シリーズ:「明星学園史研究会」⑧ 女優志望の若い女性が見た戦中・戦後

大草美紀(資料整備委員会)

明星学園史研究会 第8回記録
2000年1月23日 (日)

女優志望の若い女性が見た戦中・戦後
馬場洋子(13回生)


第1部

はじめに
 依田先生から、1月3日にお電話をいただきました。研究会でお話をするようにと。素敵なバリトンに判断力を失った私は、思わず「ハイ!」と申しあげてしまいました。そして、プレッシャーというお年玉で2000年がスタートしました。一方で「古い卒業生でしょ? しっかりしなさい!」と自分を鼓舞する気持ちも強かったのです。優しい依田先生は、1月23日の研究会まで「20日間」という時間も、一緒にお年玉袋に入れてくださいました。ご配慮に感謝し、やる気も出て参りました。
 私に与えられたテーマは、「女優志望の若い女性が見た戦中・戦後」というものです。カッコイイ! けど、ハズカシイ!! オコガマシイ!!!……」無力な者は、自然体でいくしかありません。

 私、馬場洋子は、昭和2年11月5日に生を受けました。『江戸東京年表』には、この年1927年3月15日、取り付けにより諸銀行が休業、金融恐慌が始まる。とあり、1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークに端を発した世界恐慌の波は、翌1930年には日本にも押し寄せ、1929年3月、東京帝大(現東大)卒の就職率が3割になるなど、就職難が深刻化する。と書かれています。
 1931年(昭和6年)9月18日、満州事変から始まり、日中戦争、太平洋戦争へとエスカレートし、1945年8月15日、敗戦というかたちで15年戦争に終止符が打たれます。
 私は小学校は公立で、1940年(昭和15年)、明星学園高等女学校に入学いたしました。卒業は1945年(昭和20年)、敗戦の年の3月です。物心ついてから、女学校卒業まで“平和”の2文字には全く縁がなかったのです。
 最初に戦争中の明星学園のことをお話しいたします。
 20年ほど前のことだったと思います。ある集まりの時に、もうお辞めになった先生ですが、「明星学園は、創立以来どんな時代でも、教育の自由を貫いてきました。ですから私たちは今、こうして一所懸命教育研究をやっているのです」とおっしゃいました。私は「ちょっと違うのでは?」と思いましたが、気が弱くて反論できませんでした。
 この研究会には、現役の父母の方が大勢参加なさっていらっしゃいますので、戦争中の生徒の代表のつもりで、55年前にタイムスリップして、年表の助けを借りながら、記憶の糸をほぐしていきたいと思います。
 そして、対比させる意味で、戦争中に弾圧され閉鎖に追い込まれた文化学院のことも、お話ししたいと思います。資料として文化学院50年史『愛と叛逆』を参考にさせていただきます。


1.戦時下の学校教育
 文化学院と明星学園、両校とも大正デモクラシーの流れの中で創立された、自由を大切にする学校だと思います。大きな違いは、明星学園は文部省の認可を受けていますが、文化学院は認可を受けない、自由な新しい教育をなさるつもりでお創りになった学校だということです。
 ふるさと紀州に山をお持ちになり、必要なときは木を伐って、資金になさったそうです。
 『愛と反逆』は文化学院に関係のある多くの方々の寄稿でできたご本です。文化学院の歴史を知るうえで素晴らしい本ですか、読了もできない私か一部を掬ってご紹介するなど、とてもとてもできません。どうぞお許しくださいませ。
 戦争中の教育は? など、私には荷が重すぎますので、ひとつだけお話しします。
 当時、中学校に軍事教練という教科がありました。軍事教練というのは、陸軍の将校が各学校に配属され、軍隊の兵隊が戦争に備えて行う訓練を中学生に行うものです。教科として軍事教練があったのです。明星学園は教練をいたしましたが、文化学院はいたしませんでした。
 憲法第9条で平和が保たれている現在の日本では、想像もできないことでしょう。明星学園のデモクラシーが悲鳴を上げた時代のできごとです。軍国主義が一極集中、嵐となって吹き荒れた時代、明星学園にも容赦なく、冷たい風が次から次へと吹きつけました。
 明星学園が文部省の認可を受けている以上、拒否することはできなかったのです。拒否は、生徒の上級学校への道が断たれ、学校の閉鎖にもつながるものでした。
 一概に軍国主義になびいた、ともいえませんし、閉鎖も恐れずに反対した、というのも違うと思います。やっぱり受け入れるべきところは受け入れて、その中で子どもたちをどう育んでいくか、守っていくか、先生方は心の休まるときがなかったのではないでしょうか。
 私が女学校に入る前のことですが、女学校では昭和12、13、14年と3年問で合計1,000着の傷病兵のための被服を作ったそうです。全校でも150名ほどの生徒が、大変な作業を強いられたと思います。これも戦争協力のひとつの姿ではないでしょうか。
 そして、昭和12年、中学校は富士演習地で軍事教練(7月7日)、12月17日には、代々木練兵場で査閲。と記録にあります。(「60年史年表」)
 同じく『明星の年輪一一明星学園60年のあゆみ』の年表から。
1940年(昭和15年)
 大政翼賛会発足。日独伊三国軍事同盟。紀元2600年式典挙行。
1941年(昭和16年)
 明星学園小学校を明星学園初等学校と改称(3月の「国民学校令」公布により私立小学校も改称。
 3月5日、中学校、陸軍記念日に模擬戦参加。
 7月、「臣民の道」刊行、各学校に配布。
 12月8日、太平洋戦争起こる。
 12月、言論出版結社等臨時取締令公布。
1942年(昭和17年)
 1月、学徒動員令出る。
 4月、青山方面空襲(東京第1回の空襲)
 4月、天長節、初等部「桃太郎」の劇。
 11月、初等部、井の頭映画館で、映画「空の神兵」観る。
 11月22日、戦時教育協会より、私立小学校廃止の提案。
 11月29日、照井猪一郎校長、協会に出席して反対意見を述べる。
 12月8日、大詔奉戴式後、小・女学部、大宮八幡、氷川神社、大国魂神社参拝。(徒歩にて……。私も参加しました。帰りは永福町から吉祥寺まで走りました。疲れました!)
1943年(昭和18年)
 1月、初等部、西荻映画館で「ハワイ・マレーシア開戦」観る。
 1月、中学校、英米撃滅射撃大会に5年生(5名)出席。
 4月、中学校校長、陸軍士官学校に1泊見学。
 4月、山本五十六元帥国葬。甲州街道で小・女・中三部全員葬送。………よく覚えております。「嗚呼!」。
 5月、中学校、宮城(皇居)外苑整備(女学校も参加)。小金井国民錬成所勤労奉仕。
 10月、「教育に関する戦時非常措置」閣議決定。
1944年(昭和19年)
 5月、中学校5年生に豊和重工業から動員。
 7月、中学校3・4年生、豊和重工業入所式。
 8月、一億総武装決定。
 8月、学童の集団疎開始まる。「学徒勤労動員令」公布。
 11月、豊和重工業空襲される、生徒無事。
 11月、初等部5・6年生、運動場に教員とともに防空壕づくり。
 12月、17歳以上、兵役編入。
 12月、中島飛行機工場(吉祥寺)空襲のため、電車不通。児童たち徒歩出校。
 ………年表に女学校の勤労動員の記載がありません。『60年史』によりますと、昭和19年5月から、20年3月末日まで学徒隊として、昭和飛行機会社に出動とあります。
1945年(昭和20年)
 1月、B29の空襲連日。
 2月、三鷹航空、学校にて作業開始一一学校工場。
 3月9~10日、東京大空襲。 334機のB29が本所、深川、浅草などの下町を空襲し、死者約10万人、焼失戸数23万戸の大被害を受ける。[『江戸東京年表』より]
 3月28日、第13回卒業式(5年生25名)。第14回卒業式(4年生31名)。………私たちよりさらに1年短い勉学でした(すべて国の方針です。ひどい!)。
 4月13~14日、山の手地区大空襲、5月26日の空襲までに、宮城の一部ほか区部の大部分を焼失する。(『江戸東京年表』より)
 5月28日、東京の5大新聞(朝日、読売報知、毎日、日本産業経済、東京)が、共同新聞を印刷する(1紙のみになる)。[『江戸東京年表』より]
 5月28日、焼夷弾により、阿佐ヶ谷、永福町の生徒の家焼失。
 7月18日、艦載機(グラマン)、校庭付近空襲、学校の壕に避難。
 8月6日、広島へ原爆投下。
 8月9日、長崎へ原爆投下。
 8月15日、天皇が戦争終結の詔書を放送(玉音放送)し、太平洋戦争が終わる。[『江戸東京年表』より]
長くなりましたが、敗戦(8月15日)までの経過を引用いたしました。


