シリーズ:「明星学園史研究会」④ 教科書はどう変わってきたか

大草美紀(資料整備委員会)

明星学園史研究会 第4回記録
1999年9月26日 (日)
13:00~17:00
於 吉祥寺南町コミュニティセンター 2F 第2会議室

教科書はどう変わってきたか
第1部 レポート(依田好照)
第2部 問題提起・話し合い


第1部

はじめに
 例年になく暑い夏で、また残暑がいつまでもつづいておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 この会もきょうで4回目になりますが、これまで私の話が長すぎて、第2部の時間が充分にとれず反省しています。それで、きょうは、私の話は1時間で終わらせて、後半で皆様でたっぷりとお話ししていただきたいと思います。この会は20代から60代、70代の方までと幅の広い年代層で構成されていますから、まさに日本近現代史の証人がそろっているわけです。ご自分の体験や、考えていらっしゃることなどを、遠慮なくお話しいただいて、お互いの知見を深めていきたいと思います。
 前回は「照井猪一郎と『新読本』」というテーマで、おもに小学校の国語の教科書をとりあげました。明治初年の自由発行・自由採択の時期から、使用禁止書籍の指定、届出の義務づけ、そして認定制度から検定制度へ、さらに国定制度へと変わってきました。国定制度は本来の意味では、前回奈良さんも言われたように、スタンダードな教科書を子どもたちが共通に所有して、それを段階的に積み上げていくことができるという有効性をもっているんですが、日本の場合はその目的が「忠君愛国」という国家主義の精神を育成することにおかれ、たいへんかたよったものになってしまったわけです。そういうなかで、明星学園では照井猪一郎をはじめ初期の先生たちは、子どもたちのためによりよい教科書をつくろうと、悪戦苦闘して『新読本』のシリーズをつくられたのであります。
 その後も明星では、国語だけでなく、いろいろな教科で教科書やプリント類を自主的に作成して、授業に役立てています。また、文部省の検定済教科書の欠点を克服するために、検定済教科書に載っている同じ作品でも、もっと良い本を使うという工夫もしています。前回、その一例として、大野先生から『スーホの白い馬』という作品の扱いについて話していただきました。ほかにもいろいろと工夫をこらしています。
 前回はおもに国語の教科書の問題をとりあげたわけですが、最後のほうで、国語だけではなく他の教科はどうだったのか、ということが話題になりました。そこで今回は引きつづきほかの分野も探ってみようということになったんですが、私は算数や理科が苦手で、その他の教科も自信がありません。そんなわけで、きょうは「修身」と「歴史」という私の得手の分野にしぼって話をさせていただきます。時間がありませんから資料にそってかけあしでまいります。
 それから、この会の記録について。第1回の分は小泉さんにワープロで打っていただき、2回目は印刷所に頼み、第3回は私が慣れないワープロで打ちました。すべて文責は私にあります。第2部の皆様のご発言を正確にまとめることができず、あるいは本来のご主旨をまちがえてしまっているかもしれません。まちがいがありましたら、どうかご遠慮なくおっしゃってください。大事なことですから、お詫びして訂正させていただきます。
1.戦前・戦中の教科書
(1)修身
A.国定教科書
 これが私が小学校1年生のときに使った修身の教科書の実物です。
『尋常小学修身書 巻一 児童用』。著作兼発行者は文部省。昭和11年の発行。表紙のうしろに父親が書いた「ジン一 ヨダヨシテル」の文字があります。私が小学校に入学したのは昭和15年で、1年生は「尋常小学校第1学年」。尋常小学校は6年まであって、その上に高等小学校が2年間ありました。中学校(男子)や高等女学校に進む者は尋常小学校を終えてから行くことになっていました。
 さて、この修身の教科書がどういう内容になっていたか。遠くの人には見えにくいと思いますが、あとで回しますからゆっくりご覧ください。
 まず最初のページ。カラー版で『スーホの白い馬』のように見開きになっています。場面は宮城(皇居)から天皇陛下がお出ましになるところです。馬に乗ったお付きの人たちの行列がずーっと二重橋の向こうまでつづいています。お掘の所に並んでいる国民が、お辞儀をして見送っています。文字は書いてありません。先生がお話をしてくれたんだと思います。
 次のページは、お母さんに連れられて入学式に行く場面です。向こうにサクラの花が満開です。次は教室で勉強をしたり、校庭で先生や友だちといっしょに遊んでいる様子が描かれています。「モクロク」(目次)には「ヨク マナピ ヨク アソベ」と書いてあります。
 その次は、兵隊さんが整列している前を、白い馬にまたがった人が通っています。「モクロク」には「テンチャウセツ」とありますから「天長節」、つまり4月29日、時の天皇(昭和天皇)の誕生日です。今は「みどりの日」となっていますね。
 次は「センセイ」。先生にていねいにお辞儀をしています。それから「トモダチ」「ケンクワ ヲ スル ナ」「ゲンキ ヨク」「タベモノ」「シマツ ヲ ヨク」「イキモノ」「ナツヤスミ」「キマリ ヨク」「モノ ヲ ダイジ ニ」「アヤマチ ヲ カクス ナ」とつづいて、「ウソ ヲ イフ ナ」では「コノ コドモ ハ、「オホカミ ガ キタ。」ト イッテ、タビタビ 人 ヲ ダマシマシタ。ホンタウ ニ オホカミガ デテ キマシタ。ダレ モ、タスケ ニ キテ クレマセン デシタ。」という話になっています。あと、「人 ノ モノ」「キンジョ ノ 人」「オモヒヤリ」「人 ニ メイワク ヲ カケル ナ」「ワタクシ ノ ウチ」「オシャウグワツ」「ベンキャウ」「オトウサン オカアサン」ときて、「オヤ ヲ タイセツ ニ」では、猟師に撃たれて縛られている親猿を、子猿がいろりで手をあぶって、親猿の傷口をあたためている様子が絵と文でかかれています。
 次は「オヤ ノ イヒツケ ヲ マモレ」、「キャウダイ」ではきょうだい仲よくという徳目になって、「チュウギ」ではこうなっています。
「キグチコヘイハ、イサマシク イクサ ニ デマシタ。/ テキ ノ タマニ アタリマシタガ、シンデ モ、ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ。」
 これは覚えている方が多いと思います。(「覚えている」の声)
 そうでしょう。私もこの文章とこの絵は今でもよく覚えてております。1年生のときに習ったことは、いくつになっても忘れないものですね。おそろしいものですね。
 そして最後のページ。「ココ ニ ヰル ノ ハ、センセイ ノ ヲシヘヲ マモッタ ヨイコドモ デス。ミンナソロッテ、ニネンセイニ ナリマス。」 みんな整列して、校長先生から終了証書をいただいています。校長先生のうしろの大きい額には「忠孝」の二文字が書かれています。
 まあこういうしくみになっているんですね。なかなかよくできているでしょう? 「忠君愛国」「君に忠に親に孝に」の精神の基礎をつくるために、おどろくほど見事な工夫がこらされています。お気づきのように、この教科書は教育勅語にまったく忠実につくられているんですね。資料をご覧ください。
「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キテ児童ノ徳性ヲ涵養シ道徳ノ実践ヲ指導スルヲ以テ要旨トス」(小学校令施行規則第二条)
 国定教科書ですからこの一種類だけ。全国の1年生はみんなこの教科書で勉強して、みんな純粋な軍国少年になっていったんですね。私も例外ではありませんでした。

 私が2年生になった昭和16年の4月、小学校は「国民学校」と変わりました。奈良さんは国民学校の最初の1年生ですね。
 2年生の修身教科書だけ、どうしたわけか手元にないんです。この『初等科修身 一』は3年生のとき使ったもので、『二』もどういうわけかなくて、『三』は5年生、『四』は6年生で使った教科書です。これらはみんな母親がとっておいてくれたものです。
『初等科修身 一』を開いてみますと、この見開きの絵は三重県伊勢市を流れる五十鈴川に架けられた橋でしょうね。五十鈴川は、皇室の祖先とされる天照大神を祭った皇大神宮の神域を流れる清流です。次に「もくろく」があって、「一 み国のはじめ」となります。ちょっと読んでみます。

