「學藝會につきて」―赤井米吉

大草美紀(資料整備委員会)

學藝會につきて(『學藝會の為に』前書き)より
赤井米吉
 考えれば考えるほど情けないのは我が教育界である。矛盾撞着、支離滅裂、すべてがその日暮らしである。何ら一貫の精神も統一も見出されない。義務教育の延長が世間の定論のように唱えられているかと思えば、入学試験という入学者撃退法がある。小学者教育にいささかの理解ももたない人々が小学児童の能力検査をしている。小学校の教師はその検査官たちの提出する問題を集録して受験準備と称して文字と数字の断片を詰め込もうとしている。小学校の教科の規定がありながら国語、算術等二、三の教科の記憶をもって児童の能力を検査しようとしている。しかも監督官と称する何かに小言のみ言おうとする輩が、この事実に対して眼を閉ざしている。人を造るべき教育が、かくて蕪雑な辞書、拙い計算尺のようなものを製造することに苦心している。この事実、この恐ろしい事実を世間の人々は何と考えているのだろうか。『机上の学』というのは人々のよく非難する言葉である。然し実際今日の学校でも家庭でもやっている事は殆どそれのみではないか。子弟に勉強勉強と強いている父兄、彼等はこれを勉強と心得ているのだろうか。大事な子弟が日に日に人の仕事から離れて行くのを何とも思わないで、ただ文字と数字を机に対して弄(もてあそ)ぶことをのみ願っている。児童の優劣を心配する教師、学校の良否を口にする視学、彼等の標準は皆この文字と数字のみである。道徳教育、国民教育と法文にも明記せられ、それが学校の真目的のようにしばしば言われながら、そういう事実がどこにあらわれているか。法の権威も、学理の要求も、更に見えぬ、すべてが出鱈目のその日暮らしである。こんな教育、こんな学校からどのような人間が生まれ出ようか。真に悲しむべきは我が教育界である。
 人の精神を知、情、意に分かつ、そして人の教育の仕事も分かって知育、情育、意育がある。然しそれらが果たして行われていようか。ある人々は現今の教育は知育編重であると言う。然しこれは真の知育からもすこぶる遠いものである。知識の断片を詰め込むのは決して知育ではない。我々は知育に於いても満足できない。いわんや情育、意育に至っては尚更である。
 学校は学びの家である。然し学ぶということは前に言ったようなことをするのではない。学ぶというのは生きることである。児童をして知、情、意の生活をなさしめることである。コマを回し、凧を揚げている児童は、机に向っておさらいをしている児童以上の勉強をしているのであることを考えなければならぬ。休憩時間の遊戯の間に、教室の授業以上の教育が行われていることを考えねばならぬ。学校というとすぐに冷たい鐘の音が響き、不動の教師が立っており、白いチョークが黒板の上を歩いており、死の如き沈黙を守っている児童の居るところを考えることを止めねばならぬ。学校は修養院や懲治監ではない。そこには清らかな秋風が吹くとともに駘蕩たる春風がただよわねばならぬ。
 学校は人の教育場であるべきこと、生ける知、情、意の教育場であるべきことを考えねばならぬ。
『學藝會の為に』大正12(1923)年3月10日 集成社

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