2.「勤労動員」のこと
 1944年(昭和19年)、1月から3月まで、私たちは「三鷹航空株式会社」へ勤労奉仕に行き、工員さんたちの宿舎のお掃除と、昼食づくりをいたしました。大鍋で野菜の煮物を作ったとき、大根の泥がよく落ちていないのに、皮をむかずにお鍋に放りこんだこと(もちろん指示を受けて)など思い出します。
 そして、同年5月から1945年(昭和20年)3月まで、「昭和飛行機株式会社」(青梅線・昭和前駅下車)へ勤労動員されました。
 学校での授業は受けられなくなりました。
 4・5組のグループに分かれ、それぞれ飛行機の部品作りをいたしました。私は比較的軽い仕事で、電気ゴテを使ってのハンダ付けをしました。
 食糧事情が逼迫し、栄養失調から脚気になってしまいました。
 工場への通勤電車は、学徒隊で超満員。ガラスの割れた窓には板が打ち付けられていました。
 胸への圧迫を防ぐため、座席の上に靴のまま上がるのが当たり前になりました。そしてついに、女学生が圧死!―――嘘のような本当の話になりました。
 明星学園の先生方は、私たち生徒の安全をお考えくださいました。通勤が逆コースになるように、少し先の「福生」に寮をご用意くださったのです。
 現在、米軍基地のある福生は、当時はひなびた農村でした。農家の蚕室をお借りして、広い部屋に畳を敷き、一階が食堂、二階が寝室と、私たちの生活の場にしてくださったのです。
 火の気のない大部屋は、冬は大変寒く、私たちはみんなで足を投げ出して車座に座り、集まった脚の上に二枚も三枚も掛け布団を掛け、「ワー、人間コタツだー」とハシャギました。ワイワイ、ガヤガヤ……寂しさと寒さを紛らわしました。
 寮母さんに下級生のお母様がいらしてくださり、お若い恩地先生と平林先生(お二方とも卒業生)も付き添ってくださいました。
 おかげさまで、通勤の苦しさから解放していただきました。
 工場では、朝礼のとき、各学校の生徒の出席率を競わせました。都立○○高等女学校・92%、私立△△高女・85%、という具合に、多くの学校が高い数字を示しました。明星学園の番が来ます。40%台にいけばいい方だったのではないのでしょうか。それを報告なさる恩地先生の胸中はいかがでしたでしょう!
 私は脚気が悪化し、心臓に来てしまいました。毎日工場の診療所で、ビタミンB1の注射をしていただき、どうにか通っておりました。
 恩地先生は私を呼び止められ、このようにおっしゃいました。「無理をしないように。自分の体を大切にしなさい。心配しないで休みなさい」……と。
 あの「一億一心、進め火の玉、撃ちてし止まむ」の時代に、“非国民”のそしりを恐れず、生徒たちの生命を守ってくださった先生に、遅ればせながら、心からの感謝をお捧げいたします。おかげさまで生き永らえることができました。


3.文化学院の閉鎖

 ここで、文化学院(1921年―大正10年―創立)の閉鎖について少し触れさせていただきます。

 長女が明星学園から文化学院に進学、そのご縁で『愛と叛逆』を拝見することができました。

 有島生馬さんの序文をご紹介いたします。

 「たった三粒の種が駿河台に芽吹き、ひょろひょろと、根を下ろしたのが文化学院である。その種子の一つは与謝野夫妻、もう一つは石井柏亭*⁴、それに西村伊作*⁵.この四人の協力は偶然のようでもあり、必然的でもあった。稀にみる晶子夫人の創造力、石井柏亭の常識的組織、西村伊作の財力と決断が美事に結合され、独得無二の新しい学園に開花するに至った……」(以下略)と記されております。
 西村伊作(倫理)、石井柏亭(美術部長)、与謝野晶子(源氏物語)、佐藤春夫(後に文学部長)、阿部知二*⁶、河崎なつ*⁷(中学部・女学部の主任)、有島武郎、山田耕筰(リトミックダンスを教える。学院の式歌を作曲)、高浜虚子(俳句)、星野立子(国文学)、戸川エマ(文学部文科長)、小林秀雄(文学論、仏文学)、三宅周太郎*⁸(演劇史他)、北村喜八(演出法、戯曲研究)、中河与一*⁹(創作講座)、並川亮(社会学)、三木清(哲学概論)、伊藤熹朔*10(舞台装置研究)、森岩雄(映画芸術)、飯島正、川端康成、横光利一、堀口大学、土岐善麿*11……(以下略)。まさに“百花線乱”と申しあげては失礼ですが、先生方のお名前を拝見するだけで、文化学院のユニークな教育が垣間見えるような気がします。
 卒業生も芸術関係に進む方が多いようです。
 文化学院にも、戦争中は教育に対する統制、締め付けがおよぶようになります。
 1940(昭和15年)3月、西村伊作先生が『月刊文化学院』に発表なさった「数字と偶像」が、当局より注意を受け、これがもとで石井柏亭先生と対立します。反体制思想派(西村伊作)と、穏健派(石井柏亭)との抗争は次第に激化、ついに1941(昭和16)年3月、石井柏亭、河崎なつ、その他多くの先生たちが学院を辞去なさいます。
 1943(昭和18)年1月、この頃より勤労奉仕に参加(製薬会社の薬詰め作業)、宮城遥拝、教育勅語奉読なども、最小限度ではありますが始まります。
 学院講堂には、警察からのスパイが潜入して、式辞や講義のメモをとったりしていたそうです。
 1943(昭和18)年4月12日、入学式の日の朝、西村伊作先生は、不敬罪の疑いで、池田山のご自宅から特高警察*12の刑事たちに連行され、拘禁されます。
 同年9月1日、文化学院は強制閉鎖され、建物は軍部に接収されます。
 9月4日、学院の閉鎖式が行われます。
 10月、西村先生に懲役1年の有罪判決が下り、先生は承服せずに上告します。
 閉鎖が決まったとき、生徒たちは石田アヤ校長(伊作氏の長女)に、学院の存続を涙とともに懇願したそうです。
 学院は、生徒の転校先を選び、学校側に要請します。そして、それぞれ受け入れ先が決まりました。
 明星学園にも、ひとりおいでになりました、戸坂嵐子さんです。お父様は有名な哲学者、戸坂潤*13さんです。嵐子さんは1年下で、笑顔の素敵な明るい方でした。戸坂潤さんがマルクス主義学者で、治安維持法により検挙され、終戦の5日前に獄死なさったことを、私は戦争が終わってから知ることができました。
 思想・信条の自由がなかった恐ろしい時代。理不尽に捕らわれ、理不尽に命を奪われたお父様への想いはいかばかりだったでしょう。私たちに、いつも明るい笑顔を見せてくださった嵐子さん! 私たちは、あなたのお心いっぱいの苦しみ、悲しみを理解することなく過ごしてしまいました。
 閉鎖された文化学院の校舎は、陸軍に接収され、アメリカ軍の捕虜の収容所になったそうです。
 西村先生は反体制を貫かれたので、『月刊文化学院』にお書きになったものや、講義の内容を特高警察にチェックされます。
 逮捕の直接のきっかけは、四大節*14の式を行わなかったこと、そして先生のお話の中の次の言葉にあったそうです。
 「天皇とは、ネクタイのようなもので、実際の用には役立たないが、国家として社交的な役をする存在である」
 また「上は皇后陛下から、下は乞食女にいたるまで、我々は誰をも恋愛の対象にすることができる」(以上『愛と叛逆』より)
 「天皇は神聖にして侵すべからず」そしで“現人神”といわれた時代です。当然、不敬罪になりました。
 戦争中の明星学園の先生方も、私たちに「天皇陛下のために死ね」とはおっしゃいませんでした。また、「良妻賢母」教育の押しつけもなかったと思います。
 戦時体制に組み込まれていく中でも、コーラス、演劇、バスケットボール、課外では、ピアノ、ヴァイオリン、油絵と、好きなものに打ち込む自由を楽しみました(勤労動員後はできなくなりました)。
 100%国策に沿った学校との違いでしょうか。明星学園の“自由”は、先生方の愛情に包まれ、ガンジガラメの制約の中で、細々と……守られたような気がします。

 先日、「明星学園は、君が代を歌いましたか?」とのご質問をいただきました。私は小学校が公立でしたので、混同してしまいお返事を保留させていただきました。後日行われたクラス会で話し合いました。「四大節の式のとき、君が代を歌ったのではないか(?)」という結論になりました。制服ではなかったけれど、みんなが着ていたセーラー服。そのスカーフの色が、決め手になりました。普段は紺かえんじ、式のときは白……。 ということで、「君が代は歌ったらしい(?)」(まだ自信がありません)とお答えします。