《遠い大昔のこと、いざなぎのみこと、いざなみのみことといふ、お二方の神様がいらっしゃいました。
 このお二方が、天の浮橋にお立ちになって、天のぬぼこといふほこをおろして、海の水をかきまはしながら、おあげになりました。すると、ほこの先から、海の水のしずくがしたたり落ちて、一つの島となりました。
 お二方は、この島におくだりになって、ごてんをお作りになりました。さうして、次々と、たくさんの島をお生みになりました。日本の国は、かうして、できあがって行きました。
 国ができあがると、今度は、たくさんの神様をお生みになりました。
 天照大神が、お生まれになりました。いざなぎのみことは、たいそうお喜びになって、かけていらっしやった御首かざりを、おさずけになりました。
 天照大神は、日神とも申し上げ、天皇陛下の御祖先にあたらせられる、御徳の高い神様であります。
 伊勢の内宮は、この天照大神を、おまつり申しあげたお宮であります。》

「二 春」は「神様のお生みになった日本の国は、山川の美しい国です。ことに、春夏秋冬のうつりかはりのはっきりした国です。‥‥」と四季のうつりかわりを書いているだけですが、
「三 日本の子ども」はこうなっています。
《世界に、国はたくさんありますが、神様の御ちすぢをおうけになった天皇陛下が、おをさめになり、かぎりなくさかえて行く国は、日本のほかにはありません。いま日本は、遠い昔、神様が国をおはじめになった時の大きなみ心にしたがって、世界の人々を正しくみちびかうとしてゐます。
 私たちのおとうさん、にいさん、をぢさんなどが、みんな勇ましくたたかってゐられます。戦場に出ない人も、みんな力をあはせ、心を一つにして、国をまもらなければならない時です。
 正しいことのおこなはれるやうにするのが、日本人のつとめであります。私たちは、世界の人人がしあはせになるやうに、しなければなりません。
 日本の子どものだいじなつとめは、一生けんめいにべんきゃうすることです。べんきゃうは、ただ、ものごとをおぼえるだけではありません。心を正しくし、美しくし、よく考へ、よく工夫し、からだを強くきたへることが、みんなべんきゃうです。
 私たちは、日本のやうにすぐれた国に生まれたことをよくわきまへて、心をりっぱにみがかねばなりません。さうして、からだをぢゃうぶにし、強いたくましい日本国民になって、お国のためにはたらくことができるやうに、しっかりべんきゃうすることがたいせつです。》
 そのあと、いろんな教材がつづきますが、私たち軍国少年は、そのとおりに信じて、こういう教科書を暗記するまで読んだものです。


B.明星学園では
 それでは、明星学園ではどうだったのでしょうか。資料に載せておきましたが、明星では修身の授業を時間割に組んでいなかったんですね。どうしてでしょうか。
「修身の時間を特設しなかったのは生活指導の教育を標榜するわれわれにおいては当然のことである。すべての生活が児童の生活指導である時に修身なる特別の時間においてのみ道徳的の指導をしようとするのは自己矛盾である。国語も音楽も体操もすべて道徳的教育の使命をもつのである」(赤井米吉、『明星の年輪-明星学園50年のあゆみ-』37ページ)
 ちなみに、創立当初の教科と授業時数は次のとおりでした。

              1年   2年   3年
国語‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  12    11   11
美術および自然科‥‥‥‥   5     5    5
音楽および体操‥‥‥‥‥   5     4    4
数学‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 5     5
 この教科編成は斬新なものでした。これは赤井先生、照井先生たちがいた成城小学校でやっていたことでしたが、美術と自然科、つまり図工と理科を関連づけて学習する、音楽と体育を関連させてリトミックもやるというふうにカリキュラムを考えたのは、当時としては新しい発想でしたし、今でも新しいものです。小学校、とくに低学年の子どもたちには、教科をあまり細かく分けないで、教科の内容をうまく組み合わせて総合的に学習させたほうがいいんです。高学年ではいろんな教科に分かれますが、それぞれの教科が受け持つ学習内容と教科の論理をたいせつにしながらも、あまり学習の領域を細分化しないほうがいい。学習する側の子どもの頭はひとつですから、コマ切れの知識をひとつの頭につめこむようなことはしないほうがいい。教科ごとの学習内容を関連させたり、総合させたりする工夫が必要だと思います。
 いま、文部省は小学校で教科の学習とはべつに「総合的な学習の時間」を設ける、中学校でも高校でも「総合学習」を設けるといって、2002年から実施されますが、それにはいろいろと問題があるとしても、今のままのカリキュラムでいいとは思えません。新しいカリキュラムを考える上での先駆的な実践はすでに70年も前に明星でおこなわれていたわけで、そういう実践を掘り起こしていけば、いい知恵が出てくるように思います。

 話をもとに戻しますと、初期の明星では修身の時間を特設しなかった。それは道徳的教育の必要性を否定したからではなくて、人間にとってたいせつなモラルやルールは日常の生活、すべての教科をつうじて体得されるものだという考えに基づいていたからです。この会の第2回(「成城・明星・玉川・和光の創立」)で紹介した成城小学校の創設者、沢柳政太郎先生も修身を低学年(1~3年)では特設しませんでした。沢柳は、徳性を養うのは植物の種子が発育するようなもので、4年生までは種子を蒔く下ごしらえの時期だ。下ごしらえの時期ではすべての教科、日常の生活をつうじて徳性を養うことが大事だと言っています。私は低学年だけでなく高学年でも、中学校でも、わざわざ「道徳」の時間を設けることはないと思っています。週に1時間、ありがたいお話を読んだり聞いたりすれば道徳性が育つというものではない。


C.『幼学綱要読本』
 ところで、いま私はちょっとやっかいな問題を抱えています。それは照井猪一郎先生が書かれた『幼学綱要読本』(昭和6年)をどう読むかという問題です。
 この本は、明治天皇が教育勅語を発布する十数年前に初等教育の修身教科書として編纂させた『幼学綱要』に基づいて、照井先生が独自につくった読物です。まえがきによると、『幼学綱要』はどこの学校でも仰々しく桐の箱に収めて、教育勅語と同様に厳重な保管規定を設け、校長の更迭のたびに事務引渡しの重大項目になっている。それどころか、甚だしいのになると、そういう煩さなことを巧みに避けて、市町村の役場に保管を依託している所もめずらしくない。それは尊いことを誤解して生きた教訓を偶像化したことと、その本質がわかっていてもあまりに抽象的な記述体であるがために、これを充分に徹底させる得る教師がいなかったことにも起因したと思われる。教育勅語が発布されてここに40年、今や国民の思想混沌たる時に、われわれはもういちど国体の精華を省みて国民道徳の発揚に努め、明治大帝の聖旨にしたがいまつらねばならない。そこでこの『幼学綱要』を平易簡単にし、一般の読物として広く頒布し、教育勅語の聖旨徹底の一助として現下の思想善導のために尽くしたい考えである。‥‥そういう意味のことが書かれてあります。
 何がやっかいかといいますと、『幼学網要』の本体と照井猪一郎の『読本』のどこが同じでどこがちがうか、いいかえれば照井猪一郎のオリジナルの部分や全体がどういう性格、どういう特徴をもっているかを明らかにしなければならないからです。『読本』の「凡例」によれば、この本は初等教育、とくに6年以上、青年団、一般中等学校程度の青少年たちのためにつくった読物だということです。『綱要』の20の徳目(「孝行」「忠節」「和順」「友愛」「信義」「勤学」「立志」「誠実」など)のすべてをそのままあげたが、例話は日本の部だけに限ったこと、例話は必ずしも原本の直訳ではなく、この例話はなぜ生じたか、なぜこの徳目の例話として価値あるかを青少年たちにも理解させるために、当時の時代背景や史的考察を充分に加えたこと、その点ではむしろ原本に掲げられた例話の人名をかりたにすぎない程度であるかもしれない、独創的な脚色や潤色をも加えて原書の目的をいっそう高潮した点もたくさんある。そう述べています。
 前回とりあげた『新読本』作成の中心人物であり、学校劇の草分け的な実践者であり、歴史研究にも造詣が深かった照井猪一郎の自負がうかがえます。
「終りにこの読本は国史教科書の参考書としても充分に価値あることを信じます」と結ばれていますが、あるいはこちらのほうが本当のねらいだったのかもしれません。
 学園史資料のロッカーのなかには、照井先生の歴史教育に関する論稿がいくつも眠っています。私はまだ点検を終えていませんし、またこの『読本』と『幼学綱要』の原本を詳しく比較検討しておりませんので、今は軽々に論評を加えないことにいたします。
 なお、この『幼学綱要読本』の発行者は、明星創立の最大の支援者だった茶郷基氏。発行所は赤坂区青山南町の成美社。非売品で、とびらに「茶郷基」の署名入りで「亡くなった母の一周年忌に当って 照井先生のものされた書を御贈りします 昭和六年一月二十七日」と印刷されています。また、公爵近衛文麿の「国体之精華」の書、横山大観の「明治神宮」の画などが添えられています。


