「惑星の嘆き」―照井猪一郎
大草美紀(資料整備委員会)
惑星の嘆き(抜粋)
照井猪一郎
私立学校は星座に籍を持たない惑星である。無軌道の如くに見えてその実独自の自転を有し、固有の軌道面を精確に公転する。宇宙系の顕著な一存在でないと誰が言う。
★惑星の嘆き――その二
「のんびり育てたいから明星のようなところをえらんだ。」と仰しゃって頂く御ヒイキはかたじけないが、そうした語韻からは多くの誤解を撒布するから無條件では感謝が出来ない。
のんびり育てるということは「充分に自覚的であり、自律的であり、自発活動的であり、創造的であらせる教育、それ等から来る明朗な愉快な生活――」という意味にお取り下さるのでしたら私達は衷心から感激に堪えない。
なぜならば私達の教育は子供達にそうした生活をさせるために充分に個性を尊重し、天分や素質を検索し、その上にそれぞれに即した指導を創案して行くことが指導の原理になって居るからである。
従って瑪瑙(めのう)をダイヤに磨き上げようとするような不合理や、不自然や、非科学的な仕事に無駄な努力をしもしないし、させもしない。
「のんびりした生活」ということを容易な何等鍛錬を含まない教育の意味におとり下さることだけは御勘弁下さい。それは私達にとってこの上もない迷惑である。
なぜならば私達の学校生活では、力いっぱい精いっぱい――即ちいつも天分の極量を傾けて努力する生活をさせることがモットーだからである。
他人に寄りすがったり、人に引きずられたりおぶさったりして歩く子はつくりたくない。遅れてもいい、転んでもいい。教師の慈愛と激励の下にどこまでも自力で歩く子をつくりたいのだ。
のんびりして居るが如くに見えるのは生活が自覚的に自律的に展開して行くからである。自信に向って勇往邁進。敢てはばかるところがないから明朗であるのだ。
然し自らの生活を自ら律して行く彼等の内面的生活には瞬時の油断も余剰もあり得ないではないか。
小学部教育月報『ほしかげ』第4号1933年(昭和8)12月10日発行