シリーズ:「明星学園史研究会」③ 照井猪一郎と『新読本』

大草美紀(資料整備委員会)

明星学園史研究会 第3回記録
1999.06.27 (日)
14:00~17:00
於 武蔵野公会堂(吉祥寺) 第二和室
照井猪一郎と『新読本』
第1部 レポート(依田好照)
第2部 問題提起・話し合い
記録まとめ:依田好照

第1部
はじめに
 きょうは、この会も3回目になりまして、新しい方もお見えでいらっしゃいます。先ほど、新しく参加された方から「前の会のことを知らないんだけど、いいのかしら」というお話がありましたが、心配ご無用です。ところどころ必要な箇所は復習しながら話を進めさせていただきます。
 先日、新聞で、今度改訂される小学校と高等学校の教科書に対する文部省の検定の結果が発表されましたので、みなさんもご覧になったと思います。教科書検定にはいろいろと問題がありますが、今回はとくに「日の丸・君が代」が大きくクローズアップされております。
 たとえば、6年生のある教科書は、申請の段階では「君が代」という文字がなかった。そしたら文部省の方では「君が代が国歌であることの明記を」という検定意見を出した。最終的にその教科書には、「日の丸(国旗)と君が代(国歌)」と新たに書き加えられたということです。
 いっぽう、ご存じのように国会では「日の丸・君が代」を国旗・国歌とする法案の審議がはじまります。政府は今回は会期を延長してまで何がなんでも法制化しようということです。みなさんのなかにもさまざまなお考えがあると思います。私が大きな問題だと思うのは、国会での審議の前にすでに教科書検定で「日の丸=国旗」「君が代=国歌」とされていることです。事実上すでに法制化されているのと同じことですね。
「日の丸・君が代」については国民のなかにさまざまな考えがある。みなさんも賛否いろいろでしょう。それは当然です。ですから国民的な規模でもっともっと論議していかなくてはならない問題です。国会でも十分に論議を尽くさねばならない問題です。それを国会で多数をとれるからという目論見で一気に法案をとおしてしまおうというやり方は乱暴すぎる。そのうえ国会でこれから審議しようとする前に、教科書検定によって事実上の法制化をおこなっているんですから、もうめちゃくちゃです。
 きょうのテーマは、明星の初期の教育はどうだったのか、そのなかで照井猪一郎先生が中心になって作成した『新読本』はどのようにしてつくられたのかということを予定していました。この前の会で明星の初期のカリキュラムはどうなっていたのかというご質問がありましたが、時間を考えますと、きょうはそのことに十分ふれる余裕がないんですね。そこで、奈良さんと2人で参考資料をコピーしてきました。これは50周年のときにつくられた『明星の年輪―明星学園50年のあゆみ―』の一部分です。これをのちほどお読みいただくことにして、きょうは初期の実践のなかで、とくに『新読本』がどのようにしてつくられたかということを中心テーマにして、教科書の問題をさぐっていきたいと思います。
 お手もとに明星学園編『新読本』巻4の一部をコピーしてさしあげてあります。もう一つ年表風の資料がありますか? 資料はいつも富谷さんに打っていただいて、ありがとうございます。この「戦前・戦中の教科書関連年表」をメインの資料として話を進めさせていただきます。
 
 
1.「ハナハト」読本と「サクラ」読本
 関連年表のなかに「国定制度」の欄がありますね。その「第4期」に「サイタ」読本(「サクラ」読本)というのがありますね。使われた時期は1933(昭和8)年から40(昭和15)年まで。もうひとつ、その上の「第3期」に「ハナハト」読本というのがありますね。1918(大正7)年から32(昭和7)年まで使われました。
 はじめに、この二つの教科書を比較してみたいと思います。
 
 これが「ハナハト」読本、正確にいえば『尋常小学 国語読本』。著作者は文部省。(のちほど回しますからご覧ください。)
 第1ページは「ハナ」だけです。下にサクラの花のさし絵があります。次が「ハト/マメ/マス」、「ミノ/カサ/カラカサ」、次は「ガラス ガ/ヰマス。/スズメ ガ/ヰマス。」
 「ウシ ガ ヰマス。/ウマ ガ ヰマス。/ウシ ト/ウマ ガ ヰマス。」とつづきます。川連さんが勉強したのはこの教科書ですか?(「ハイ」、笑い)
 もうちょっと見てみましょうか。「ハサミ ガ/アリマス。/モノサシ ガ/アリマス。/ヒノシ モ/アリマス。」ヒノシというのは炭火を入れた、柄のついたアイロンですね。「オミヤ ガ/アリマス。/オテラ ガ/アリマス。/ヤクバ モ アリマス。」
 どうですか? ご自分が入学したばかりの1年生だとして、こういう教科書を勉強して、おもしろいと思いますか?(「昔の方がよかったような気がする」)
 そうですか。たしかにこれは単純で、単語の羅列で、キチットしているようですが、これを使ったお子さんたちは本当はどうだったんでしょうね。
 
 次は「サクラ」読本です。正しくは『小学国語読本 尋常科用』巻一。著作者は同じく文部省。柏倉さんはこちら?(「ハイ。第1回です」) 浜さんもこちら?(「そうです」)お若いですねえ。ほかのみなさんは? ご存じない? もっとお若いですねえ。(笑)
 この教科書のいちばん初めのページは、こうです。見開きいっぱいに、「サイタ/サイタ/サクラ/ガ/サイタ」。カラー版になって、満開のサクラが描かれています。これは昭和8年、私が生まれた年ですから65年前の発行です。
 次のページは、「コイ/コイ/シロ/コイ」、それから「ススメ/ススメ/ヘイタイ/ススメ」、「オヒサマ/アカイ/アサヒ ガ/アカイ」、「ヒノマル ノ ハタ/バンザイ/バンザイ」とつづきます。(「おぼえてる」…)
 おぼえてます? そう、はじめのところは暗記していると思います。ぼくもこれを見る前に、ちゃんとおぼえていました。小学校1年生の勉強はとっても大事ですね。一生を左右するような影響力をもっていますね。
 
 さて、この教科書は、さっきのとくらべていかがでしょう。どっちがいいですか? 浜さんはどうです?(浜「さいしょの方がいい。」)なるほど。それでは、大野先生はどうでしょうか?
 
(大野「子どもたちの生活に密着していくのはどっちなんだろうと思いながら聞いていました。「サイタ サイタ」のほうが少し子どもたちにはいいんじゃないかと思いました」)
 
そうですか。どういう点が子どもたちにうけそうですか?
 
