シリーズ:「明星学園史研究会」⑤ 北原白秋と明星学園
大草美紀(資料整備委員会)
明星学園史研究会 第5回記録
1999年10月24日 (日)
13:00~17:00
於 吉祥寺南町コミュニティセンター 2F 第2会議室
北原白秋と明星学園
第1部 レポート(依田好照)
第2部 問題提起・話し合い
第1部
はじめに
秋晴れの日曜日で、どこかお出かけのご予定もおありでございましたでしょうに、この会を優先してご参加いただきましてありがとうございます。
当初、何回目かに「北原白秋と明星学園」というテーマをとりあげようと考えておりましたときには、息子さんの北原隆太郎氏(7回生)をお訪ねして、いろいろとお話を伺おうと思っていたのですが、それも果たせず、きょうに至ってしまいました。また、先日、柏倉さんからお手紙をいただいて、隆太郎さんは上田八郎先生(元高等学校長・明星会副会長・現明星学園理事)、谷井精之助さん(元明星会会長・理事)と同級生で、白秋の姪御さんたちも何人か在学しておられて、そのひとりの豊田瞳子さん(19回生・千葉在住)は上田先生が担任で親しくしておられたから、上田先生に聞いてみたらどうかと、ご親切に教えていただきました。ところが身辺にわかに多忙となりましたものですから、そのご親切にも応えることもできず、上田先生からお話を伺うこともいたしませんで、たいへん申しわけなく思っております。
そんなわけで準備不十分、私の身辺にある材料だけでお手許の資料をつくりました。その資料にしたがって、1時間ばかり前座をつとめさせていただきます。
1.『明星学園行進歌』
北原白秋と明星学園との関係は、簡単にいうと、ご子息の隆太郎さんとお嬢さんの篁子さんを明星に学ばせたということ、園長の赤井米吉先生に依頼されて『明星学園行進歌』を作詞したということです。けれども、成城学園に通わせていたお子さんたちを明星に移された父親としての白秋には、明星に期するものが大きくありましたでしょうし、『明星学園行進歌』は今でも歌いつがれているわけですから、因縁浅からぬものがあります。
明星学園創立50周年のときにつくられた『明星の年輪―明星学園50年のあゆみ―』のなかに、赤井米吉先生が書かれた文章が載っていますから、その一節を読んでみます。
《‥‥昭和9年学園の10周年記念学芸会が外苑の青年会館で催された時、わたくしは偶然に父兄の北原白秋さんとならんで見ていた。お嬢さんの篁子さんが劇に出られるのだった。その時わたくしは「明星行進曲」を作ってもらいたいとたのんだ。白秋さんは心よく承諾された。そこで資料としてわたくしの歌と学園の要覧をさしあげておいた。それには今も書かれている
「強く、正しく、朗かに」が書かれていた。しばらくすると白秋さんから原稿用紙に『明星行進歌』が記されてきた。それが今歌われているものである。
「深き木立」は今の若い人々にはぴんとこないかも知れないが、戦争前までは井の頭の池の両側から新東京あたりまで樹齢40~50年の杉が深く茂っていた。「富士」は校庭から晴れた日の朝夕は望まれたものである。それらの風物がことごとく詠みこまれ、「校歌」といわないで、1篇の井の頭の詩としても立派なもの。それにわれわれのモットー「清く」「朗か」がよまれ、「若き魂」が歌われているので、われわれは有頂天になってよろこんだ。
曲は白秋さんのお知合いの細谷一郎さんにたのんで作ってもらった。それができてきたのは秋の運動会の少し前であった。さっそく練習して、運動会のあとの式にはじめて合唱した。白秋さんは夫人とともに来ておられたが、特に父兄席から出て生徒の前に立って聞いておられた。時々頭をかしげるようにしておられた。何か気にいらないところでもあったのであろうか。20年むかしのそのお姿がほうふつとする。‥‥》
その前にすでに、赤井米吉作詞・吉原 規作曲の校歌『明星学園の歌』があったんですね。
しののめの/空にさきがけ/真輝く/望みの星よ、明星、明星/
われらの明星/永久(とわ)に輝け
たそがれの/空にきらめく/とこしえの/国のしるべよ、明星、明星
われらの明星/永久に輝け
吉原 規(いさむ)という人は明星の中等部の音楽の先生で、いまの渡辺理事のおじいさんです。赤井先生のさきの文章によると、「歌詞がこのように単純なものであったから、曲も静かで、荘重な、室内の儀式用には立派なものであったが、行進歌曲にはむかなかった。しかし小学部では今の行進曲ができた後も、かなり久しく両方を歌っていた。中学部のものには行進しながらいせいよく歌われるものが欲しいと思った」とあります。
こういういきさつで『明星学園行進歌』が誕生しました。
ところが、赤井先生は、次のようにも書いておられます。
《戦時中は何でも統制ばやりで、「校歌」も東京都の許可をうけなければならないというので提出した。すると許可にはなったが、「めざめ若き魂」を、「さめよ若き魂」と訂正せよとの条件がつけられていた。大詩人白秋さんの詩を訂正する官吏の無謀さにおどろいたが、暫くそのように直して歌っていた。戦争がすんでからまた元どおりになった。》
社会的な問題に目覚めてはいかんということでしょう。旧い卒業生の方、いかがでしょう、おぽえておいででしょうか。
〈馬場〉(旧姓・志村 13回生)「さめよ」と歌った覚えがあります。戦後、子どもがお世話になってから、「めざめ」になりました。
そうですか。ここにも現代史の有力な証人がいらっしゃいます。(笑い)
2.教育改革者としての白秋
そういうことだけでは芸がありませんから、きょうは、教育改革者としての北原白秋についてレポートさせていただきます。白秋は学校の先生をしたことはありませんし、明星学園からもちょっとはなれますが、しばらくお聞きください。
(1)『赤い鳥』と白秋
年譜によりますと、白秋は1885(明治18)年に福岡県の今の柳川市に生まれました。本名は隆吉。北原家は代々、柳川藩御用達の海産物問屋でしたが、お父さんの代で酒造業が本業となりました。ところが、白秋が県立伝習館中学校に在学中、村の大火で生家と酒蔵が全焼して、それ以来没落していきます。
1904 (明治37)年、19歳のとき、早稲田大学の高等予科文科に入学して、若山牧水や土岐善麿らと知り合います。その後、与謝野鉄幹・晶子の『明星』に多くの作品を発表して、石川啄木・吉井勇らの文学者や石井柏亭・山本鼎ら若い洋画家たちと知り合い、歌人として詩人として活躍することになります。有名な第一詩集『邪宗門』の刊行は24歳のときです。
生活の貧困と恋愛など苦悩の青春時代については割愛して、活動の大きな転機となった『赤い鳥』とのかかわりから、その後の足どりをざっとたどっていきたいと思います。
1918(大正7)年7月、夏目漱石門下の俊才・鈴木三重吉が児童雑誌『赤い烏』を創刊して、既成の作家たちに子どもたちの読物を書かせ、また子どもたちの作文・綴方の指導にも力を入れました。彼は『赤い鳥』創刊の目標の一つに「募集作文」をあげました。また、創刊号に創作童謡や各地童謡の募集を出し、選者は北原白秋だと告げています。
白秋は『赤い鳥』に精力的に自作の童謡を発表し、同時に「地方童謡」や創作童謡の募集にも積極的にかかわり、その選者として熱心にこの運動にとりくんでいきます。そして、やがて投稿作品のなかに子ども自身の作品があることに気づき、「少年自作童謡」欄を設けました。
「児童自由詩」という呼び方が『赤い鳥』で用いられるのは、1921年11月からです。
白秋が『赤い鳥』に発表した創作童謡は三百数十篇にも及んでいます。「からたちの花」や「この道」などはとくに有名ですね。発表の舞台は『赤い鳥』だけではありません。児童文学者に藤田圭雄(たまお)さんという方がいらっしゃいますが(注:この記録をまとめているあいだの11月7日、93歳で亡くなられた)、『児童文学大系』の白秋の巻を担当した藤田さんが調べたところ、総数およそ1200篇、そのうち400篇に曲がついているそうです。一つの童謡に4人、5人と作曲しているものもあるので、総数約600曲に及ぶということです。これは富谷さんが柳川を訪れたときにもとめられたパンフレットで知りました。
このように、白秋の童謡運動、児童自由詩運動、さらにいえばこれらの運動を通じての新しい教育改革の運動は、『赤い鳥』からはじまっているんですね。
もう一つ忘れてはならないことは、『赤い鳥』は1920 (大正9)年1月号から、山本鼎の選になる児童の自由画を載せるようになったことです。山本鼎はフランスに留学して、ロシアを経由して帰国したんですが、ロシアでは子どもの創造性が大事にされているのにくらべて、日本の学校教育の「図画」はお手本どおりに描かなければいけないとされている、それは大人の感情の複写ではないかと疑問を抱き、郷里・長野県の神川小学校での自由画の展覧会を皮切りに、全国各地で自由画展を開いていました。「自由画」という呼称は山本鼎がはじめて用いたといわれます。この「自由画」の運動がまた『赤い鳥』の運動と結びついて、教育改革の一翼を担うことになります。山本は白秋の妹・家子(いゑ)と結婚していましたから、白秋と肝胆相照らす仲でした。