D.「国民学校」とは?
 ここで話題をちょっと変えます。さっき「国民学校」という名前が出てきました。これはあとの話にも関連しますから、今のうちに解説しておきます。
 私と奈良さんはほぼ同級生ですが、私は昭和15年に「小学校」に入学して、2年生になると「国民学校」の2年生ということになったんです。奈良さんは昭和16年に「国民学校」の1年生になったんですね。つまり、昭和16年度から「小学校」は「国民学校」と変わったんです
「国民学校」というのは、ドイツ語の「フォルクスシューレ」の訳語です。「フォルクスワーゲン」というのがあるでしょう? あれは「国民車」という意味ですね。1933(昭和8)年、私が生まれた年にドイツでヒトラーが政権をとって、国際連盟を脱退しました。日本は2年前の1931(昭和6)年に「満州事変」、翌年には「満州国」の「独立」と、中国への侵略を強めていきます。日本のえらい人たちは、ヒトラーのドイツにならって、天皇中心の軍国主義国家を強固にしていく、そのために小学校を「国民学校」に変えたんです。
 名称だけではありません。私の通信簿をくらべていただくとわかりますが、2年生の通信簿には「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と書かれています。そして修身、国語、国史、地理を合わせて「国民科」としています。2年用の国語の教科書の「ヨイ コドモ」には、「日本ヨイ国、キヨイ国。/世界二一ツノ、神ノ国。/日本ヨイ国。強イ国。/世界ニカガヤク エライ国。」と書いてありました。
 音楽は国定・検定の二本建てでしたが、第5期(昭和16~20年)から一本になりました。1~3年は童謡、自然を歌ったもの、年中行事の歌が多かったんですが、高学年になると忠君愛国。軍国主義の歌が圧倒的に多くなりました。
 それからすごいのは、各教科の関連がうまくできていて、修身で忠義をつくした人の話が出てくると、国語にも似たような話が手を替え品を替えて出てくる。国史にも出てくる、それを今度は音楽で歌うというわけで、それらが視聴覚にうったえて全部こころにしみこむ、からだにしみこむ、そういう仕掛けになっていたんですね。見事な総合教育です。戦後、視聴覚教育がさかんになりましたが、当時の教育方法にくらべれば目じゃない。のちに「軍国少年」から「戦後民主主義少年」に変身した私のからだのなかに、小さいころに受けた教育の成果がしみこんでいることに気づいて、思わず慄然とすることがあります。やっぱり、小学校の教育はほんとうにたいせつですね。

 もうひとつ、忘れないうちに言っておきますが、「国民学校」になる前の昭和15年の12月、時の文部大臣、橋田文部大臣が「私立小学校は国民学校とするには不適当であるから廃止することに決定した」とラジオで放送したんです。閣議で決定したというんです。理由は言いませんでしたが、おそらくこういうことでしょう。私立学校のなかにはキリスト教主義の学校もある。キリスト教主義では、天皇よりも神様のほうが上なんですね。それから明星や成城のような自由主義の学校もある。今や挙国一致、打って一丸となって敵に当たらねばならんときだ。個性尊重だとか自由平等だなんてとんでもない。と、そういうわけで私立小学校は国民学校とするには不適当だ、つぶしてしまえ、と決めたんだと思います。
 これを聞いて私立小学校の校長たちは憤然として起ち上がりました。そのとき檄文を書いて校長たちに呼びかけたのが照井猪一郎でした。
 翌昭和16年2月、校長たちは暁星小学校に集まって結束し、私立小学校をまもる運動を展開しました。その詳細は省きますが、結局どうなったかといえば、私立小学校はどうにか存統を認められはしたものの、「国民学校」も「小学校」も名のってはならないとされ、そこでやむなく「初等科」とか「初等部」とか「初等学校」を名のったのです。
 明星の小学校は「初等部」となりました。今でも明星の古い卒業生は「初等部」とか「中等部」とか言っています。青山学院は今でも「初等部」、聖心女子学院は「初等科」、学習院も「初等科」(これは前からそうですが)、成城学園や清明学園は「初等学校」です。このよう
に今でも「初等」の名称を名のっている小学校は、あえてその名称を残しているんです。昭和15年、16年のあの政府の弾圧に抵抗した記念碑として残しているんです。
 いま「お受験」のお母さん方は、そんなことはカンケイない(笑)。 私立小学校の先輩たちが、如何に権力による弾圧とたたかって教育の自由をまもってきたかということを知らないで、あの学校は制服がきれいだとか、お行儀がいいとか、そんな目でしか見ない(笑)。
 私も発行委員のひとりとして編纂の仕事を手伝った『日本私立小学校連合会のあゆみ―結成50年―』(1992年)には、「後世に語り継ぐべきこと」という大先輩たちの回顧座談会も収録されています。そのなかに、キリスト教主義の学校が如何に弾圧されたか、たとえば「東洋英和」というのは敵国の名前だというので「東洋永和」と変更させられたとか、文部省と軍部が結託して視察に来て、「この神様はどこの神様なのか」とどなりちらしたとか、視学官が来て子どもたちに「天照大神とお前たちの神様とどっちが偉いんだ」、「皇后陛下と聖母マリアとはどちらが偉いか」などときいたとか、そういう話が出ています。自由学園の創立者の羽仁もと子先生は毎日のように東京府の教育局へ呼び出されて、「自由なんて間違った考えを前提とした校名は変えろ」と言われつづけた。羽仁先生はいつまでたっても返事をしないで、とうとう名称はもとのまま残してしまったということです。「明星行進歌」の「めざめ若きたましい」が「さめよ若きたましい」に変えさせられた話は第2回のときに紹介しました。
 今からみれば実にばかばかしい話ですが、今後いつ如何なるかたちで教育の自由が圧迫されるかわからない。肝に銘じておかねばと思います。


