
その時不完全燃焼でも大丈夫!
明星学園100周年、おめでとうございます。
この度は100周年記念リレーエッセイの一人に選んでいただき、誠に光栄に存じます。数多くの卒業生の中からお声がけいただき、身に余る思いです。ささやかながら、感謝の気持ちを綴らせていただきます。
明星学園中学校の自由な雰囲気のなかで
小学校は地元の公立学校で過ごしました。体育が大好きで遊びでも野球をしたり、ドッジボールをしたり。その一方、性格的にはどちらかというと大人しい方だったと思います。
中学校は母に勧められて明星学園に入学しました。明星学園のことはそれまでは全く知りませんでした。
当時の事を振り返ると、まず思い出すのは、あの自由闊達な空気です。型にはまらず、伸び伸びと自分の考えを表現できる雰囲気の中で、自分らしさと向き合う生徒が多かったことがひじょうに印象的でした。
合唱祭や体育祭などの行事も、決められた手順をただこなすのではなく、生徒らが協力し合い、自ら進んで作り上げていく過程に、今まで感じたことのない楽しさがありました。
学校生活全般にわたって「好きな事をやっていいよ」という空気がありました。しかし“自由”ということを履き違えて失敗もたくさんやらかしました。学校にスケボーで通学して取り上げられたり、校舎の屋根の上を走り回ったり‥‥‥。
ある時、校長室に呼び出される大不祥事を起こしました。思い起こせばバカバカしい事件ですが、授業中に隣の席の友達と爆竹をいじって遊んでいるうちに誤って点火してしまい、校舎中に爆音を響き渡らせたのです。ちょうど高校への内部進学が決まった時でした。ある先生からは思い切り叱られ、高校への進学も保留になるかもしれないという話でした。
そんな時、担任の佐伯昭定先生は「寛次、なんでこんな事をしたのか?」と静かな口調で理由だけ聞いてきました。
なぜ叱らないのか?
もしここで叱られていたら、多感で情緒が安定しない時期の真っただ中にいた私はさらに反発していたかもしれません。恐らく私の様子を見た佐伯先生は、私が充分に反省していることを察して、それ以上は叱らなかったのだろうと今になって思います。
なんて器量の大きな先生なのだろう‥‥‥ いつも優しく見守ってくださる先生でした。
同級生も個性豊かで、芸術に夢中な人、学問を深める人、スポーツに打ち込む人とさまざまでした。私は興味を持つとまず試してみるのですが、どれも中途半端でした。悔いもありますが、それこそが明星らしさだったのかもしれません。「未完成なままの自分を受け入れる」という学びがありました。
高等学校での部活動

「むら田」看板の前で
バスケ部の同級生、柳瀬君と
明星で過ごした6年間、私はバスケット部に所属していました。高校生になると、中学時代の部活とは違い、厳しい練習の日々でした。朝練に始まり昼のシュート練、そして放課後には玉川上水の周りをラン、その後強豪・女子バスケ部との合同練習。その頃の高校にはまだ第一体育館ひとつしかありませんでした。男子バスケ部の体育館での練習時間が短いなか、それでも一生懸命頑張っている先輩たちを見た椎名先生が誘ってくださいました。
私は先輩方の熱い意気込みについていくのが精一杯で、自分なりに頑張ってはいるのだけれど、成果は今一つ、結果もそれなりでした。しかし仲間たちと力を合わせ、一つの事をやりきることが大切なのだとこの時に学びました。そしてこれらの明星学園での経験は、後の人生で転機を迎えた時々に、方向性を判断する力となったのです。
家業・呉服店との出会い
私の家は「むら田」という屋号の呉服店を営んでおります。私の代で七代目となります。
私は大学を出てインテリア(内装)を扱う商社に勤めましたが、病気がちな父の具合が日に日に悪くなり、先に勤めていた兄(長男)と母とが苦労しているのをいつも見ていました。そして自分も何か家業の役に立ちたいと考え、むら田に勤めます。
むら田は江戸時代・文政年間に開業し、袋物業、質業、両替商などを経て、大正二年、四代目より初の結城紬専門店として銀座で開業。五代目の祖父の時代より総合呉服店となりました。入社当時は銀座の本店、渋谷東急本店、東急日本橋店の三店に加え、地方の百貨店の催事が年間10回以上あり、かなりの忙しさでした。
そんな中、世間知らずで、ましてや着物の知識も全くない私が仕事の役に立つはずがない。お客様とお話しすることも緊張してできない。「とにかく早く着物のことや商売を覚えないといけない」と焦るばかりでした。
何も教えない母

