「生活の教育」―赤井米吉

大草美紀(資料整備委員会)

生活の教育
園長 赤井米吉
 学園開設の当初には算術の学習は尋常2年から始めていた。その頃の国定算術書の尋常1年の仕事は尋常2年でやらせるのが適当であり、そうしても6年迄には、普通1年からやるのと同様の成績を挙げられると考えたからである。事実その様にして普通6ヶ年かかるものを5ヶ年とやり終せていた。だから尋常1年ではこの算術学習の時間を読み方や図画の方面にまわして、それ等の能力を進歩させただけ得したことになった。
 これは我が学園だけでやったことではなく、すでに成城小学校で実施していたことであり、その他にも随分あった。欧米の国々でもこれは問題になったもので、英国のフウラーは尋常4年から、米国のソンダイクは中学校から数学教育を始めても結局は同じくなると言っていた。数学教育の始期如何は当時内外の教育問題であったのである。
 しかし、かように尋常2年から始めたのは国定算術書を標準にして考えたからである。国定書をはなれて単純に児童の数生活を考えるならば、尋常1年でもなすべき仕事は十分にある。幼稚園でも、いやお母様の膝の上でも、数学教育はありうる。ということが次第に考えられてきた。そこで尋常1年では国定書以前の数学教育といった様なものを考えてやるように変わって来た。花を集めてその数を数える。ボールを投げてその距離を測る。そうした児童の生活の間にあらわれる事象を数学的に考えさせる練習、といった様なものであった。「生活の数学」と言われるものであった。これも我が学園のみでなく、研究的な学校ではあちこちに試みていたのである。
 本年新たにせられた尋1の算術書を見ると、ほとんどこの主張にあって編纂せられている。書物で見ると全然都会的で、田舎の子供には縁の遠いことも多いが、趣旨としては児童の生活の数学的学習ということになっている。かつてはかような新しい試みをして文部省から非難され、その為に左遷せられた教員も少なからずあったのであるが、それから10年後の今日はそれが堂々と全国小学校教育のテキストになっている。実に愉快なことである。
 しかし、これは算術書だけではない。読み方読本の如きも、我が学園で編纂した新読本の主張に非常に近づいてきている。従来は「ハナ」「ハト」の単語で始めたのを、「サイタサイタサクラガサイタ」と文章で始め、しかもそれにリズムを担わせている。これは新読本の「ハナハナハナヤハナ」というのと同じ考え方である。その他、児童の言葉が思いきり取り入れられていること、児童生活の事実が多いこと、劇の如きものを入れられていること。総じて児童生活の読み方という方向に変わってきている。(中略)
 従来の学校教育の主要問題は「小学問」の教授であったが、今日のそれは「児童生活」の指導に転換してきた。したがって児童の教育成績をテストするには、この新しい理想の実現の度合いを見る様にしなければならぬ。従来の試験法の如き知識量の多寡を測定する方法では見当違いになる。この点について父兄の方々は考え方を間違へない様にしていただきたい。
小学部教育月報『ほしかげ』第17号(1935/昭和10年12月20日)
(原文は旧字・旧仮名遣いでしたが、現代表記に改めました)

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