(大野「まずは、学校に来たときにサクラが咲いていますよね。その生活が教科書にかかれているっていうこと。でも、そのあとのは軍国的でどうも‥‥‥」)
 
 そうですか。季節感がありますね。それからこれは反復ですね。いちばんはじめのは散文に直すと「サクラ ガ サイタ」だけですが、これを「サイタ/ サイタ/サクラ/が/サイタ」と5行に分けていて、リズムがありますね。季節感もある。前の「ハナハト」読本の最初は「ハナ」だけですね。現場にいらっしゃる大野先生が言うように、「サイタ サイタ」の方が子どもたちには親近感があって興味を引けそうかなと思います。
 ところで、さっきの「ハナハト」読本ですけど、これでもそのまえの第1期、第2期のとくらべると、ずいぶん改良されたものでした。きょうはサンプルを持ってきませんでしたが、関連年表をちょっとご覧ください。
 第1期の国定教科書は「イエシス」読本とよばれています。最初のページはカタカナの「イ」だけなんです。次は「エ」だけ。次は「シ」、その次は「ス」。これをつづけて「イエシス」読本とよんでいます。
 これは文部省としては、訛(なま)りを矯正するという意図があったようです。以前、明星の小中学校に養護の加藤先生という方がいらして、この方は新潟の生まれです。戸籍上は「ミエ」なんですが、ご自分では「ミイ」なのか「ミエ」なのかわからないと言ってました。ご自分では「ミイ」と発音するんですね。それから「シ」と「ス」ですが、たとえば無着先生、あの人はバスで子どもたちと一緒に行くときなんか、わざと歌ってました。「春になればシガコがとけて」というところを「スガコがとけて」とわざと強調して歌っていました。山形あたりでは「シ」と「ス」の区別がうまくいかないようなんですね。
 東京でも「シンブン」を「ヒンブン」と言うところがありますね。今ではどうか知りませんが、戦時中、ぼくの村に東京から疎開してきた奴がいて、そいつは「新聞」を「ヒンブン」「ヒンブン」というんで。とうとうアダ名が「ヒンブン」になっちゃった。(「アサシシンブン」「アサシヒンブン」という声あり。)
 そういう訛りを直すのがいいのかどうか、これはむずかしい問題です。「方言」はその土地の歴史、文化ですから、なにもそれを「標準語」に統一する必要はないとおもいますけど。
 この教科書は、つづいて「ヒト/ガ/ヰマス」「イヌ/ガ/ヰマス」と、ただそれだけの羅列で、あんまりおもしろくない。
 次の第2期の「ハタタコ」は、だいたい第1期の編集方針を受け継いでいるところが多いようです。第3期の「ハナハト」になると、浜さんが共感されるように、子どもの生活の方に近づいてきたようですね。
 
 
 

2.「ハナハト」「サクラ」と『新読本』

 さて、明星学園編の『新読本』は、第3期の「ハナハト」読本と第4期の「サクラ」読本の中間に位置しています。
 まず『新読本』の巻一を見てみましょう。
 最初の1ページは、「ハナハト」の最初と同じく「ハナ」を使っていますが、「ハナ」だけではなく、こうなっています。
 
 
  ハナ
  ハナ
 ハナ ヤ ハナ
  ハナ
  ハナ
 ハナ ヤ ハナ。
 
 
 と6行になっています。下に花売りのおじさんが天秤棒で花のかごを振り分けにして歩く姿が描かれています。この本のさし絵もみんな照井先生が描いたものです。
 次のページも同じく「ハナ」を使います。
 
  ハナ ハナ
 アカイ ハナ。
  ハナ ハナ
 カアイイ ハナ。
  アカイ
  カアイイ
 ハナ ヤ ハナ。
 
 と7行です。やっぱりリズムがありますね。次に、
 
  カラリ
  カラリ
 カラカラリ。
 ハタ オト
  カラリ
 カラカラリ。
 
 と機織りのはなしがあって、サクラがくるんです。
 
  サイタ
  サクラ
  サラ サラ
  ユキ カ
  モク モク
  クモ カ
  サイタ サイタ
  サクラ。
 
 さし絵を見ると、遠くの方にサクラが満開で、こちらで子どもたちが遊んでいる。
 この教材が文部省の「ハナハト」読本と「サクラ」読本の中間にあるんです。
 もうおわかりのように、文部省の「サイタ/サイタ/サクラ/が/サイタ」は、『新読本』の「サイタ サイタ/サクラ」をとっちゃったわけですね。若干縮めてあるけども、そういう関係にあるわけです。
 やっぱり、この『新読本』が使われて、それがきっと良かったんでしょうね。それで文部省も「これいただいちゃおう」となったんだと思います。今なら著作権問題になりかねません。
 それではこの『新読本』はどのようにしてつくられたのでしょうか。
 みなさんのお手もとに『新読本』巻四のコピーがありますか? そのはじめに、園長だった赤井米吉が書かれた「児童の為に此の読本を選択される父母、教師の方々に。」と題するまえがきがあります。ちょっと読んでみましょう。
 
《此の読本は教師と父母と児童とが共同して作ったものです。読本は単なる読み物とは違はねばなりません。単に読んでその内容を知ったり、感じたりすること以外に読む力を増すと云ふ要件が備って居なければなりせん。児童が好んで読むから善い本だとも云はれず、文字や語句を系統的に排列したものが善い読本だともはれません。児童の現在に立って将来を眺めたものでなければなりません。従って読本は児童の読書カ―(式的に、内容的に)―(趣味的に、研究的に)―の発達的でなければなりません。この要件を十分に満たすには児童の発達相を十分に知らねばなりません。然しこれは容易なことではありません。心理学はまだ極めて概念的なものを教えるのみです。私達大人の記憶はもう朦朧として居ます。又よしや明かに幼時を追憶し得ましてもそれは現代の児童にしっくりすることは出来ません。かうして多くの児童読本はまだ児童の発達相にぴったりして居ない様に思はれてなりません。そこで児童と共同して作ったならば彼等自ら適当なものを選んで私達大人の想のとどかぬ処を補って呉れるだらうと考へたのです。かうして出来たのが此の読本です。
 然しそれも容易な仕事ではありませんでした。先づ最初にこれを企てたのは我学園の照井猪一郎先生でした。児童の読み物として適当しさうなものを全部謄写刷にして児童に与へてその中で児童の好んで読み行くものを視つめて行かれたのです。次に照井げん先生が、その次に霜田静志先生、大高義一先生が先に選ばれた物を修正して又児童の反応状態を視つめて前後3ヶ年、4人の教師と百人余りの次ぎつぎと入り来る児童によって作られたものです。その為に要した謄写刷の紙は数万枚に及びます。材料を探したり、作ったりして、これを謄写原紙に書き、いよいよ謄写してゐる中に夜を徹したことはどれだけあるか知れません。更に児童に与へたものは必ず一応は父母の方々にも目を通して貰いました。そしてその感想、忠言も聞きました。中には文字の使ひ方、文章の構成について迄も細かい注意を与へて下さった方々もあります。又これを纏めるについては数次の職員会を開いて山本徳行先生や私も加はっで色々と推敲もしました。装頓は松岡正雄先生がやって下さいました。かうしてこの読本は我学園に関係のある凡ての教師と父母と児童が一しょになって作ったものです。
 まだ十分とは云はれませんでせう。他の教師、他の父母の方々が他の児童に与へて御覧になったら或は多くの欠点を見出されるかも知れません、それはむしろ私達の期待するところです。私達の過去三年の研究を一先づ纏めて提出して広く多方の士の御批判に訴へたら更に改善の暗示を与へられることだらうと考へまして、かうして世に出して見ることになったのです。児童の教育に興味を持たれる教師、父母の方々がこれを児童にあたへてその反応の状態を凝視して
忌憚なき御批判を与へられる様切に御願致します。私達はそれによっていよいよこれを完全な
ものにしたいと思ひます。
大正十五年四月
明星学園にて  赤井米吉》
 
