何だろう?と、最初にもどってしまった。 (さちの)



・自由と平等なら、私は平等を取ります。だけど、平等だけの世界になってしまったら面白くもなんともないので、自由も欲しいです。この二つは対極の存在にあるけど、要はバランスだと思います。

自由というのは楽なもので、何をしてもいい。何をしなくてもいい。だから格差が生まれるのは当然。

自由な環境はとても良いと思います。でも、その場にいる人間の受け取り方によって意味が変わってしまうのが問題だと思います。  (まゆこ)



・自由はなんでも自分で決められるかもしれないけど、自由をコントロールできるかどうかで自分の今後の生活が変わっていく。だから自分に責任をもたなければならない。人のせいにはできないから、むずかしい。  (まお)



・自由すぎると平等がなくなり、平等にすると自由が半減する。  (かいり)



・自分は今までに8回程学校を変わっています。その時その時、自分は学校を転校したくないと何度も思いました。でも、しょうがないことだったのです。このように、現実は自由とはすごくもろく、理想のようにも思えます。何かをしたいと思っても、その場所、時間、金銭などといったように障害も多くあります。そのため、現実的に見れば今の自由は小さいものかもしれません。

しかし、自由すぎても困ってしまいます。特に今の自分は、「何でも好きなことをやればいい」と親に言われています。もちろん、多少なりとも制限はかかります。しかし、何をしたらいいのかなんてわかりません。「勉強はまぁできるけど、何が得意かわからない」「何が好きかわからない」。もちろんやってみたいこともあり、また高校という新しい生活が始まろうとしている今、やっと何かをしようと目標のようなものへと進もうとしていますが、まさに自分は今、[自由=牢獄]なのかもしれません。そして、何だか自由というものを踏みつぶして、時間をつぶしているようであせってしまいもします。

そしてもう一つ思うのは、自由にやりたいことなどが目の前にあったとしても、そこへたどりつけられるかどうかです。能力的な問題もありますが、自分が思うのは、「自信」です。例えば、自信がないから好きなことをできない、発言ができないなどです。もしその時に自信があれば、やりたいこともできた、言いたいことも言えたということになります。これは個人的な問題かもしれません。しかし、誰でも通る問題であるとも思います。自分は特にそうなのかもしれません。自信がある時は何でもできる、話せる、言える。しかし自信がないと何もできずに、立ちつくすだけです。

たとえ目の前に自由があったとしても、その自由を手にできないことが多くあると思います。 (だいじゅ)



・「民衆は全て愚かで、それを統べる者が必要」。日本やドイツでできたファシズムは、要約するとそういう意図ではないかと思う。たしかに、民衆の手で選び出されたはずの政治家に、あまりよいと思えない人がいるとそう思うのもしかたのないことである。しかし、一部の頭のいい人たち(と仮にする)が統べてゆく、というのも危ないものである。社会のため、と力を尽くしてもどこかでおかしくなってしまうのが人なのだと思う。

だが、民衆全体でうまく力を合わせて、というのが単なる夢想であるような気もする。はたしていつの日か、人は本当の意味で団結できるのだろうか。  (ともつぐ)



・人は生まれつき何かにしばられている。それは学校や、社会や、家族、友人など様々だが、生まれつきであるため、何かにしばられるのに人は慣れている。そのため、己をしばるもの(命令するもの)が消えると、人は今、何をすべきなのかわからず、路頭に迷う。

多分、今学校で授業がなくなり、何をしてもよいと言われたら、はじめは嬉しくても、だんだん不安になると思う。自由とは、規制された中に見出すことに意味があるのだと思う。 (えり)



15歳は日々、こんな哲学的なことを考えているのだと思います。良い聞き手がいればさらに思考は深まっていくだろうと思います。とても面白い年代です。

(*次回は8/21配信予定です)