(2)芸術教育の提唱
1921 (大正10)年1月、アルスという出版社から教育雑誌『芸術自由教育』が創刊されました。アルスは白秋の弟・鉄雄が興した出版社で、ご年輩の方にはなつかしい記憶があろうかと思います。雑誌の編集委員は山本鼎、片上伸、岸辺福雄、北原白秋の4人で、山本が中心でした。片上伸は早稲田大学の先生で、山本鼎がロシア滞在中にモスクワで知り合い、意気投合していた仲です。当時、「文芸教育」に関する論文を次々に発表していました。岸辺福雄は幼年教育の実践家で、口演童話で知られた人物でした。これに創作童謡と児童自由詩に情熱をそそぐ白秋が加わったわけですから、新しい「芸術教育」の提唱者として申し分のないメンバーでした。この年、白秋36歳。佐藤キクと結婚して、新生活を築く意気込みもあらただったでしょう。
この年8月、軽井沢の星野温泉で開かれた「自由教育夏期講習会」に招かれて出講し、そのときの印象にもとづいてあの有名な「落葉松」をつくり、11月に『明星』の復刊号に発表しています。
『芸術自由教育』は、その年11月まで全10冊を刊行して終わることになりますが、大正自由教育の記念碑的な存在です。そのなかで白秋がはたした仕事につきましては、のちほどふれたいと思います。
大正10年といいますと、これまでご出席いただいた方にはすでにおわかりのことと思いますが、成城小学校が誕生したのが大正6年、明星学園の誕生が大正13年ですから、成城小学校を一つの拠点として、「大正自由教育」あるいは「新教育」と呼ばれる新しい教育運動が全国的に展開されていた時期です。子ども一人ひとりの個性と資質を伸ばしていこうという教育がいろいろと工夫されていた時期ですね。軽井沢で「自由教育夏期講習会」が開かれたのも、その一環だったのでしょう。この年、白秋は童謡集『兎の電報』や翻訳童謡集『まざあ・ぐうす』を刊行しています。
翌年3月、長男の隆太郎さんが誕生しています。9月に山田耕作とともに芸術雑誌『詩と音楽』を創刊し、美術の分野では山本鼎が協力しています。また、この年、歌謡集『日本の笛』や童謡集『祭の笛』を刊行して、日本の伝統的な歌謡、「わらべうた」にも強い関心を示しています。
関東大震災の翌年、1924(大正13)年に明星学園が創立され、その翌年に長女篁子さんが誕生します。
〈中略・・・当日の資料参照〉
(3)「子どもは本来詩人である」 (補注:白秋は「小供」と表記しています)
北原白秋がなぜ童謡や児童自由詩に精魂を傾けたのか。そのことについては、白秋自身が書いていますから、お手元の資料をご覧ください。
彼は『芸術自由教育』の創刊号(1921年1月)の「童謡復興」のなかで、こう言っています。
《‥‥私が学齢に達した時、いよいよ私は街の小学に入学せねばならなくなつた。その当日の事を私はよく覚へてゐる。私はいやだといって学校の黒い門の柱にかじりついて泣きわめいた。青くなって震へた。小供の私にも学校といふものが何か恐ろしい牢獄のやうに見へたのだつた。全くそこには純真な小供の天性を歪形ならしむる、妙に規則的な、小供に縁のない、大人の小供のために造った一種の牢獄であった。そこで私たちの童謡と何らの関係のない唱歌といふものを無理に教へられ、私たちの郷土的な自然の生活と全く違った世界の中で、全く違った大人の遊戯を強ひられた。
全く無理だ。不自由だ。不愉快だ。今思つてもその当時の学校教育は小供の本質を虐殺するものばかりだつた。》
白秋が小学校に入学した明治20年ごろと、彼がこの文章を書いた大正10年の時期は、学校の様子もちがっていたと思います。大正自由教育が展開されつつあった時期ですからね。しかし彼は、まずそのように書きます。そして次のようにも書きます。
《春の弥生のあけぼのに花ざかりかも、白雪の
こんな古い今様を白々しくも、学校では、少しく新しい曲調をつけて明治の小供に歌はせた。小供たちは、ただ鸚鵡のやうに口をあけて、ただポカンと大人の歌ふ通りに歌つてゐた。何が「奈良の都の」だ。何が「建武の昔正成は」だ。何が「四百余州をこぞる」だ。十万余騎の敵、ヨキノテキとは何だ。小供にわかる筈はないのだ。
思ひ出せば出すほど憤懣を感ずる。実際、明治以来の学校唱歌なるものは、その選定に於て、そのそもそもの根本から間違いだらけであった。全然小供といふものを、その生活を知り得なかったことが第一、第二には日本の童謡に於て何らの知るところがなかつたことが第二、知つていたかもしれぬが、忘れてしまつていたその恐ろしい錯誤からみすみす維新後の日本の小供を過つてしまった結果になつたことだ。この不自然極まる教育唱歌は現在に於てもなおその恐ろしい錯誤を繰り返してゐる。》
(補注:この箇所を読む間、柏倉さんから「春の弥生のあけぼのに‥‥」の歌を覚えているという発言があり、「四百余州をこぞる十万余騎の敵、国難ここに見る‥‥」の唱歌が旧い世代の人たちにより盛大に歌われた)
《小供は小供として真に遊ぱしめ、学ばしめ、生きさしめ、光らしむべきであって、従来の大人の為めの小供、大人くさい小供たらしめる教育法はその根本に於て実に恐るべき罪悪だったと云ふ事だ。》
白秋はさらに、その年9月の『芸術自由教育』第9号の「児童自由詩に就て」で次のように言います。
《小供は本来詩人である。成人のあらゆる感情の芽生はその深い叡智と共に生れ乍らの嬰児の体内に既にその凡てを潜めてゐる。その一つ一つの芽生を機会ある毎に外へ引出して、枯れずじまひになさない事は何よりの愛であり親切である。
あの無心な三歳の童児の折にふれての片言の一つでも聴き逃がさないでゐたら、それが一つ一つの詩になつて光つてゐるのに驚かずにゐられまいと思ふ。純心であり、凡ての感激が新鮮であり、驚異に満ち満ちてゐる故に、その言葉は生きそのおのづからな韻律がそのまゝの詩の形を以て顕はれるのである。その自然を尊ばねばならない。自由に歌はせるがいゝ、自然に任せたがいゝ、その感動そのまゝをそのまゝロに上さしたがいゝ、真実に彼等を生きさす事だ。》
これだけでは抽象的ですから、具体例を二、三あげてみましょう。恩地先生からいただいた北原隆太郎・関口安義編『自由詩のひらいた地平』(久山社、1994年)のなかに、北原隆太郎さんの「幼児の言葉」という短い一篇があります。
《『日本幼児詩集』には、私の「詩」が2歳3歳の項に10篇、8歳の項に3篇、1925年6月28日生まれの妹の篁子の詩が4歳の項に7篇、収められている。
妹の詩は父の助手であられた与田準一氏が記録され、当時、たしか『チチノキ』誌にその詳細な解説を発表されたのであった。》
与田準一氏は児童文学者で、明星の父母のお一人でした。長男の準介さんは流行歌謡の作詞者となり、橋本淳のペンネームで活躍しています。「ブルーシャドウ」や「ブルーライト横浜」の作詞者です。
隆太郎さんの詩は白秋が解説しているんですが、それはお母さんがいつも日記をつけていて、その日記をもとにしているというんですね。
〈父の解説文は母の日記にある「坊やの言葉」という記録をもとにしている。私の発言を母が片仮名で記したそのままを、父が漢宇まじりの平仮名に表記し直した時、父は内容には何らの手も加えてはいない。唯一つの例外は「雨こんこん」とか「みかんの花」とか題された詩で、父は「雨こんこん、みかんの花」と表記したが、母の記録には、「アメコンコ/アメコンコ/ミカンノハナニ/フッテル」とある。2歳児の発言としては、父の修正(?)はちょっと、できすぎている。ともあれ、いずれもがごく自然に五七調になっている点には、日本語の特性が現われていよう。
1924年度の母の日記の2月4日(月)の項に、「坊やの新語」として、「カヤノミイヤマ」「チョツキン、チョツキン、チョツキンナ」とある。父の童謡「かやの木山」や「あわて床屋」の反復語調の聞きかじりが、言語習得のごく初期の段階に現われていることは興味深い。》
ところが、「坊やの言葉」のすべてをよしと認めなかったようなんですね。たとえば。
6月16日--アスコニモテフテフトマッタ/テフテフトマッタ/ムコウニモテフテフトマッタ/(円月に少し雲が通りすぎたのを見て)オツキサマ、カハイソウ
7月7日--コケッコトナイタ/ポッポ/ポッポ/アソンデル/アソンデル
8月17日--(蟻の穴を見て、夕食の頃)アリカワイソウ/土ノベッドニネネシテ
10月28日--ボーヤ詩/松ぽっくり/大きいぼんちゃん/小さいぼんちゃん
隆太郎さんは「以上の言葉はいささか感傷的だったりして、父の詩眼に適わなかったらしい拾遺集である」と書いています。
