
明星学園で見つけたliberty
ー『何かをするための自由』―
1985年の夏、10年次の天文部の天体観測。
竹芝桟橋からフェリーに乗って、十数名の同級生と先輩と行った東京都三宅島。後に起こる平成の大噴火など想像もできない当時の三宅島は、旧噴火跡も残っていましたが、信じられないほどに美しい景色ばかりで、断崖絶壁の先に見える海も、太平洋の外海ならではの凄く深い青だったのが印象的でした。
その海を見渡せる芝生の上に寝転んで、夜に極大日を迎えるペルセウス座流星群の観測をしたのです。他にも島のいろんなところに行ったと思うのですが、海辺で大波に呑まれて死ぬ思いをしたこと以外あまり記憶がありません。
ただこの時の見事な流星雨は忘れられない想い出でした。北西唯一点の方角から放射状にさまざまな流星が次々と流れていきます。実際には、地球軌道上にある小さなチリが大気圏に突入する刹那の輝きなのですが、何か現実を超えたことのように感じられて、いつまでも見続けました。日にちもよく覚えています。8月12日。羽田発の日本航空123便が群馬県の御巣鷹山の尾根に墜落したその日だったのです。
観測を終えて、朝方宿に帰ると、テレビは日航機墜落のニュースで一色でした。みんなでそのニュースを見たことをよく覚えています。大勢の方が想像を絶する悲惨な事故で亡くなられたその夜に、自分が夜空に次々と流れていく美しい流星雨を眺めていたという事実は、上手く説明できませんが、何か凄く印象的に心に残って今にいたります。
私の名前は河津太郎。明星学園高等学校を卒業してもうすぐ40年が経ちます。今現在、私の仕事は撮影監督。映画や配信ドラマ、CFやMVの撮影、照明の両方を統括して指揮し、作品のトーンを作っていくのが撮影監督という仕事。日本では映像を作る場合、撮影と照明が別々のパートとなりますが、撮影監督はその二つを1人の人間が統括するシステムです。海外ではDoP(Director of Photography)、又はスチールフォトグラファーと区別する意味でシネマトグラファー(Cinematographer)とも呼ばれます。


私が明星学園に通っていた頃に出版された一冊の本があります。『Masters of Light』マスターズ・オブ・ライト(光の創造主)というその本は、アメリカの名だたる撮影監督達がどのように数々の伝説の映画を作り上げてきたのかというインタビュー集でした。この本は単なる映像のハウツー本ではなく、映画が好きで撮影や照明が好きで、漠然と映画を作りたいと思っていてもどうやったらいいのか見当もつかなかった私に、「正解はない。自分だけの答えを見つけて、それを実行すれば良いんだよ。」と教えてくれました。
高校生の最後の頃に読んだこの本は、その後重版され続け、今でも簡単に購入することができます。もうとっくに暗記してしまいましたが、今でもことあるごとに初心に戻るために読み返します。決して難しいことは書いていないです。映画に興味のある人はぜひ一度読んでみて下さい。
昔から映画が大好きだった私は、この本と出会い、実際に自分で映画を作ってみよう、映画の世界に入ってみようと思い立つのです。そして、このような職業で生きてゆくことになった理由には、明星学園で過ごした人生で一番多感な3年間と、そこで出会った人々が少なからず影響しているのだろうなと思っているのです。今回は私ごとですが、自分の今の仕事に繋がった明星学園の想い出を思いつくまま書いてみようと思います。
私は明星学園高等学校を外部の公立の中学校から受験しました。いわゆる外部生です。自由をモットーとした面白い教育方針を持った学校があるけど受けてみるか?という父の言葉で、それほどの考えもなしに、せっかく私立を受けさせてもらえるから…くらいの気持ちで受験したのでした。
思えば明星学園のある三鷹市牟礼には、かつて私が0歳から3歳まで入園した牟礼保育所があり、私が明星に通っている時に学校のすぐそばにその保育所が移転してきたことを思えば、縁のある土地でもあったのです。子供の頃から井の頭公園にもよく行っていたし、池を横切るあの橋を渡って高校に通うというのが何か良い感じだなぁ、などと呑気なことを考えていたのです。しかし入学式での衝撃は、それまで公立の学校しか知らなかった私にとっては大変なものでした。
