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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(9)表現するということ

中学校ニュース
*日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第9話目をお届けします。中学校には、『この人に会いたい!』という特別授業があります。社会で生き生きと活躍されている方を招き、中学生にお話をしてもらいます。私自身も大きな刺激を受けます。今日のテーマは、二人のフォトジャーナリストさんとの出会いから生まれたものです。

(中学校副校長 堀内)



9 表現するということ



人間は、表現する生き物です。表現することで人とつながっていきます。しかし、それは話がうまいとか行動力があるということのみを言うわけではありません。さりげない表情やちょっとしたしぐさの中に、その人らしさが表れるということは誰もが認めることでしょう。むしろ、表面的なパフォーマンスは、本来の自分とは違った情報を人に与えてしまいます。自分をよく思われたいという気持ちが、逆にマイナスに働いてしまうわけです。「ウソのない自分」をどのような形で人に伝えることができるか、ここでも自分と向き合う力が問われます。と同時に多様な表現の仕方があることを学ぶことも学校教育の大切な役割の一つでしょう。

文章で表現するという方法もあります。自分の声で、あるいは楽器を演奏することで表現することもできるでしょう。身体表現も重要な方法です。絵を描くこと、折り紙を折ること……。このように挙げていけば、まだまだ出てくるはずです。

でも、自分には得意なものが何もないという人もいるでしょう。いや、ほとんどの人がそうなのだと思います。だから悩みます。しかし相手に伝えたい、でもうまく伝えられないと悩むことこそが相手を思いやる想像力へとつながるのだと思います。表現するとき、そこには伝えたい相手がいるはずなのです。伝えたい自分の気持ちにウソはないか? 伝えた時、相手は何を感じるだろうか? この困難さに向き合うことこそが大切なのではないでしょうか。けしてテクニックではありません。そしていくつもある表現方法の中から、自分を最も素直に表現できる方法を見つけることができたら、こんな素敵なことはないだろうと思うのです。



数年前、中2の特別授業に、あるカメラマンさんが講演にやってきてくれました。2011年東北大震災後の「復興の狼煙ポスタープロジェクト」で注目を浴び、その後もテレビ・雑誌・新聞広告など幅広く活躍されている方でした。

「なぜひとはひとの写真を撮るんだろう?」朴訥とした語りの中で、そんな質問が生徒に向けられました。何十枚というひとの写真がスクリーンに映し出されます。生徒たちはポカンとしています。今度は写真でないひとを表現した作品が再びシャワーのように次から次へとスクリーンに映し出されました。「その人の一番大事にしている部分を撮りたい。自分の撮った写真がその人にとって大切なものになるように撮りたい。」彼は震災後の東北を歩き、一人一人了解を取った上で撮影を続けました。そして撮ったものを直接その人に手渡すことを実践してきたそうです。写真を撮り、手渡すことで力になりたい。「でも、それは自己満足だろうか?」

彼は今回の講演のために、再び東北を訪ね、撮影に協力してくれた方々を訪問し「あの時写真を撮られて、どのように感じましたか? 写真が届けられたときどんな気持ちでしたか?」そんな質問を繰り返したそうです。その時の写真を大切に仮設住宅の壁にはっているおばあさんがいました。「昔の写真はみんななくなっちゃったから。」「あのとき、自分が身につけているものが私のすべてでした。家においてあったものは何一つなくなった。リップクリームがなかったのがつらかったな。ゼロからすべてが始まったの。」

「喜んでくれている人は確かにいた。でも全員ではなかった。一人だけ、あの頃のことを思い出す写真はもう見たくないのと、つぶやいたおばあちゃんがいました。これが今日みんなに一番伝えたかったことです。写真は人を元気にさせることができる。でも、時にそれは凶器にもなる。人の心を踏みにじる残酷な道具にもなる。」自分のしていることはただの自己満足なのではないか? 相手を傷つけてはいないだろうか? そう謙虚に自問する彼の姿から表現者とは何かというようなことを感じさせてもらいました。



現在、中学生でもふつうにスマホを持ち、かんたんにSNSで人とつながれる時代になりました。簡単に写真を撮り、アップすることができます。ラインやツイッターで自分のつぶやきを発信することで、簡単に自分を表現することができるわけです。ただその時発信者は、誰を思って発信しているのでしょうか。それが拡散されたとき、どのような事態になるのかどこまで想像できているのでしょうか。

表現することのすばらしさを言うとき、その危険性を伝えることの大切さを今だからこそ思います。彼は講演会の後、「実は、今本気で学校の先生になろうと思って勉強しているんです!」と話し始めました。たしかに学校の先生は、常に目で見ることができ直接話しかけることのできる生徒を相手にしています。でも、我が身を振り返るとき、教員生活の中でよかれと思って生徒にかけた言葉や無自覚さがどれだけの生徒を傷つけてしまっていたであろうかと考えることがあります。怖ろしいことです。私に直接には返ってこない生徒の姿です。

表現というのは特別なものではなく、生きることそのものなのだとも思います。人を傷つけることなしに生きていくことはできません。しかし、そのことに無自覚になった時に大きな過ちを犯してしまうのではないか、自分のことはさておいてそんなことを時々思います。自分にウソをつかない。相手を思う想像力、これが基本なのだと思います。

別の機会に、ある著名なフォトジャーナリストの方とお話しする機会がありました。震災の後少しでも喜んでもらいたいと、その人の一番素敵な笑顔の写真を撮り、でも一人だけ喜んでもらえなかったおばあちゃんの話をしてくれたカメラマンさんの話をしました。彼女はこう答えました。「今はそうかもしれない。でも、5年後、10年後、それは変わっているかもしれない」。彼女はにっこりと微笑みました。

即座にそうきっぱりと言い切ることのできる裏には、彼女もまたこの問題について深く考え続けている表現者なのだと僭越にも感じました。誠実さと強さ、どのような職業においても自分と向き合い、そして自らの仕事と向き合っているか、それが生きることへの前向きさに繋がっていくのだと思います。