こうして白秋は、ご自分のお子さんたちの言葉から採集し、全国の子どもたちから募集して選び、珠玉の作品をどんどん発表していったんですね。『赤い鳥』に応募したのは、はじめのうちは個人個人だったようですけど、やがて学校の先生たちが自分の学校で指導した子どもたちの詩をまとめて投稿するようになっていったようです。さっきの『自由詩のひらいた地平』には『赤い鳥』投稿自由詩の実態調査も載っています。(補注:巻末の『鑑賞指導 児童自由詩集成』に入っている学校別の名簿を見ていたら、慶応幼稚舎3年の岡本太郎君の名前がありました。『日本幼児詩集』には、隆太郎さん、篁子さんだちと一緒に、丹阿弥谷津子(2~3歳)の名前が出ていました。これはあの丹阿弥谷津子さんだと思います。)
(4)白秋の「提言」
『赤い鳥』は1929 (昭和4)年3月、127冊を出して一時休刊し、2年後の1931(昭和6)年1月に復刊します。白秋は1933(昭和8)年4月まで児童詩欄の選者をしましたが、主宰者の鈴木三重吉と対立して『赤い鳥』を去り、千葉春雄が主宰していた『綴り方倶楽部』の1936 (昭和11)年2月号から児童詩欄の選評を担当しました。
このとき、白秋は「提言」を書いています。この「提言」は、『赤い鳥』を離脱して3年目の白秋が、あらたな情熱をもって児童詩の指導にあたっていた時期の宣言文のようなものでした。
《もともと児童の世界は豊満であり、自由であり、その行動は自在であるべきである。之をたゝ一方的な行動主義的な見地からのみ限定して、強い詩を作れの、生活の詩を作れの、貧しい者の詩を作れの等ヽ主義の為めの作詩を慫慂したり、使嗾したりすることはどうか。それによつて来る禍は児童の心性を却って不自然に歪め、貧への誇示となり、階級観念を植えつけ、散文的な、或は粗雑な感動を善しとする傾向を助成せしめることによつて、児童自由詩本来の精神と表現とに背馳せしめるであらう。貧しい家庭の子供でなければ親孝行の詩も、真率な生活詩も作れぬといふのであれば愈々偏して了ふであらう。児童自由詩は如何なる家庭の児童にも如何なる児童の感動をも、如何なる自然への感覚をもすべては広大な世界に於いて、児童に採られてあらねばならぬのである。》
この「提言」が書かれた背景と執筆の動機は、若い方々にはちょっとおわかりいただけないかと思いますが、これはそのころさかんになってきた生活綴方教育に対する批判なんですね。
1929 (昭和4)年10月、『綴方生活』という雑誌が創刊されました。1929年と聞いて、みなさんはどういう出来事を思い浮かべますか? 世界史上の大きな出来事です。歴史のテストです、さあ答えが出ましたが?
そう、世界恐慌ですね。アメリカにはじまったこの大恐慌は、またたくまに世界中に広がりました。日本も世界恐慌の大波にのみこまれて、たいへんな不景気に陥り、とくに東北地方を中心に農家の困窮はいちじるしく、婦女子の身売りが続出しました。弁当を持ってこられない子ども、子守や家の手伝いで勉強もできない子どももいっぱいいました。こういう現実のなかで、生活をみつめさせる教育、おれたちはなんでこんなに貧しいんだ、とうちゃん、かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃんも一生懸命はたらいているのに、なんでこんなに貧乏なんだ、この貧乏の原因はいったいなんなんだ、どういう明日をつくっていくか、そういうことを綴り方や詩を書くことを通じて考えさせる、そういう教育を進める運動が高まってきたんですね。
『綴方生活』という雑誌は、赤井先生とも親交のあった志垣寛、池袋児童の村小学校の主事をつとめた野村芳兵衛、生活綴方の理論家で実践家だった小砂丘(ささおか)忠義らが創刊しました。翌年9月に発表した、いわゆる第二次宣言はこう宣言しています。
《社会の生きた問題、子供達の日々の生活事実、それをじっと観察して、生活に生きて働く原則を吾も掴み、子供達にも掴ませる。本当な自治生活の樹立、それこそ生活教育の思想であり又方法である。
吾々同人は、綴方が生活教育の中心教科であることを信じ、共感の士と共に綴方教育を中心として、生活教育の原則とその方法とを創造せんと意企する者である。》
白秋はこういう教育のなかに偏った作詩の指導の傾向が強いのを見て、児童自由詩の世界はもっと広いんだと言っているわけですね。
(5)「生活詩」派からの批判‥‥寒川道夫「提言を斬る」
新潟県の農村の小学校で生活綴方の教育を実践していた寒川道夫(1909~1977)は、北原白秋とその業績を尊敬していましたが、白秋の「提言」を読んで、『綴方生活』の1936(昭和11)年10月号に「提言を斬る-新児童詩前進のために」を発表し、白秋をきびしく批判しました。この年、寒川は27歳。彼はやがて治安維持法によって教職を追われ、第二次大戦後、明星学園に奉職して小学校長をつとめ、退職後は和光大学の講師、和光小学校の副校長を歴任しますが、それは後の話です。また、寒川は戦後、新潟の小学校で教え子だった大関松三郎の詩集『山芋』を編集し出版しています。
真摯な青年教師だった寒川道夫の「提言を斬る」の一節を読んでみましょう。
《白秋氏によつて導かれる詩は、児童の自然性に立つ情操や叡智の噴水であり、新鮮鋭敏な感覚の所作である。われわれとても一応かうしたものを受け入れ、恵み育てることの大切なことは知つている。しかし、われわれにとつてはこれは詩を生む一つのメカニックな条件であるにすぎない。われわれはさらに生々しい生きた人間を見なければならない。人間と人間の協力的な生活建設にたいして、勇ましく挺身する情意を燃さねばならない。詩はその火焔に注がれる油であり、推進機をまわす熱力であれ、といふのである。》
寒川はまた、こうも言います。
《白秋氏の芸術とは何であらうか。それは現実を感覚的陶酔によって夢幻美にひきこむ観照主義に終始したものであり、客観的には、小市民イデオロギーの反映に外ならないのである。》
私がいつもたくさんの著書を参考書として使わせていただいている中野光先生(現在中央大学教授)は、『教育改革者の群像』(国土社)の「新教育に情熱を注いだ詩人 北原白秋」のなかで、寒川先生についてこう書いておられます。
《こうして寒川は「生活を認識し、生活力を陶治するために向かう態度を詩によって学ぶ」ことに児童詩教育の新しい課題を見出した。そして、「生活に課題して、そこに子供たちの無関心であった感動の世界を開拓し、「子供たちがそこに得た感動を新しい生活の問題として提出する」ことに児童生活詩の本質を求めようとした。われわれはこのような詩論に立脚した教育実践に一つの成果を、戦後に寒川が編集し発表された大関松三郎詩集『山芋』において確認できる。》
きょうは、その『山芋』も持ってまいりました。のちほどご覧ください。
もう2時半になってしまいました。ここで第1部を終わり、一服させていただきます。
第2部
〈奈良〉(元父母)今日は明星学園の元父母でもあった北原白秋を中心にお話をうかがい、とくに児童詩・童謡の分野での白秋の業績の深さ大きさにあらためて強い感銘をうけております。
〈鈴木〉(父母)「子どもは本来詩人である」の文章を読んで、前にとりあげた明星の教科書づくりのことを思い出しました。白秋は、文部省の全国一律的な押し付けを批判して、各地の子どもの生活や感性を大事にすべきだと主張したのだと思いますが、そうでしょうか。
〈依田〉白秋の小学校入学は明治20年代で、大正時代の学校教育がまったく同じだったとは考えにくいし、今とはまた違っていると思うが、共通しているのはオカミから一方的に教育の内容・教え方まで定められているという点です。私にもよく判らない点も多々あるが、白秋のなかにはいろいろな要素がある。彼は「わらべうた」、日本の子どもたちの間にむかしから歌われていた歌、生活から出てきた歌を、学校唱歌ではほとんど失くしてしまったと言っています。
思い出していただけると判りますが、明治の初めの方にはアイルランドなどの民謡などが多いでしょう。「蛍の光」「庭の千草」とか欧米のメロディーをとりいれて、早く欧米に追いつけと言う国策を普及しようとした。学校の建築にしてもそうですね。この夏私は松本の開智学校を見学に行きましたが、あれは洋風建築ですね。そういう風に西洋の模倣から明治の教育ははじまった。それを白秋は日本の教育の弱点として正確につかんでいた。つまり柳田国男的な立場に近いものがあったと思います。一方では白秋の中にも西洋への憧れがありました。最初の詩集「邪宗門」から始まったわけで、そういうことを丹念に探ってみるとまた面白いところがあって、一筋縄では行かない白秋独自のものが見えてくると思います。学校唱歌は伝統的な日本の音楽を直接伝承して始められたわけではないが、わらべうた的なものも加えられています。岩波文庫の『学校唱歌集』を読んでみると、ただなつかしいなというだけでなく、近代日本の出発と「近代化」の歴史が見えてきて面白いですね。大野先生、今の検定済教科書にも子どもの詩が何ページか出ているでしょう?