 
 この日付がどうもわからないんです。『新読本』巻一の刊行は学園の記録では昭和2年となっている。ところが巻一の奥付を見ると、昭和13年6月8日の発行。発行所は東京市麹町区飯田町2丁目の文進社。巻四の奥付を見ると、昭和3年3月5日、牛込区南榎町の集成社。
 赤井先生の記録でも巻一の刊行は昭和2年となっていますから、赤井先生の「まえがき」にあるように何回もガリ版刷りを重ねて、最初に活版刷りにしたのが大正15年4月なのかもしれません。大正15年といえば明星学園が創立されて2年目、この年の終わりに昭和となります。どのくらいの部数が出版されたのか、いつごろまで使われたのか、今のところ不明です。いつか調べたいと思っています。※
 
〈※web版編者・注〉
『新読本』の初版本は、1926(大正15)年5月25日に集成社から発行されました。その巻頭に、上記の赤井米吉先生の前書き「児童の為に此の読本を選択される父母、教師の方々に」が載っています。『新読本』は増刷を重ね、初版発行から5年後の1930(昭和5)年5月には第8刷が集成社から発行されました。その後、『新読本』は発行所を文進社に変更していますが、その際、奥付には文進社から発行した日付だけが記され、集成社から出された記録は引き継がれませんでした。また前書きの文章も短く書き換えられ、赤井先生の名前も消えています。学園に保存されている数冊の『新読本』巻一 は発行所を変えた後の文進社版がほとんどで、集成社版は 巻四 しか見つかっていませんでした。そのため依田先生も、巻四の巻頭に載ったこの前書きの日付と発行日との不一致に長い間悩まれていました。数年前に学園資料を整理する中で、集成社版の 『新読本』巻一 が発見され、ようやくこの疑問が解明されました。
 
 
 
3.『新読本』がつくられた背景
 さて、この『新読本』がつくり出された背景をさぐってみましょう。
 もういちど整理しますと、第3期の「ハナハト」読本の発行は1918(大正7)年。この「ハナハト」は1933(昭和8)年に第4期の「サクラ」読本が発行されるまで15年間使われますが、この両者の間に『新読本』がつくられています。
 「ハナハト」が使われはじめた1918(大正7)年という年は、第一次世界大戦も終わりに近く(その年11月終戦)、「米騒動」が起こった年です。2年前の1916(大正5)年には吉野作造が「民本主義」を提唱している。いわゆる大正デモクラシーの高まる時期ですね。
 「ハナハト」使用の前の年に創設された成城小学校などを拠点として、「大正自由教育」あるいは「新教育」とよばれる新しい教育運動が全国的に展開されようとしている時期でした。
 ひとくちに言って児童中心主義、子どもの自主性や自発性を尊重しようという運動が高まってきたんですね。それは学校教育の面だけではありませんでした。
 関連年表をみると、雑誌『赤い鳥』の創刊が「ハナハト」読本と同じ1918年ですね。この『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉は漱石門下の俊才でしたが、子どもたちのための雑誌を発行して、文壇作家たちに童話や童謡を書かせました。
 童話でいえば、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「杜子春」など。童謡では、北原白秋は創刊号から300篇以上を発表しています。「からたちの花」「この道」「砂山」「ペチカ」「待ちぼうけ」など、いま白秋の作品で歌われているのはほとんど『赤い烏』に発表されたものです。西條八十の「かなりあ」などもそうですね。これらの童謡に弘田龍太郎や山田耕作が曲をつけて、さらに全国にひろまっていきました。
 照井先生がこういう分野についてどういうかかわりをもっていたか今のところよくわかりませんが、『新読本』のリズムのある文章を読むと、『赤い鳥』運動にもかなり影響されていたことが察せられます。ご自身でもこの運動に参加されていたのかもしれません。
 それから、『赤い烏』は既成の作家たちが書いただけではなくて、全国の子どもたちの詩や綴方を募集し、発掘し、発表していきました。白秋が「児童自由詩」と名づけた子どもたちの詩は、旧い形式にとらわれず、新鮮です。「子どもは本来詩人である」という白秋の主張がよくわかります。4、5年前、恩地邦郎先生から北原隆太郎・関口安義編『自由詩のひらいた地平』(『白秋のえらんだ子どもの詩』別巻、久山社、1994年)をいただきましたけど、巻末の資料を見ると収録作品は全国各地に及んでおり、とくに山梨、神奈川、東京、千葉、山形、茨城などの子どもの作品が多いようです。
 白秋は「学校唱歌」を徹底的に批判して、「童謡復興」の運動を担った教育改革者の一人です。白秋と明星学園については次回にとりあげる予定です。また、『赤い鳥』を一つの拠点とした「自由画」の運動においても検討してみたいと思っています。
 
 以上をまとめると、『新読本』がつくり出された背景として、大正自由教育運動や『赤い鳥』運動があるということです。
 そこで、これらの教科書あるいは副読本づくりが、どういう社会状況下でおこなわれたのかという問題について、もう少し立ち入って考えてみようと思います。
 
 一つは、新教育運動のなかに、きびしい相互批判と相互研鑽があったことです。
 お手もとに第2回目の記録がありますか? 7ページをご覧ください。そこに赤井米吉先生の「教科書民間刊行論」が紹介されています。これは成城小学校の『教育問題研究』第36号(大正12年3月)に発表された論文です。このころ赤井は成城小学校の教務主任、庶務主任という立場で、担任もやっていました。その下にもう一つ「教材論を起せ」という論文がありますが、この論文を発表してまもなく照井猪一郎らと成城を去って、その年の5月に明星学園を創立します。
 これらの論文で、赤井は、もはや国定の時代は去った、再び民間刊行の時が来たと主張します。つまり、文部省からあたえられている教科書の範囲内で、「如何に」教えるかという「方法」の改良だけをやっているんじゃダメだ、「何を」教えるのかを研究して、「教育内容」をつくり直していかなくてはならない。新しい「教育内容」をもりこんだ教科書を、だれよりも新しい時代の子どもたちが要求しているんだという主張ですね。
 この主張はひとり赤井米吉だけでなく、学園教師たちの主張であり、その主張を実現すべく苦心さんたんしてつくったのが『新読本』だったのです。
 もう一つ大事なことは、国家権力による弾圧がきびしい時代であったことです。
 第2回記録の27ページをご覧ください。明星学園が誕生した1924年は、新教育運動に対する干渉と弾圧が組織的におこなわれるようになった年です。そこに長野県でおこった「川井訓導事件」の概略が書いてありますが、松本女子師範付属小学校の青年教師・川井清一郎は、修身(道徳)の授業で森鴎外の作品を副読本として使った、つまり国定教科書を使わなかったために休職処分となったのです。また、奈良女高師付属小学校も、教師たちが創り出した新しい実践が官製の教科構造をくずし国定教科書の権威を無視する可能性ありとされて、弾圧されたのです。
 赤井米吉はどうか。その年9月に出版した『ダルトン案と我が国の教育』のなかで岡田文部大臣をきびしく批判して、岡田のような偏狭な考えをもっているから国の政治が進まず教育も振わないんだ、われらは正しいと信じることなら何ものをも顧みず尽くさねばならないと述べています。(ダルトン・プランについては前回の第2部で奈良さんのご質問に答えるかたちで述べたことが、記録の20ページあたりにありますから、あとでお読みください。)
 
