「明星生の特質」―船山博彦
大草美紀(資料整備委員会)
明星生の特質
船山博彦(高校教務主任)
先日、高校生が近くの公、私立の生徒を招いて明星で座談会を開きました。この時のくわしい内容は近く発行される、文芸部編集の三十五周年記念誌に掲載される予定なので、今はその時出席された先生のお話を通して簡単に紹介しておきます。
一つは戦争反対についての事です。他校の生徒は憲法第九条の条文を引いて、戦争放棄の条文があるから反対するというのに対して、明星の生徒は条文のあるなしにかかわらず、戦争そのものを、本質的な面から反対しようとする、即ち法律があるか、ないかを問題にしようとしない態度と、条文についての知識を問題にしようとする態度との明らかなくい違いがあって、話し始めにはなかなか論点がまとまらなかったそうです。
また現在の世相から大人の生活を批判する場合にも、他校の生徒は、まず自分が生きるためにもうける事を肯定しようとするのに対して、明星の生徒は、仕事そのものの意義を問題にしようとする。即ち、他校の生徒はもうかる仕事ならその仕事は大して意義のないものでも利用していいのではないか、意義があっても、もうからない仕事はつまらないと現実的にわり切っているのに対して、明星の生徒はそういう考え方に非常な潔癖さを示していたそうです。
この二つの事から明星の生徒の特徴を考えてみますと、まず法律にあるかないかというよりも、その行為が正しいかどうかを自分自身で判断しなければいられないという事で、これは一方では規則のある無しにかかわらず正しい行為をする事にもなり、明星生のよい面として“表裏がない”という点にあらわれていましょう。しかしまた場合によっては規則を無視したわがままで勝手な行動ととられる場合も起きて来ることが考えられます。
また生活の手段にしても、他人の隙をねらい、同僚を出し抜く事をいさぎよしとしない反面、お人よし故に他人にだまされ易いという弱さが心配される事にもなります。しかしこれは、だまされてもだまされてもあくまで善意を貫こうとする強さとなって、やがては人々の尊崇を得られなければならないものと思いますし、我々はそういう善意に生きようとする子供達が亡びないように援助をおしまないでありたいと思います。
明星の生徒の現状をとらえる場合、見る方の主観的な立場も問題になりますが、やがては明星精神を立派に身につけて卒業してゆく過程にある者として、そのよい芽を思うままに延ばせるように御協力頂けたらと思います。明星生の現状の個々の姿をとり出してみた時には、問題とすべき点を多分に持ってはいながら、それらは成長の過程としてとらえてみれば、一見“弱さ”“たよりなさ”と見えてもそれは現在の混乱した世に善意をつらぬく事の困難さを示している事で、我々としては、常に問題の核心を見つめてあくまで善意を貫く人になって欲しいと願っているわけです。
(PTA会報『道』48号、1959年12月発行)
船山博彦先生の紹介
巻頭言でとり上げた文章(原題「“問いたいところ”についてのお答」)を書かれた船山博彦先生は、1939(昭和14)年4月から1971(昭和46)年4月に亡くなるまでの32年間、明星の教壇に立たれた方です。先生は1913(大正2)年2月、浅草の医者の家に長男として生まれました。やがて牛込(現在の成城高等学校(旧制7年制)を卒業した船山少年は「医者を継いでほしい」と願う父の意に反して医学とは関係のない大正大学英文科に入学。1938年、名古屋の役所に就職しましたが役所勤めは合わず、その年の12月に小学校の恩師であった赤井先生に「明星学園で教職に就きたい」と手紙を書いたそうです。一度は「教師は足りているから」と断られたのですが、年度末ぎりぎりの3月になって「急に辞める人が出たので来てほしい」と連絡を受け、役所を辞めて明星の教師となりました。
明星には高等女学校、中学校(男子)兼任の国語科教諭として赴任し、上田八一郎校長の補佐役として太平洋戦争中とその後の苦難の時代に教頭を務めました。戦後、学制が変わったあとの新制高等学校でも教頭として上田八一郎校長をたすけ、上田校長が病に倒れたあとは校長職を代行し、長年にわたって日夜学園の教育経営に尽力されました。
晩年の先生は永年学園の中心的存在として負ってこられた重責と心労から健康をそこなわれ、その重責から退かれましたが、それ以降も率先して縁の下の力持ち的な地味な仕事にとりくまれました。
1971年4月15日に高校職員室で倒れ、2日後の17日未明に亡くなりました。
「私は明星が大好きだ。終生を明星のために捧げたい」と日ごろ同僚に語っておられたそうです。
船山先生の長男(29回生)、長女(31回生)も明星生です。