〈大野〉(小学校教師)子どもの創った詩ですね。断片的に出てきます。
〈依田〉今の学習指導要領には詩の創作なんかは、出てないんですよ。昭和26年ぐらいの最初のころのものには、物語とか小説とか創って文学的創作活動するようにとか、ご親切に文部省は言って下さいました。今のはもっと抽象的表現になっていまして、国語科教育の日標は、「国語を正確に理解し適切に表現する能力を育てるとともに、思考力や創造力や言語感覚を養い…」と、こう抽象的になっちゃって、ま、かえってやりやすいんですよ、現場では。得手不得手が先生にもありますから。今日はガッパは善方先生の一周忌だっていうことでそちらを優先しましたが、ま、彼なんかは「ヒネクレてる」と自ら言ってまして
〈野次〉自分で言うのはあまりヒネクレてはいないんですよ、素直だからナルベクヒネクレていようということで…。(笑)
〈依田〉彼なんかは、明星の先生方のなかでは、国語の文法教育で(とくに小学校の)すごい仕事をやってくれて、いいものをこしらえてますけれど、文学の方でも読み聞かせ・代り読みとか前回話をしていましたね。創作活動はあまり…
〈阿部〉(父母)詩書きましたよ。明星学園報に出していただいたりしました。
〈依田〉いろいろな分野があるからね。寒川先生、無着先生など綴り方教育系統の方はさかんに書かせましたね。
〈富谷〉(元父母)「ひとつのものをじっと見なさい」って無着先生が、うちの子の臨時担任をなさって下さった時、観察を鋭くしなさいっておっしゃってましたね。
〈梶原〉(父母)寒川先生が、白秋の児童詩について批判されたわけだが、そのことと明星の国語教育との関連がどうなっていったのかお話ください。
〈依田〉むずかしいですね。(笑)
ま、国語教育と言ってもいろいろ分野があって明星の教育としてどうくくったらいいのか…。けっこう先生それぞれ得意のところを生かして存分にやっているのが明星学園だということになりましょう。
この間、社会科についてお母さんから、三人三様でバラバラじゃないかという御指摘をうけましたが…
〈阿部〉内藤先生で文法を4年のときに教わってとても良かったが、先生が定年になられたあと5年6年とちがう先生になったら、続けて文法を…ということではなかったので残念です。
〈依田〉梶原さんのお話の前段階のところにちょっとふれますが、白秋が『綴り方倶楽部』の選者になったことはお話しましたが、白秋の前の選者は百田宗治だったんです。ところが彼が自分で「工程」という新しい雑誌をつくることになって移ってしまったので、国分一太郎先生(若い人たちには遠い名前になってしまったかもしれませんが、寒川先生などと御一緒に生活綴り方運動のすぐれた実践をなさった方です)などが『綴り方倶楽部J』の選者をなさったのですが、それから1年ぐらいしてから白秋が選者を担当することになったんです。その詳しい事情は明らかではありません。寒川先生は「提言を斬る」の今日引用しなかった部分で「新興童詩の芸術的救済の為」つまり生活綴り方に不足している芸術性の乏しさを克服するために選ばれたのではないかと推測しています。「提言」の中で白秋は自負を持って語っています。「児童自由詩の最初の発見者は私だ。私が最初の提唱者だ。指導者としてやってきた。しかし今日までの業績の事実をもってしていうと…」と引用したところに続くわけですが、寒川道夫たちの批判に対しては白秋は反論しなかった、沈黙を守ったんです。生活詩派の人たちは「白秋は黙っちゃった、おれたちが勝った」と思ったでしょうけれど、白秋の果たした役割と、批判した生活詩派の人たちの仕事の両方を、もっとこまかく検討する必要があると思います。寒川道夫の『児童詩教育論』(1979年あゆみ出版)の「解題」を書いた江口季好という人が、興味深いエピソードを紹介しています。寒川が「提言を斬る」を発表した後、たまたま白秋に会い、『綴り方倶楽部』に選ばれた作品はみんな生活行動詩ではないかとただすと、白秋は、「これらの詩は文句なくいい。ああ言う詩のわかっている指導者の作品を非芸術というわけではない。詩のわからない指導者がいすぎて、詩だとよんで恥じないのに腹がたつので書いた提言だ」という風に言ったそうです。生活詩に近いものは『赤い鳥』の中にもたくさんあるんです。だから白秋選の作品や白秋自身が小市民的、プチブル的であるという切り方は、乱暴ではないかと思います。
そういうところの混沌の中で戦後の国語教育が続いてきたと思います。一口では答えにくいのですが、明星では教材研究を教師が集団でやっています。だから十人十色で勝手にやっているわけではなく、今の子どもたちにはどういう作品がいいんだろうか、必要なのか、何を考えさせたらいいのか、各々思想信条がちがいながらもやはりより良い教材を選んでいこうとしている点では、すごい学校だなと思います。いろいろな学校を今めぐり歩いていますが、あらためて明星の教育はすごいなと思います。
生活派の寒川先生自身は、『山芋』のころの信念をもって実践を続けられたのでしょうが、不幸にして校長・理事になられて資金面の御苦労も重なり、残念なことに結局明星から和光にお移りになりました。あそこに寒川先生の教え子がいらっしゃいますので、実践面については証言して下さい。
〈川連〉(元父母)寒川先生は、独自の国語教育を続けられたのですか? 無着先生なんかの日本語の教育は、創立者以来の伝統とちがうように思われるんですが? 無着さんたちは、とても一方的で父母の意見もきかなかったんですが、寒川先生は、それとはちがったんですか?
