ぼくと明星学園

ぼくと明星学園

卒業生(40回生)

田中 玄

建築家
Ken Tanaka Studio, Los Angeles 主宰

 明星学園創立100周年! 素晴らしいです!
 人の縁っていろいろありますが、ここまでの長い人生の中、明星学園で学んだ初等部、中等部の期間はほんの短い時間であるのに、ぼくの心の中で、何故、明星がこんなに大きな比率を占めているのだろう、、、
 明星との想い出をランダムに綴ってみようと思います。

明星学園の先生たち

 ぼくは東京の美術大学を卒業後2年ほどしてから、明星の同級生で当時 UCLAに留学していた松居和氏を頼りにロサンゼルスに来ました。そして今も、ここロサンゼルスに暮らしています。ぼくは主に個人住宅のデザインをする小さなアトリエ系の設計事務所を主宰している建築家です。

 当時ロサンゼルスに来て幸運にも仕事を得られた建築設計事務所でのあるパーティーで、あのイームズチェアで有名なレイ・イームズ夫人から、ぼくが東京から来た日本人だということで尋ねられたのがなんと安野光雅先生のことでした。後に「ふしぎなえ」、「旅の絵本」で大人気を得る絵本作家の安野光雅先生は、明星学園でぼくらの美術の先生でした。安野先生は、1980年代からアメリカでもすでに知る人ぞ知るという存在だったのです!

 ぼくが中等部のころから、TBSラジオで「全国こども電話相談室」の回答者を長きにわたりやっていた無着成恭先生は、直接は教わりませんでしたが、ぼくらの「むちゃくちゃな」個性豊かな国語の先生だったことも思い出されます。
 中等部での担任の先生だった、後に「自由の森学園」を創設された遠藤豊先生の理科の授業では、学習発表会で自分の考え方をどう組み上げて説明するかを奥深く考えさせられました。そしてそれが、今の自分がデザイン計画を組み上げて行く上での基礎となる考え方になっているのだと思います。先生の著「ぼくらは科学者」を思い出しています。
 明星学園には、かつての文部省の基準とは違った独自の教育理念を掲げるユニークな先生方が大勢いらっしゃいました。この先生方による明星学園の自由教育は、「自分の信じる考え方、スタイルを貫いて良いんだよ」ということをぼくらに教えてくれたと信じています。

大正自由教育

 ぼくの明星学園との縁は、当時、1956年に新人画家に贈られる現代画壇の登竜門といわれた「安井賞」の第一回の受賞者となって、美術界の最先端を走る洋画家だった父が、「大正自由教育」を唱う明星学園に目を向けたことには疑う余地もありません。ぼくと、3歳下の妹はこうして明星生となったのでした。ただただ楽しく、思いっきり勝手に過ごした8年間の明星学園での毎日に (妹は12年間通いました)、ぼくの中に享受された、自分が得意なこと、不得意なことを見極めて、自分の良いと思う考え方をブレること無く貫く挫けない強さは、持って生まれた楽天的な性格と相まって、今に至っていることと信じています。

 ぼくは中等部で明星を出て、神奈川県の公立の中学そして高校に入ったのですが、明星で培われた内面は当時の公立学校の基準では型破り、すっかりクラスでも抜けた存在として見られていたように思います。人気者でした!(笑) この公立校での4年間の生活で、世間的な一般常識を身に付けたかとも思っています。しかしながら、明星で培われた自分の想いを貫く自由の精神は失われることなく、ここアメリカでは大いに受け入れられていると思います。明星教育はある意味、当時のアメリカ教育の良いところが取り入れられていたのかも知れませんね。

LA 明星会

 つい先週、「LA明星会」と言って、ロサンゼルスにいる明星生が集まり、年の差も無しになんの気兼ねもなく取り留めもない話をする、毎年恒例の食事会を開催したところです。ひと回り以上年上の先輩から、ひと回り以上年下の後輩までが集い、何とも楽しいひと時を過ごしました。この会も、驚くことに今回で18回目! 武蔵野から遠く離れたこのロサンゼルスという地で、造園家、音楽家、ITエンジニア、ビジネスマン、、、異業種の同窓生が、なんとなく集まるこの明星生の繋がり、すごくないですか!
 ひと回り上の塚田先輩(28回生)と、二人だけになっても続けて行きましょうと意気込んでいます。