明星学園の小学校、中学校を経て高校へ上がってきた、いわゆる内部生はみんな私服で、男子はなんかかっこいい服着とるし、女子は化粧しとるし、なんというか雰囲気が今まで行っていた学校と全く違う。正直なところこの雰囲気は何なんだろう?噂に聞くインターナショナルスクールというのはこんな所なのか?ってな感じで圧倒されていました。かといって嫌な感じはしなかったし、小学校からの通し年次で10年生という呼び方も、「くそ~、気取ってやがるぜ。」とは思ってみても、「ちょっとカッコいいかも…。」などと思ってしまう情けない自分もいたのでした。
実際、明星学園の教育理念の中で小、中と過ごしてきた内部生達は、外部生の私から見ると憧れてしまうというか、私が通って来た公立の学校では感じられなかった自由を謳歌している姿が妙にかっこよく見えて、彼らから凄く影響を受けたものです。
入学式で校長先生が話されたことがまた印象的でした。
freedom とlibertyの違い。
『自由であること』と『何かをするための自由』は違う。それについて考えてみなさい、といったニュアンスのスピーチだったと記憶していますが、それまで漠然としか自由という言葉、概念について考えたことのなかった私は、どちらかと言えばlibertyの方が良い言葉に思えて、在学中、そして卒業した後も、そんな何かをするための自由を得るために行動して、足掻き、助けられて、助け、悩み、また行動して、映画の撮影監督という職業についてこの歳になった今も、ことあるごとにそのことを考え続けているような気がします。
今思えば、私が内部生に憧れたのは、高校生になる以前に既にそういった『何かをするための自由』を自然に自分のものにしていた彼らが凄く大人びて見えたからなのかもしれません。
さて、子どもの頃から親の影響からか映画が大好きだった私ですが、当時は他にも多くのことに興味がありすぎて一体何をやったらいいのかよくわかっていなかったように思います。なので運動系だろうが、文化系だろうが興味のあるものには顔を出している感じでした。
特に楽しかったのが天文部。SF映画が好きだった流れで宇宙に興味があったので、宇宙に関する様々なことを専門的に学べるのは、自分の想像力が更に広がってなんとも言えない面白さがありました。ただ私は数学の能力が決定的に欠如していて、実際に宇宙に関わる仕事は断念しましたが。冒頭にも書いた通り、天体観測で流星群を見た時から、その魅力に取り憑かれて、オリオン座、双子座、獅子座、ジャコビニ流星群などあらゆる流星群を観測しに行きました。
よく旧校舎の屋上で観測もしましたが、卒業後だいぶ経って学校の前を通った時、あの屋上に天体観測ドームがあるのを見た時はびっくりしました。在学中に仲間と、ここに観測ドームがあったらなぁと話していた正にそのままの感じだったのです。生徒さん達が羨ましかったです。
ホビー部。なんだそりゃ?と思われるかもしれませんが、私が入学した時にはすでに廃部になっていた、なんでもありの趣味クラブ。昔の体育館の隅っこの物置の中に先輩達が残していった数々のガラクタが埃をかぶっていて、そこには当時珍しかった壊れたラジコンヘリ、ボロボロのバイクのパーツ、カメラ、普通に見ればただのガラクタだったでしょうが、メカ好きだった私には宝の山に見えました。部活を復活させてスクラップ同然のパーツを組み合わせて、なんとか機械を動かせるようにしたりする。どこが面白いんだと思われるかもしれませんが、そんなガラクタと格闘するのは本当に面白くて時を忘れました。
映画研究会にはもちろん参加しましたし、そこで知り合った友達と映画を作りました。芸術家肌の面白い仲間がいて、映画や漫画、音楽、小説の話をひたすらに話したものです。彼らもまた自分の考えをしっかりと持っていたので、非常に影響も受けました。
最初こそ意識していた内部生や外部生という考えも、11年に上がる頃にはそんなことも考えなくなるくらい明星学園に染まっていました。単純だったなぁと思いますが、その時はただ懸命に、自分のやりたいことを探すための自由を行使していたのかなと思います。