〈依田〉いや、そんなことはないんです。川連さんにとっては、遠藤・無着さんたちとの闘争は、一種の原体験が強烈におありだから、そうお感じになるかも知れないが、明星学園の教育、もっと広げて日本の教育を考えていくと、戦後の混沌とした状態、その中で研究にもっともっと深めていくべき問題や分野がいっぱいあるわけです。「日本語」というのは、そのうちの一つ、文法教育なんですから。日本語がメチャメチャになって支離滅裂になって、文部省がわけの判らぬことになって検定済教科書も何だか、見込みみたいなゴタゴタしたものばかり並べていると、これで子どもたちに、本当の国語の力、日本語を話したり読んだり書いたりする力がつくのかというところから出発している。そのために「文の仕組み」を日本語は、「何々は何々だ」といった「文の仕組み」を一年生から基礎からチャンと教えていかなければならないということなんです。日本の戦後の教科書を見てもらうといまだにそうですけれど、文法の事項つまり「文の仕組み」を教えることは、体系としてないんです。教科書のアチコチに主語・述語とか、こんどはこっちにきて形容詞とかバランバランになっていまだに日本語をしっくりと仕組みとしてとらえることはないんです。そういう意味で明星学園で「日本語」の教科書を作る作業はたいへん大事な仕事だったんです。それは文法教育のことですが、また文学の分野で、文学作品を読み取り、また作品を書かせると言う点で、例えば寒川先生は文法教科書をつくることには、お忙しくて直接手を出せなかった。文学を読ませ、創作させる上で、寒川道夫の果たした役割は大きかったんです。無着さんたちもなにも「日本語」ばかりやっていたわけではないんです。書くということもやったし(「詩の授業」という本も一冊出しています)…
〈川連〉内藤先生もそういうことでないとおっしゃっていたし今日のようにお話いただけると良く判るのですが、あの当時は、無着先生ばかり話していて、他の先生方はだまっていらして、そのうち子どもは卒業してしまったんで、教育の内容を問題にするのは止めてしまったんですが、ホントにあの時代は何だったのかと思います。あまりにいろいろなもめごとがあって、バラバラで子どもたちがかわいそうだという気がして…
〈依田〉今ふりかえってみると、やっぱり品性・品位が消えていたというおもいがしますね。
〈柏倉〉(元父母)大きな声で断定なさるものだから、他の先生方もむなしくなってしまわれたんでしょうね。うちの子どもたち、小学校は寒川先生で、毎日のように綴り方を書いて、プリントにして下さって、中学校では、「日本語」を創っている最中で、内藤先生と文学の内容について議論したりしました。高校ではまたの内容で、それはそれで良いのではと思っていました。
〈依田〉父母会みたいになりましたね(笑)私もつらいんですが…。寒川先生のことについて大野先生あたりから少し話をきかせてもらいましょうか。寒川先生は最初小学校だったんですが、途中から中学校に移られて、私と組んだんです。そのときの教え子が大野先生なんですよ。小学校とちがうこともあったかも知れないが、寒川先生のことだから大差はないと思います。
〈大野〉私は中学から明星に入って、7年1組の担任が寒川先生、3組が依田先生でした。思い出すままに話しますが、まず毎日、「日記を書いてこい」ということでした。ベビーブームだったので1クラス40何人でしたが、寒川先生は、毎日必ず読んで返して下さるんです。それだけでなく毎日クラスの便りが出て、私たちの詩や出来事が1~2枚のプリントで出るんです。私も載せていただいたことがあって今でもその詩を覚えています。私はすごくチビだったんです。クラスで一番のチビ、当時明星学園は朝グランドで集ってみんなでまず体操して、それから照井猪一郎先生が朝礼台に立って何か一言、という朝のスタートだったんですけれど、その時私はいつも一番前、私がちがうところに並ぶとみんなちがうところにならぶということだったんです(笑)。小さかったので身体測定のことを書いたんです。身長を測っていて最後に寒川先生が「おまけだよ」って言ってくださった(笑)。中学1・2年生を受持って下さったんですが、お弁当を教室でいっしょに食べるんですが、私はよく先生のひざの上にのって食べました。その年頃なのに私だけでなく、何人もだれかそうして食べていました。冬ストーヴ(丸いストーヴ)のまわりをぐるっと囲んで、中学生なのにそんな風でした。中学校の生活というのが、依田先生も含めてほんとに楽しかった。なかなか帰らない、一つおぼえているのは、グループというよりクラスみんなでいろんなことしてたんですね、ふと気付いたら外はマックラになっていて、これは絶対オコられるって思ってたら、案の定ガラっと扉が開いてスゴク怒られたんです。みんなでよく遊びました。それととてもマッスグな先生でしたから、毎日の日記のことで、あるときある男の子が忘れてきたのに、とてもイイカゲンな返事をしたら、寒川先生が椅子ごとその子をポーンと放り投げて、私たち何がおきたかって思ったんですが、そういうマッスグな先生でした。思い出すままにお話しました。
〈阿部〉1年生の時の「みいつけた」は、詩ではないにせよ、散文的な内容を目的にしているんですか?
〈大野〉まず綴るということでは国語ですけれど、自然に対して<気付き>を大事にすること、身の周りのことに注意して、文字を学んだらそれを綴るということで、詩という風には位置付けてはいないんです。
〈依田〉でもそれは詩かも知れませんね。
〈阿部〉そうですね、幼稚園の先生が、子どもの言ったことばをかきとめておきなさいってよくいわれてました。
〈依田〉さっき、白秋の長男隆太郎さんのことばをお母さんが書きとめたとお話しましたが、それはやっぱり詩になるのかしら…
〈奈良〉そうだと思いますね、寒川先生が白秋批判をなさったわけだが、白秋の書いた「子供は本来詩人である」ということを否定したとは考えられません。批判はむしろどういう詩人であるべきか?という点にむけられていると思います。白秋が児童詩を出発した時代と、寒川先生の実践された時代の差、例えば中野重治が「…赤ままの花やとんぼの羽根、風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな」と書いた時代の差、貧困や圧政への抗議が詩になった時代を考えるべきで、「子供は本来詩人」という大テーマは厳然として連続していると思います。もちろん個人個人の資質のちがいを忘れてはならないところです。「ものごと」に対する好奇心・関心をもて、自分のひかれるものを探せというモティーフが明星学園には強く在る。それはスゴイことだと思います。白秋が自分の受けた学校教育を何でも一色にする監獄だととらえたからこそ、「みいつけた」からはじまるいろとりどりの世界、それは詩人の世界なわけですが、そこからはじまる学校を、小原・赤井・照井といった先生方を、白秋が強く応援されたんじゃないかと思います。寒川先生もそういうモティーフをしっかりとお持ちだったように感じます。一方で白秋の大きさ・深さ・多様さが判り、巨人だったなと思います。明星学園と白秋の絆は本当にすごいなと思います。
〈高田〉(卒業生)その絆が今日のテーマなんですが、成城で小原派だった白秋がなぜ玉川ではなくて明星にお子さんをお入れになったんですか?
〈依田〉あなたはお母さんから聞いたことありませんか?
〈高田〉いいえ。「しののめの」の歌は良く母は歌っていましたが…
〈馬場〉(元父母)篁子さんは11回生、私は13回生なんですが、2年ちがうんですが、私思い出せなくて、そうしたら、小学校で外に出られたんですね。私女学校からなもんですから…お兄様の隆太郎さんは7回生で中学まで卒業されたんですね。
〈依田〉同級生に上田八郎先生、谷井さんといらっしゃるんだが、谷井さんは、やはり成城から玉川へ行き明星へ来られた、その理由は玉川は労作教育つまり農作業ばかりで、算数・国語といった面がほとんどなく、それで明星の旧制中学に入られたそうです。そのあたり隆太郎さんにうかがいたいと思っています。
〈柏倉〉隆太郎さんはたいへんお父様を尊敬されていたそうですね。世界的な人だって…
〈相沢〉(父母)10年から長男を入れました。梶原さんの息子さんと仲良くしていただいています。中3の時「もう学校はいい…」つて親子ともども悩んだんですが、明星に入って良かったんです。でも又いろいろ問題が出てきて考えているところです。「山芋」は、小学校か中学の時に、自分で買って読んで感動し、寒川先生のような先生に習えた話を聞くととても羨ましいんですが、大関松三郎なんかむかしの子どもはいろいろな矛盾や問題が、目で見えて判るが、今の子どもたちには見えないように感じます。本を読んでいたら「忙しいんだけど退屈で、お腹いっぱいなんだけど口サミシクて、なんでも手に入るけれど何もないんだ」というようなことが書いてあって、子どもに聞いたらソウナンダということでした。おととしバングラディシュに行く機会があったんですが、あそこは発展途上国で生活はきびしいんですけれど、子どもたちがホントに元気だったんです。川をクルージンクして下りてきたら沿岸の子どもたちが手を振る、手を振るって言う感じで、『今日は休日なの?』ってきいたら「いや学校は午前中で終わり午後はみんな川で泳ぐ」つていう話でとても元気なんです。道で逢った子どもに「自然が美しい」っていったら、「空がとてもキレイでしょ?」って答えてくれたんです。今日本の子どもに失われてしまったもの、小さいときから切りとられているものが白秋の詩・提言のなかにちゃんととらえれていて、寒川先生の「小市民的イデオロギーの反映」という批判に昔は共感していたんですが、ちょっとやっぱりちがう、今親として子どもたちと共感しにくくなっている状況の問題性を追ってみたいと思いました。