(2)歴史
A.『初等科国史 上』
 これが、私が国民学校初等科5年のとき勉強した歴史の教科書です。「国史」となっています。まじめな軍国少年でしたから、ところどころ赤線を引っぱったり、書き込みをしたりで、よく勉強したあとがのこっています。
 最初は「神勅」です。神様のおことばです。天照大神がニニギノミコトを日本の国土に降すときに授けたということばです。
 その次は歴代の天皇のお名前です。(「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク‥‥」という声あり) さすが優秀な元生徒のみなさんですね。あとで第2部で、何代まで言えるかコンクールをやりましょう(笑)。 全部で124代。暗記するのがたいへんでしたね。暗記してこないと立たされちゃうんですから、もう必死でしたね。あとの方にいくと、後冷泉だとか後桃園だとか、ややこしくなって、こんがらがっちゃうんです。
 そして「第一 神国」で、「一 高千穂の峯」。縄文時代ではありません。
《大内山の松のみどりは、大御代の御栄えをことほぎ、五十鈴川の清らかな流れは、日本の古い姿をそのままに伝へてゐます。
 遠い遠い神代の昔、いざなぎのみこと・いざなみのみことは、山川の眺めも美しい八つの島をお生みになりました。‥‥》
 こういう書き出しで、『古事記』『日本書紀』の「神代」の物語から始めて、神武天皇が第1代の天皇の位につき、「その後も、御代御代の天皇は、民草を子のやうにおいつくしみになりました。国民もまた、親のやうにおしたひ申しました」となるわけです。
 私たちの世代は小さいころ、こういう教育を繰り返し繰り返したたき込まれ、何ら疑うことなくかたく信じて、大きくなったら立派な軍人となって天皇陛下のために尽くし、最後は「天陛下ばんざい」と言って死ぬことを唯一の目標としていたんですね。(「教育勅語はなかったんですか?」)
 ありました。さっきの『初等科修身』の三と四、つまり5年生と6年生の教科書のはじめのところに、「教育二関スル勅語」が載っていて、これも全部暗記させられました。教育勅語は明治23年に発布されたものですが、教科書のその次には昭和14年に出された「青少年学徒二賜ハリタル勅語」がありました。いま私たちはかんたんに「天皇、天皇」と言ってますが、当時はとんでもないことで、先生が「天皇陛下」とおっしゃる前に、「おそれおおくも」と言います。だから私たちは、先生が「おそれおおくも」と言うと、バッと直立不動の姿勢をとる。すると先生がひと呼吸おいて、「天皇陛下は」とおっしゃるんです。
 こんな昔ばなしをやっているとキリがありませんからやめますが、以上は昭和ヒトケタ生まれ、65歳の「縄文人」の証言です。

B.『初等科国史 下』
『初等科国史 下』も持ってきましたが、これは「第八 御代のまもり」の安土・桃山時代から江戸時代、それから「第十二 のびゆく日本」で「明治の維新」「憲法と勅語」「富国強兵」、「第十三 東亜のしづめ」で「日清戦役」「日露戦役」、「第十四 世界のうごき」で「明治から大正へ」「太平洋の波風」、「第十五 昭和の大御代」で「満州事変」「大東亜戦争」「大御代の御栄え」となっています。時間がないので内容にはふれませんが、だいたいのことはお察しいただけると思います。

補注
 ここまで録音テープをワープロに打ち直しながら思い出したのは、5年生のときの担任の先生のこと。中学(旧制)を出たばかりの代用教員だから今の高校2、3年生ぐらいの年齢。その先生が「国史」のはじめに教科書の「神国」を読んだあとで、「人間の祖先はサルだった」と言ったときの様子を思い出した。先生は、こっそり秘密を教えるといった様子だったが、その話を聞いて、私はとまどいを覚えた。そのときの気持ちを今の私はうまく言いあらわすことができない。今でも覚えているのだから、よほどショックだったにちがいない。
 先生は肺結核で若くして亡くなられた。いま生きておられたら、戦争中どういう気持ちでこういう教材を扱われたか訊いてみたいと思うが、もはやそのすべはない。
 当時教師だった大先輩たちは、こういう問題にふれることを避けているようだが、もっと多くのことを語ってもらいたいと思う。
2.戦後の検定制度
(1)初期の検定と採択
 さて、第二次世界大戦後の話にうつります。
 1945(昭和20)年8月15日に「終戦の詔勅」がラジオで放送されました。そのとき私は国民学校の6年生でしたが、個人的な体験をお話しすると長くなりますから別の機会にゆずります。ご年配のみなさんにはそれぞれ忘れられない思い出があると思います。
 翌年11月、日本国憲法が公布され、さらに翌年の1947(昭和22)年3月、学校基本法、学校教育法が出されました。また、「学習指導要領・一般編(試案)」が出されましたが、それにはこう書かれてありました。‥‥「これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きのあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなのカズ、いろいろと、作りあげて行くようになって来たということである」
 これは前回もちょっと紹介しておきました。
 翌1948(昭和23)年、教科書制度改善審議会で「国定教科書制度を全廃して検定制度に切り替えること、ただし昭和24年、5年は国定と検定の混合を認めること」とされました。
 文部省の『教科書検定に関する新制度の解説』にはこう書かれていました。‥‥「教科書の採択は、文部省著作教科書、検定済み教科書のいずれを問わず、教師たちの意見を十分にとりいれた後に、学校責任者(地方教育委員会ができたときは、地方教育委員会を含む)が教育上最も適当と考えられるものを自由に選ぶことが建前である」
 また、同じく文部省の『昭和24年度教科用図書展示会実施要綱』には、「学校責任者は自由な立場で教科書を採択することができる。‥‥教科書の採択は、あくまで民主的精神に基づいて行われるものであるから、いやしくも他よりの干渉や一方的な押しつけ等に左右されることがあってはならない」と示されていました。


(2)ある小学校教師の感動
 この最初の教科書の展示会に行ったひとりに、金沢嘉市先生がおりました。金沢先生は、教え子を戦場に送った責任を痛感して、戦後は公立小学校の現場の教師として、校長として、民主教育に力をそそいでこられました。明星の元父母のひとりで、一時学園の理事を務めてくださいました。著書のひとつに『ある小学校長の回想』(岩波新書)があります。その金沢先生が家永裁判の証言台に立って、次のように語っています。証言当時、世田谷区代沢小学校の校長で、歴史教育者協議会のメンバーでした。
「‥‥初めての展示会がございました。‥‥今までは国定教科書を与えられておったのですが、ここで、自分たちの子どもに教える教科書が自分たちで選ぶことができるということを初めて体験しました。‥‥みんなで見にまいりまして、自分たちで教科書を選んだわけですが、その時の感動はなんとも、もういえない感動でした。自分たちの教科書を自分たちで選んで、これからいよいよ自分たちの手で教育ができる‥‥目の前がパツと明るくなったような気がし、新しい勇気が湧いてきたような気がします。『よし、きっといい教育をやるぞ』と‥‥。全国的にも、やはり、どの教師もそういう気持ちになっていたのじゃないかと思います」(「金沢嘉市証言」『家永裁判証言篇5』)
 金沢先生は戦争中、ただ政府の言うまま文部省の言うままに日本の必勝を願いながら、「鬼畜米英」も教え、「大君の辺にこそ死なめ」とも教え、卒業生が出征するたびに激励のことばを送り、何人も戦死させてしまった自分をきびしく反省し、真実の教育に身をささげなくてはと最期まで懸命に尽くされたのです。
 当時の日本の教師たちは、こういうように新しい教科書制度を大きな期待をもって受けとめたわけですね。


(3)検定の強化
 1953(昭和28)年8月、学校教育法と教育委員会法が改正され、教科書検定権者を文部大臣とすることも決められました。わたしは大学に入ったばかりで、そういうことには無関心でしたが、このあたりから日本の教育はおかしな方向に傾いていったのです。
 1955(昭和30)年3月、日本民主党が、教科書を民間で編集してこれを国が管理するという案を検討します。その8月、日本民主党の教科書特別委員会が、『うれうべき教科書の問題』第1集を発行して、今の教科書は偏っている、うれうべきだと、教科書攻撃のキャンペーンを張ります。前回もちょっとふれましたが、偏向教科書のタイプとして四つあげました。
(1)教員組合運動を支持しその政治活動を推すタイプ、
(2)日本の労働者が悲惨であるといいたてて急進的な労働運動を推進するタイプ、
(3)ソ連・中共を賛美し日本をこきおろすタイプ、
(4)共産主義を児童にうえつけようとするタイプ。
(日本民主党はその年11月に自由党と合同して自由民主党となります。)
 これに対して教科書執筆者グループは、『うれうべき教科書の問題』の内容を批判し抗議しました。日教組や各学会、日本学術会議などが、学問・思想の自由をまもり教育の統制に反対する立場から抗議しました。
 翌56(昭和31)年3月、教科書法案(検定を強化し、採択権を教育委員会に移す)と新教育委員会法案(公選制を廃止して任命制にする)が国会に上程されます。これらは教育に対する国家統制をうながすものとして10大学長が声明を出し、日教組や教育委員会全国連絡会なども強く反対しました。
 6月、新教育委員会法のみが警官の導入によって参議院を通過して成立。10月、教科書法案は審議未了になりましたが、行政措置によって文部省に教科書調査官をおくことになったのです。
 1958(昭和33)年12月、学習指導要領が改訂され、教科用図書検定基準が全面改訂され、検定がきびしくなっていきます。(また、この年、道徳教育の時間が特設され、教師に対する勤務評定が強行実施されました。)翌年、61年度用小学校教科書の1次検定で、82パーセントの教科書が不合格とされました。
 1963(昭和38)年12月、教科書無償措置法が国会を通過しました。これは無償と引き換えに採択制度を大幅に改めるもので、これまで事実上は教職員による学校採択だったのを、教育委員会に移し、広い地域で統一して採択するというものでした。
 こういうなかで、1960年代初期の検定から、「愛国心」が強調されるようになり、たとえば日本歴史の検定意見として、日本の神話をとりあげよとか、太平洋戦争は日本だけが悪かったのではないとかの意見が強く押し出されるようになったんですね。
 これらの動きを背景として、いわゆる「家永裁判」がおこります。