4.「ゴッコ遊び」から演劇部へ
 私たちのクラスには、演劇部に入った人が10名くらいおりました。
 女学校に入って間もなく、(空襲も勤労動員もなかった頃)気の合う仲間が。休み時間や放課後に「ゴッコ遊び」を始めたのです。
 お姫様ゴッコ―教室の前、中庭の端に、物置小屋(6畳くらい)がありました。中には、跳び箱、マット、ボール等、体育の道具がしまってありました。
 私たちは、漬け物石よりちょっと小さい石を拾ってきて、「ゴブリンストーン」と名付けました。
 後は、空想のおもむくまま、その小屋はシャンデリアの輝く、宮殿の大広間へ変わります。王子様になる人、お姫様になる人、“魔法の石”「ゴブリンストーンさま」にお願いしたり、即興のお芝居は、次の授業開始の鐘の音を聞くまで続きました。
 お家ゴッコ―これは、放課後の遊びです。裁縫室での授業が終わったのを見届けて、仲良しグループは裁縫室(和室)に集まります。
 裁縫机は、授業が終わると一ヵ所に片づけてあるのですが、その机を動かし、4、5個使って、一軒の“おうち”を作るのです。全部で2、3軒の“おうち”を作り、それぞれ“おうち”の中に入って遊びます。お隣さんとのおつきあいもあって、楽しいのです。
 もちろん、終われば元のように片づけますし、先生方もこの“オクテ”の少女たちの遊びを温かく見守ってくださいました。
 今、想い起こすと、みんな純真で、無邪気で、かわいい少女たちでした。
 このゴッコ遊びが変じて、演劇部へ成長したと思います。
 「森の仲間」は、同級生の小平和世(ソウコ)さん作。
 「ミンチン先生」は、「小公女」から小平さんが脚色。
 「ポールとヴィルジニー」は小説から脚色。
 恩地、平林の両先生と、卒業生である恩地先生の弟さん、マーちゃん、同じく先輩のオジ公たちのご指導で、放課後暗くなるまで稽古をいたしました。暗くなると、ちょっと怖い井の頭公園も、先生と一緒に帰れば大丈夫。
 私たちの賑々しい話し声、笑い声は、公園の静寂をひととき明るい空間に変えました。
 「人形劇ファウスト物語」――恩地先生にご指導いただいた、初めての人形劇です。私たちは上演を楽しみに、準備を始めました。
 昭和19年に入っていました。追いかけられるように、“勤労動員”の命令が届き、「ファウスト物語」は中止になりました。
 その後、昭和20年3月の卒業まで、授業も、演劇も、バスケットボールも、コーラスも……、すべて中断したままで終わってしまいました。


5.空襲におびえながら
 卒業後も、上級学校進学者と疎開した人を除き、学校工場(三鷹航空が出張)で飛行機の部品造りを続けます。そのため、専攻課の生徒という特別な呼び方をされました。
 そのころ父が手遅れの盲腸手術で、傷口の縫合ができず、2ヵ月の長期入院となりました。母は父に付き添い、兄は召集で南方へ行ってしまいました。私と妹(明星学園初等部5年)は、毎晩のようにやって来るB29の空襲におびえ、眠られぬ夜を過ごしていました。
 吉祥寺・駅前通りの志村書店が、私の家でした。
 近くに「藤村女子体操音楽学校」があり、校長先生のご好意で、広い運動場の隅に共同の防空壕を2つ3つ掘らせていただくことができたのです。
 空襲警報のサイレンが鳴ると、妹を起こし、手をつないで防空壕へ走ります。その間、4、5分でしょうか? 頭の上には月光に輝くB29の編隊が、中島飛行機の工場を目指して爆音を轟かせ飛んで行きます。迎え撃つ日本軍のサーチライトが、何本も交差し、夜空を明るく染めます。もし平和な時代なら、天空ショーとでもいいましょうか、一大スペクタクルです。やっと防空壕に入っても、恐怖はこれからが本番です。
 中島飛行機に敵機を近づかせないために、陸軍の高射砲が四方八方から迎え撃つのです。
 「ドーン」という音が、地響きとともに聞こえ、防空壕の壁土が「サー、サー」と音をたてて崩れ落ちます。妹は、私に抱きつきます。「生きた心地がしない」とは、こういうことをいうのでしょうか。                                 
 父の退院後、近所の方のご紹介で、疎開先が決まりました。埼玉県の越生(おごせ)村です。
 父母の心配をよそに、私は逆らいました。「吉祥寺を離れたくない! 友だちと別れたくない!」‥‥‥と。
 父母と妹は先に発ってしまい、私は本当のひとりぼっちになりました。
 私が最初にしたことは、押入れの下段の物を全部出し、そこへお布団を敷いて押し入れベッドを作りました。
 出した荷物を押入れの前に積み上げ、防波堤ならぬ防風堤にしたつもりでした。「もし、近くに爆弾が落ちても、これで爆風が防げる。今夜からもう防空壕へは行かないぞ!」と、愚かなオクテ娘は意気揚々、押入れの中に電灯を吊し、サイレンの音を聞きながら、大好きな読書を楽しんだのです。
 この愚かな行為は、10日ほどで幕引きとなりました。


6.ビルマの留学生たち
 父の入院していた外科病院に、ビルマの留学生、モン・テッオン君がヒョウソ*15の治療にやって来ました。
 日本は「大東亜共栄圏」達成のため、アジアの国々から留学生を招き、将来の指導者を育成していたのだと思います。吉祥寺のその外科病院の近くに、留学生会館「孔雀寮」があり、ビルマの学生が寄宿し、それぞれ東京の大学に通っていました。
 私と妹は、父の見舞いで毎日病院に行きました。
 ある日、診察室の前を通りかかったとき、男の人の泣き声が聞こえてきました。ドアが開いていましたので、思わず中を覗きました。「洋子ちゃん、ちょっと来て!」と婦長さんに言われて、中へ入ると、「イタイ! イタイ!!」と泣いているモン・テッオン君がいたのです。彼は手の親指のヒョウソの治療をしていました。婦長さんが「男が泣くのはおかしいよ、日本の男は泣かないよ!」と言いました。彼は、私と妹を見上げて、「ニホンノオトコ、オカシイヨ! ビルマノオトコ、イタイトキ、ナクヨ! ニホンノオトコ、ショウジキジャナイヨ!」と、たどたどしい日本語で言ったのです。
 私は「何て正直な人だろう!」と感じ入りました。
 父の退院後、ビルマの留学生たちが、家へ遊びにみえるようになりました。
 その中に、モン・ミョトーさんがいました。彼は、ラングーンの宝石商の息子さんで、東大の理学部で物理学を学んでおりました。
 疎開がいやでレジスタンスをしていた私は、ミョトーさんに大変叱られました。「オトーサン、オカーサン、シンパイシテイマス。ハヤク、オカーサンノトコロヘ、イキナサイ!」。
 駅まで送るから、すぐ支度しなさいと言われ、私は、身の回りの品をリュックに詰め、吉祥寺駅へ向かいました。ミョトーさんは、プラットホームまで送ってくださいました。
 結局、ひとり住まいの私のお城は、たった10日で、あえなく“落城”となりました。
 弱かった妹に、牛乳を届けてくださった彼ら、私と妹にビルマ語を教えてくださった泣き虫のモン・テッオンさん。優しかったモン・ミョトーさん。ミョトーさんは、ラングーン大学時代の素敵な写真にサインをして、私にくださいました。
 戦争が終わって半月ほどたった9月上旬、私たちは半年近くの不自由な疎開生活からやっと、吉祥寺のわが家へ帰ることができました。
 ビルマの留学生は、すでにお国に帰ったあとで、留学生会館は閉鎖されておりました。