店内で母と共に
母は父が他界するまでの約30年間は二人三脚で、その後代表を継ぎ、2024年に91歳で亡くなるまでの計60年間、むら田の暖簾を守り続けました。私も後半の30年間はずっと母の仕事を見てきました。
母が何かを人に指導するということはほぼありませんでした。ただひたすら「大好きな着物を皆様へ広めたい」という一心だったのだろうと思います。そんな環境でしたので「習うより慣れよ」で、私は手探りで自分の仕事を身につけてきました。
この仕事
呉服は単なる衣服ではありません。人生の節目に寄り添い、家族の思い出や社会とのつながりを形に残すものです。例えば、成人式をお迎えするお嬢様のためにどんな振袖をお誂(あつらえ)するか、あるいは叙勲を受けられるお客様にふさわしい一枚をどのように選ぶか。
お客様から「一生の思い出になりました」と言われる瞬間には、この仕事にしかない喜びがあります。
また、むら田の特徴の一つとして、全国各地の産地で伝承されてきた、今では稀少となった染め物や紬、木綿などの織物を扱っていることも挙げられます。実際に産地に足を運び、土地の風土や制作における技法を学びながら、その背景を知った上でお伝えしていく事も重要です。現地の方の弛まない努力があってこそ、伝統技法が活かされた着物が現代に遺されているのだと気づきます。
新しいチャレンジと、明星学園で学んだことの活かし方
私には三人の子どもがおりますが、長男が幼稚園年長の頃、地域のスポーツ少年団に入りました。当時39歳だった私は、サッカーの球拾いのお手伝いをしたばっかりにその日のコーチ会議に参加させられて、なんとそのままコーチとして携わることになってしまったのです。サッカー経験のない私にとってはゼロからの挑戦でした。指導者ライセンスや審判員の資格を取得し、約二十年間、少年団で子どもたちを指導しました。技術を教えるだけでなく、仲間を大切にすること、努力を楽しむことを伝えたかった。それは自分の少年時代、明星学園でやり残したことを、子どもたちと一緒に取り戻していく時間でもあったように思います。
今振り返れば、明星学園で学んだ「多様性を尊重する姿勢」が、私の人生のあらゆる場面に生きています。個性豊かな仲間に囲まれた学園生活が、人の考えや感性を受け止める柔軟さを育んでくれました。
それは呉服店でお客様の声をお聞きするときも、サッカーで子どもたちと向き合うときも同じです。人は皆、その人なりの想いがあります。その想いを受け止めて形にすることをこれからも大切にしていきたいと考えています。
明星生の皆さんも、何か新たに始める時に「自分には無理かな?」と心配になる事も多いと思います。でも、先ずはやってみる事です。やらないと何も始まらないし、やってみないと自分に向いているかどうかもわかりません。また、その時、上手くいかなくても段々に好きになることもあります。
私もまだまだチャレンジが足りません。これからも挑戦し続けていくつもりです。
決して模範的な生徒ではなく、迷いの多い学生時代でしたが、その「不完全さ」を包み込んでくれる明星学園だったからこそ、今の自分があるのだと思います。学園、先生方や周りの皆様には本当に感謝しております。
「呉服」という伝統を未来へつなぐ仕事。子どもたちと共にサッカーに汗を流した日々。そのどちらにも、明星で培った自由と尊重の精神が息づいています。
百年を超えても、この明星学園の精神が変わることなく、後輩たちの背中を押し続けることを願っています。

PROFILE
村田 寛次
(むらた ともつぐ)
1984年3月 明星学園高等部卒業
1988年3月 東京国際大学商学部卒業
1988年4月 インテリア(内装)商社入社
1991年4月 株式会社むら田入社
2024年 10月 村田あき子没後、村田寛次、7代目店主
むら田催事
☆JTCW2025 ― JAPAN TRADITIONAL CRAFTS WEEK 2025
10/17(金)〜10/30(木)11時〜18時
染織工芸むら田内
阿波和紙展
ー併催 藍と草木染ー
益子木綿 日下田藍染工房展
都内のショップ30店舗に伝統的工芸品が集う2週間。
渋谷のむら田では徳島県の阿波和紙を展示。
さまざまな和紙や和紙で作ったステーショナリー、小物などの販売。
☆書籍 「九十一歳、銀座きもの語り」
構成・文 西端真矢
2025/11/12 刊行予定
染織工芸むら田