 そういう状況のなかで『新読本』づくりが進められたわけです。民間の教科書はほかにもつくられているようですが、私はまだ見ておりません。これからの勉強の課題にしたいと思っています。
 
 
4.国定制度だとどういう問題がおこるか
 話をもう少しひろげます。教科書が国定制度だと、どういう問題がおこるのか。
 忘れないうちに言っておきますけど、いまは検定制度ですが、ほとんど国定と同様です。たしかに教科書会社はいくつもあって、教材はそれぞれちがいますが、どれもみな文部省の学習指導要領にもとづいており、しかも検定が非常にきびしいですから大きくちがうことはない。ほとんど国定と同じです。
 さて、国定教科書は国が定めたものですから、一種類ですね。だから画一的になる。国定教科書の問題の一つはこの画一性です。
 たとえば、「ハナハト」読本のはじめは「ハナ」だけで、下にサクラの花のさし絵がありました。次の「サクラ」読本は「サイタ/サイタ/サクラ/が/サイタ」で、下にサクラの花が満開だったでしょう。これが小学校に入学したばかりの1年生がはじめて出会う教材でした。
 ここにもう問題がある。
 なぜかというと、東京のあたりの子どもなら、先ほど大野先生がおっしゃったようにサクラの花が満開のころ入学して、ワクワクしながら学校に来るでしょう。ところが北海道や東北・北陸はまだ雪です。九州や沖縄ではもうサクランボか葉桜の季節です。サクラの「ハナ」や「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」では生活実感がない。つまりこれらの教科書には地域性の配慮がまったく欠けている。画一性がもたらす弊害ですね。
 照井先生もそのことに苦心されたらしくて、「ハナ/ハナ/ハナ ヤ ハナ。/ハナ/ハナ
/ハナ ヤ ハナ。」と、ただ「ハナ」だけで、サクラではないでしょう? さし絵は花売りのおじさん。いろんな花をかついでいる。でも、ほんとうに花売りでいいんでしょうかねえ。束京では花売りがやって来たでしょうけど、田舎では花売りなんかいましたかねえ。そういうところをたぶん照井先生は苦しんだんだろうと思います。
 例の「サイタ/サクラ」は何ページ目にありますか?(「4ページ目」)4ページ目なら北海道は無理だとしても、北関東から東北地方ならサクラはちらほらかな? 奈良さんの別荘がある蓼科あたりはどうですか?(奈良「5月、連休のころが花見どきです」 川連「仙台の辺は4月の29日がお祭りで、そのとき花がやっと咲きましたね。」) そうですか。照井先生たちはそういうことにも苦心したんだと思います。
 
 もう一つ、国定制度は教科書の内容を画一化しただけでなく、文体までも統一しました。国定になる前には、さまざまな文体上のこころみがあって、教科書の執筆者たちもいろいろと摸策してきたんですが、文部省は1904年から使われる国定国語教科書(第1期)の編集にあたって、用語は東京の中流社会のことばを標準にするときめました。(「エエー」) ハッキリ「用語ハ主トシテ東京ノ中流社会二行ハルルモノ」と書いてあるんですよ。
 ですから、日常生活ではその土地のことばを使っている子どもたちにとっては、教科書のことばはまた別のことばなんですね。束京の子どもたちにとっても、教科書のことばは、ふだん使われていることばではなかったわけでしょう。みんながみんな山手の中流社会の子どもではないんですから。
 
 さらに問題なのは、教育の目標と内容が何であったかということです。赤井先生がいう「何を」の問題です。
 1年で「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」をならった小学生は、6年の終わりにまた「さくら」をならうことになっていました。巻十二の最後の課の「山ざくら花」のはじめに、賀茂真淵の歌があります。
  うらうらと のどけき春の心より にほひ出でたる 山ざくら花
 おぼえてますか?(「おぼえてます」) 優秀な生徒ですねえ、浜さん。(笑) これほど小学校で勉強したことはぬけないんですねえ。小学校の教育がやっぱりいちばん大事なんですねえ。
 つづいて本居宣長、香川景樹など有名な歌人の歌があって、最後に高崎正風のこういう歌でしめくくられます。
  国といふ国をめぐりて日の本の人と生まれし幸は知りにき
 選者は佐々木信網。井上編纂官は、桜は「我が国民精神の象徴」であると言っています。しかも、この巻十二の巻頭の第一課には明治天皇御製と昭憲皇太后御歌が合計10首ならべられています。
 このように、この教科書は「忠君愛国」の精神をうえつけるために、その目標と内容がみごとな一貫性をもっていたわけですね。
 
 
5.国定制度以前の教科書
 ここでちょっと国定になる前の教科書はどうだったかをながめておきましょう。関連年表をご覧ください。
 はじめに自由発行・自由採択の時期がありますね。1872(明治5)年に学制が発布されて学校制度がはじまりました。その直後に文部省はたくさんの書物の名をあげて、そのなかから教師が教科書として適当だと思うものをえらぶようにすすめました。それと同時に、文部省も教科書を編集する仕事にとりかかりました。
 そのころの代表的な教科書は、『小学読本』(1873年初版、翌年改訂版、文部省)で、
 
