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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(8)自立とは何か?

中学校ニュース
*日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第8話目をお届けします。2回にわたり「自由」について考えてきました。今回は「中学生にとっての自立」の問題を考えます。この時期は親としてのギアの切り替えの時期でもあり、親子関係を再構築するチャンスともなります。


8 自立とは何か


中学生という時期はわけもなく大人や社会に対してイライラする時期でもあります。自立したい。でも、自分一人で行動する自信はない。もう30年近く前のことになるでしょうか。職員室にいると、ある先生が教室から戻ってきて「授業にA君が出ていないんだ。探してくれないか?」と言われました。その生徒はいつも不機嫌そうな表情をしていて、気になる生徒として職員室でもしばしば話題になっていました。私は、一人でいられそうな場所に見当をつけ、探し始めました。

思ったとおり、彼は校舎裏の非常階段に一人座っていました。彼は一瞬身構えたような表情をしました。私は、ただ叱って教室に戻しても意味はないだろう。それよりも仲間とつるんで授業をさぼるのではない彼に興味を持ちました。思わず彼の背中を見る形で階段の4、5段上に腰を下ろしていました。沈黙がありました。少し落ち着いたのか彼は振り返り、私を見上げながら思いもよらないことをつぶやきはじめました。「ほり先さあ…、地図があれば行ったことのない場所にだって行けるじゃん…。でも…、人生の地図ってないのかなあ…。自分が生きたいように生きられる、人に指図されてではなく、自分でそれを見つけるための地図……」。たどたどしくはあっても、何かを一生懸命考え、心の奥底から絞り出すような言葉でした。私の心に深く突き刺さりました。自分自身で自分の人生を考えるとき必要となる「人生の地図」、中学校の教員にとって、国語の教員にとってそれはいったい何なのか、教員を続ける限り常に考えなければならない私の大切な課題となりました。

彼は問題行動を繰り返しながらも、ずるいことをするような生徒ではありませんでした。国語の授業もしっかり聞いているようには思えませんでした。いつも眠そうにしていました。にもかかわらず、魅力的な生徒でした。その時、私がどんな言葉を彼に返したのか全く覚えてはいません。ただ、たまたまその時読んでいた村上龍の単行本を渡したことだけは覚えています。彼はしばらくの間その本をいつも離さず手にしていたのです。

中学校を卒業した後、彼とは音信不通となりました。ところがそれから数年後、突然仲間と一緒に中学校の職員室を訪ねてくれました。彼は仲間の後ろの方に隠れるように立っていました。すると別の卒業生が話を振ってくれました。「ほり先!村上春樹の新作読みました? Aのやつ、村上春樹の作品のことなら何を聞いても分かるよ!」するとA君は「おれ、村上龍より春樹の方が自分にすごくあっているって気づいた」、中学校時代とは全く違う、はにかんだような穏やかな表情でつぶやきました。近況を聞きながら、弱弱しいながらも、素の自分と向き合い、確実に自分の足で一歩を歩み始めた彼を見ることができました。



心理学者の河合隼雄さんは、思春期を「さなぎ」の時期と呼びました。堅い殻に閉じこもってしまって、周りからは何を考えているのかよく分かりません。本人でさえ自分のことが分からない。でも、内的には実に大きな意味のある変化が起こっているのです。

私たち教員は、性急な表面上の変化を求めがちです。しかし、殻を自分で破る前に、おとながその殻を代わりに破ってあげようなどというおせっかいをしてしまうと、子どもの成長は阻害されてしまいます。かといって、放任してしまえば愛情は伝わりません。さなぎから蝶が生まれるのを信じながら、いかに辛抱強く見守れるか、教員にとっても親御さんにとっても精神力が試されます。



