「呱々の声」―照井猪一郎

大草美紀(資料整備委員会)

呱々の声
照井猪一郎
 大正十三年二月二十九日、むさし野はまだふかぶかと冬のとばりの中に眠っていた。
 霜柱にふくれ上がった麦畑を、一足一足かみしめるようにきざんで行く四人の一団があった。一行はぽくぽくの黒土の上をとりつかれたもののようにむさぼり歩いた。
 畑中の小高い一地点に最後の歩みをとめた一行は、やおらかついで来た一本の標木をうち立てた。「明星学園建設地」……したたるような墨あとがあざやかに白木のおもてに読まれた。
 彼らはそれをかこんでいっせいに大空をふりあおぎ、さて思い深げにまわりの森や林をながめまわした。誰からともなく無言のほほえみがかわされた。
 大海の底のようにしずまりかえったひと時だった。真昼の太陽は真珠色のスポットをこの謙虚な開拓者たちの上におとした。
 輝く日光、すみきった大気、ゆたかな土壌、それは彼らの久しくあこがれていた求道の聖地であった。
 池近く富士遠き森の台地――彼らはこの日この地に真教育の精舎の礎をすえた。
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 この四人は明星学園の創立者赤井米吉と照井猪一郎、山元徳行、照井げんの全同人で、この時この仕事を援けた育ての親は、茶郷基氏というかげの人であった。
 大正十三年五月十五日、明星学園開校の式典は入学式をふくめて行われた。あいにくの雨を半ぶきの屋根はしのぎかねて、式壇はぬれるにまかされた。参列の子どもたちの、親たちの、来賓の頭から頬をつたって雫は床をぬらした。でもみんなの顔は輝きにあふれていた。
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 校地は緑にかこまれた一千坪の畑地、校舎といってもそれは百九坪のほんのバラック普請、集まった児童は一年二年三年の三学級あわせて男女二十一名――これは明星学園発祥の種の起源であった。
 しかし将来への計画はすでに構想されていた。一学級の定員を三十名とし、中学校、高等女学校を延長の上におき、男女共学をたて前とした。
『明星誕生ものがたり』より
1994年5月15日復刻発行
文芸部『明星 25周年記念』1949年11月15日に初出
『残照 照井猪一郎先生遺稿集』1968年2月25日所収

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