これは10年間ぐらい各地の学校でひろく使われました。冒頭の文章はこうなっています。
  「凡地球の人種は、五に分れたり、亜細亜人種、欧羅巴人種、馬来人種、亜米利加人種、
  亜弗利加人種、是なり、日本人は、亜細亜人種の中なり」(1874年改訂版)
 いきなりこれでは子どもたちはめんくらったでしょうし、先生のほうも困ったでしょうが、先生のほうはこれを暗誦させるという方法をとりました。
 また、こんな文章もあります。
  「此猫を見よ○寝床の上に居れり〇これは、善き物にあらず、寝床の上に乗れりO汝は猫を追ひ退くるや…」
 これは、アメリカの小学校で使われていた『ウィリレソン・リーダー』の直訳です。
 このように文部省は、教科書づくりを一所懸命やりながら、いっぽうで民間の教科書編纂を奨励しました。この時期は文部省も民間も、つまり官民あげて新しい教育をつくりあげていこうという意気に燃えていた時期ですね。民間では、たとえば古川正雄(福沢塾の塾頭)の『ちゑ の いとぐち』(1871年)。「わたくし は よい ほん を よんで ゐます」という口語体で、ひらがな、わかちがきです。文部省も似たような教科書をつくっています。
 自由な制度のなかでは、さまざまな可能性がめばえていたわけです。この可能性をおしつぶしていくのが国定制度でした。より良いものを、より子どもたちに密着したものを研究し開発していく、そういう大事な仕事がおしつぶされていったんですね。
 そのはじまりが、年表の次にある「使用禁止書籍指定」です。1880年と翌年の2回にわたって計42種の書籍が教科書としての使用を禁止されました。たとえば福沢諭吉の『通俗民権論』や加藤弘之の『国体新論』など人権や国政に関する書物です。年表に書き込んでおきましたが、この時期は自由民権運動が高まる時期です。政府は自由民権運動を弾圧し、それと同時にあの教科書を使ってはいかん、この教科書をつかってはいかんと禁止するわけです。
 文部省はつづいて、1882年に「開申制度」を定めて学校で採択した教科書の届出を義務づけ、翌1883年の「認可制度」では採択してよいかどうか認可をうけることが必要としました。そして1886年の「検定制度」で小学校・中学校・師範学校の教科書は文部大臣の検定を経たものに限るときめたんですね。
 このように、教科書にたいする国家統制が強くなっていく過程は、自由民権運動の高まりと、それに対する国家主義の教育政策の強化とともにはじまっているんです。
 そのなかで、「修身」つまり道徳教育を重視する、小学校の歴史は「国史」のみとすることがきめられます。この1881年の「小学校教則綱領」によって、歴史教育の目的は「尊王愛国ノ志気」を養うことときめられました。つづいて1889年には大日本帝国憲法が発布され、翌1890年には教育勅語が発布されて、急速に国家主義が強まっていくことになります。日露戦争の勝利がこれに輪をかけました。
 しかし、この認可制度や検定制度の時期には、まだ筆者や編者が独創性を発揮する余地が残されていました。けれども国定制度になってからは、教科書は完全に国家権力ににぎられることになるんですね。 
 
 
6.教科書疑獄事件
国定教科書制度への転換を考えるうえで、1902(明治35)年におこった教科書疑獄事件は重要ですから、かけあしでみておきましょう。
 教科書会社と、採択する側の教育関係者とのあいだで、贈収賄がおこなわれているといううわさは、はやくから言われていました。その年の半ばから新聞各紙がこの問題を連日報道するにいたり、世間の注目をあびました。
 結局、三十数府県におよび、贈賄容疑として有力な教育出版社が数社、収賄容疑として157名が検挙されました。157名のなかには県知事、県会議長、県会議員、視学官。小学校長、中学校長、師範学校教員などがおりました。
 これにたいして政府、文部省はどうしたかといいますと、1ヵ月もたたない翌1903年1月9日の閣議に小学校令改正案を提出しました。これは教科書の検定制を国定制にあらためることをねらったものです。年末と年始の休みをあいだにはさんでいますから、よほど早くから準備をしていないと閣議に提出できないはずです。だからある人は疑獄事件は仕組まれたものだと言っていますが、おそらくそうだと思います。
 こうしてその年の4月、小学校の教科書は原則として文部省が著作権をもつものに限るというように小学校令をあらためました。
 
 
7.なぜ国定化をいそいだか
 ところで、なぜこれほどまでに国定化をいそいだのでしょうか。
 もういちど年表を見てください。1890(明治23)年に教育勅語が発布されています。その後、議会で教科書を国定制度にすべしという建議があいついでいます。
1894年に衆議院で「教育勅語が発布されているのに、文部省はなぜこの精神にもとる教科書の採用を許したか」という論議がおこなわれています。96年には貴族院で「修身科の教科書は国費で編纂せよ」という意見が、99年に衆議院で同じ趣旨の建議が、さらに1901年には「修身だけでなく、すべての教科書を国定にすべし」という建議がおこなわれています、
 その前の1900年の4月、疑獄事件がおこる2年前ですが、文部省は修身教科書調査委員会を設けて、ひそかに国定修身教科書の編集に着手しています。4年かけて完成の予定でしたが、意外にむずかしくて、さらに完成予定をのばそうとしていました。そこにおこったのが、教科書疑獄事件だったのです。
 文部省にとっては絶好のチャンスだったでしょう。事件がおこってわずか1ヵ月後の1月21日、菊池文部大臣は委員会に出席して、「来年4月から国定教科書を使うことにしたから、大いそぎで仕事を進めてもらいたい」と要請しました。作業は急ピッチで進められました。
 この段階ではまだ、国定制度にきりかえるとは公表してないんです。けれども文部大臣は、すでに国定制度を決定したものとして、仕事をいそがせたことになります。この教科書が『尋常小学修身書』と『高等小学修身書』です。
 
 こうみてくると、国定化の直接のきっかけは教科書疑獄事件ですが、本当の意図は、前から前から国定にしようとしていた修身の教科書を、この際いっきに国定化してしまおう、ついで他の教科の教科書も国定にしてしまおうというところにあった、と思います。
 今回、「日の丸・君が代」法案が議会にのせられます。ご存じのとおり、そのきっかけになったのはあの広島の高等学校の校長先生が自殺したという痛ましい出来事です。これはきっかけですね。あるいは、機を見て敏な人たちに、絶好のチャンスとばかり利用されたというべきかもしれません。
 冒頭で述べましたように、私が今も強くこだわっているのは、この法案が議会に提出される前に、すでに検定教科書で日の丸は国旗、君が代は国歌だという既成事実をつくってしまっていることです。これはあくまでも私の私見です。
 
 
おわりに
 きょうは『新読本』を中心に国語の教科書をとりあげました。しかしそれもほとんど1年生のはじめのところだけしかふれることができませんでした。内藤先生がいらっしゃれば、もっと専門的なことを補足してもらえましたのに、残念です。
 私が実際に使った修身と国史の教科書も持ってきましたので、実物をパラパラとご覧ください。ちなみに私は昭和でいえば15年に小学校に入学しました。翌年、小学校は「国民学校」となりました。20年8月、敗戦のときは6年生でした。
 もうひとつ、オマケに私の通信簿も持ってきました。本邦初公開です。成績のほうはどうでもいいですから、通信簿に印刷されている「教育方針」「校訓」や「国民学校の目的」にご注目ください。当時の教育の一端がわかると思います。
 またまた1時間半をオーバ一してしまいました。申しわけありません。ひとまずここで終わりにいたします。
 

第2部(要約)
 