7.「女優になりたい!」
 戦争が終わり、長い間の抑圧から解放された私、「これからは、自分の好きなことができる!」と、お腹は空いていましたが、心の中は明るい希望と期待に満ちあふれておりました。
 明星学園演劇部時代の楽しさが忘れられず、「女優になりたい!」との想いは、日々募るばかりでした。
 私が初めて新劇を観たのは、女学校1年か2年のとき、父に連れられて行った築地小劇場(当時は国民新劇場と改称)で、文化座の三好十郎*16作「おりき」でした。
 今から60年ほど前のことですが、「おりき」を演じられた鈴木光枝さんは、今でも再演を重ね、「おりき」を主演していらっしゃいます。
 同じ頃、帝劇で、東宝演劇研究会が「オルレアンの処女(おとめ)」を上演しました。主役の「ジャンヌタルク」をなさったのが、明星学園の先輩、8回生の薄田つま子さん(高山ツマさん)だったのです。私が明星に入学した年、つま子さんはちょうどご卒業で、学校ではお目にかかれなかったのです。新劇の女優さんで、お父様はやはり新劇俳優の薄田(すすきだ)研二*17さん、ということは知っていました。
「ジャンヌタルク」の舞台に、私は魅せられました。つま子さんに、憧れました。
 “女優への憧れ! 熱い想い!”は、このとき“点火”されたのです。
「女優になりたい!」の気持ちが通じたのでしょうか? 吉祥寺にお住まいの劇作家、和田勝一先生が、「牛飼いの歌」をお書きになり、劇団「民衆座」を旗揚げするために、女優を探していらっしゃいました。
 当時、前進座の文芸部にいらした真山美保さん(後にヴェリテ・せりくるから新制作座へと劇団を旗揚げし、現在も劇団を主宰)も女優として参加なさり、志村書店(父の店)へお出でになり、私に声をかけてくださいました。
「牛飼いの歌」は、伊藤左千夫(歌人)が主人公の戯曲で、正岡子規の妹「律」が私の役でした。
 御殿山の洋画家、堀田画伯のアトリエをお借りして、稽古が始まりました。
 待ち望んでいたことが、やっと実現できたのです。この芝居は、歌舞伎の「チョボ」*18が入る変わったものでした。
 ところが、どうしたことでしょう? すぐに壁に突き当たり、手も足も出ない状態に陥りました。“学芸会”では通用しない「プロ」の道への厳しさに、打ちのめされました。
 幸いなことに(なんて言ってはいけませんが)、この芝居は敗戦直後の劇場難のためか、上演の運びにはなりませんでした。本当に「助かった!」というのが正直な気持ちでした。
 残念ながら「民衆座」の旗は揚がりませんでした。
 普通ならここで諦めるのですが、私はそれでもまだ“新劇女優”への夢を捨てることができなかったのです。
 その頃、恩地先生、S先輩、ゾウちゃんたちと、脚本朗読の会をしておりました。
「商船テナシティー」と「リリオム」を、会場回り持ちで、楽しく、時間のたつのも忘れていたしました。S先輩のお宅では、お母様がお夕食をご用意くださり、大変ご迷惑をおかけしました。
 S先輩と私は、恋人同士の役で、S先輩のよく響く低音のセリフに、私は役を跳び越えて、私自身もポーツ! となってしまったのです。
 恋愛未経験のオクテ娘は、“イメージ”の世界でラブシーンを初めて経験いたしました。
 戦後初めての新劇合同公演、チェーホフの「桜の園」(有楽座)*19、この方々と観に行きました。
 1945 (昭和20)年12月26日から3日間の公演でした。暮れも押しつまっていましたが、戦争中の渇きの癒しを求めるかのような人々で、客席は満員でした。記録によりますと、3日間6回の公演には、9,600人の観客が入り、有楽座の客席はあふれた……と記されております。記憶が正しければですが、私たちは右側の通路に立つたままの観劇になったような気がします。


8.築地小劇場と新劇団の移り変わり
 1924 (大正13)年5月15日は、明星学園創立の日です。
 その日から1ヵ月後の6月13日に、築地小劇場が開場しました。
 小山内薫*20、土方与志*21、青山杉作*22の三先生が演出をされ、チェーホフ、トルストイ、シェークスピア等の外国の傑作を数多く上演しました。
 小山内先生が逝去され(1928.2.25)、翌1929年3月25日、築地小劇場は、劇団築地小劇場と新築地劇団に分裂します。分裂前の最後の公演は、ゴーリキーの「どん底」でした。
 築地小劇場は、旗揚げ公演の「海戦」「白鳥の歌」から、分裂前の「どん底」まで、ほぼ5年間で83回の公演を行いました。山本安英*23さんは、その様子を語っていらっしゃいます。
「当時は5日交代でしたから、長いセリフを覚えるのに大変でした。芝居の幕間に次の芝居のセリフを覚えたりしました。翻訳劇が多かったので、非常に苦労しました。お手本となるものがないので、日に2、3館、外国映画を見て参考にしました」。(「桜の園」のパンフレットより)
 山本安英さんたちは新築地劇団を旗揚げし、両劇団ともに活動を続けますが、旧築地に残った友田恭助*24(後に、上海のウースンクリークで戦死)さんたちは、1932年2月、築地座を結成し、旧築地小劇場は三劇団に分かれます。
 心座、トランク劇場、前衛劇場、プロレタリア劇場、左翼劇場、テアトルコメディ、新劇場と、次々に劇団が誕生します。
 1934 (昭和9)年11月、新協劇団が創立、「夜明け前(第一部)」で幕を明けます。
 1938 (昭和13)年3月、文学座が「みごとな女」(飛行館)により旗揚げ公演を行います。数多くの劇団が生まれ、また解散します。その間、日本プロレタリア劇場同盟(プロット)*25に新築地劇団ほか、多くの劇団が加入します。プロットは、1934年7月に解散します。
 1940 (昭和15)年8月19日、新協劇団、新築地劇団の村山知義*26、久保栄*27、久坂栄二郎*28、千田是也*29、滝沢修、ほか100余名の方々が、治安維持法違反の疑いで逮捕されます。
 8月23日、両劇団は解散します。
 9月27日、東宝移動文化隊が結成され、
 11月1日、新劇のメッカ、築地小劇場は戦時統制により、国民新劇場と改称させられます。
 11月10日、各地で紀元2600年祝賀行事が行われます。
 11月16日、松竹移動演劇隊が結成されます。
 1943 (昭和18)年2月、瑞穂劇団*30が旗揚げ公演。「北斗星」が上演されます。
 1943 (昭和18)年の文学座公演は、2月「北京の幽霊」、4月「勤王屈出」、10月「田園」の3公演。
 1944 (昭和19)年2月、俳優座が結成されますが、戦局悪化で御殿場へ疎開します。
 また同年には、瑞穂劇場が2月に「高原農業」を上演、この後、1945年8月15日の敗戦まで、新劇の公演は行われなくなります。
 農山漁村文化協会(当局の意向に添う)による地方への移動演劇公演*31が始まります。
 1945 (昭和20)年8月6日、広島に原爆が落とされます。
 移動演劇・桜隊は広島公演中、多くの市民の方々とともに、貴い命を奪われました。丸山定夫*32、園井恵子、高山象三、その他の方々……。
 丸山定夫さん(愛称ガンさん)、味のあるいい役者さんだったようです。
 園井恵子さん、宝塚出身の美しい女優さんで、映画でもご活躍でした。
 高山象三さん、明星学園の先輩である薄田つま子さんの弟さんです。
 園井さんは、やっと東京へお帰りになりましたが、髪の毛がゴソッと抜け落ち、お苦しみの収、息を引き取られたそうです。


9.監視つきの上演
 1924 (大正13)年6月の築地小劇場開幕から、敗戦までの新劇団の移り変わりを、ごく簡単に申しあげました。
 ここで、尾崎宏次さんの「蝶蘭の花が咲いたよ」から、“臨監席”のお話をさせていただきます。
 小学生のときに入った田舎の映画館にも、あったそうです。
 1933年の春、築地小劇場へ初めていらしたときのこと。
「……客席へはいると、最後列にやはり臨監席があった。法廷のあの証人台をかこったような感じの造りであった。私の記憶では、たしか警官が二人腰かけていた。ははあ、監視つきでわれわれは芝居をみるのだなと思った。芝居の途中でいちどその臨監席をふり返ってみたら、小さな電気スタンドに電気がついていた。いったい電気をつけて何を見ているのだろうと思った。
 新劇人に友だちができて、私ははじめて臨監席の警官のひとりが、台本をみているのだということをきいた。つまり、劇場には、上演をゆるされた脚本しか上演されていないのだから、上演をゆるしたほうからみれば、一言半句でもその台本にないことを俳優がしゃべったら、それは違反なのだから、監視する必要がある、ということである。
 上演をゆるす(なんという制約であろう!)というからには、ゆるされないセリフは削除されているということだ。その削除されたセリフを、もしも舞台でしゃべったら、違反だから、そのとき臨監席にいる警官はやおらその役目をふりまわせるということである。……」(以下略)
 新劇以外の芝居、新宿のムーラン・ルージュにも、そして講演会を聞きに行っても、臨監席はあったそうです。
 臨監席から声をかける法則、「注意!」これを2度まではかけられても許されますが、3度目になると「中止」を意味し、講演でも、芝居でも幕をおろさなければならなかったそうです。
 警視庁にその上さらに、特高警察部が設けられたのは1932年のことでした。