そして11年次に親友と呼べる友と出会います。彼の名前は斉藤修治といいました。実は私は、10年生の頃からよく彼に間違えられることがありました。正直言ってそんなに似てもいないと思うのですが、「斉藤!」とか「修治!」とか何度か彼の名前で呼び止められるのです。その頃はまだお互いを知らず、一体斉藤ってどんな奴なんだと思っていましたが、進級すると偶然にも同じクラスになりました。確かに背格好や髪型、着ている服が似ている所があったので、間違えられたりしたのでしょうが、性格は全然違いました。彼は誰とでも打ち解けられる裏表のない性格。一方私は、やりたいことが多い割に人見知りの、ころころ態度を変える何考えてるかわからない変な奴だったろうと思います。でもその違いが良かったのか、 彼の性格もあって、お互い名前で呼び合うようになるまであっという間だったように思います。
きっかけは映画でした。明星祭用の映画をクラスで制作することになり、私が修治を主役にお願いしたのです。彼はその時ハンドボール部に入っていて、普通では映画のために休むのは難しかったのですが、役者が見つからなくて困っている私を見かねてか、なんと先生を説得して2週間だけ映画に出てくれることになったのです。こんな漢気のある奴だったのかと感心しました。そんなことが許されたのも、彼の人徳だったと思います。
クラスの仲間達と映画を作るのはこれまた楽しい作業で、先生方にも協力してもらい、夜の学校を舞台にアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』のようなサスペンスムービーを作ったのです。今思えばママゴトみたいな稚拙なものでしたが、当時は真剣でした。その頃はようやく家庭用ビデオが普及し始めて、高価な8ミリフィルムより手軽なビデオカメラも登場し始めた時代です。映画『Back to the Future』で主人公のマーティが使うビデオカメラ。正にあんな感じのカメラに、大きなVHSのカセットビデオテープを突っ込んで撮影していました。私は本来ビデオよりもフィルムの質感の方が好きでしたが、予算にも限りがあり背に腹はかえられませんでした。
今の生徒さんたちはスマートフォンの発達もあり、動画を撮るということがあの頃よりももっと身近なものになっているでしょう。あの頃に高校生ではとても手の届かなかったクオリティを誰もが手に入れられるのが凄く羨ましいです。
フランシス・コッポラという伝説的な映画監督がいます。彼はかつて45年ほど前に、『地獄の黙示録』という映画の撮影中に受けたインタビューでこんなことを言っています。「そう遠くない未来に、ムービーカメラが掌に収まるくらいのサイズになり、誰でも簡単に映像が撮れる時代が来た時、我々が映画を作るノウハウを簡単に超えてゆく、かつての音楽でいうモーツアルトのような映像の天才が現れるはずだ。」と。
正に今の時代のことでしょう。そんな次世代のフィルムメーカー達が明星学園のような、自由な発想を誰もが持てる環境から生まれてくるのが凄く楽しみです。映画には人それぞれの人生を、より面白く感じることができ、時として人生を変えてしまうような感動を得ることができる魅力がいっぱいに詰まっています。今の生徒さん達には沢山の作品を見て、もし少しでも興味があったら、自分だけの映画を自分だけのやり方で作ることにチャレンジしてみて欲しいです。今はそれが簡単にできる時代なのですから。
当時私は撮影を担当しましたが、まさか後にその時と同じ職業につくことになるとは本当に思いもしませんでした。ただ映画をやろうと思うと、知らなくて良いことは何もないのじゃないかと思えて、相変わらず色んなことにチャレンジしていました。
映画が終わった後に、修治から請われてハンドボール部に入ったのも、彼に頼まれたからという部分が非常に大きかったと思います。普通11年次から部活に入るということはあまりしないものですが、彼の頼みだったら躊躇はしませんでした。