ぼくの近況

 実はぼくたち一家は、今年1月7日に起きたロサンゼルスの山火事、Palisades Fire で30年間住み慣れた家を失いました。山火事の多いところですから、過去にも、はるか山の手に燃え上がる炎と白煙が舞い上がる様子は何度となく見て来たのですが、まさかその火がぼくたちの住む住宅地にまで拡がるとは、近隣の住民も誰とて考えてもいませんでした。避難警告が出て次の日には戻ってくるつもりで、丁度年末年始にかけてニューヨーク、ボストンから帰省していた娘と息子と共に、一応パスポートだけは持って以前にぼくが設計したお宅のゲストハウスに避難しました。そして、一晩中の強風と、離れたところとはいえ煙のにおいと灰の舞い散る中で一夜を明かしました。
 ニュースで状況は相当厳しいとのことは察していましたが、じっとしている事もできず、まだ当然立ち入り制限がある中、翌日砂浜を9キロ歩いて自宅の存在の確認に向かいました。まだ至るところから炎が上がる住宅街を歩き、まだ望みを捨てること無く我が家に向かったあの時の記憶が今でもよみがえります。そして、自宅が全焼しているのを目の当たりにした時のこと、、、我が家のみならず、地域一帯が焼け野原と化していたこと、、、あの時の心境は、生涯にわたり心に刻まれ続けるでしょう。
 丁度30年前にぼくがデザインして建てた家、娘と息子がそこで生まれて育った家、そんな家への愛着は娘や息子にとっても格別なものでした。一緒に9キロの道のりを歩いて来て目にしたこの光景は、彼らにとっても強烈な衝撃だったと思います。日本から来て親戚のつても無く、小さなネットワークからコツコツと積み上げてここまで来たぼくたち(ぼくの妻も東京から来た日本人です。)の先行きを心配した子どもたちが、即刻、ぼく自身が自宅の再建というような考えに及ぶよりもまえに、SNSで災害募金支援の策を打ち出しました。

Jan. 8, 2025

 どうした経緯でか、このSNSが明星生の友人たちを通して明星会の目に届き、なんとLA明星会のみならず、半世紀以上も前に教室を共にした日本の同窓生たちからもたくさんの励ましとご支援をいただくことになったのが、本当にほんとうに驚くほどの心の支えとなりました! 一人一人へのご挨拶は未だできていませんが、この場をお借りして先ずは感謝の意を記したいと思います。
 あれから10ヶ月が過ぎました。ここでも明星で培われたものごとを前向きに考える思考が息づいていて、我が家の再建はこうした災害後の再建を考える住宅のぼくたちの回答案として、現在ハーバード大学大学院で建築デザインを専攻する娘との協作で、先月に図面を描き終えました。現在確認申請のプロセス中です。来年初頭の着工を目指して前進しています。来年末には、 Pacific Palisades に再建された我が家に戻り、また明星生の皆様にもその報告ができればと考えています。

2025年11月 田中玄

浅間山の家

Japanese Tea House and Garden, Bel Air, California

House in Arcadia, California

House in Crestwood Hill, California

House in Woodland Hills, California

House in Venice, California

House in Newport Beach, California

Toro Canyon House, Montecito, California

ぼくと明星学園

PROFILE

田中 玄

(たなか けん)

1954年東京生まれ。
明星学園初等部に入学、中等部までを終える。神奈川県立生田高校卒業。
多摩美術大学建築学科卒業。
浜野安宏氏に師事、東急ハンズ渋谷店、六本木アクシスの立ち上げに参加。
A. Quincy Jones Associates Architects, Los Angeles 勤務。
米国永住権取得後、カリフォルニアのレジデントとして UCLA デザイン科修士課程修了。
1994年より Ken Tanaka Studio 主催、現在に至る。
日本での主な仕事は、アウトドアストア Patagonia の店舗デザイン。

https://kentanakastudio.com
email: ken@kentanakastudio.com