(4)教科書違憲違法訴訟
 1965(昭和40)年の6月、高校日本史教科書の著者のひとり、家永三郎先生(当時、束京教育大学教授)が、自分の著書『新日本史』(三省堂)に対する検定処分と検定制度を違憲(表現・学問・教育の自由の侵害)・違法(教育行政の教育介入)として、国家賠償法にもとづき国を相手どって東京地裁に提訴しました。
 そのさい、家永先生は次のような声明を出しました。
《私はここ十年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三十八、九年両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるために、あえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。
 憲法・教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としても、だまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公平なる判断によって、現行検定が教育行政の正当な枠を超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告として私の求めるところは、ただこの一点につきます。》
 家永先生はほんとうに篤実真摯な学者で、これほど穏健な温厚な人は知らないといっていいぐらい立派な方です。とくに日本思想史、わけても古代の思想・文化史研究の権威です。けっして一党一派に偏する方ではありません。私は明星に勤めて2年目のかけだしのころ、はじまったばかりの日本教育テレビ(テレビ朝日の前身)で「歴史のあしあと」という番組を担当し、毎週明星の中学生を二人つれて出演しましたが、それは毎回専門の先生のお話を聞きながら勉強するという学校向けの番組で、家永先生の回は「聖徳太子」でした。子どもたちにもやさしく、子どもたちはいっぺんに先生を好きになりました。その後もいろいろと教えていただきましたが、じつに立派な先生です。そういう先生が「もはやがまんできない」と言って、ついに訴訟をおこしたんですね。
 これに先だって、家永三郎は、1960年改訂の高等学校学習指導要領にもとづいて『新日本史』を改訂し、検定に申請しました。しかし63年4月、「正確性と内容の選択に著しい欠陥がある」という理由で不合格となりました。不合格の理由の一部が教科書調査官から口頭で伝えられ、その大半が納得しがたいものでしたが、やむなく多少の修正を加えて、改めて検定に申請しました。翌64年3月、こんどは条件付合格となりましたが、300項目以上の修正指示がつけられたのです。しかし、隠忍辛苦して修正し、とにかく合格させて、1965年度用の教科書として展示会に出したのです。
 けれども、1963年度の不合格、64年度の条件付合格のそれぞれの検定処分が「もはやがまんのできないほど」に違憲・違法性が強いものと考えたために、国を相手どって国家賠償法にもとづく損害賠償請求訴訟を提起したんですね。これが家永一次訴訟です。
 家永は『新日本史』を一旦は合格させてみましたが、どうしても修正したくない箇所がたくさんありました。そこで、そのなかの3件6ヵ所について、もとの原稿の記述を復活させるための改訂を行ない、1966年に部分改訂の申請をしました。けれども、67年3月、改訂する以前にもどすのは改善にあたらないという理由で改訂を許可しない、つまり不合格の処分をうけました。
 家永はすぐに67年6月、違憲・違法による行政処分(不合格処分)の取り消しを求める行政訴訟をおこしました。これが家永二次訴訟です。
 家永教科書裁判には、80年代の検定を告発した三次訴訟がありますが、いまはふれません。

(5)どんな検定が行なわれたか
 これについては資料にのせておきましたので、ご覧ください。

例1.『古事記』『日本書紀』の真の編纂意図
【63年不合格本の原稿記述】
(『古事記』も『日本書紀』も「神代」の物語から始まっているが、「神代」の物語はもちろんのこと、神武天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために作り出した物語である。『古事記』『日本書紀』はこのような政治上の必要から作られた物語や、民間で語り伝えられた神話・伝説や、歴史の記録などから成り立っているので、そのまま全部を歴史とみることはできない。)
【不合格理由】
「この記述は、全体として『古事記』および『日本書紀』の記述をそのまま歴史とみることはできないということのみ強調していて、これらの書物が現在数少ないわが国の古代の文献の一つとして有する重要な価値については全くふれていない。」
【64年度提出本の原稿記述】
(『古事記』も『日本書記』も「神代」の物語から始まっている。「神代」の物語はもちろんのこと、神武天皇以後の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語であるが、その中には民間で語り伝えられた神話・伝説なども織りこまれており、古代の思想・芸術などを今日に伝える貴重な史料である。)
【修正意見】
「傍線部分は断定にすぎ、不正確であるから削除せよ。」
【合格本記述】
(『古事記』や『日本書紀』の中には諸豪族や民衆の間で語り伝えられた神話・伝説なども織りこまれており、古代の思想・芸術などを今日に伝える史料として貴重なものである。)

こういうふうに学問の自由というか真実性、正当性がどんどんおさえられてきたわけですね。
もうひとつの例をみてみましょう。

例2.太平洋戦争は「無謀な」戦争ではなかった?
【教科書原稿の記述】
戦争は「聖戦」として美化され、日本軍の敗北や戦場での残虐行為はすべて隠蔽されたため、大部分の国民は戦争についての真相を十分知ることができず、無謀な戦争に協力するほかない状態におかれた。
【検定意見と評定】
 第二次世界大戦のような最近の事実については、歴史的評価が定まっていないので、できるだけ客観的に記述する慎重な態度をとることが教科書として望ましい。この記述のように「無謀なという評価‥‥は適切でなく、‥‥。【評定】内容選択が適切でない。
【教科書原稿の修正】
 修正を拒否したが、再三の修正要求で、展示会本届出の締め切りも迫っており、全文削除の止むなきに至った。

 二つの例をあげましたが、あと300ヵ所もあるんです。しかもこれは家永先生の『新日本史』だけではなくて、大勢の執筆者が書いた教科書が同じような目にあいました。そのなかで、あえて家永先生は訴訟にふみきったのです。

おわりに
 戦前・戦中の教科書のうち修身・国史のあらましと、戦後の検定制度の一側面をみてまいりました。
 戦後の教育は、戦前・戦中の教育の反省の上に立ってスタートしたのですが、やがて修身は道徳の時間として復活し、歴史教育はいまみてきたような状態となりました。
 このことをどう考えるか、それについては皆様それぞれにご意見がおありと思います。第2部で忌憚のないご意見をお聞かせください。約束の時間をまたまた超過してしまい、失礼いたしました。

〈資料:家永裁判の経過概要〉
一次訴訟
 第1審(東京地裁)
  1965年6月12日  提訴
  1974年7月16日  高津判決(原告一部勝訴)
第2審(東京高裁)
  1974年7月26日  原告控訴(被告付帯控訴)
  1986年3月19日  鈴木判決(原告敗訴)
第3審(最高裁)
  1993年3月16日  第三小法廷判決(上告棄却、原告敗訴)

二次訴訟
 第1審(東京地裁)
 1967年6月23日  提訴
 1970年7月17日  杉本判決(原告勝訴)
 第2審(東京高裁)
  1970年7月17日  文部大臣控訴
  1975年12月20日  畔上判決(原告勝訴)
 第3審(最高裁)
  1975年12月30日  文部大臣上告
  1982年4月8日   第一小法廷判決(原判決破棄、東京高裁へ差戻し)