彼とは卒業後、お互いに違う道を行きましたが、高校生の親友は一生の友。歳を重ねてもよく2人で飲みながら話したものです。私がプロの世界に入り、なかなか上手くいかず辞めようか悩んでいる時に「お前、昔俺に出演頼んできて映画撮っただろう?あの時は部活休んでくれって無茶言うなぁと思ったけど、お前ならなんかやるかもしれないから引き受けたんだよ。だからまだ辞めないで頑張れよ。」と言ってくれたのも彼でした。そう言うことを照れなくサラッと言えるのが彼のいい所で、その言葉のおかげで、まだこの仕事をやっているのかなと思っているのです。
卒業後に私は美大に入り、映画制作を本格的に始めました。美術大学というところは、どこか明星に似た雰囲気があって、大学のそばを流れる玉川上水まで同じだったのが何か因縁めいて不思議な思いでした。その中で私は共に映画を作る仲間と出会いました。幸運にも、その仲間の中にはもの凄い才能を持った人がいて、私は監督の道ではなく撮影監督に専念することにしました。その後彼とは自主作品から商業映画に舞台を移した今でも、昔と同じように映画を作っています。本当に数えきれない数の作品に関わって来ました。アーティスティックな作品も好きですが、本来映画の本質はエンターテインメント。その中でも撮影、照明はそういった一見すると子ども騙しに見えるような話を底上げして、単なるエンターテインメントを超えるものにすることができると思っています。
かつてなりたいと思っていた職業で食べていけることは、思えば幸運だったなぁと思いますが、やりたいことができているかと言えば、まだまだ達成したとはとても思えず、新しいことにチャレンジし続けて、自分が関わった作品が単なる映画を超えたものになる瞬間に立ち会えれば幸せだと思います。



世の中は昔に比べて本当に信じられないほど変わりましたが、まだひたすらに『何かをするための自由』について考えている自分の心は、明星学園の頃の自分とあまり変わっていないのかなと思います。
ごく稀にですが、業界内で明星学園出身の方に会うこともあります。役者さんに多いですが、少し話すと「あ、この人やっぱり明星生だな」と思うことがあり、そんな時はやはり嬉しくなります。
この文章を書き始めてみて、忘れていた色々なことを思い出しました。正直言って30代〜40代は自分の仕事に必死で、高校時代のことなど思い出すことはなかったように思います。この歳になって初めて、少しだけ過去を振り返る余裕が生まれたように思います。そして改めて振り返れば、やはり明星学園って面白いところだったなぁと改めて思います。なんだかんだ言ってもやっぱり自分の原点に近いのではないかなとつくづくそう思ったのでした。

PROFILE
河津 太郎
(かわづ たろう)
撮影監督
1969年東京生まれ
明星学園高等学校卒業
武蔵野美術大学造形学部映像学科卒業
学生時代より多くの自主映画制作を行い、佐藤信介監督と映像制作レーベル、アングルピクチャーズを立ち上げる。
撮影助手、照明助手を経て丹下紘希監督の立ち上げたイエローブレインのミュージックビデオの制作に数多く参加。
2000年佐藤信介監督『LOVE SONG』で劇映画デビュー。
ライティングも自分で設計する撮影監督スタイルで『修羅雪姫』(佐藤信介監督)『日本沈没』(樋口真嗣監督)『隣人13号』(井上靖雄監督)などを手掛けながら数多くのCF、MVに関わる。
代表的なMVはMr.Children『くるみ』、山下達郎『Forever mine』、桑田佳祐『白い恋人たち』、短編『百色眼鏡』など。
他の劇場作品は『GANTZ』シリーズ、『図書館戦争』シリーズ、『アイアムアヒーロー』、『いぬやしき』、(共に佐藤信介監督)のほか、『ガール』(深川栄洋監督)、『去年の冬、きみと別れ』(瀧本智行監督)など。
『キングダム』(佐藤信介監督)にて第43回日本アカデミー賞最優秀撮影賞受賞
更にNetflix作品『今際の国のアリス』シーズン1、2、やNHK Eテレの『ハルカの光』で配信やドラマ作品も手掛け、『今際の国のアリスシーズン3』が今年9月に全世界配信予定。
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