「思い出 」山本徳行
大草美紀(資料整備委員会)
思い出
山本徳行
関東地方を襲うた未曾有の震災、あの震災の申し子として、ここ明星学園が生まれた。
学園の敷地を見に行かれた赤井先生が「井の頭の森には明星が輝いていた。神秘そのものだった。」
「新しい我々の学園も明星としよう。」と云われた。
爾来30年、教育界の明星として動きなき地歩をしめる明星学園。
それから、武蔵野のまん中の畠の中に「明星学園建設敷地」の棒杭をたてたのでした。あの頃の学園の周囲は、全くの原っぱでした。夜などは淋しくて通れない程でした。井の頭もおちついた静かな公園でした。池には睡蓮が咲き、大きな鯉が泳いでいました。行人もまばらに――御殿山の青嵐がとても物すごい色をしていました。
校舎もない私共でしたが、生徒募集のビラを配りました。
赤井先生も、照井先生も、あの頃はまだまだ若かった。私もまだ28歳の青年でした。
正直に云うと、淋しい私共でした。しかし希望に燃え、意気に輝いていた。今の私だったら、こうもしただろうにと思うが、未熟ながら燃え熾る情熱は、尊いものでした。
震災復興途上にある大東京の、場末の建築は、遅々としてはかどらなかった。もどかしいもどかしい毎日でした。そして5月15日、職員4名、生徒20余名で開校式をあげたのでした。折悪しく雨でした。照井君が幕を借りて来て囲を作りました。ご臨席下さった澤柳博士の頭の上へ、ポツリと雨滴がおちかかります。「こりゃひどいなァ」と見上げられました。屋根が出来上がっていないのでした。みじめな開校式でした。
それでも私達は希望に眼を輝かせていました。
校舎のない私達には、公園の森が教室でした。栗の花が甘い香気を送っていました。ボケの花がとても美しかったと記憶しています。
校庭に花壇を作ったり、鳥篭をつくったり。―― その中にすべり台も出来ました。全校生徒が、日向ぼっこをしながら昼食もたべました。
赤井園長を中心に、全校生徒が円く並んで朝礼を致したものでした。小さい円でした。
かくして学園が生まれたのでした。私はこの創立から4ヵ年間御世話になりました。
思い出の世界はなべて美しい。苦しかったことも、悲しかったことも、また淋しかったことも。
今では全校1千人の大学園だと承ります。今昔の感また一入です。
当時教育原書の輪読を指導して下さった赤井先生、一緒に小使室の火箸やバケツなどを買いに行った照井先生、そして学園の皆様方 ―― 御発展をはるかにお祈りいたします。
『明星学園P.T.A.会報 30周年記念号』(1954・昭和29年6月)
* 山本先生は、赤井先生・照井先生御夫妻とともに明星学園を創設された方で、この文章をお寄せくださった1954年当時、愛媛県今治市明徳高等学校長でいらっしゃいました。