〈依田〉私も実は昨日成城大学の公開講座で、私の成城の先輩が講演なさったんで、出席したんですが成城の小学校にはいまだに<散歩>と言う勉強があるんです。学校の周りを先生といっしょに散歩して、虫や鳥や…お寺とか神社、川とか見ながら歩いてそこから子どもたちが発見するという時間を今でも続けているんです。それを数年前から文部省が生活科ということでやりはじめたんですが、生活科はやっぱり道徳教育的色彩が強くてヤニナッチャウンです。それから本来教科書はつくらないっていっていたのに、教科書をつくってしまったので現場の先生はついついマニュアルどおりにやるもんだから面白くないんですね。子どもにしてみれば、明星では総合と言う科目で、1・2・3年生で<みる つくる かんがえる>という本を出したように、観察したり物を創ったり考えたりすることをやっているが、ずっと前からやっていますが、昨日の話はね、田淵さんと言う青森の出身で1926年生れ、まだ若々しい理科の先生のお話だったんですが、アーと思ったのは先生と親はすぐ「あれ見なさい」とかっていいたがるのだけれど、ソレをいってはいかんというんですよ。アリジゴクってあるでしょ。観音堂の縁の下に砂・土のところにいるでしょ、先生はソレをだまって見てるんです。子どもたちも「ナンダロウ、先生が見てるのは」っていうことになって、自分で発見するという大切なことが始まっていく。今の日本には「ああしなさい、こうしなさい」が多すぎます。それをやらないとバスにのりおくれるような傾向がある。成城で40年それをやって親たちから、「そんなひまに算数を教えてやってくれって」いわれたりしました(笑)。成城も環境が変ってきたが、そのなかでも出来る。人間の歩く道をつくろうということで、仙川沿いに世田谷区が散歩道をつくったんですが、これがまた川を深く掘ってしまった、彼の若い頃は、すぐ川に入ってジャボジャボオタマジャクシつかまえることができたのに、今ははるか下のほうで下りることもできない、護岸工事も困ったものですね、金網はってしまっている。世田谷トラスト運動というのがはじまって、もとはイギリスのようですが、ボランティアでみなさん、人間が歩く道をつくろうという運動を続けていらっしゃる。相沢さんおっしゃるように、今の日本の子どもたちはほんとうにかわいそうです。それはみんな大人が悪いんです。
〈相沢〉そのかわいそうということが、子どもには判らない。大関松三郎のつらさや悲しさが、共有されていないということが、自分の子どもと生きていて良く判る。
〈阿部〉私も中学のときに、大関作品を読んで、自分も東北に生れればよかったって思ったんです。(笑)そのころ横須賀の久里浜にいて、自然はいっぱいあったのに…自分で詩を書いたりしているとき、東北に生れれば良かったって、でもどこにいても「発見さえすればいい」と思います。うちの子なんかも、今中野に住んでいてまわりは家ばかりなんですが、洗濯ものとりこんでっていうと、空を見上げて、「お母さん面白い雲だよ」なんていったりしてそれなりに見つけてはくるんですね。今カメラが好きになっておもしろいものを見つけては撮ってるんですよ。バングラディッシュの娘にくらべたらおよばないかも知れないけれどそれなりに見つけてはいると思います。ただ親の方がキレイな空だよっていわれても、「早く洗濯物とってきて」ということでは、子どもを見ならわなくていけないですね。見つけたことを見つけてあげる親の目が必要ではないでしょうか?明星の「みいつけた」の時間で、評価しないで全部をうけとめる。オーセンには「その子どもの目線で見なさい」っていわれて家で時々とりだして読んでみるとナカナカ良いこと書いてるななんて思ったりするんです。1年生のときは、親が大人の目でみているからつい批判したりするが、今ナツカシイものとしてみるとナカナカ良いなと感じるんですね。悲観することはないとチョット思います。
〈依田〉それは、円はもう幼児じやないからダメなんですけれど、お孫さんのときに役立つんじゃないですか?(笑) 1927年というから昭和2年に「改造」という雑誌、当時指導的役割を果たしていた雑誌に、白秋が「幼児と環境」という文章を書いています。「私たちは幼児の声に耳を傾けて、その声を書きとめておく親としての注意を細かに真実に保つことが、詩を発見することが、真の親切であって、強うることは禍いである。私は隆太郎の環境を朗らかにその母と守護し、常にその詩の発見につとめてはいた。豊かにし、示唆し、温かに、また清新な滋養を与えた。しかし強いはしなかった。今に於いても他のある親たちのごとく、対世間的に彼の詩集を編むとか、一日も早く有名にしよう、などとは毫も思っていない。幼児時代より有名者の悲哀を彼自身に悲しませることは残虐以外の何物ぞ。
隆太郎、遊ぼう。さあ、パパが象になるぞ。そら見ろ。このシャツの腕がお鼻だ。そうらブラブラだ…」
っていうんですね。「お鼻のうしろに口がある…」と続くんです。今にして思えば、ぼくもウチのチビスケどものを、書きとめておけば良かったなんて思います(笑)
これから孫でも出来たら余計なジイサンのお節介をやっておいてあげようかなあと思っています。
〈柏倉〉私自分の子どものことは憶えていないけれど、妹が3つぐらいのとき金魚を見てて「プクプクプクプクお口をあけて金魚があぶくを出してるよ」って言っているのを憶えてるんです。なにかカナリアのことも言っていたんですが、母が書きとめていたんですが、私は憶えていません。昭和6年生まれなんですが、今でもそれだけ憶えています。馬場さんなんかも、小さい子どもたち、初等部の子どもたちが良く椅子をもってお天気の良い日に外に出て輸になって勉強していたのを憶えていらっしゃると思います。初等部はそうでしたね。うちの子どもたちももう40すぎていますけれど、雪なんか降ると、善方先生がダンボールなんかもって、公園に行って坂なんかザーとすべったりして遊んだりしてましたですよ。
〈馬場〉女学校でも、お天気のいい日は教室で授業しないで、今ジグザグ校舎になっている初等部と女学校との間が芝生だったんですよ。ソコで授業やったりしたんです、女学生にもなってね。
〈柏倉〉初等部は良く近所に遠足みたいに行きましたね。ランニングシャツ一枚でね。
〈馬場〉遠足というと高尾山、当時は4年生が自分で頂上をきわめるまでやるんです。1年生はケーブルカーでいって2年・3年とコースが難しくなって、4年で一つの山をきわめるという風に…。キビシクっておやつなんか氷砂糖と果実一ヶ、それと水筒の水は、解散する時に自分の水筒に少し水が残っていなければならないんです。ナゼナラ水は山で生命を守る大切なものだから、他人からもらわない。大切に飲んで解散するときに、チョツト残っていなければならない。そういうことやっていましたね。小学校でね。家の子は上の子が昭和28年生れ、下の子が36年生まれなんです。上としたでは8年差があるので少しづつ変った点もありますね。私PTAの会員を20年もやりました。さっき川連さんがおっしゃっていたようなことも経験しまして、でも家の娘が言うには中に居るうちはソンナことは判らない、卒業したらアンナ素晴らしい学校はない。ママ明星に入れて出してくれてありがとう。って言うんですよ、二人の娘が。(喚声)うれしいことなんですが…。
〈依田〉照井猪一郎の有名な替え唄がありますよ。草津節のね。「明星よいとこ入ればわかる。ドッコイショ。まして出てみりゃ、コリャ、よくわかるよ…」こういうのイイ話だなあ、モッタイナイなこれ、今度みなさん幼稚園のお母さん方を連れてきませんか。(笑)
〈奈良〉最近チョッと聞いた話なんですが、明星にとくに小学校から入学されることは良いことだとおすすめするんですが、今小学校への進学塾というのがすでに定着していて、そこに1年とか2年とか通って進学指導を受ける子どももたくさんいる。明星は良いから入れたいって、そういうところで言うと、モッタイないお宅のお子さんなら××小学校にも入れますよって塾の先生がおっしゃるんだそうです。ソウイウ一般的な状態ですから、白秋が「子どもは本来詩人である」と主張し、当時の<子どもの状態>に対してマッコウから対決した態度・心の重さが今も強く必要ではないかと思います。明星学園も小学校だけでなく中学校・高校でも、PRといった手アカのついた内容ではなくて、学園の自己表現をさかんにやって、みなさんの理解を求めてほしいんですが…。