10.よみがえる気運の中で
 今日は、戦後初の「桜の園」以降、私が直接関係した芝居のパンフレットをお持ちしました。どうぞご覧ください。
「桜の園」ですが、戦中に弾圧を受け収監された方、疎開していた方、戦地から復員された方たちが、再び自由を得て、戦後の混乱の中、結集しました。
 演出が青山杉作先生、出演は、東山千栄子、丹阿弼谷津子、村瀬幸子、薄田研二、三島雅夫、千田是也、三津田健、岸輝子、滝沢修、杉村春子、中村伸郎、森雅之、龍岡晋、宮口精二、金子信雄、南美江、他の方々でした。
 ほんとうに豪華な顔ぶれ、観客はもちろんのこと、出演者の方々も平和の素晴らしさを再確認なさったと思います。
 私の感想をひとこと。まず、立派な舞台装置に圧倒され、アーニャ(丹阿弼谷津子)、ヴァーリャ(村瀬幸子)、ラネーフスカヤ(東山千栄子)、ほか役者の方々の演技に見入りました。今だったらアーニャを、20年後にはラネーフスカヤをやりたいな! と夢はふくらみました。終幕、幕切れ近く、フィルス(老僕)がひとり、ブツブツつぶやきながら舞台を横切ります。桜の木を伐る斧の音がオーバーラップして、余韻を残した幕切れ、感動いたしました。
 年が明けて、1946 (昭和21)年2月、新協劇団が戦後第1回公演、フョードロフ作「幸福の家」(邦楽座)を上演。
 東京芸術劇場が同年3月1日より17日まで、イプセン作「人形の家」(有楽座)を土方与志先生の演出で旗揚げ公演します。
 俳優座の第1回公演は、3月19日より24日まで、東京劇場で、ゴーゴリ作「検察官」を、青山杉作、千田是也共同演出で上演します。
 文学座29回公演(戦後初)は、3月26日より31日まで、東京劇場で、和田勝一作「河」を中村信成演出で上演します。
 東童、薔薇座、協同劇団、童話座などの劇団も、雪解けを待っていたかのように、いっせいに動き出します。
 それから、東京芸術劇場。イプセンの「人形の家」ですが、そのときも私は観に行きました。
 パンフレットがないんで残念ですが、そのパンフレットの隅に出ていたのが、“東京芸術劇場附属演劇研究所・生徒募集”の広告です。これを見て、「もうこれしかない!」と思ったんです。戦後はじめての研究所でしたから。
 それで、試験を受けるんです。幸いなことに合格できました。


11.「芸研」の研究生として
 東京芸術劇場附属演劇研究所(略称「芸研」)は、すぐに4月の新学期を迎えました。
 戦後間もない頃で、教室もなく、久保栄先生のご自宅の近く、自由が丘・若草幼稚園が私たちの勉学の場になりました。
 久保先生が責任指導をなさり、先生方は鈴々たるメンバーでした。
 文化=羽仁五郎、科学=武谷三男、美術=硲伊之助、音楽=菅原明朗・吉田隆子・ほか声楽家の方々、舞踊=(バレエ)小牧正英、(ダルクローズ)三木一郎、演劇概論・演劇史=久保栄、演技論および実習=久保栄・滝沢修・森雅之・山本安英、その他の方々でした。
 久保先生は、私たちに何でも話されました。「既成の俳優には期待していない。君たちを立派な俳優に育てる!」とおっしやいました。
 特に、戦争中の生き方について、思想を変えて時の流れに乗った人たちには、名指しで手厳しい批判をなさいました。
 先生は治安維持法で検挙され、苦しい経験をなさるのですが、戦争中、オイシイ話には決して首をタテには振らなかったそうです。
 私は、物置の奥に、55年前の古いノートを見つけました。久保先生の授業が特に多く、なつかしく読み返しました。たとえば、
 10月10日(木)一昭和21年一一
 久保先生のお話から。
 ・東芸(東京芸術劇場)は東宝と団体契約になる見込み……。
  東芸は、劇団員の同人組織である。久保栄、滝沢修、薄田研二、森雅之、竹久千恵子、信千代ほか。
 ・同人会議には芸研が参加する。
 ・スタジオ劇団の形態をとる。
 ・来年度公演予定、年6回。
 ・3月公演「林檎園日記」(久保栄作)には、山本安英先生の出演をお願いする。
 ・劇団員、芸研生徒以外は出演せず。
 ・劇団の事務局員を芸研から出す。
実際にはこのようにはいかなかったのですが、先生は決定前のことでも私たちにお話になったのです。
 同じ10月10日(木)のノートから。山本安英先生の「演技実習」より。
  ・夜、雨風が激しい。
  ・机に向かって勉強しているが、何となく落ち着かない。
  ・戸の外で、コトリと音がする。
  ・また、いろいろな音がする。
  ・「来たな!」と思い、そっと明かりを消して、戸を開けてみる。
  ・隣の子犬の三吉が喜んでとびつく。
  ・「何だ! お前だったのか。寒いから早く家へ帰れ、帰れ」
  ・戸を閉めて、また勉強を始める。
 以上です。少しで簡単ですが、パントマイムとセリフを即興で演じます。
 次に、10月25日(金)、山本先生のお話から。
 ・築地小劇場の最初の入場料2円。
 ・山本先生たちの月給30円。当時は苦しい生活でした。
 ・丸山定夫さんは、楽屋の衣装部屋の戸棚に、猫と一緒に住んでいた。
 ・芝居がはねてから、不二家で役者と観客が交流できた。
 など記されています。
 演技実習のテキストは、山本先生が岸田国士作「驟雨」「葉桜」など。森雅之先生は、同じ作者の「可児君の面会日」、眞船豊作「鶉編」などをご指導くださいました。
 久保先生は、演劇概論、演劇史のほか、演技実習を、先生が訳された「ファウスト」をテキストに教えていただきました。
 古いノートに、夏休みの宿題が挟んでありました(久保栄先生出題)。
「戯曲と、演出、演技の相関関係に就いて。(戯曲を中心として)」というものです。原稿用紙がなかったのでしょうか、ルーズリーフのノート9ページにギッシリと細かい字で書いてあります。
 冒頭の部分を少しだけご紹介いたします。
「演劇がひとつの芸術形式に構成されるにあたって、その土台となるべきものは戯曲である。
 戯曲の持つ内容が、演劇の第一素材となり、戯曲をもとにして各機能が働き、演劇行動が展開するのである。
 戯曲は言語的形象、即ち文学(ドラマ)であり、戯曲を立体的に形象化(スペクタクル)し演劇にするのが演出、演技であり、演出者とはスペクタクルの統一者であり、演技者は、演出者の与える部分を受け持つスペクタクルの表現者である……」
 クチバシの黄色いヒヨコが、生意気なことを延々と書いています。オクテ少女は18歳になり、急成長?を遂げたようで、そのひたむきさに対して、自分で自分をほめてやりたくなりました。


12.初舞台のころ
 話は変わりますが、芸研に入ってすぐ、4月の末から5月のはじめにかけて、新協劇団が新宿第一劇場で上演した、シーモノフ作「プラーグ栗並木の下で」に薄田つま子先輩が出演され、私は楽屋のお手伝いにうかがいました。
 つま子さんは主役で、衣裳替えが忙しく、また、美しいメロディーの恋の歌を歌う場面が2回ありますのに、お風邪でお気の毒でした。私はウガイ薬を持って、ウロウロしておりました。
 この芝居の公演中に、戦後初のメーデーがありました。戦争で禁止されていたメーデー。
 楽屋の窓から、5月の爽やかな風にはためく赤旗と、元気いっぱいの人々の行進が見えました。女優さんたちは、舞台を気にしながら、小声で「インターナショナル」を歌っておりました。素敵なメロディーでした。
 この後すぐ、6月6日から7月28日まで、帝劇でシェークスピアの「真夏の夜の夢」が東宝の企画で上演されました。芸研の生徒も、勉強のためということで、初舞台を踏みました。私の役は、結婚式のお客様で、一応は「アテネの貴族」ということでした。メイキャップも下手で、かつらも衣裳も下っ端ゆえの粗末なもの、どう見ても貴族にはほど遠かったのですが、せめて演技力で貴族になろう! と結婚行進曲の演奏の中、高揚した気分で演じました。
 美しく晴れやかなこの舞台は、混沌とした戦後の世相をいっとき忘れさせたようで、2ヵ月近くのロングランに成功しました。
 1946 (昭和21)年の秋、私どもの研究所から半年遅れて、俳優座系の舞台芸術アカデミーが創設されています。一期生のメンバーには、山岡久乃、初井言栄、杉山徳子、大塚道子、そして明星学園13回生の橋浦泰子さんたちがいらっしゃっいました。この養成所は3年間の活動を終えて、俳優座養成所へと発展・移行します。
 その俳優座養成所は、後に桐朋学園大学の演劇コース(短期大学部芸術科演劇専攻)に学生を委託し、その使命を終えます。
 新時代の要請でしょうか、1948年、池袋に秋田雨雀*33先生ご指導の舞台芸術学院が生まれ、同年、土方与志校長の中央演劇学校も誕生します。