東京高裁差戻審
  1982年11月15日 第一回口頭弁論
  1988年10月7日  結審
  1989年6月27日  判決・訴えの利益なし(原告敗訴)

三次訴訟
  第1審(東京地裁)
   1984年1月19日  提訴(80年代検定を告発)
   1988年2月9~10日 沖縄出張尋問
   1989年10月3日  加藤判決(原告一部勝訴)
  第2審(東京高裁)
   1990年7月30日  控訴審開始
   1993年10月20日  川上判決(原告一部勝訴)
第3審(最高裁)
   1993年10月25日 原告上告(第三小法廷係属)
   1994年5月10日  被告、上告期限に付帯上告せず。
   1994年11月25日 原告、最高裁の可部・園部裁判官の忌避申立て。
             1994年2月7日却下。
   ?  ?  ?   判決

第2部

〈奈良〉(元父母)私は依田先生より1年あとにもかかわらず、どういうわけか国民学校のころのことをあまり覚えていないんです。東京で教育を受けたんですが、学童疎開というのがあって、4年生の秋から宮城県のほうに疎開していました。その記憶は鮮明にあって、私自身の原体験の一部分となっているんですが、はじめの1年生のときは病気になっていて、上学期はほとんど学校に行ってないんです。そういうこともあって、学校の記憶があんまりないんです。
今でも覚えているのは、国語の教科書のいちばん最初の「コマイヌサン ア ウン」というところです。神社にいる狛犬で、片方は口をあけていて、片方は口をとじている。
その「コマイヌサン ア ウン」が、ぼくらの時期には「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」に相当する最初のページだったんですね。
神社に行くと必ずあるものから国語の教育をはじめたというのは、より富国強兵で、皇室を崇拝するような国民を育てていくということではなかったかと、お話を聞きながら思い出していました。

〈柏倉〉(元父母)この前、私は「サイタ サイタ」の本の第1回で授業を受けたという話をいたしました。いま思い出したのは、修身の本はねずみ色の表紙で、全部やった記憶はありません。ところどころやったような気がします。先生の本を見て思い出したのは、梅の実がひとつ落ちていて、それを女の子が拾おうとして男の子がとめているの、あれは何だかみなさんわかりますか? たしか落ちている梅の実を食べてはいけないということだったと思うの、毒だから。それから嘘をついてはいけないというオオカミの話。覚えているのはそれくらいですね、1年生では。
それから私たちが小学校のころは、明治以来、あるいは江戸時代からめんめんとつづいている、声を出して教科書を家で読むという習慣がありました。私は朗読が得意で、「サイタ」の読本の巻二の最初に「山の上」という作品があって、鎌倉の学校にいたんですが、全校生徒の前で読んだのを覚えています。「むこうの山にのぼったら、山のむこうは海だった。あおいあおい海だった。ひろいひろい海だった。小さい白ほが二つ三つ、とおい海にうかんでた。‥‥」(拍手)

〈川連〉(元父母)私たちは学校で天孫ニニギノミコトが降臨したということを教わったと孫に話したら、「天からどんなふうにして降りてきたの?」と言うので、「雲に乗って降りてきたと思う」と言ったら、「雲なんかに乗れないのよ」とばかにされました。私たちのころは、そういうことを教わって、教科書に雲に乗って降りてくる絵があるのを見ても不思議に思わなかったんですね。

〈阿部〉(父母)川連さんたちの時代は、先生の言うことは全部正しいと信じていたからでしょう。私たちの世代にもそういうところがありますが、今の子どもは先生の言うことを素直に受け入れることはないから、ちがってきたと思います。

〈川連〉なるほど。でも私は6年生になって歴史を習ったときに、ちょっとへんだと思うから先生に訊きにいったら、「そういう質問をしてはいけない」と怒られたことがあります。そういうことは大人になってから勉強すればいいんだと。それで大人になってから子どもの教科書を見てびっくりして、それからPTAのお母さんたちと古代史の勉強をして、早稲田の水野先生の本をとり寄せて読むと、天皇は万世一系ではないと書いてあってまたびっくり。私たちはインチキの教育を受けたから、子どもたちにはほんとうの教育をしてもらいたいと願っています。だけどまたへんな先生がでてきて、南京虐殺はなかったとか言い出したりしている。韓国との問題にしても、私たちは「日韓合併」と習ったけれど、韓国の人たちは「侵略」と教わっているわけでしょう。日本の若い人たちはそういうことをきちんと教えられていないから、向こうへ行ってびっくりするんじゃないですか。だから、日本でもほんとうのことを教えたらいいと思うんですがねえ。

〈奈良〉私は(たぶん依田先生も内藤先生もそうだったと思いますが)、小学校から高校までの12年間に教科書の影響を受けたことが少ない世代だと思う。戦争直後の時期は教科書に墨をぬったし、その後しばらくは教科書がなくて、それぞれの先生が自分でテキストをおつくりになった。高校になってからでしょうか、『民主主義』という厚い本を手にして、あれはわかりやすいし、なるほどと思うことがたくさんあって、いい教科書でした。いい教科書はやっぱりいいんです。今の教科書のつくり方には、川連さんがおっしゃったことをふくめて問題があると思います。
 この前ドイツの話をしましたが、ドイツの歴史教科書はドイツ人だけが書いた教科書ではないんです。たとえばポーランドのユダヤ人に対してやったことなども、その部分に関してはポーランド人といっしょに書いている。そういうふうにしてつくれば、ほんとうのことが書けるし、いい教科書ができるんです。そうやっていい教科書をつくるんだという姿勢が大事だと思います。

〈杉山〉(元父母)戦前・戦中の教科書を見たり、先生の話を聞くと、皇国史観に基づいて教育が行なわれていたことがよくわかります。こういうやり方でいま小学校の子どもに、たとえばオウム真理教の教義をおしえれば必ず信じてしまうような気がします。
 こういう戦前・戦中の教育を進めるうえで主導的な役割をはたした人たち、精神的な指導者にはどういう人たちがいたんでしょうか。

〈依田〉たいへんむずかしい問題です。教科書ふうにいえば、幕末から明治維新の時代に江戸幕府を倒して政権をにぎった薩摩・長州の下級武士が、天皇を祭り上げて全国を支配した。つまり、それまで何の権力もなかった天皇をもちだしてきて、支配の道具にしたということがあったと思います。さらに、富国強兵・殖産興業のスローガンのもとに台頭してきた資本家たちが、政府や政治家たちと結託して、国内はおろか朝鮮・中国にまで利権をひろげようとして、日清戦争・日露戦争をひきおこした。次の第1次世界大戦は日本をふくめた資本主義列強の争いです。そういうときに必ずもちだされるのが天皇です。天皇を中心とする国家、つまり「国体」の観念です。「国体」の観念を全国民にうえつけ、徹底させるために、小学校から教育勅語とそれにもとづく教育が教え込まれたわけです。ですから、だれという特定の人物をあげることはできないと思います。伊藤博文をはじめ歴代の総理大臣、三井・三菱をはじめとする大財閥のお歴々だけでなく、そういう人たちを頂点とする日本の支配層がピラミッドのようにかたちづくられて、互いに役割をはたしながら結びあって、教育を進めてきたんだと思います。昭和に入ってからは軍部が主導権をにぎりまし。た。また、幕末からつづいている水戸学とか神道の系統が底流にあったことも見逃してならないと思います。
 しかし、近代日本の思想、たとえば「国体」という観念がどのようにして生みだされ、つくり上げられ、それがどのように国民のなかに浸透していったか、またそれを批判する思想、拒否する思想はどのようにして生じ、どのように展開し、どのような命運をたどったかという問題は、教科書ふうに簡便にというわけにはいきません。(この問題を含めてわかりやすく書かれた本に、鹿野政直氏の『近代日本思想案内』(岩波文庫)がありますからお読みください。)
 でも、それは昔ばなしではありません。家永裁判に象徴される教科書検定の問題の背後には、1960年代の高度経済成長期における財界の教育に対する要求があります。高度経済成長期の教育政策は能力主義の教育です。ここでいう能力主義は、憲法26条や教育基本法に示されているひとりひとりの子どもの個性を尊重し、その能力に応じて教育を受けさせるというものではなくて、技術革新や経済発展に寄与する人材を育てるというものでした。そして、このころからさかんに「愛国心」や「国を守る気概」をもたせる教育の必要性が強調されるようになりました。中央教育審議会(中教審)の答申の一部として「期待される人間像」が発表されましたが、そのなかには、「国民として国を愛さないものはない。日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛することは論理上当然であり、天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは国家への敬愛の念に通ずる。‥‥国を愛することと天皇を敬愛することとはひとつである」と書いてあります。
私は私なりに日本の国に愛着をもっていますし、天皇を敵対視しているつもりはありませんが、こういうお説教を聞くと、子どものころたたきこまれた「忠君愛国」の教育を思い出してイヤな気持ちになってしまいます。

