「30周年と私」―照井げん

大草美紀(資料整備委員会)

30周年と私
照井げん
 大正13年2月も終りに近い日曜日のこと、かねて茶郷基氏の御出資による学園創設の計画が成立したので、同志が井の頭の拙宅に集まり、麦畑であった今のこの地に学園誕生の杭をたてることになった。その時私はありったけの感激をこめて、真新しい四角な棒杭に、墨色も鮮やかに「明星学園建設敷地」と拙筆を揮(ふる)った事を今でも忘れることは出来ない。
 その後私は毎晩のようにハトロン紙のような粗末な紙に、児童募集のポスターを書いた。若き日の先生方は、春とは名のみの寒さにもめげず、そのポスターを新宿以西の各駅やそちらこちら目につきそうなところをさがして貼って歩かれた。
 出来あがった校舎はボール紙の天井であったりしてすべては乏しい出発ではあったが、中に盛られた教育理想は実に豊富で新鮮で溌溂たること、何人の追従をも許さないものがあったと思う。
 私は言いたい。「かつて学園に働いた、また現在働きつつある教師に、教育に対する情熱がなかったならば、今日の明星は築きあがらなかった」と。よい先生方に恵まれた学園はほんとに幸いであったと唯々感謝の外はない。児童生徒の信頼も父兄の支持も皆そこから生れ深まって来たのは当然の事と思う。
 私は夫婦共稼ぎで30年という長い年月苦楽を共にして来たが、家庭は全く学園の延長で、すべてが学園中心の生活形態であった。家庭での話題も教育以外には余り持たなかったし、仕事の多くも明日への教材作りや調べ物などで精一ぱい。時には教育上の大議論も闘わすこともあって、それがまた私の何よりの向上でもあり研磨でもあったのだ。世間によく言う共稼ぎの弊もいろいろあった事でしょうが、ひたすらに「道一すじ」に生きて来た私には、それらのマイナスをおぎなうに値するではないかとうぬぼれている。
 会計の仕事なども全く重責であった。身を挺して学園を守る覚悟以外何ものもない。
 私は私共の同級生の集りの時にはいつも若いと云われる。もし私に少しでも若さがあるとすれば、それはほんとに精神的な若さで、偏に学園生活のおかげ、純真明朗な子供等に接しているおかげである。
 30年という年月は決して短くはなかった筈だが、私にはほんとにまたたくまであったようにしか思われない。苦しみも悲しみも今は唯なつかしい美しい思い出の絵巻である。そしてその絵巻は、来る日も来る日も希望と期待とを持ちながら、私の生活の場、魂のいこいの場である学園で画き続けられた。ほんとに仕合せな事であったとただただ感謝の外はない。
 大変私的な事ばかり申述べて申訳ないが、最後に長い間この微力な私を御支援下さった父兄の方々に深い感謝を捧げると共に、多くの不行届を切におわびしたい。
 学園はどこまでも子供等の楽園であるよう祈念して筆を措く。
『明星学園P.T.A.会報 30周年記念号』 (1954・昭和29年6月)に寄稿

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