13.久保栄先生と東京芸術劇場
 1947 (昭和22)年3月には、劇団東京芸術劇場の第2回公演、久保栄作・演出「林檎園日記」の上演です(帝劇)。この公演には、山本安英先生をお迎えします。そして、麦の会から芥川比呂志、荒木道子のお二方、昔、前進座にいらした小栗孝之さんもお迎えしました。
 有島武郎のご子息・森雅之さん、芥川龍之介のご子息・芥川比呂志さん、小山内薫のご子息・小栗孝之さん……と揃ったわけで、話題になりました。
 芸研では、カーボン複写の台本を作り、ダブルキャストでそれぞれ役を持ち、稽古に参加させていただきました。この芝居は、各幕、幕開きに道子(林檎園の娘)の日記がスライドで舞台いっぱいに映し出され、道子が朗読して幕が上がるというものでした。久保先生は、みんなの筆跡をお調べになり、道子の日記は、私が書くことになりました。私は、東宝本社で用紙をいただき、徹夜で日記を書写しました。東芸での初舞台は、“字”だけの出演になりました。
 もうひとつ、蝉の声。舞台は夏の北海道です。3人のセミの一人に選ばれました。舞台後ろのホリゾント*34を木に見立て、飛んできて止まる、そして、鼻をつまんで「ミーツミーン」、だんだん強くなる。クレッシェンドからまただんだん弱く、ミーンの音程も低くなってきて、飛び立つ。近くの木にまた止まる。また鳴き始める……。
 セミの気持ちになりきって、笑われるかもしれませんが、セミらしくではなく、セミノキモチが大切なのです。スタニスフラスキーシステムですから。私はセミのよき理解者になりました。
 冗談はさておき……。久保先生の責任指導で、私たちは勉強を続けてきましたが、この公演のあと、幹部の方の考え方の違いで、劇団東京芸術劇場は解散をいたします。母屋が壊れて、私たち芸研はなすすべもなくバラバラになります。久保先生はお残りになり、他の方たちは民衆藝術劇場(民藝)を創立します。
 解散の理由がよくわからないまま、私は他の方とともに民藝の研究生の道を選びます。菅井きんさんは俳優座の研究生に、また、青年演劇人合同公演の「罪と罰」に出演した人もいました。
 久保先生から教えていただいたことはたくさんあります。ご自分にも他人にも厳しく、特に戦争責任に関しては、天皇を頂点とする戦争を起こした人たちに対してのみならず、自分自身の責任を問わなければいけない、そのために「近代的自我の確立」をと、たびたびおっしゃいました。
 先生の純粋さに反発する方もあり、先生は孤独でいらしたのではないでしょうか。
 最近、『久保栄の世界』(井上理恵著)を拝見しました。その中に、戦後すぐのこと、開放だ! 自由だ! と人々が浮き足立っているときに、先生は第二の弾圧、レッドパージを予見され、「自分を見失うな」とおっしゃっていた、というような記述がありました。久保先生は、あの鋭い眼光で5年先を見通していらしたのですね! おどろきました。
 東芸の解散後すぐ、4月6日から30日まで、東宝のプロデュースで「ミュージカルドラマ・ケンタッキーホーム」(白井鉄造演出)が帝劇で上演されました。滝沢修、森雅之両先生と旧芸研の15名が出演しました。このミュージカルは、フォスター*35の生涯を音楽で綴るもので、楽しい舞台でした。私は、フォスターの母親の役に抜擢され、滝沢先生と夫婦を演じました。初めての大役が老け役でビックリしましたが、滝沢先生のご指導で、千秋楽までなんとか無事につとめることができました。


14.民藝の舞台で
 民衆藝術劇場(民藝)の旗揚げは、1948(昭和23)年1月、新協劇団の賛助出演で、島崎藤村作「破戒」(村山知義演出)を上演。宇野重吉さんが戦地より復員され、瀬川丑松の役で民藝に参加なさいました。
 志保の役は山口淑子さんでしたが、山口さんのスケジュールの都合で、大阪公演での志保は私に白羽の矢が立ち、ダブルキャストを組んで稽古を続けました。しかし、台詞もすっかり入ったころ、山口さんの大阪公演出演が可能になり、私の志保役は実現しませんでした。
 この芝居には、各幕開けに藤村の詩の朗読が入ります。夏川静江さんが朗読をなさるのですが、ご多忙で稽古に参加されない日も多く、そのときは代わって私が朗読をいたしました。有名な「初恋」や「寂寥」。「寂寥」は『落梅集』の中にある長い詩で、この芝居では始めの部分だけの朗読でしたが、私はこの詩が好きになり、ノートに記して全部暗唱いたしました。
 もうひとつ好きになった詩は、「縫いかえせ、縫いかえせ、油に染みしそのたもと、すすげよ、さらば嘆かずもがな!」というものです。私の役は丑松の勤める小学校の女教師でした。詩の勉強ができたことと、初めての村山先生の演出で楽しかったことを思い出します。
 続いて、同年5月11日から21日まで、民藝の第2回公演は、シラー*36の「たくみと恋」(岡倉士朗演出)を帝劇で上演しました。私は、北林谷栄さん演ずるミルフォード夫人(大公の愛妾)の侍女ソフィーの役でした。宰相フォンワルタア(宇野重吉)、フェルヂナント、その息子、陸軍少佐(滝沢修)で、滝沢先生の恋人ルイーゼ役に阿里道子さんが抜擢されました。
 阿里さんは、もう少し後になりますが、NHKラジオの連続放送劇「君の名は」のヒロイン真知子をなさった方です。このドラマの放送中は、銭湯の女湯がガラガラになったといわれるほどの大ヒットでした。その阿里さんが、お疲れのため大阪公演の初日を休むことになりました。さあ大変! 舞台に穴をあけることはできません。急ぎ代役の手配です。
 結局、北林さんがルイーゼを、私がミルフォード夫人を、ということで、大阪入りの前に1日だけの稽古をいたしました。
 初日の楽屋で、森雅之さんが私のメイキャップをしてくださいました。さすがに、メイクだけはミルフォード夫人になったような気がしました。森さんは、眼を細めて筆を動かし、私はカンバスになったような気持ちでした。北林さん用に作られた衣裳は私には短く、代役は悲しからずや! の心境でした。ともかく初日の舞台は大きな失敗もなく、無事に幕を下ろすことができました。
 同年8月17日から31日まで、第3回公演「女子寮記」(岡倉士朗演出)を三越劇場で上演します。
 戦後、職場での自立演劇*37が盛んになり、大勢の作家が誕生します。「女子寮記」の作者、山田時子さんは第一生命の従業員で、演劇部で活躍され、第一作の「良縁」を演劇雑誌「テアトロ」(早川書房)に発表なさいます。民藝では「女子寮記」のあと、「良縁」も上演し、私は両方に出演することができました。「女子寮記」の稽古に入る前、私たちは京橋(だと思いますが)にある女子寮を見せていただき、寮生の方たちとお話し合いをいたしました。山田時子さんは、公演のパンフレットに、困ったこととして、書く場所のないこと、消灯時刻が守れず、同室の方にご迷惑をおかけしたこと、などについてお書きになっています。
 私の役は、豊かな家の娘で、恋人を追って家族の疎開先から上京し、入寮している“橋本朝子”という女性です。
 この芝居は、女子寮の二階の一室が舞台です。上手に窓があり、窓ガラスを通して街の夜景が広がっています。遠くの高架線の上を電車が通過するのですが、照明の篠木佐夫さんは、電車の窓に明かりを灯してくださったのです。電車通過音のエフェクトと窓明かりの瞬きが一緒になり、リアリティあふれる美しい夜景になりました。舞台装置の吉田謙吉先生と篠木先生にお礼を申しあげたいほどきれいでした。舞台写真がございます。どうぞご覧ください。

<依田> お若いですねえ! 今もお若いですが。
<馬場> 何をおっしゃるんですか。この写真、保存状態が悪くて、皆さんにお目にかけらるようなものじゃないんです。
<田中> 今、写真屋さんで、再生ができますね、きれいに。
<馬場> ああそうですか。そのあと、よその劇団から呼んでいただいて、いろんな劇団に出ました。NHK芸術劇場という劇団ができまして、魯迅の「阿Q正伝」をいたしました。木村功さん、岡田英次さんたちの青年俳優クラブで、マルセル・パニヨルの「トパーズ」という芝居をやりました。それから、モラティンという人が書いた「娘たちのはい」(ヴェリテ・せるくる)という芝居にも出ました。
この写真、恥ずかしいんですが、明星の演劇部の時のものです。同級生の小平和世さんが「小公女」を脚色し、「ミンチン先生」というものをつくりました。彼女がミンチン先生を、私がセーラの役をいたしました。その時の記念撮影です。私の隣の橋浦泰子さんは、さっきお話しした俳優座養成所の前身の舞台芸術アカデミーに入られた方です。卒業後、アメリカ人と結婚して、今もテキサスのダラスにいらっしゃいます。
それからこれは小さい写真ですけど、教室前の芝生で上級生と一緒に撮っています。前列の一番左が、須磨さん(11回生)で、お父様は当時スペイン公使でした。私は前列の一番右にいます。私の隣が柳瀬さん(10回生)です。柳瀬さんのお父様は、正夢さんとおっしゃるプロレタリア画家で、政治マンガもお描きになりました。戦争中、新宿駅で空襲に遭い、お気の毒に亡くなられました。スナップ写真に上級生と下級生が仲良く写ってる! これが明星学園です。
それからこれは、古い、50年も前のパンフレット類で汚いですが……。
<奈良> それでは、3時まで休憩にしたいと思います