〈高田〉(卒業生)教科書を拝見しましたが、これはみんなカタカナですよね。ひらがなはどういうふうに教えたんですか?
〈依田〉こちらに元生徒がいらっしゃいますから、柏倉さん、教えてあげてください。
〈柏倉〉(元父母)2年生になってから、ひらがなになったんです。1年生はカタカナでした。
〈高田〉漢字も1年生で習いますね、いくつか。その送りがなもカタカナですね。
〈柏倉〉そうそう。
〈奈良〉(元父母)第二次世界大戦後、ひらがなを先に教えて、カタカナをあとで教えるようになったんです。
〈依田〉ひらがな・カタカナの順は国定になる前はいろいろです。最初はひらがなからはじまるのもあるんです。さっきちょっとふれた慶応の福沢塾の古川正雄がつくった教科書はひらがなです。そして、わかちがきです。「わかちがき」というのは語と語の間をあけて書く方法です。「わたくし は ほん を」というふうに。文部省もそれをまねて、ひらがなと漢字まじりの教科書をつくっています。
〈浜〉(元父母)カタカナは漢字の一部分で、子どもはカッチリ、カッチリ書くのが書きやすいからカタカナを先に教えるって言われたような記憶があるんですけど。ひらがなは漢字の行体だから、あとから教えるというふうに。
〈依田〉そうですか。きょうは心強いなあ、優秀な元生徒がいっぱいいますから。もうひとり優秀な元生徒の内藤ガッパ先生がいると、そのへんのところがハッキリするんだけど、きょうはなんで欠席したんだろう。
〈川連〉(元父母)戦後の検定制度についてですけど、「検定、検定」とやかましく言われるようになったのは、家永裁判がはじまったころからですね。もう30年ものたたかいですよね。私の子どもは、上の子が明星で大野先生といっしょで、大野先生は明星ですが、うちの子ははじめ公立にいれたんです。生まれたのは戦後、教科書を墨でぬって使っていた時期の直後で、物はなかったけどまだいい時代だったと記憶しています。
昭和22年生まれの子ですけれど、6年生になるかならないかのころ教育二法というのが国会に出されて問題になりました。そのころはまだしばらくよかったような気がするんですが、そのあとからものすごくきびしくなったんですね。勤評だとか学力テストだとか先生をしばるものがつぎつぎに出てきたんです。
文部省からいろんなことが出てくるので、私たち父母も先生たちといっしょに勉強しました。私たちは勤評に反対したんですよ。市役所にも行きましたし、都庁にも行きましたし、文部省にも行きましだけど、先生たちはどんどん追いつめられていきました。以前には校長室なんか先生も父母も自由に出入りができたんですが、校長室に入るのに先生が最敬礼するようなことまでおこってきたんです。
5、6年の問にそういう現実を目で見て、こんなにおそろしいものかと思いました。子どもが中学に行くのに、これではダメだ、こんな公立には入れておけない、どこか私立に入れようと思って、いろんな学校を調べてみたところ、明星がいちばんすばらしいので中学を受験させたんです。
第一次のベビーブームの子どもたちで、どこへ行ってもあふれてあふれて、きびしい選択をさせられるわけですね。たいへんな時代で、明星もいろいろとたいへんで、それで助成金運動をやったり、子どもはまだ中学生だったけど高校増設運動をやったり、子どもたちのために先手先手を打っていかないとこれはたいへんだと、みんなで手をつないでやりましたよ。私立に入ったらご父兄はのんびりと穏やかで、公立の友だちから、「あなたは私立にいれたけど、のんびりしていられないのよ。日本全国の子どもたちがすごく苦しむんだから、運動から降りたらだめよ」と言われました。明星のご父兄はのんびりしているけど、また別な面できびしかったんです。お金がとってもたいへんな時代でしたから、「これだけ高い月謝を払っているんですから、これに見合う教育をしてください」と学校にキッチリ要求する運動をしました。だから私はPTAをお手伝いしてよかったと思います。「60年安保」のときも、主人に内緒で反対運動に参加しました。主人は企業の人でしたからからね。いま考えて、いろんな運動に入ったおかげでいい勉強をしたと思っています。
さっきの「日の丸・君が代」の問題も、私たち戦争をのりこえてきた人間には今が大事なときだとほんとうに思います。戦争がはじまる前、全国を統制して、国民ががんじがらめになって、いうことをきかなければならない状況をつくっておいて、戦争に突入していきましたからね。またそういう状況になってきたんじゃないかと、ひしひしと感じられます。さっきの先生のお話を聞いて、やっぱりよかった、私だけが考えているんじゃなかったと思いました。
〈奈良〉(元父母) きょうのひとつのテーマは国定教科書の問題、つまり国民が一種類の教科書しか持たないという問題ですが、国定教科書しかなかったということは、ある点では、内容がいいか悪いかという話を別にすれば、教育的な階段をだれにもわかるように示すためにはいい効果があることだと思うんですね。
ところが日本の場合には、富国強兵、絶対的な天皇制という目的のために教育が考えられて、そのベースが国定教科書だった。もしも教科書自体が非常にすぐれたものであれば、教育の階段を明確に示す点では、ほんとうは有益なことになりうるんですね。不幸にして日本の場合はそうではなかった。
それから、やや雑談風にいうと、日の丸と君が代はちがうと思いますが、日の丸とか君が代がやはり富国強兵の中心に据えられた、国民的表現の中心に据えられたというところが問題なのであって、そのために非常な不幸な悲惨な目にあった人が数多くあるということもみんなよく知っているから、われわれにしても複雑な心境をもっていて、あれをみんなの表現にするのはごめんだという気持ちをぬぐえないでいるわけです。
ところがドイツでは、ユダヤ人にたいしてああいう歴史的な大きな犯罪を犯してしまって、今はどうなっているかというと、もちろんナチスの旗は今はありません。ワイマール共和国時代の旗に戻っています。歌はどうかというと、同じ歌をうたっているんです。ただし、あの有名な「世界に冠たるドイツ」という部分はうたわないんですね。3番だけをうたっている。
もうひとつは、戦後、直後に、国家が国家としてハッキリ決着をつけたわけですね。たいへんなまちがいを犯しましたとユダヤ人にもきちんと謝罪をして、補償できるものに関しては補償するということで、その謝罪が認められているんです。だから国歌として3番だけをうたうことに関して、世界中だれからも異を唱えられない。そういう配慮が日本には、あるいは日本国の政府にはないんですね。
