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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(13)大人になるためのステップー教室の中のトラブルと芥川『藪の中』」

中学校ニュース
*日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第13話は、「大人になるためのステップ―教室の中のトラブルと芥川『藪の中』」です。
文学教材の研究をしていると作品世界と目の前の生徒のいる現実世界が重なってくることがしばしばあります。中3の国語の授業で芥川龍之介の『藪の中』を扱ったときのことでした。作品世界と現実世界を行きつ戻りつしながら思考し、感じたことをご紹介します。(中学校副校長 堀内)


13 大人になるためのステップ―教室の中のトラブルと芥川『藪の中』


「みんなが自分のことを馬鹿にしている。みんなからひどいことを言われた。」こんな訴えは特に中学校に入学したての生徒を担当するとき、しばしば経験することです。当然被害を訴えている生徒から具体的に話を聞きます。「相手はだれ?」「何人?」「なんて言われた?」――「〇〇〇とか△△△って言われた。」「みんなから。」「たくさん。」「こわかった。」「みんなにやにやしていた。」「はっきりおぼえていない。」「そう言われた気がした。たぶん…。」――そう言いながら興奮はおさまりません。

加害者と言われた生徒一人一人から話を聞きます。「何て言った?」「だれが言った?」「どうしてそんなこと言った?――「言ったのは自分だけ。あとの3人は一緒にいただけで、何も言っていない。」「教室には他にもたくさんいた。ただふざけていただけ。」「いつも一緒に遊んでいる。相手は笑っていたから、そこまで嫌がっているとは思ってもいなかった。」「あいつだってそういう言葉を言うことがある。たしかに〇〇〇という言葉は使ったが、△△△とは言っていない。」――自分が悪口と指摘される言葉を使ったことは認めつつも、そこまで言われるほどの悪意を持っていたわけではないということを一生懸命言おうとします。むしろ事実と違うことまで先生に言っている相手の生徒に対し、ある種の恨みの感情が生まれつつあることは想像に難くありません。

「でも〇〇〇という悪口を言ったんだな。」――「言った。」――『〇〇〇』という人を傷つける言葉を使ったことに対し、被害者の前で叱責し、加害者に謝罪の言葉を言わせます。とりあえず、被害者の生徒に安心感を与えようとします。ただ、それだけのことです。教育の場では問題は何ら解決されていません。被害者の生徒に本当の意味での安心など与えられてはいません。当事者同士の関係は何も改善されません。むしろ悪化させる可能性の方が大きいでしょう。その結果、生徒は先生に相談することすらなくなっていきます。


中3の教材として扱おうと、芥川龍之介の『藪の中』を教材研究しているとき、なぜかそんな場面が浮かんできました。先の例で言えば、両者の言っていることにくいちがいが起きているわけです。にもかかわらず、両者が了解した一致点のみ取り出すことで加害・被害を確定しました。裁く側に立てば、とりあえず一件落着です。全貌が明らかになっていないという批判に対しては、そもそも何が全貌なのかということは証明できません。裁く側の切り取り方しだいなのです。少なくとも権力を持っている側は、自分の切り取った断面において整合性をつけようとします。あいまいさを残すことには耐えられません。いや、形式的な論理性に必要なパズルのピース(部分的な証言や客観的と思いこんだ先入観)をそろえることで、一つの因果関係をもったわかりやすい物語を作り出し、一方その物語にはめこむことのできないピースは無意識のうちに捨象されます。


先の例に戻るなら、叱責と謝罪といった形式的なことだけでは終わるはずもありません。加害者側の被害者側に対する恨みの感情。さらに教員に対する不信感の芽生え。――自分のことをわかってくれない。教師の権力で無難におさめているだけだ。生徒の本当の様子など気がつかない。あるいは気づこうともしない。そのくせ分かった気になっている教師。

では、すべてを明らかにすればいいのでしょうか。しかし、この場合訴えている生徒の言い分と、訴えられている生徒の言い分を一つ一つ検証し、どちらが正しいか明らかにしていっても何の解決にも至りません。訴えてきた生徒を追い込んでしまうばかりです。記憶はあいまいです。当事者だからといってすべて見ているわけではありません。今述べた意味での事実であるなら、そこには大きな意味はありません。

何人もで彼を囲んだら、彼はどう思うだろう? “こわい”と感じているとき、人間は正確にものが見えなくなってしまう。彼はウソをついているのではない。そう感じるほどこわかったのだ。笑顔にしても、それは精いっぱいのものではなかったか。表面と内面は必ずしも一致しない。A君の気持ちを想像できるようになってほしい。――そんな言葉を加害者と言われた生徒にはかけてあげたいと思うのです。また、被害者の生徒に対しては嫌な時にはその場で嫌だと言えるようになってほしいし、パニックにならず、冷静に状況判断できるようになってほしいと願います。もちろんそれには時間がかかります。同時にA君が教室の中でどのような関係性の中に居場所を持っているかということに思いをはせなければならないのは言うまでもありません。