●註
*1 『江戸東京年表-1500年家康の江戸入城から、1993年曙・貴ノ花の昇進まで』
吉原健一郎・大浜徹也【編】、小学館(93.3.20出版)。本体価:¥1,942。現在の東京都にあたる地域で、江戸のはじめから現代までに起こった出来事をまとめた、他に類のない年表。政治・経済にかたよらず。事件や流行、生活風俗など、暮らしに密着した記事を中心に編集してある。

*2 文化学院
1921 (大正10)年、東京・駿河台に西村伊作が創立。自由主義的教育を行った。大正から昭和初期にかけてこのような私立学校はいくつか生まれたが、昭和戦中の軍国主義の時代にあっても、西村は自らの信念を曲げず、創立当初の精神を守り通した希な存在だった。

*3 有島生馬(ありしまいくま)
1882 (明治15)年、横浜生まれ。洋画家、文学者、渡欧後、「白樺」同人となる。有島武郎は兄。

*4 石井柏亭(いしいはくてい)
洋画家。東京生まれ。1882~1958。本名、満吉。鶴三の兄。同志とともに「方寸」を刊行。また二科会を創立するなど美術界に貢献。版画・水彩画に優れた。

*5 西村伊作(にしむらいさく)
1884 (明治17)年、和歌山県新宮横町(現在の新宮市)に生まれる。1892年、奈良県の西村家の養子となり、家督を相続。広島の私立明道中学を卒業後、自学自習。教育と住宅建築の分野で業績を残した。1963 (昭和38)年、逝去(享年78)。封建的な気風が色濃く残るそれまでの教育を改める必要を痛感して近代人の育成をめざし、歌人・与謝野寛、晶子夫妻、画家・石井柏亭らの協力を得て「文化学院」を創立。今日、大正期自由主義教育の実践者として高く評価されている。

*6 阿部知二(あべともじ)
小説家・英文学者。1903~1973。岡山県生まれ。東大卒。主知的文学論を唱え、戦前・戦中の知識人の心象をヒューマニズムの立場から描いた。小説「冬の宿」「風雪」など。

*7 河崎なつ(かわさきなつ)
女性運動家・教育者。奈良県生まれ。1889~1966。女性参政権運動を経て、第1回参議院選挙で当選。戦後の女性運動の集合体となる母親大会で事務局長を務めた。

*8 三宅周太郎(みやけしゅうたろう)
演劇評論家。兵庫県生まれ。1892~1967。慶大卒。公正な批評態度で知られた。著「文楽の研究」「演劇巡礼」など。

*9 中河与一(なかがわよいち)
小説家。香川県生まれ。1897~1994。早大中退。新感覚派のモダニズム文学から出発。青年の人妻への純愛を抒情的に描く「天の夕顔」が代表作。

*10 伊藤熹朔(いとうきさく)
舞台美術家。東京生まれ。1899~1967。東京美校卒。春陽会に舞台美術部を創設するなど舞台美術の発展に貢献。

*11 土岐善麿(ときぜんまろ)
歌人・国文学者。東京生まれ。1885~1980。早大卒。号、哀果など。生活派の歌人として活躍。また、ローマ字運動の中心的存在。歌集「NAKIWARAI」「黄昏に」「春野」、評論「田安宗武」など。

*12 特高警察、特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ)
政治・思想・言論を取り締まるために設置された警察。1911年(明治44)警視庁に特別高等課が置かれたのに始まる。内務省直轄で、共産主義運動をはじめ、社会運動の弾圧にあたった。45年(昭和20)10月解体。特高。

*13 戸坂潤(とさかじゅん)
哲学者・評論家。東京生まれ。1900~1945。京大卒。新カント派からマルクス主義的立場に転じた。治安維持法により検挙、1944年(昭和19)下獄、翌年獄死。著書に「日本イデオロギー論」など。

*14 四大節(しだいせつ)
旧制度で、四方拝・紀元節・天長節・明治節の総称。
 ●四方拝(しほうはい)
  1月1日に行われる皇室祭儀。天皇が神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方に拝礼し、五穀豊穣などを祈る。
 ●紀元節(きげんせつ)
  2月11日。1872年(明治5)、日本書紀伝承による神武天皇即位の日を紀元の始まりとして制定した祝日。第二次大戦後廃止。
 ●天長節(てんちょうせつ)
  第二次大戦前における、天皇の誕生日の称。1948年(昭和23)天皇誕生日と改称。
 ●明治節(めいじせつ)
  明治天臭の誕生日にあたる11月3日。1927年(昭和2)、国家の祝日として制定、48年廃止。

*15 ヒョウソ(ひょう疸)
手先や足先にできる化膿性の炎症。疼痛が激しい。進行すると骨にもおよび、壊疸をきたすこともある。

*16 三好十郎(みよしじゅうろう)
劇作家・詩人。佐賀県生まれ。1902~1958。早大卒。プロレタリア劇作家として出発。のち、リアリズム演劇を探究。戯曲「浮標(ブイ)」「斬られの仙太」「炎の人」など。

*17 薄田研二(すすきだけんじ)
新劇俳優。1898~1972。本名、高山徳右衛門。築地小劇場出身。新築地劇団・新協劇団・東京芸術座などで活躍。

*18 チョボ
歌舞伎の上演で、地の文(所作・感情などの記述)を浄瑠璃で語ること。台本にはそぼ部分に傍点が打ってあることからいう。

*19 合同公演「桜の園」
戦後演劇の再出発を祝そうと企画された。演出は青山杉作。入場料4円50銭と2円(税別)。戸板康二はこの公演について「舞台は築地小劇場の夢を再現した。この時の廊下の興奮した空気は、何年にもないことであった」(『演劇五十年』)と記している。

*20 小山内薫(おさないかおる)
劇作家・演出家・小説家。広島生まれ。1881~1928。束大卒。1909年(明治42) 2世市川左団次と自由劇場を創立、西欧近代劇の上演を行う。24年(大正13)土方与志と築地小劇場を設立、日本の新劇の基礎を築いた。戯曲「息子」、小説「大川端」など。

*21 土方与志(ひじかたよし)
演出家。東京生まれ。1898~1959。久元の孫。小山内薫とともに築地小劇場を設立、新劇確立の基礎をつくった。

*22 青山杉作(あおやますぎさく)
演出家・俳優。新潟県生まれ。1889~1956。早大中退。大正初年以来、築地小劇場や松竹少女歌劇団で活躍。千田是也とともに俳優座を結成。

*23 山本安英(やまもとやすえ)
新劇女優。東京生まれ。1906~1993。築地小劇場創立に参加。1947年(昭和22)木下順二らと結成した「ぶどうの会」で活躍。代表作「夕鶴」「子午線のた祀り」。

*24 友田恭助(ともだきょうすけ)
新劇俳優。東京生まれ。1899~1937。築地小劇場創立に参加。1932年(昭和7)築地座を結成。文学座創立直後に召集、中国で戦死。

*25 日本プロレタリア劇場同盟(プロット)
1928年(昭和3) 12月、全日本無産者芸術同盟が全国無産者団体協議会(略称ナップ)に再組織され、文化・芸術の各ジャンル別組織を整備、日本プロレタリア劇場同盟(プロット)の組織も確立された。左翼劇場がその中核となった。

*26 村山知義(むらやまともよし)
劇作家・演出家。東京生まれ。1901~1977。東大中退。前衛的な舞台美術で知られ、プロレタリア文化運動に参加。新協劇団結成。著書に「暴力団記」「白夜」。

*27 久保栄(くぼさかえ)
劇作家・演出家。札幌生まれ。1900~1958。東大卒。築地小劇場で小山内薫に師事、のち新築地劇団・新協劇団などに参加。社会主義演劇理論の指導者。代表作「火山灰地」「林檎園日記」など。

*28 久板栄二郎(ひさいたえいじろう)
劇作家・シナリオ・ライター。宮城県名取郡岩沼町生れ。1898~1976。第二高等学校を経て、1927 (昭和2)東京大学国文科卒業。プロレタリア芸術連競、プロレタリア劇場同盟(プロット)に所属。