〈阿部〉私は昭和25年の生まれですが、私たちのころは教科書に墨をぬった先生たちがまだ残っていて、教えてくれたわけですね。そういう先生たちは今までの教育はうそだったと、挫折した人が多かったように思います。だから私たちのなかにも全部を信じてはいけないというものが残っています。そのあとは教えられたものは教えられたものとして受けとめるようになって、今度は世の中に情報がいっぱいふえてきて、私たちの子どもたちは資料が多すぎて何がほんとうなのかわからなくなっている。いろんな本がたくさん出て、逆に選択肢がふえて、何がほんとうなのか考えようとしても、資料が多すぎてよくわからないということがあるといいます。それに受験勉強で、覚えることばかりですから、今の子どもたちはたいへんだと思います。そういうときに、いちばん頼りになるのは先生だと思うんですね、

〈奈良〉私が国民学校の生徒だったとき、敗戦の寸前に、担任ではなかったですが、「私にも赤紙がまいりました、お国のためにいのちをささげてまいります」と言って出ていった先生がありました。ご無事ですぐ帰ってこられてよかったのですが、そのあとすぐ共産党になりました。私たちはそういうことを見ていましたから、先生だからといってあんまり信じてはいけないと、学生時代もそうだったように思います。先生に関しては、この先生はほんとうに信じられる先生なのか、なんだか怪しい先生か、そういうことに敏感になりました。いろんな方がいらっしゃったと思うんです。さっきの金沢先生のように、教え子を戦場に送り出したということに大きな歴史的な責任をもたれて、二度とそういう過ちを侵さないとして戦後の教育に取り組まれた人もいる。赤井先生も照井先生も同じ思いだったでしょう。そういう先生もいれば、その問題をいいかげんにして先生をやった方もいるでしょう。
 ですから、歴史なら歴史についてこれが正しいと思う自分なりの方法論をもって、自分なりに納得して得たものだけが自分の力になるんだ、という感覚はいまだにもっているように思います。逆に言えば、お国のためにと言って出ていって、帰ってすぐ共産党に入られた先生も、私にとって大事な先生です。人間というのは何か、子どもながらによくわかりましたね。

〈霜田〉(元父母)私は皇国史観で育てられて、それを信じて大人になったんですが、終戦になってから井上清さんの歴史の本を読んで、いままで教わって信じてきたことが事実とちがうことを知って愕然としたんですね。それからいろいろ本を読んで、新しい教育に目を向けていくようになりました。人によって自分を変えていった者もいれば、変わらない人もいると思いますから、先生を選ぶ目というものを養わなければいけないんじゃないかなと思います。

〈柏倉〉私の弟は奈良さんと同じで、4年生のときに学童疎開で長野に行きました。話を聞くといろいろなことがあって、たいへんだったなとかわいそうに思います。帰ってきてから、人というか世の中のことを信頼しないんです。さっき話があったように、すべてのことがひっくりかえって、世の中のことが信じられなくなったのかなと思います。高校に入って水泳部の友だちがいっぱいできて、そのころから変わりました。戦争が子どもにどんな影響をあたえるか、そういうことを通しても感じましたね。

〈梶原〉(父母)私の場合には、中学生という思春期の自己形成のときに、たとえば先生が戦時中の自分の体験とかを年に一度か二度、折にふれて話してくれて、大きなベクトルをあたえてくれたような気がします。それが今日の私をつくっていると思っています。ですから、私は教科書はものすごく大事なんだけど、それよりも生身の人間として教壇に立って教材なり社会的な現象なりを教えてくださる先生、その先生のもっている大きな意味での人間力みたいなものがすごく大事だと思ってきました。それが今うすれてきている気がします。

〈阿部〉私自身が社会科を好きだということもあるのかもしれませんが、高校のときの日本史の先生の話をよく覚えています。教科書のなかみは忘れるけど、先生の話はけっこう覚えているんですね。それと、さっきの話にこだわるようですが、先生自身が価値観をがらっと変えるときはどうなんだろうなと、今でも知りたいと思います。

〈内藤〉(教師)私は昭和10年うまれですから、4年生のときに終戦でした。2年生のときに縁故疎開で福島に行きました。こちらは数が少ないからいじめられたし、教科書に墨をぬったり、次は新聞紙みたい大きいのがきて、それを折って本にしたりしました。
 私はひっくりかえらないで、ひねくれていましたから、35年も明星で教えていて、わるい先生だったな‥‥。(「そうじゃない」という声あり)
 たまたま国語という教科でしたから、本だけは読んであげようと、昔は「よみきかせ」ということぱを使っていたんですが、そのうち生徒にかわって読んであげる、そのうち自分で読めと、今は「かわりよみ」とことばを変えました。とにかく本を読んであげよう、その本もかたよってはいけませんから、日本人のこころがあらわれているのがいいと、そういう本を読んであげました。そんなことを考えると、先生の影響力というのはたいしたことはないと思います。先生としてではなく、ひとりの人間として、生徒が歩く道のなかで、たまたまいっしょに歩いた、あるいはちょっとすれちがったにすぎない。そのとき、今度は生徒の側にそれを受けとめるだけの目があるかどうか、ということともかかわってくるんじゃないかと思います。
 今も高校で授業をやっていますが、高校の授業というのはすれちがいですから、私の人間性とか私の思想とかはあんまりうつらない。小・中・高と35年やってきて、小学校の授業はいちばんひびくというか、生徒に大きな力をあたえるかもしれない。

〈依田〉先生ということであれば、小・中・高を問わないけれど、たしかに小学校はとっても大事だと思う。どういう「人」に教わったかということも大事だけれども、土台となるどういう勉強をするのかということが大事ですね。松浦さんたちは明星で12年間を過ごされてどうだったのか、その体験をあとでご紹介いただければと思います。

〈富谷〉(元父母)きのう明星祭に行ったんですけど、生徒たちが調べたことが展示されていて、そのなかで「いちばん好きなことば」は「元気でニコニコ」が1位でした。小学校1年生のときの「元気でニコニコ」が、高校生になってもいちばん好きだというのには、つくづく感心しました(笑)。

〈依田〉あれは照井猪一郎先生が発明したことばです。「強く正しく朗らかに」は1年生にはむずかしいので、1年生用に「いつも げんきで にこにこ」としたんです。私はそれを入学式のときから言いつづけて、2年生になっても、中学生になっても、年賀状のお返しは「いつも元気でニコニコ」。高校生の年賀状にもそう書いてあって、先を越されて返事に苦労する(笑)。

〈松浦〉(卒業生・元父母)私は12年間明星でしたから、ほかの学校のことも知らないでしあわせに過ごしてきました。大学を出てから公立の小学校に5年勤めて、はじめて明星の特殊性というか重要性というか、あれだけの教育をまもってきた先生たちのすごさをを非常に強く感じました。
 それとは別のことで質問ですが、国民学校になって修身・国語・国史・地理が「国民科」とされたそうですが、そのとき明星はどうだったんですか。やはり総合的な教科編成になったのでしょうか。