〈川連〉ないんです。うやむやでしょう。だから南京の虐殺はなかったなんて今になって言って、それに共鳴する人が出てきているわけでしょう。きちんとやるべきことをやってなかったから、折り目けじめをつけてないから、間題がおこるんだろうと思います。今になって、いままで決めてなかったから日の丸を国旗にする、君が代を国歌にするという。
〈奈良〉もしも明治政府があれを法律で決めていたら、戦後に国旗とも国歌とも認められなかったと思います。あれが生き残ったのは、そこが曖昧で法律的にきちんとされていなかったからです。
〈柏倉〉法律で決めていたわけではないですね。世界各国でも法律で決めているのはごく少ないですね。新聞サークルで4月にやったんですが、きょうはこういう話になると思わなかったので資料を持ってきませんでした。
〈川連〉戦後、教科書検定がゆるんだ時期は、先生たちはこの教科書がいい、これを使いたいと、地域・地域にふさわしい教科書を選定したんですね。ところが文部省がだんだんとなかみに立ち入ってきて、クレームがついて、それにたいして家永さんが訴訟をおこして、30年もの長いたたかいをやっているわけでしょう。今度は高嶋先生という方が訴訟をして、教科書裁判はずっと引きつがれていますね。
だから、干渉や統制がかかってくるときが恐いと思う。ですから何も知らない孫たちにも、「よく勉強してごらん」と言うんです。
〈杉山〉(元父母)『新読本』を自らの手でつくって、成果をあげたという話を聞いたんですけど、その後はどうなったか。うちの子どもも明星に入って、明星ではいわゆる教科書を使わないで独自のものをつくってやっていたようですが。そういう伝統はどうつながれて、現在はどうなっているのか。父母のなかには、明星でやっている授業はほかに比べるとおくれていて、受験に間に合うかなという人もいるわけです。明星の教育方針がよいと思って入れても、なかみを知らない父母もいるようなので、そのへんがどうなっているのかお話し願えればと思います。
〈依田〉たいへん重要な問題です。杉山さんのご質問に答える前に、いままでのところの交通整理をちょっとしておきたいと思います。
ひとつは、検定済教科書とはどういうものか、また戦後の検定制度はどうかわってきたかということです。時間がないので本を紹介しておきます。おすすめの1冊は、山住正己さんの『教科書』(岩波新書)です。山住さんは若いころ明星の研究会によく来てくださいました。いまは都立大学の総長ですが、おととしも小・中・高合同の研究会で講演をしてくださいました。この本は、日本の教科書と教科書制度がどのようにかわってきたかを、わかりやすく書いています。
もう1冊は徳武敏夫さんの本。徳武さんは元父母でPTA会長をやってくださいました。この方は長いこと教科書会社に勤めて、よりよい教科書をつくるための努力をつづけてきた人で、家永先生の教科書検定訴訟を支援する運動を推進してきました。何冊も書いておられますが、最近お書きになった『教科書の戦後史』(新日本出版社)がわかりやすいと思います。
さて、検定済教科書についでです。1947(昭和22)年の3月に、日本国憲法の精神にのっとり、それを実現するために教育基本法が定められました。短いものですが、じつにみごとなものです。同じ月にさらに学校教育法と「学習指導要領・一般編(試案)」が発表されました。学習指導要領は教育のありかたを具体的に示したもので、その後何回も改訂されますが、最初のものにはたいへん重要なことが示されてあります。つまり、これまでは上の方から決めてあたえられたことを、そのとおりに実行するという画一的な傾向があったが、今度は下の方からみんなの力でいろいろとつくりあげていくようになってきたのだと、教育の現場からつみあげていくことがこれからの教育でもっともだいせつなこととして示されていたんですね。
こういう教育を実現していくのには、教科書の国定制度はあらためなければなりませんでした。けれども、国定制度はなくなりましたが、実際には検定制度の実施が決められました。自由発行・自由採択制度は実現しなかったのです。教科書の発行や採択を自由にすることは時期尚早という考えが支配的だったからでしょう。
それでも40年もつづいた国定制度から解放されたことは大きな前進でした。しかも検定制度をどうしていくかという文部省の委員会に、日教組の代表も正式に参加していたなんて、いまではとうてい考えられないことでした。けれども教科書の改革には、つぎつぎにいろんな問題がおこってきました。詳しいことは省きます。
1955(昭和30)年の3月、日本民主党(これはその年11月に自由党と合同して自由民主党となります)が、教科書を民間で編集してこれを国が管理するという案をを検討します。このあたりからおかしくなってくる。
〈柏倉〉8月に民主党が『うれうべき教科書の問題』を出していますね。
〈依田〉そうそう、8月に日本民主党教科書問題特別委員会が『うれうべき教科書の問題』の第1集を発行して、教科書が偏向していると問題化するんです。偏向教科書のタイプとして、教員組合の政治活動を推進するタイプ、急進的な労働運動を推進するタイプ、ソ連や中共を賛美して日本をこきおろすタイプ。共産主義思想を子どもにうえつけようとするタイプの四つをあげ、じつにうれうべきだというんです。これにたいして日教組、日本学術会議、各学会などは、学問・思想の自由を守り教育の統制に反対する立場から抗議しました。
翌56年の3月、教科書法案が国会に出されます。検定を強化し、採択権を教育委員会にうつすという内容です。もうひとつ、新教育委員会法、つまり公選制を廃止するという法案が国会に上されます。この二つがさっき川連さんの話にありました教育二法です。これにたいして、たとえば10の大学の学長が教育の国家統制をうながすものととして声明をだす。日教組は当然反対する。そしてその年6月、新教育委員会法だけが警官の導入によって参議院を通過成立しました。
教科書法案は審議未了となりましたが、今度は文部省に教科書調査官をおいて検定をきびしくしていく。とくに社会科教科書の評定がきびしく、翌年の検定では3分の1が不合格になりました。これらの経過をへて、1965年に、高校日本史教科書の著者のひとり家永三郎先生が、教科書検定違憲を理由に損害賠償をもとめる民事訴訟を提訴したのです。
 