ここまで「加害者」「被害者」という言葉を使ってきました。もちろんそれはある一場面を切り取った時の関係性です。第一段階の指導においては、これはおろそかにしてはいけません。そのことなしに対話は始まりません。先生に訴えるということは大切なことなのです。問題なのは、この第一段階の表面的な指導のみで一件落着してしまおうとすることです。訴えた生徒は「先生にチクった!」と教室の中で責められる可能性だってあります。それを見ている生徒は、自分が困ったとき、先生のところへ行って相談するという選択をするでしょうか。

人間は他者から理解されることで成長する生き物です。誤った行為については自分の罪を認めることができても、自分を否定されることには耐えられません。自分にだって言い分はあるでしょう。学校は教育の場です。どちらの側の生徒に対しても、先入観を持たずに話を聞いてあげることからしか何も始まりません。生徒に寄り添い、聞いてあげる先生がいるとき、生徒は多くのことを語り始めます。自分を防衛することしか考えていなかった生徒の心がしだいに柔らかくなっていくのを感じます。もちろん、自分勝手なものの見かたや責任を他者に向けようとする言動は目立ちます。こちらも我慢のしどころです。強がっていた生徒が、実は大きな悩みを抱えていたことを知る場にもなります。傷ついている生徒ほど、無自覚のうちに他者を傷つけている事実を知ります。自分がいっぱいいっぱいの時、他者に優しくできる余裕はありません。「嫌なことには嫌と言えるようになってほしい。自分で言えないときには先生を頼ってくれていい。でも、先生は君のかわりに言ってあげたりしないよ。話をする場を設定してあげる。自分の言葉できちんと相手に伝える。先生はそれを見ていてあげる。そのかわり、自分がだれかを結果的に傷つけてしまったときは、勇気をもって謝らなければいけない。」自分のことを理解してもらえて初めて他者の心を想うことができるようになるのだと思います。

心からでてくる「ごめんね!」は魔法の言葉です。形だけの「ごめんね」とは全くの別物です。相手の心さえ柔らかくします。「自分の方だって……ごめん!」 「ごめんね」という言葉は敗者の言葉ではありません。強い心がないと言えない言葉です。中学生にとっては、かんたんには言えない言葉でもあります。

学校の中で起こる小さなトラブル(当人にとっては極めて重大なことですが)は、生徒間や生徒と教師の関係を深めるきっかけともなります。そこでは「加害者」も「被害者」もありません。人間はだれもが不完全な存在です。相手の悪いことを挙げればきりがありません。「あのとき自分はどう行動すればよかったか?」トラブルが起きるとき、どちらにもある程度の非があるのです。相手が悪いというだけでなく、自分がどうすればよかったかということに目が向いた時、その生徒は大きく成長します。世界が全く違ったものに見えてくるでしょう。「自分を理解してくれている人なんていない。どうせ自分なんか…」と思っていたのに、この世界それほど捨てたものではないと気づくこともできるでしょう。そうなれば、素直に「ありがとう」という言葉もでてきます。このような経験は大人になるための大切なステップです。

「ありがとう」と「ごめんね」、この二つの言葉は人間関係をうまく作る上で本当に大切な言葉であると改めて思います。


中3での芥川『藪の中』の授業は、大変スリリングな授業となりました。活発な読みが生徒から生まれてきました。ただ、最後に何が正しいのか見えなくなった時、ある混乱が生徒に生まれたことも確かです。でも、この揺れこそがこの作品が語ろうとしていたことでもあると思うのです。

人が何かを見るという行為、人がだれかに語るという行為には、必ずフィルターが介在します。その時の心の状態、相手や対象物と自分との関係。見たくないものには目をつぶるでしょうし、語りたくないことは語らないでしょう。自分の思いたいように整合性をつけてしまうことも人間のなせる業です。無意識のうちに自分を正当化し、自分の行為を美化しようともします。本当の意味での客観性などはありません。しかし、それをウソとは言えません。大切なのは、一つ一つの社会的な事実の裏にある、心の真実なのではないでしょうか。先の教室での例で言うならA君の“こわいんだ”という心の叫びに尽きます。ここをくみ取らずにいかなる指導もないでしょう。

ましてや、『藪の中』における登場人物、多襄丸・真砂・武弘は極限状況にいます。3人の語りが事実関係において食い違っていたとしても不思議ではありません。ただ、多襄丸については権力者である検非違使の前での語りであり、おのずと他の二人の語りとは異なる側面を持ちます。もちろん、武弘を刺したのは一人の特定の人物でしょう。しかし、3人のうちだれが嘘をつき、だれが事実を語っているかということに眼目はありません。3人はそれぞれ何を見、何を伝えたかったのか。そして彼らがそのように対象を認識し、語らずにはおれない心のありようとはいかなるものか。罪から逃れたいという心情なら理解しやすいのですが、3人が3人とも自分が刺したのだと言います。自分が刺したということにしなければ伝えられない心の真実とは何なのでしょうか。

生徒はもちろん、我々をとりまく世界の現実が『藪の中』の世界と時代や背景を超えてリンクしているのを感じます。事実と真理、世界の切り取り方、自己と他者、語るということ。あらためて、学校教育における文学教育の大切さを思います。