〈依田〉そのことは私がいままで調べたところではよくわからないんです。父母へのお知らせや行事などは『明星の年輪』にも書かれていますが、教科編成がどうなっていたかはこれから調べてみたいと思います。

〈松浦〉いま「総合科」のことが話題になっていますね。韓国が経済力をアップさせるために国語(ナチュラルランゲージ)を廃止して総合科にした結果、大学教育の成果が上がって、経済力も上がったということです。日本でも総合科をつくるということで、文部省がいうおもな理由としては、国際問題とか環境問題とかどこの分野にいれていいかわからないものを総合科で教えるということですが。

〈依田〉日本の文部省は国語を教科からはずして総合科に組み入れようとは考えていません。教科間の関連を密にすることがたいせつだと言っていますが、それは当然のことです。

〈内藤〉学校はことばをきちんと教えなければいけないと思うし、どこで教えるかといえば国語科しかないわけです。作品を考えるには総合的な視野も必要でしょうが、ことばをきちんと教えるのは国語科しかできないんですから、総合科でやればいいということにはならない。一時「記号科」にすればいいという意見が出ましたが、最近はもう言わなくなりましたね。

〈松浦〉内藤先生がおっしゃったように国語教育がすごく重要だと思います。総合科のなかで国語を教えるという立場の人のなかには、英語を訳した日本語を読むことを重要視していることがあります。英語で国際社会に出ていくのが困難だというので。そこで予備校あたりでは、英語の訳文の日本語に慣れさせるのに重点をおくことに徐々に移行しているということです。

〈依田〉英語の文体で日本語の読み書きを練習するということですか? 大江健三郎先生がフランス語の文体で書くのと似ていますね。

〈奈良〉韓国の例がでましたが、数年前、NHKの衛星放送でいろんな国のテレビの視聴率ナンバー・ワンのドラマを放映したことがあります。韓国のは「家族」というドラマで、受験生の家庭の話です。仲のいい男の子と女の子が大学を受験するわけです。女の子が遊びに行こうとか誘うので、男の子はついおつきあいをしてしまった。女の子は志望の大学に入れたのですが、男の子は落ちてしまった。すると男の子の母親が女の子の家にどなりこんできて、お前の娘のためにうちの息子が落ちてしまったぞというわけです。
韓国はいま変わってきていると思いますが、もともと儒教の国で大家族主義の国ですから、家の誉れとかいうものがすごくあって、それからどういう大学を出たかということが日本の比ではないんです。私はお隣の国がそうだとは知りませんでした。
 そこでわかったのは、たとえばうちの娘がどこかに出て行って、韓国のおなじ年頃の人といっしょに勉強するときに、日本で考えられるような子どものメンタリティと全然ちがうということです。それがすべてではないと思いますが。
 ぼくらのときとちがって、これからいろんな国の人が集まって、競い合ったり勉強し合ったりする機会がふえてくるし、そういうところでの新しいインフォーメーションとか仕事がますます重要になってくる。子どものことを第一に考えると、たとえば韓国の人のことも子どもながら理解していくスタンスをもって、自分もちゃんと主張できるような構えをもたないといけない。ただ英語がしゃべれる、中国語がしゃべれる、韓国語がしゃべれるというだけでは国際教育なんてありえないわけですよね。

〈松浦〉韓国自身、漢字を廃止してしまって、ハングルだけになってしまって、歴史を勉強するのが十分できなくなった。漢字文化圏ですから、漢字を勉強しないとほんとうのところはわからないでしょう。今の世界経済にふみこんでいく即戦力としての能力がアップしたというだけではないでしょうか。日本も同じように、即戦力としての能力をアップするのが近道だということで来てしまったと思います。やはり国語をきちっと教える、漢字をきちっと教える、それをとおして文化を教えることはたいせつです。明星のような学校がそういう教育をしっかりやってほしいなと思います。

〈渡辺〉(父母)私は子どもが2年生で大野先生のクラスです。入学前の学校説明会のときは依田先生が校長先生だと思ったんですが、入学したら和田先生が校長先生で、和田先生は「よ」が「わ」になっただけだとおっしゃったんですが(爆笑)、子どもをお預けしてよかったと感謝しております。子どもは入学してからのびのびして学校生活をたのしんでおります。

〈鈴木〉(父母)私の父は昭和4年生まれですから、先生よりちょっと上かと思います。きょう、いろいろと話を伺いましたし、当時の教科書も見せていただきましたが、父はこういう話をしないんですね。かなりショックがあったんだろうと思います。こういう言い方はなんですが、かわいそうな年代だったと思います。先ほど、簡単にいうと教科書か先生かというお話がありましたが、私は先生派です。私の小学校のときの先生は明星の研究会に参加されていたのかもしれず、『わかる算数』を副教材に使っていました。歴史の勉強も、書いてある文章の行間から何を読み取るかというような訓練を小学校のうちから自然にしていたような気がします。

〈水越〉(父母)中学校の社会科では各先生に内容や進行をまかされているんですか? ある程度学校全体でこういう方向で教えていこうとなっているんですか?

〈依田〉おおまかなプログラムはもっていますが、3人で担当していますからちがう面もたくさんあると思います。

〈水越〉それぞれいい面もあれば疑問もあります。子どもが先生が代わると、ある先生は事実を教える、ある先生は思想的な授業をやって、それを受け入れる生徒もいれば反発を感じる生徒も出てきます。先生の影響というのはけっこう大きいように思います。

〈大野〉(教師・卒業生)私はこの会に出席するのは2回目ですが、創立者の先生たちがどんなにすごいことをしてきたのか、あらためて考えさせられました。私が生徒だったとき照井猪一郎先生が校長でしたが、どんなことをしてきたのか生徒の私は知らず、すてきなおじいちゃんだなあと眺めているだけでした。朝礼のときの話も簡潔で、そのひとことが心に残るものでした。明星の教師になって26年にもなるんですが、この会で勉強させていただいて、いかに不勉強だったかと反省し、また明星がいかにすばらしい学校かとあらためて感じています。思うことはあと二つあります。
 ひとつは、子どもたちが早く答えをみつけられるような教育をしないできたことです。産業でも技術でもとにかく早く早くで来て、それが何だったかというと人のからだをこわすもの、自然をこわすものです。私たちは早く早くと言ってこないでよかったなと思います。
 それから、先ほど松浦さんの話のなかに韓国の経済状態がゆがんだ教育をつくり出してきて、それが日本にも導入されつつあるのではないかという警告がありましたが、そのほかの話をふくめて聞きながら、子どもを部品のように扱う考え方に腹がたってきました。今の社会にとって都合のいい人間をつくろうとするような教育がまた行なわれようとするのかなあと、腹がたってきました。

〈奈良〉お話は尽きないと思いますが、そろそろ時間がまいりましたので、きょうはこのへんで終わりにしたいと思います。
 次回は10月24日(日)の午後1時から、この会場で行ないます。あらためてご案内をさせていただきますが、どうぞよろしくお願いいたします。
(文責 依田)

付記
 第2部の後半は、うしろの席の方々のお声がうまくテープに入っておりませんで、よく聞きとれないものですから、だいたいの記憶をもとに要約させていただきました。何とぞお許しください。また、全体にわたって、皆様のご発言の重点をとりちがえていることも多いと思います。これはもともとアタマがわるい上に、老人力がとみに発達してきたためです。申しわけありません。
 それに、ワープロの技術に慣れないものですから、まちがいだらけと思います。第1部は取扱説明書の指示にしたがって「全文保存」としておいたつもりで、安心して「全文消去」を押したら全部消えてしまいました。ワープロには思いやりもなく、あわれみの気持ちもなく、指示されたとおりに働くだけで、だれがこんなものを発明したのか、大野先生じゃないけど腹がたってきました。
 われらが会長(自称・元PTA怪鳥)はこんなものは使わず、ペンまたは毛筆を堅持しているあたり、さすがと、敬意をあらたにしました。

20世紀縄文人 敬白

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