たいへん長くなりましたが、ここで杉山さんのご質問の件にもどります。
明星では、『新読本』のあとも教科書、副教材などの自主的な作成・使用がつづけられてきました。戦後、照井猪一郎先生や原田満寿郎先生たちが、成城、成蹊など私立学校の仲間たちと新しい検定教科書をつくったこともありますが、自主教材を工夫して授業に役立てるのがとくに小・中学校の伝統です。
いま使っている教科書では、小学校では『にっぽんご』シリーズ。これは明星学園国語部編で、内藤先生たちがまだ若いころ多くのすぐれた研究者の協力をえてつくったものです。『にっぽんご 1』は「もじのほん」で、これはいろんな学校で副読本として使われています。某有名私立小学校に参観にいったとき、そこでも使っていました。本の表紙に「明星学園国語部編」とあるから、有名私立小学校としてはいささか複雑な心境だろうと思いましたが、「こういうすぐれた本はとてもうちではつくれないから」と校長先生かおっしゃってました。それから、高校ではオーストラリアの学校と交換留学をやってるでしょう。いつかオーストラリアの子どもと先生が小・中学校も見たいというので案内したとき、この本を見せたんです。そしたら、これは日本語を勉強するのにとっても便利だというんですね。それならプレゼントしましょう。とってもよろこんでいました。
それから『わかる算数』のシリーズ。これは明星の野沢先生や松井先生がほかの学校の先生たちといっしょにつくった教科書です。いまはところどころ修正して、プリントなどで補って使っています。
中学校では、数学の『そそくさシリーズ』、英語の単元別のテキスト、国語の文学教材、理科の分野別のテキストなどがあります。理科には小・中学校共用の『自然科学』のシリーズもありますね。社会科では小学校も中学校もプリントの資料をさかんに使っています。ほかにもいろいろとあります。
こういう教科書や教材を明星ではなぜ使うのか、そのわけを先生たちは父母会や授業参観などでもっともっとていねいに説明し解説しなくてはいけない。文部省検定済教科書どおりにやると、子どもたちはここでつまづく、ここでわからなくなってしまう。だから明星ではこういう工夫をしているんだ。そういう解説が不十分だから、父母のなかに学力がつかないんじゃないかとか、明星では勉強しないところがたくさんあるとか、そういう不安がなくならないんです。
いまの学校は一般的に依然としてつめこみ教育でしょう? あれもこれもいっぱい頭のなかにつめこむ。算数・数学でも、公式をおぼえて計算を速くやって答えを早く出すようなことばっかりさせている。そういう公式がなぜなりたつのかなんてことはどうでもいいんです。なぜだろう、どうしてだろうと自分の頭で考える訓練がおろそかにされている。暗記力が強くて仕事が速い子が「できる」子だとされている。そんなことばかりやっているから東大の学生の学力もさがっちゃうんです。東大の学生の学力を上げていくためには、明星のような教材を使って、なぜだろう、どうしてだろうと自分の頭で考えていく勉強の方法が必要です。けれども、こういう勉強をやっていると本当の学力がつくけど、東大に合格しないという矛盾が生じるわけですね。
ところで、いま使っているプリント類をなぜ本にしないのか。お母さんたちも本にすれば少しはありがたがってくれるかもしれません。でも、本にしないわけは二つある。
ひとつは、お金がかかることです。ちゃんと印刷・製本して出版すると、たいへんなお金がかかります。『にっぽんご』などの場合は、むぎ書房という出版社が出していますが、これを学園でやるとなると簡単にはいきません。照井先生たちが『新読本』を出するときも、たいへんだったろうと思います。
もうひとつは、いまも明星では教材研究がさかんです。極端にいえば、きのう使った教材はもう古くなっているんです。きのうどころか、さっき1組で使った教材はよかれと思って使ったんですが、実践してみると不備があった。つぎの2組の授業では変えてやらなくてはならない。そういうことがしょっちゅうあるんです。照井先生たちがガリ版を切って印刷して、子どもたちに使わせて。これではダメだとまたつくり直し、またやって、またつくり直してという作業と同じです。教育研究というのはきりのない仕事です。明星の教師たちは検定済の教科書の欠点を克服して、子どもたちのためによりよいものをつくろうと苦心さんたんしている。そこのところを父母のみなさんによく理解していただきたい。検定済教科書がよく工夫されていて、奈良さんがさきほど言われたような意味で本当にスタンダードなものであれば、なにもすき好んで教科書やプリントをつくる必要はないわけですね。
ここに小学校の先生がいますから、具体的な話をしてもらったほうがよいと思いますが、大野先生、明星では検定済教科書も子どもたちに渡していますよね。検定済教科書の使えるところは使っていますよね。また教科書に載っている作品でも、ほかにもっといい本があればそちらを使っていますね。たとえば『ス一ホの白い馬』についてちょっと話してくれませんか。
〈大野〉『ス一ホの白い馬』はモンゴルの民話です。検定済教科書のなかでは、ひとことでいえば、せっかく、絵本でえがかれている世界を、つまみ食いのように絵を見せて、さし絵  
にしてしまっているんですね。さし絵ではいけないとは言いませんけど、大塚勇三再話・赤羽末吉絵のこの作品は文章と絵と両方でひとつの世界をえがきだしているんです。ところが検定済教科書は、文章だけ読めればいいということで、絵をさし絵としてしか使っていないので、ひとつの世界をつくりあげていないと私たちは判断しています。
もうひとつは、この作品は、赤羽末吉さんというりっぱな絵かきさんがモンゴルに行って、かなりの時間をかけてかいてきたモンゴルという世界を、横ながの絵本というかたちで表現したもので、広大なモンゴルの情景がよくわかります。ところが検定済教科書は、たてがきで文章を書いているために、絵を替えなければならなくなったんですね。赤羽末吉さんが替えているんですが、そうすると、たとえば広い草原でおこなわれるダイナミックな競馬の場面なんかは小さくなってしまって、子どもたちに競馬の雰囲気なんかはつたわらないんです。モンゴルの生活もつたわらない。日本の子どもたちにとって、モンゴルというのは知らない国ですから、絵本にたすけられながら絵からその世界をまなびとっていくことができるんですけど、検定済のものはそれができていない。
これでは子どもたちにこの世界にふれてもらうことができない、やはり絵本でやろうと、検定済教科書の作品ではなく絵本を使うことにしました。
〈柏倉〉私の息子たちはもう42歳と40歳になりますが、私は息子たちとちがってさっきの「サイタ サイタ」の教科書で軍国主義、軍国主義で育てられた世代です。息子たちを明星に入れて(主人も明星を出ていましたから)、そのころは授業参観がたくさんありましたので、子どもたちといっしょに勉強ができたし、そのほかに研究会とは別に「父母の一日教室」というのがあって、先生たちが親に授業をしてくださいましたから、父母も勉強ができました。そうすると、私たちが習ったのとまるっきりちがうんですね。ああ、こういうことだったのかと、よくわかりました。それから、各教科の先生たちがプリントをしょっちゅう出してくださったのと、クラス通信を出してくださったので、子どもたちの様子がよくわかりましたし、親も勉強ができました。ですから、教科書のあるなしは何とも思いませんでしたね。
そういう意味では、明星では子どもも親も育てられたと思っています。それがいまだに明星からはなれられない原因のひとつになっているんでしょうね。
〈奈良〉具体的なお話になると、一人ひとりのいろんな思いや問題意識が鮮明に出てきて、もっとお話を伺いたいんですが、終わりの時刻がせまってきました。そこで、これだけはどうしてもという方はどうぞ。
その前に事務的なことを申しあげます。7月と8月はお休みにさせていただいて、9月に次回をおこないたいと思います。会場は柏倉さんや霜田さんにお願いして、できればこの近くのコミュニティ-センターを借りられるようにしたいと思います。そのほうが手狭でなく、ゆったりとできますから。
先生、どうぞ。
〈依田〉いやいや、阿部さん、何かあるんじゃないですか。
〈阿部〉(父母)きょうは国語のことが多かったんですけど、国語だけでなくほかの教科はどうだったんでしょうか。それから修身の教科書を見てびっくりしたんですけど、でもあのなかの話と似ているようなのを小学校で、修身としてではなく習ったような気がするんですが。
〈依田〉きょう、私が使った修身の教科書の実物を持ってきたのは、国語だけでなくほかの教科にもひろげていきたかったからです。通信簿なんか持ってきたのも、いかに成績優秀であったかを自慢するんじゃなくて、そこにどんな教育方針や目標が掲げられていたか、どんな科目があったか、参考にしたかったからです。もう時間がありませんから、いつかまた別のテーマでとりあげましょうか。
〈富谷〉(元父母)このあたりの年代は、何となくふれるようなふれないような、身近なようで遠いような、興味・関心のある年代なんですね。もう少し詳しく知りたいですね。
〈依田〉それでは次回もつづけますか。次回は「北原白秋と明星学園」を予定していましたけど、これはあとでもいいですね。
〈小泉〉(父母)社会科の教科書の「慰安婦」の問題について、市議会とかで事実無根の記述をするのはけしからんということが採択されていると、朝日新聞で読んだことがあるんですが、事実に反するというのがどこから出てくるのかよくわからない。そういうことが市議会あたりで採択されてあがってくるのは、とってもこわいと思います。
〈阿部〉毎日新聞にも出ていた。
〈依田〉そういうことで、みなさんでよろしければ、次回もつづけましょうか。国語だけでなく、ほかの教科書もとりあげるということで。
〈一同 賛成〉
〈奈良〉それでは、きょうはこれで終わりにします。次回の日程と場所はのちほどお知らせします。ありがとうございました。
 
〈文責 依田〉

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