落ちこぼれた学生時代から、世界のステージに登壇するに至るまで

落ちこぼれた学生時代から、世界のステージに登壇するに至るまで

卒業生 62回生

萩野 たいじ

テクノロジー エバンジェリスト・筑波大学非常勤講師・名城大学非常勤講師
一般社団法人コミュニティマーケティング推進協会フェロー
一般社団法人EUCA理事/Co-Founder

原点は杉並区の街角に

私は東京都杉並区で生まれ、公立の小中学校で幼少期を過ごしました。

勉強よりも遊びに夢中だった私は、中学時代にはよく補導されたり、他校の生徒ともめて学校に呼び出されたりと、まさに「落ちこぼれ」と呼ばれても仕方ないような学生でした。今では考えられませんが、当時は教師に殴られることもありました。

そんな私にも、心のどこかに「このままで終わりたくない」という思いがありました。明星学園高校の自由で個性的な校風に惹かれ、「ここなら何か変われるかもしれない」と一念発起、塾に通い一気に成績を上げて推薦入学を勝ち取ったのです。

高校生活、期待と挫折

しかし、勢いだけで手にした学力は長くは続きませんでした。入学後まもなく授業への関心は薄れ、成績は下降の一途。中学から続けていたバスケットボールも、11年生(高校2年生)のときに辞めてしまいます。自分で選んだはずの「自由」が、うまく扱えなかったのです。

そんな中で唯一、続けられていたのが音楽でした。小学生のころから弾いていたギターと歌うことは、どんな時でも心の支えでした。明星祭では友人とバンドを組んで演奏。ドラマーが部活の試合で来られなくなり、自分がドラムを叩きながら歌ったこともありました。今思えば笑い話ですが、当時はそれでも全力でした。

また、別のバンドで八丈島の「流人まつり」に出演する予定があり、大量の機材を船に積んで現地入り。しかし台風直撃でイベントは中止。その代わり、急きょ老人ホームで演奏すると、おじいちゃんおばあちゃんが心から喜んでくれました。この経験は、後の人生にも大きな意味を持ちました。

音楽か、美容師か — そして転機へ

高校卒業後、進学する自信もなく、音楽の道に進むか悩みながらも、もう一つ興味のあった「美容」の道を選びました。美容学校に進学し、卒業後は原宿の美容室に就職。

しかし1年経った頃、バイク事故に遭い、1ヶ月間の入院生活を余儀なくされました。時間だけはたっぷりとあり、自分の人生を見つめ直すきっかけとなりました。そして私は、もう一度音楽の道に挑戦してみようと決意しました。

音楽業界に入り、ある音楽事務所で活動するようになりましたが、次第に気づいたのです。「自分は音楽を“仕事”としてやりたいわけではない」と。現実として、演奏だけで生活はできず、並行して行っていたデジタル音楽制作の仕事を通じてパソコンに触れるようになりました。ここで初めて、「ITで仕事がしたい」と強く思ったのです。

ここから私は、ITの世界にのめり込み、ソフトウェアエンジニアとして新たなキャリアを歩み始めました。

技術とともに生きる道

それからは、ソフトウェアエンジニアとしての道を歩みました。ソフトウェア開発会社で受託開発やパッケージ開発の経験を積み、アプリ開発会社を起業。その後、R&Dや海外プロダクトの日本展開に携わる中で、私は「技術者を支援する立場」の仕事に魅力を感じるようになり、Developer Evangelismの道へ進みます。

ちなみにこの時点では、日系企業でしか働いたことがなく、英語は全く話せませんでした。(英語で道を聞かれたら答えられずに逃げてしまうレベル 笑)

それでも、総合総社である三井物産のシステムグループ会社である三井情報に入れたのは良い転機だったかもしれません。グローバルな仕事に関わる機会が圧倒的に増えたのです。35歳まで全く話せなかった英語を気合をいれて勉強し始めたきっかけでもありました。