〈相沢〉娘が今品川区の公立の中学の2年生なんですが、今先生たちとブツカっていまして、2学期の終わりに娘が校門の前で先生に「もう学校に来るな」っていわれたりして、その後私たちも、担任や校長先生とやりあったりしているんですが、昨日PTAとは別に保育園とか学童保育の父母会を中心にした地域の教育座談会というのがあって、それに中学生の子どもたちの「ぼくたちの気持ちを判って――子どもの権利条約を考える」ということで、中学生が15人ぐらいきて、あと親も加わって、中学生の気持ちをいろいろ聞く会をやりました。「女の子は茶色と黒のゴムしかいけない」ってことで髪の毛が肩につくと結ばなくてはならない。やってないと「腕立て」とか始末書になる。服装もキビシク暑くてブレザーをとっていたらすごくおこられた。「なぜ?」と聞くと「規則だから」といわれる。男の子が朝髪の毛がバリバリで整髪料とかをつかってとかしたら学校で洗われる。「学校は一律にしないと統制がつかない」親と先生の間もスサンだ関係になって、子どもたちが何かアピールすることもムリだっていうんですね。とても成績の良い子も一人来ていたんですが、3日間の連休に、一日10時間勉強してたっていうんです。両親は自由な方々で「ソンナに勉強しなくていい!」っていってるのに、なきながら勉強する、そうじゃないと自分が保てない、「とてもツライね」って話をしていたんです。そういう公立中学の実態があります。明星学園はチガウって宣伝しておきましたけど(笑)上は11年ですが娘も中2で転校したいって思っているくらいです。北原白秋が「子どもは本来詩人である…全く無性だ。不自由だ。不愉快だ。今思ってもその当時の学校教育は子どもの本質を虐殺するものばかりだった」というのが、イヤ昨日の中学生たちもホントにそういう感じ、この言葉を教えてあげたいって思いました。そういう現状なんです。ダンダンひどくなる先生たちは病気じゃないかなんて思ってしまうんです。
〈奈良〉このごろ先生たちの登校拒否も多くなっているようですね。
〈富谷〉(元父母)ちょっと話を変えますが、柳川に行って、その資料を買ってきたりしたんですが、ビックリしたのは、恩地先生のお父様(孝四郎さん)のお写真もデーンと飾ってありましたし、明星との深い御縁を感じながら、見て歩いたんですが一言も明星学園って書いてないんです。(笑)校歌なども銅板に刻みこんであるのに、大阪の明星学苑はあるけれど、ないんです。1時まで待って事務局の人が出てきたので抗議したら、各校に資料など出していただくようたのんだが、明星学園からは来ませんでしたということでした。
〈奈良〉ソレハキットさっき川連さんのおっしゃっていた時代なんですよ。前の人は関係ないと対外的にもズイ分おしやったようです。残念ですね。
〈馬場〉「日本語」の教科書の話が出ましたが、外人に日本語を教えるのにとても良いと評判なくらい素晴らしいものなんでしょうけれど、どの先生に教わるかによってゼンゼンちがってくる。家の子どもが1~2年の間は室谷先生だったんです。子どものつぶやきを拾うことからはじまって「星の子ども」っていうの(学級通信)を年中出してくださって、家でもお母さんが一人言やつぶやいたことをメモにして先生に出してくれっておっしゃるんです。先生はお昼体みに子どもと遊びながらサッサッとメモにとって、毎日「星の子ども」を出して下さった。さっき先生のおっしゃっていた教育を、なさって下さったのね。ところが、当時3クラスだったんですが、両隣りのクラスは「日本語」だけなんです。合同父母会でも室谷先生の悪口を父母の前でもおっしゃるんです。私おこっちゃったんです。職員室でやって下さい、心配になりますって。次女の場合は高校で(それは大変な時期だったんですが)歴史関係に興味をもつようになって、堀先生の授業がとても面白くてね、高校が和光を推薦して下さったんです。歴史関係はなかったんですが、武者小路先生が和光にいってらして武者小路ゼミに入りたいということで入れたんです。そのゼミでますますのめりこんで、日本全国歩きまわり韓国にも行き、美術館の学芸員になりたいということで、出光美術館に入り、その後あちこち変って、ホテルニューオータニの美術館にいってたんですが、辞めると言い出して、何故かというと勉強したい、勉強が足りないっていうんです。浮世絵が好きになって学習院の大学院で小林忠先生のもとで勉強したいって前期を終えて博士課程に今年入って、結婚はしたんですが、子ども生む時間がないくらいで、学会で発表したりしているんですが、何か仁和寺で調べたことを報告したら、会場にドヨメキがあがって、友達がとても良かったってほめてくれたんだそうです。明星学園で何か好きなことを一つ見つけられれば、良い結果が自然に生れるそういう学校ではないでしょうか?親としては感謝してるんです。
〈依田〉今日は珍しい方がいろいろ見えています。いろいろと話して頂きたいのですが、まず田中正俊先生を御紹介させて下さい。田中先生は東アジアの歴史の御研究で永い間東大の教授もつとめていらっしゃいました。お子さんの正敬君(51回)を小学校の途中から明星にお入れになって、御縁ができました。東アジアの展望からといった広い視野でも結構ですから(笑)何かお話下さい。
〈田中〉(元父母)先ほどからのお話について私もいろいろ思いあたるところがあったりしてうかがっておりましたが、まとめてお話すると長くなりますので、まず二点申上げます。
一つは今依田先生からお話があった長男正敬のことですが、小学校の5年のときクラス中がみんな塾に通いはじめました。これは大変だと思い、編入させていただきました。明星で自分で通信簿をつけて、今学期は良くできたと思うなんて書いたりするようになり、椅子を創ったりして、高校へ行き、瀬野先生のご指導をうけ韓国語が達者になって、専修大学の韓国史の学生になりました。韓国に留学して、韓国は儒教道徳の大変なところで、息子が入学すると、おやじが御挨拶にあがらなくてはならない(笑)私も一月近く滞在しました。息子が通訳しまして、なかなかうまいって誉められますと私も少し得意になりましたが、うまい外国人だということがむこうには判っている。顔は同じだが、日本人だと判っているんだなんて申しておりました。申しおくれましたが、明星で良い教育をうけて、やはり一年間浪人いたしました。この浪人はたいしたことございませんですね。今浪人して良い学校に入るために予備校・塾などに通うようですが、私の息子はそういうところを超越したような教育を受けましたので(笑)ま、せっせと勉強いたしまして、今は一橋大学のオーバードクターで失業して、妻に稼がせておりますが、それでも良い学生になってくれたと思っております。 もう一つ細いことですが、その息子の実績にかんがみまして、孫を、斎藤と申しますが、また昨年入れていただきました。それまで、保育園で幼稚園の塾などとは関りのないところでのんびり暮らしておりました。明星に入るまでは、何もしない男の子だと思っておりましたが、入学後毎日のようにこれから今日ならった歌を歌うからといって直立不動で大きな声で歌うんですね。それこそ教育方針に沿って元気で楽しく育っております。ただ二年になって読書にかまけて、読書といってもマンガなんですが、同居しているんですが、同じ敷地内に、毎晩のように弟(また来年お世話になれると嬉しいんですが)と我家に出かけてまいりまして、なんと「ここへ来るとくつろぐなあ」なんて申して本ばっかり読んでおります。でもやはり、二人とも祖母(ママと申しております)にピアノを習って弾いておりますが、そういう、楽しく生き生きとした人間にガラっと生れ変わったことに私は昨年の四月大変驚きました。これは何も教育方針とかいうことについて充分に存じ上げませんけれど、その成果が一人の人間をあれほど変えるのかと思って、感動いたしました。(拍手)
〈依田〉「くつろぐなあ」っていうのは、お孫さんがおっしゃったんですか?やっぱり本来詩人ですね。(笑)
〈田中〉その親は私の娘ですけれど、「青い空のかんづめ、いい天気、おいしい、おなかいっぱい」というのを3才の時(嘆声)言ったのを家内が記録してございます。これは桐朋から武蔵に行きまして、今は、生意気に「うみうさぎ」という少年詩の雑誌を主宰しております。「うみうさぎ」というのは、海の波が沖から岸辺によせてくる、その白波が海を跳ぶようなうさぎ、それで「うみうさぎ」、少年詩集の刊行をやっております。
〈柏倉〉田中先生には私たち30何年も<新聞サークル>というのをやっているんですが、いろいろ資料を下さったり助けていただいてるんです。家の明星を出た息子は、今市役所で美術館担当をやっているんですけれど、よく先生から美術展の切符をおくっていただいて、せっせと回っております。
〈依田〉今お孫さんは二年生ですか?
〈田中〉2年2組河住先生のクラスです。少し理屈っぽい子ですが、あんなに楽しく、明るく自立している子どもに、どうして一月二月の間にしていただいたか?弟の方がもっと理屈っぽいのですが…(笑)親父が山ばっかり、明治の山岳部で鍛えて、ソヴィエトの山まで行ったんですが、それで峰樹、弟を稜線のリョウで、稜太というんです。(笑)高尾山だなんだのってケーブルカーなしに連れ歩いているらしいです。
〈川連〉先生、今日白秋のお話を聞いていてね、今よりもずっと厳しい時代だったと思います。思想的、政治的にね。そんなころに、これだけのことを堂々と述べて、行動してどうして出来たのか、不思議に思うんです。私たちが娘時代をすごしたのは戦争中でしたから、またちがう厳しさがあったと思いますが、白秋や寒川先生の活動が、今とはまったくちがう厳しさのなかでどうして出来たのか?よっぽどのお覚悟があったのだろうとも思われるんですが…
〈依田〉うーん、白秋が世に出て良い仕事をなさったのは大正期ですから、寒川先生のときのような厳しさはなかったと思います。どうなんでしょう?
