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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(11)プロセスの大切さ

中学校ニュース
*日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第11話は、「プロセスの大切さ」です。結果だけを追い求めるとき、人生にとって本当に大切なものを失ってしまうように思います。人間にとっての幸せとは何かを思います。

(副校長 堀内)

11 プロセスの大切さ

かつて、評論家の森本哲郎が「思索について」の対談で、「結果ばかりを見ていては、人生の意味はなくなってしまう。大切なのは、そこまで到達する過程なのだ」といった趣旨の話をしておられました。そこで彼は、イソップ物語の中にあるこんな話を紹介したのです。<ある農夫が死ぬときに、三人の息子を枕元に呼び寄せて、「わしは一生貧しかったが、実はお前たちの将来を思って金をためていた。葡萄畑のどこかに、金貨を埋めてある。わしが死んだら、その金貨を掘り出して、三人で分けて何かの足しにするが良い」と言って、息を引きとった。三人の息子は、いいことを聞いたというわけで、夢中になって畑を掘り返した。しかし、いくら掘り返しても、ついに金貨は見付からなかった。ところが、よく掘り返したおかげで、葡萄がなんと例年の三倍も実ったのだ。>

金貨を埋めたというのは嘘だったのでしょう。しかし、宝物を探すために懸命に行動したことで、思ってもいなかった別の宝物を手に入れることができたわけです。宝というものが問題なのではない。宝を探すために行動するその過程こそが人生なのであって、宝は結果的に与えられるものなのだと森本は言うわけです。


この寓話を学校教育に引き寄せて考えるとき、そこから多くのメッセージを読み取ることができるように思います。これまで社会は学校に、形として見える教育の成果を求めてきました。それは数字で表れる学力であったり、進学実績であったりするわけです。そのこと自体をことさらに問題だというつもりはありません。しかし、そこに到達するまでの過程(プロセス)の意味をどれだけ大切なものとして捉えてきたのだろうと思います。高度経済成長期はもちろん、現代においてもなお日本社会は、いかにプロセスを短縮できるかを考え、苦労をせず、合理的に、最短距離で結果を得るかに価値を置いているように思います。コインを自動販売機に入れ、自分の思った通りの商品が出てくることを絶対とする空気、少しでも想定しているものと違う結果になった時は、苛立ちを隠せない風潮は、近年ますます強くなってきているようにも感じます。「余裕」「しなやかさ」「柔軟性」といったものの美徳はどこに消えてしまっているのでしょうか。


学校における各教科の授業には、当然のことながらその発達段階に応じて理解していかなければならない内容があります。しかし、その結果の部分のみを数字で評価するとき、大切な人生の宝物を見つけるチャンスを逸してしまうのではないでしょうか。授業の本質は、誤解を恐れずに言えば、そこにいたるプロセスのあり方にあると思うのです。それは一見、回り道に見えるかもしれません。しかし、疑問を持ち、悩み、迷い、発見するといった、結果至上主義の立場から見れば無駄にしか見えない、そのプロセスの中にこそ大切なものがあるように思います。

これからのコンピューター社会、自律的な人間として生きていくためには何が大事なのかということを考えます。細切れの知識をたくさん持っていること、テストのためにパターンで覚える学習にどれだけの意味を見つけることができるでしょう。もちろん、全ての学びには意味があります。しかし、それらが人工知能(AI)に取って代わった時、何が残るのでしょうか。

そのような意味で、次期学習指導要領改訂の方針の中に盛り込まれた、「主体的・対話的で深い学び」の実現を目指す授業改善の視点は、大変意味のあることだと思います。しかし、今の教育界を眺めるとき、性急にそれを実現しようとするあまり「アクティブラーニング」という形式が先にあり、それが目的化してしまっているように感じるのは思い過ごしでしょうか。タブレットを使えば、それだけで主体的な授業ができるわけではありません。


知識を獲得する過程での「疑問・仮説・対話・気づき」を大切にするということは、けして見た目の美しさにつながるわけではありません。それは時代の流れの中にあって華やかに取り上げられることもなく、ましてブームになるようなことではありません。それは、一人一人の子どもたちの成長としっかり向き合おうとする営みであり、一朝一夕でできるようなことではないのです。

そして、最近耳にするようになった『共同性』という言葉。学校現場において用いられる「共同性」という言葉は、とてもやっかいなものです。それが目的化された時、同調圧力が生まれます。空気を読みあうことが求められます。その結果形の上での美しさが実現されます。そんなひねくれた捉え方をしてみることも、一方で意味のあることだと思うのです。

私たちは、一人ひとりの個性を大切にしたい。ただ、一つ一つの個性は、集団の中で生かされた時、初めて意味を持ち、それが自己肯定感へとつながります。だからこそ、互いの個性を認め合い、生かしあえる共同性を目指したいと思うのです。そのためには、何が必要なのでしょうか。少なくとも形としての美しい結果を求めることではありません。とても困難なことです。それを分かった上で、大きな理想に向かって悪戦苦闘すること、汗水たらして、葡萄畑を耕すことこそが教育だと思うのです。