英語力の向上は、私のキャリアをも変え始めました。その後、転職しIBMへ。米国本社のDeveloper Advocateチームに所属し、東京チームの立ち上げを担当しました。

OutSystemsではAPACのDeveloper Community Advocateを務め、DatadogではSenior Developer Evangelistとして同じくAPACを担当。現在はHERE TechnologiesにてSolution Architectとして仕事をしながら開発者向けの技術普及活動に取り組んでいます。

世界のカンファレンスへ

2016年、ロンドンで開催されたDevRelConでは、日本人として初めてスピーカーとしてブレイクアウトセッションに登壇。2022年には、カリフォルニア州レッドウッドシティで開催されたCMX Summitでも登壇の機会をいただきました。ITの力で世界とつながるという夢を、少しずつ形にしている感覚があります。

2017年からはMicrosoft MVPを継続受賞。世界中の開発者とともに技術の魅力を伝えることを、自分の使命として日々動いています。

また、これまでに単著でイギリスの出版社のPackt Publishingから「Practical Node-RED Programming」、共著では複数の技術著書も出版することができました。

自分の道は、自分で拓ける

35歳まで英語がまったく話せなかった私が、今では外資系企業で英語を使って仕事をし、世界のカンファレンスで登壇できるようになったのは、まぎれもなく「自分のスタイルでやってきたから」だと思います。

決して順風満帆な道のりではありませんでした。でも、迷いながらも自分の「好き」や「得意」を信じ、道を切り拓いてきた結果、今の自分があります。

明星学園の自由で多様な校風は、そんな私の「ベース」を育ててくれたのだと思います。学校に枠にはまらない価値観があったからこそ、今の働き方もあるのだと。

最後に、在校生へのメッセージ

振り返れば、補導されていたあの頃の自分が、世界の舞台で登壇する未来など想像もしていなかったでしょう。けれど、音楽も、技術も、どんな小さな「好き」も、自分の人生に確かに火を灯してくれました。

明星学園で出会った「自由」は、当時はうまく扱えなかったけれど、今では私の原動力になっています。あの頃の自分に、そして今悩んでいる誰かに、こう伝えたい。「何かを好きでい続けることには、必ず意味がある」と。

これは、ありきたりな言葉かもしれませんが、「自分らしさを大切にして、自分の信じる道を進んでください」。

うまくいかないこともあるかもしれません。回り道をすることもあるかもしれません。でも、自分を信じてあきらめずに進めば、いつか必ず、自分だけの「舞台」にたどり着けるはずです。

がんばってください。応援しています。

落ちこぼれた学生時代から、世界のステージに登壇するに至るまで

PROFILE

萩野 たいじ

(はぎの たいじ)

テクノロジー エバンジェリスト
一般社団法人エンドユーザーコンピューティング協会 Co-Founder、理事
一般社団法人コミュニティマーケティング協会 フェロー
筑波大学 非常勤講師
名城大学 非常勤講師

元美容師で元音楽家。ソフトウェアエンジニアへ転身後、受託開発やパッケージ開発を経て有限会社アキュレートシステムを起業。その後、R&Dや海外プロダクトの日本展開など、技術者を支援しビジネスをスケールする BizDev の仕事や Developer Advocacy の仕事へシフトし、MKI(三井情報)では初のTechnical Evangelistとなる。その経験を活かし IBM では米国本社組織の Developer Advocate Team に所属し Tokyo Team の立ち上げをリード。 OutSystems では Lead Developer Community Advocate としてAPACのエンジニアコミュニティとアドボカシーを担当、 Datadog では Senior Developer Advocate として同じく APAC を担当し、現職に至る。2017年からMicrosoft MVP 。

著書に「はじめてのNode-RED」「Node-RED活用マニュアル」「Practical Node-RED Programming」「開発者マーケティング DevRel Q&A」「英語で広がる開発者のキャリア」など。