〈田中〉私たち小学校の頃から、白秋の弟さんが創った<アルス>の児童文庫を愛読いたしました。そういうもので、キンダーブックとか、育ったあと1936~7年頃から世の中が急速に国家主義的になりまして、その前のリベラリズム、自由主義的教育というのはそうとうなものを芯の中にいただいておりますから、それはもう辛い、屈辱のおもいをスリッパで殴られたり、散々にいたしましても、もう根付いたものがございましたですね。例えば片言隻句ですが、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」小学校の教科書にのっておりました。それが中学校に入ると「朝に道を聞き知って、夕に死ぬことなんてできませんよ。道というのは道があることを知ればいいのであって、道を聞き知るんじゃありませんよ」ってたった一分ぐらい先生がおっしゃるんですね。その当時の教育としては大変なこととして、後に残りますですね。それから文法の先生なども文法のあいだに、例えば文法と内容とか、抒情性と抵抗の問題とか、二つのものが綜合されて詩というものがあったと思うんですが、山部赤人の<み吉野のきさ(象)山のまのこぬれ(木末)にはここだもさわぐ鳥の声かも>という万葉の歌がございます。「ここだもさわぐ」というのは、そのまま読めば、「鳥の声がやかましいことよ」という訳が出るかも知れないが、それがみ吉野の山の奥の静けさを表わしているのだということをききますと、これはただやかましく鳴いているのではなくて、深山の静けさがそこに出ているんだという風にたった一分の講義を大正デモクラシイの流れの中でうかがったら、それは戦場に行っても消えることはございませんですね。そういう事が私どもにはあったと思います。
〈依田〉昭和16年 1941年前回小学校が国民学校になったということが、話題になりましたが、実は国分一太郎先生などは、41年に、前の年から治安維持法による弾圧が始まっていたんですが、監獄にぶちこまれて、それが10月、翌月には寒川先生も逮捕されて、なにか生活綴り方の教師たちが126人がいっしょにですね、寒川先生は別に共産主義者でもなんでもないんですよ。治安維持法でひっかかる人ではまったくない。<山芋>がありますので御紹介しますと<虫けら>というのがあります。
「一くわどっしんとおろして ひっくりかえした上の中からもぞもぞと いろんな虫けらが出てくる土の中にかくれていてあんきにくらしていた虫けらがおれの一くわで たちまち大さわぎだおまえは くそ虫といわれおまえは みみずといわれおまえは へっこき虫といわれおまえは げじげじといわれおまえは ありごといわれおまえは 虫けらといわれおれは 人間といわれおれは 百姓といわれおれは くわをもって 土をたがやさればならんおれは おまえたちのうちをこわさねばならんおれは おまえたちの大将でもないし 敵でもないがおれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりするおれは こまったおれは くわをたてて考えるだが虫けらよやっぱりおれは土をたがやさんばならんでやおまえらを けちらかしていかんばならんでやなあ虫けらや 虫けらや」
〈依田〉こういうのです。読みようによっては、官憲からすると「これはとんでもない、虫けらに例えて…」となるんでしょうが、こういう人が牢屋にぶちこまれた時代なんですからね。白秋も決して生活詩を無視したわけではなくて、<子供の村>というのがあります。
『子どもの村は子どもでつくろ。(合唱)「みんなでつくろ。」赤屋根、小屋根、ちらちらさせて、(合唱)「みんなで住もうよ。」子どもの村は、垣根なぞよそよ。(合唱)「ほんとによそよ。」草花、野菜、あっちこっち植えて、(合唱)「すず風、小風。」子どもの村は子どもできめよ。(合唱)「みんなできめよ。」村長さんを一人、みんなで選び、(合唱)「みんなで代ろ。」(以下略)
〈依田〉これは大正11年の詩です。寒川道夫の<僕らの村>になるとこうです。
「ぼくはトラクターにのるスイッチを入れるエンヂンが動き出すぼくの体が ブルルン ブルルン ゆすれてトラクターの後から 上が波のようにうねりだすずっと むこうまでむこうの葡萄園のきわまで まっすぐ四すじか五すじのうねをたがやして進んでいくあちらの方からもトラクターが動いてくるのんきな はなうたがきこえる「おーい」とよべば「おーい」とこだまのようなこえがかえってくる野原は 雲雀のこえとエンジンの音春のあったかい土がつぎつぎとめくりかえされて 水っぽい新しい地而ができるたがやされたところは くっきりくぎられてそのあとから肥料がまかれる種がまかれる広い耕地が わずかな人と わずかな汗でいつもきれいに ゆたかにみのっていく葡萄園の東側にずっと並んでいるのは家畜小屋にわとりやあひるや豚や兎や山羊やめんようが にぎやかにさわぎまわりそこからつづいている菜種畠や れんげ田には…」
〈依田〉こうずうっと続いていきます。今読んだところはざっと5分の1ですが、こういう理想的な村にしていこうという、これは戦前の大関松三郎の6年生のときの詩なんです。今これを読むと、何か近代的な農業をやろうと読めるんですね。
たぶん当時はくわで耕したり重い荷物を背負ったりの世界です。うしろの方ではたしかに
「村じゅう共同で仕事するから財産はみんな村のもの貧乏のうちなんか どこにもない子供の乳がなくて心配している人なんかもないみんなが仲よく助けあい親切で にこにこして うたをうたっているみんながかしこくなるよう うんと勉強させてやる学校は 村じゅうで一ばんたのしいところだ運動場も 図書館も 劇場もあるここでみんなが かしこくなっていくこれがぼくらの村なんだこういう村はないものだろうかこういう村は作れないものだろうかいや 作れるのだ 作ろうじゃないか君とぼくとで 作ろうじゃないか君たちとぼくたちとで作っていこうきっと できるにきまっている一度にみんなできなくても一足一足 進んでいこうだれだって こんな村はすきなんだろうみんなが 仲よく手をとりあっていけばできるみんなが はたらくことにすればできる広々と明るい春の農場を君とぼくと トラクターでのりまわそうじやないか」
〈依田〉というのです。これが治安維持法違反、共産主義者だ、けしからんというんです。ひどい時代ですね。寒川先生といっしょに何十年か仕事させていただいて、いつかいっしょにお風呂に入ったことがありました。寮生活のときに。色白の丸顔でいっしょに風呂に入ったんですが、あっちこっち傷だらけだったんです。「先生どうしたんですか」っていったら[これはね、監獄で拷問された]っておっしゃるんです。ここは焼火箸で焼かれたとか、ここはナイフで刺されたとかおっしゃっていましたが、ま、そんな時代だったんですね。今はそんなことはなくていいや、平和な時代でいいやとなるんだけれど、ところがドッコイ、今の方が怖いんじゃないでしょうか?ちがったまた怖さ、たしかにじかに牢屋にぶちこむようなことはしませんけれど、いまだに学校は牢獄みたいなものだし、先生はお役人の手先にされているし。
〈川連〉かつては反日教祖といっていろんな教育を押しつけてきても反発していろんな闘いをした時代もあったけれど、今は力を合せて反発できるのかっていったら、そういう様相が見えないから私なんか今の公立はとても大変なんじゃないかって思います。私たちのころは何か言ってこられても、先生と手をつないで、反発したものだが、この間の「国旗・国歌」にしても、何となしに全然もり上ってこないからね。何となしにたちぎえになって、スイスイといってしまったように感じて今の世の中の方がいろんなことが通り易くなってしまったのかと思えて、ウーンとうなってしまうんですが…。
〈依田〉こわいのは、かつてのように上から、政府とか文部省とかしめつけるだけでなくて、私たちが、例えば私が知らず知らずに大きな犯罪を犯しているんです。例えば、子どもに夕焼けの美しさも見せてあげなかったわけだし、常に勉強したか、しなかったとかほんとうの子どもが小さい時に身につけなければならない感性というか、五感、そういうものを私自身がつぶしてしまっている。それがまた極めておそろしいと反省しているんですが、反省しても駄目だなあ子どもは大きくなってしまったから…。文部省が悪いというだけではすまない時代になってきているんではないでしょうか?
〈奈良〉ちょうど時間になってしまいました。長い間みなさんどうもありがとうございました。本日はこれで終りにさせていただきます。