*29 千田是也(せんだこれや)
俳優・演出家。東京生まれ。1904~1994。本名伊藤圀夫。築地小劇場、俳優座の結成に参加し、新劇界を指導した。ブレヒトの翻訳・紹介にも尽力。

*30 瑞穂劇団(みずほげきだん)
移動演劇のひとつとして、農山漁村文化協会の肝入りでつくられた。俳優に宇野重吉、信欽三、北林谷栄などがいた。

*31 移動演劇(いどうえんげき)
戦争遂行の国策に沿った演劇運動。「健全娯楽の普及、国民的信念の昂揚、国民文化の樹立」の三目標を掲げ、1941年(昭和16) 6月9日、大政翼賛会大会議室で発会式をあげた、初代事務局長は伊藤熹朔。

*32 丸山定夫(まるやまさだお)
新劇俳優。愛媛県生まれ。1901~1945。築地小劇場を経て新築地劇団結成。のち苦楽座を結成、移動劇団桜隊を編成し広島巡演中に被爆し死去。

*33 秋田雨雀(あきたうじゃく)
劇作家・童話作家。青森県生まれ。1883~1962。早大卒。本名、徳三。演劇を中心に、社会主義的文化運動に幅広く活躍した。戯曲「埋れた春」「国境の夜」など。

*34 ホリゾント(独:Horizont)
演劇の舞台や写真撮影用のスタジオなどで用いられる後壁。照明により奥行きを感じさせたり、空や地平線を表現することができる。

*35 フォスター(Stephen Collins Foster)
アメリカの作曲家。1826~1864。素朴で美しい旋律で親しみやすい歌曲を書いた。作品「草競馬」「オールド・ブラック・ジョー」など。

*36 シラー(Johann Christoph Fried rich von Schiller)
ドイツの詩人・劇作家。1759~1805。ゲーテとともに疾風怒濤期を経て、カント哲学の影響を受け美学を研究。古典主義に基づく歴史劇を確立した。代表作「群盗」「たく(ら)みと恋」。

*37 自立演劇運動
戦後、職場での演劇活動が盛んに行われ、この中から多くの劇作家を輩出した。堀田清美、原源-は日立亀有の職場演劇、大橋喜一は東芝小向、鈴木政男は大日本印刷、鈴木元一は国鉄の出身。これら職場出身の劇作家は、はじめ久保栄らの“戦前リアリズム”戯曲の影響のもとに出発したが、やがてそこからの脱却を試みた。

*38 C I E (the Civil Information and Education Section)
GHQに置かれた民間情報教育局。占領下の日本の教育・報道・宗教などについて情報収集と指導監督を行った。

*39 50年史の記録
明星学園刊『明星の年輪一一明星学園50年のあゆみ一一』(1974.11.3)278ページ。

*40 安城家の舞踏会(あんじょうけのぶとうかい)
原作・監督:吉村公三郎。脚本:新藤兼人。出演:滝沢修、森雅之、原節子、逢初夢子。神田隆、清水将夫。製作:松竹(大船撮影所)。1947.09.27。

*41 わが生涯の輝ける日
製作:小倉武志。監督:吉村公三郎。脚本:新藤兼人。撮影:生方敏夫。音楽:木下忠司。出演:森雅之、山口淑子、滝沢修、宇野重吉。製作=松竹(大船撮影所)。1948.09.26。

*42 今日われ恋愛す
製作:小川記正。監督:島耕二。脚本:小川記正。原作:田村泰次郎。撮影:渡辺公夫。音楽:斎藤一郎。美術:北辰雄。出演:轟夕起子、森雅之、宇野重吉、野上千鶴子、月丘千秋、利根はるゑ。製作=C・A・C 配給=東宝。1949.05.31。

*43 ララ(LARA)
Licensed Agency for Relief of Asia=アジア救済連盟。1946年、アジアの困窮者救済のため、アメリカの宗教・社会事業などの13団体で組織された機関。日本・朝鮮などに物資を供与した。

〔註の作成にあたっては、以下の資料を参照いたしました。……茨木憲『日本新劇小史』(未来社)、『ハイブリッド版新辞林』(三省堂)、『大辞泉』(小学館)、『日本文学鑑賞辞典近代編』(東京堂出版)、『昭和・平成現代史年表』、明星学園『明星の年輪一一明星学園50年のあゆみー』、東宝、松竹の各WEBサイト、その他。(作成:鷲見忠紀)〕


第2部

<奈良> 第二部を始めたいと思います。どうぞ皆さん自由に、いろんな話題を出していただいて……。では、まず柏倉さんからお願いいたします。
<柏倉> 私、ちょうど終戦の年から29年の終わりまで10年くらい、さっき馬場さんがおっしゃったように、戦後の食糧事情が悪かったのと、それから闇市だとか買い出しだとかインフレの結果、その翌年でしたよね、預金封鎖になり、500円しか引き出せなくなって。それで終戦になった年に、選挙権が男女同権になりまして、翌年の4月に39人も女性議員が出るんです。だから気持ちの上では非常に昂揚してた時期だったと思います。うちの親戚の松谷天光光なんかそうですけど。
 そんな中で、いろんな意味で文化活動をしよという雰囲気が非常に強くなって、学校にも職場にもいろんなサークルができました。私も、馬場さんじゃないけど、劇団の養成所へ入ろうかなと思ったくらいでした。職場でいろなことができたんで、それがたいへん楽しかったんです。私は三井鉱山におりましたものですから、すぐ前が三越で、三越劇場が始まってからはほとんど全部観ました。
<馬場> 私のも観てくださった?
<柏倉> 観てると思いますよ。
<馬場> 「女子寮記」とか……。
<柏倉> ひとつはね、そういうのを観るために、やはりお金がいるもんですから、お勤めしてないと観られないんですよね。あそこは歌舞伎もやりましたし、オペレッタまでやりました。歌舞伎はね、勘三郎なんか青年歌舞伎やっててね、あの人は怠けるの。いやいややってるのがすぐわかる人でした。
 子供歌舞伎では勘九郎なんかもやりました。それからオペラはね、まだできなかったんです。あそこ狭いから。ですからオペレッタで、田谷力三だとか、二村定一などがやっていました。
 新劇は割合早くからやったんです。私も、そういうサークルがありましてね、いい具合に会社の中に土岐善麿の息子さんがいらして、あの方はいろんな方を知ってらっしゃるもんですからね、謡曲は喜多六平太さんのお兄さんで後藤得蔵さんって人間国宝になった方、あの方が来てくださったり。それから油絵もやってたんですけど、油絵は、一水会の刑部仁(おさかべじん)という方が来てくださってました。それから社研もすごかったですよ。一番最初は『空想より科学へ』(エンゲルス)でしたけれど。
 文学サークルもそこでつくられて、東大を出られた方で野村証券にいらした方がときどきサポートに来てくださって……。東大の食堂の隅でやったこともありました。『魔の山』(トーマス・マン)、『魅せられたる魂』(ロマン・ロラン)など、そんなのをずいぶんやりました。
 それから、おかしなことに、私は人事でしたから会社の秘密の部分にいるんですけれど、そこの課長さんがね、朝の始業前の1時間、そこで『経済学批判』と『資本論』をやったんです。私など女学校を出たばかりで、頭に入るもんじゃないです。言葉ひとつわからないわけですからね、そっちの方は早々にリタイヤしました。ですけど、若い女の方でも一所懸命ついて行った人もいました。
 コーラスだとかお花とかっていうものは、ずっとありましたけれど、そんな中で、盛んになったのはダンスと演劇でした。ダンスと演劇は、ものすごくはやりました。ダンス部をやってましたし、演劇部は組合の文化活動として、各部対抗という形で一幕物を競演するということを、組合の記念日などにいたしました。最初は創作劇でしたけれど、その次は「守銭奴」(モリエール)をやったりいたしました。2年くらいそう形が続いて、そのあと、東京自立劇団協議会(東自協)というののコンクールがありまして、それに藤森成吉の「若き日の啄木」、あれをもって出たのです。それが佳作に入ったのかな? そのときの優勝が、後に明星でも高校生が取り上げた堀田清美の「子ねずみ」でした。
 そのコンクールに3年くらい出たでしょうか? あとは、ビル協といって三井ビルの中に協議会ができまして、その中での競演だとか……。それから鉱山会社ですから鉱職協というのがありまして、その中で競演したり合同公演をやったりしていました。それから堀田清美さんは、石川島播磨に行って、レッドパージで出されてしまいました。そのあと、三井鉱山の組合の事務へ入って来られて、よく三井ビルの中のお芝居を手伝ったりされていましました。その関係で、劇作家の方たちが集まっていろんな会議をするために、よく会議室を貸したことがありました。
 それからお芝居を教えていただいていた、林さんて方、ご存じないかな? 林孝一さん。
<馬場> 知ってます、うちにも遊びにみえたわよ。




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