先日のことです。中3卒業研究の中間報告会に保護者ボランティアの皆さんがやって来てくれました。ある生徒が「学校の役割とは何か」というテーマでかんたんなプレゼンをしました。「現代はネット上で様々な授業が受けられる。学校では気の合わない人とも一緒にいなければいけない。時にいじめや同調圧力の問題も起こる。個別指導で学び、自分の個性を伸ばそうという人たちも出てきている。にもかかわらず、私は今の学校の形にこだわりたい。学校には教科の勉強だけではない、大切な学びがあるのではないか。それを自分の言葉でまとめていきたい。」具体例を挙げながら、そんな趣旨の発表でした。

少しの間があった後、あるボランティアの方がとつとつと話し始めました。「『脱皮しない蛇は亡びる』という言葉があります。哲学者ニーチェの言葉だったかと思います。みなさん、蛇の抜け殻は見たことあると思うのですが、実際の蛇の脱皮は命がけで、ごつごつした木の幹や岩石などに自分の体を巻き付け、身をくねらせながらやっとの思いで殻から体を引き抜くのだそうです。何もない水槽に入れられた蛇は脱皮できず、脱皮できない蛇は亡んでしまうというのです」。

その瞬間、教室はシーンとなりました。生徒一人一人の表情からは何かを深く考えている様子が見て取れます。学校の中において「ごつごつした木の幹や岩石」とは、何を指しているのでしょうか。人間において「脱皮」とは、いったい何を意味するのでしょう。「やわらかなもの、つるつるなもの」を求め、「ごつごつしたもの」を危険なものとして遠ざける現代日本社会の問題もあるかもしれません。

自立には勇気が必要です。時に痛みを伴います。失敗を恐れていては、自分の足で歩き始めることができません。「失敗させないように、傷つかないように」が優先される社会とは、ごつごつしたものを取り除いた水槽の中のようなものともいえます。小さな傷や痛みを経験することこそが、致命的な傷を負わない最良の方法だと思うのです。だからこそ学校は意味のある失敗を尊重する場でなくてはなりません。



人は一人では生きていけません。一人ですべてできることが「自立」ではありません。もしそれを「自立」というなら、そんな人間は存在しないでしょう。人間にはだれにも得意不得意があります。分からないことは、「教えてください!」と言えること。教えてもらったら感謝の気持ちを伝えられること。その代わり、自分のできることは誰かのために教えてあげられる。このような関係の中で生きていくことが「自立」なのだと思います。そのような意味で「自立」は、多様な集団の中でこそ確立されます。「教えて!」「ありがとう!」、こんなかんたんな言葉が実は、自立するためのキーワードになっていきます。

しかし、思春期の時期というのはなかなかこの言葉が出てきません。恥ずかしい。馬鹿にされるのではないか。人の眼が気になります。自信のなさは、時に人を傷つける言葉になって現れたりします。コンプレックスは、時にぞんざいな物言いになって現れます。自分の思いは相手に届きません。それどころか全く違った形で相手に届いてしまいます。「どうせ自分なんて」が口癖になったりします。孤立を感じます。「自意識」のなせる業です。

そんな時こそ、視点を変えて周りを見てみましょう。いかに狭い世界しか見ていないかに気づきます。自分と同じことで悩んでいる人がどれだけ多いことか。「ありがとう」という場面がどれだけたくさんあることか。そういうことに気づいた時、世界が全く違ったものとして見えてくるようになります。こういう時期には考えてから行動するよりも、まずは行動してみること、行動してから考えることも必要です。そのことで他者に出会うことができるからです。

他者に出会うことは、自分に出会うこと、つまり自立することへとつながります。私は「さなぎの時期」の生徒にはできるだけたくさんの刺激をシャワーのように浴びせてあげたいと思っています。それはすぐに結果の出る類のものではありません。全員が同じように感じる必要もありません。そのうちの一つでも蝶として出てくるための力になってくれればと思います。そのようなことを思いながら、中学校における教科外の活動を構想しました。具体的には、後の章でご紹介します。

(*これで明星学園の教育理念である「個性尊重」「自主自立」「自由平等」について具体的な生徒の姿を通しながらお話したことになります。次回は「表現するということ」、8/28配信予定です。)