明星学園を創った教師たち
大草美紀(資料整備委員会)
小学館発行の教育雑誌『小四 教育技術』の連載記事から、1971年4月号掲載の「教育を創った人びと」を紹介します。

■教育を創った人びと■
明星学園を創った教師たち
和光大学助教授 中野 光
一、幼い魂を救う教育を
「大正十三年二月二十九日、むさし野はまだふかぶかと冬のとばりの中に眠っていた。
霜柱にふくれ上がった麦畑を、一足一足かみしめるようにきざんで行く四人の一団があった。一行はぽくぽくの黒土の上をとりつかれたもののようにむさぼり歩いた。
畑中の小高い一地点に最後の歩みをとめた一行は、やおらかついで来た一本の標木を打ち立てた。『明星学園建設地』……したたるような墨あとが鮮かに白木のおもてに読まれた。
……………
大海の底のようにしずまりかえったひと時だった。真昼の太陽は真珠色のスポットをこの謙虚な開拓者たちの上におとした。輝く日光、すみきった大気、ゆたかな土壌、それは彼等の久しく憧れていた求道の聖地であった。」
× × × ×
現在も東京井の頭公園の近くにある私立明星学園が誕生したときの様子を、創設に参加した照井猪一郎が美しい筆致でこのようにかいています。四人の一団とは、創設者の赤井米吉と照井猪一郎、照井げん、山本徳行で、むさし野の一角に標木をうちたてた日は、正確には大正13年3月16日(日曜日)のことだったようですが。
ところで、赤井をはじめとする四人の同人は、どういう願いと期待をもってこの明星学園という新しい私立学校を創ろうとしたのでしょうか。創設の趣意書には次のようなことが書かれています。
「幼き日の印象は人の生涯を支配します。幼き者の教養について社会がほんとうに覚醒せぬ内は民心の作興も思想の善導も庶幾されませぬ。勿論これは家庭、社会の風潮と至大な関係のあることとて、独り小学校教育のみの仕事ではありませぬ。然し、現代の世相をなした一半の責は過去の小学校教育も背負わねばなりません。(中略)
浮草の如くに転々として定まらぬ教師と点数と競争で駆られる児童が雑然たる知識の断片の蒐集を事としている現代の小学校では幼い魂の伸びようもありません。新しい教育へ幼い者を救い出さねばなりません。……」

大正13年(1924年)といえば、まだ大正自由教育はなやかなりし時代であります。この年には、野口援太郎を校長とする「池袋児童の村小学校」も創設されています。しかし、日本の教育の大勢は、まだ依然として画一・注入主義ともいうべき教育に支配されていたのでした。そのことを、照井は次のように述べています。
「すぐれた教師というのは授業と入試準備のうまい先生のことで、うまい授業というのはきめられた教材の分量を45分の1時限内にはめこみ、たくみな演技で器用にまとめ上げられることをいい、参観人をアッといわせ、子供たちを五里霧中にさまよわせることをさしたものであった。それはすべて子供のためのように見えて、その実先生自身の満足のためのものであった。
子供たちや両親の願いは、大して役にもたたぬ知識のかけらを少しでも多くつめこんでもらい、それをいつどこでも必要に応じて取り出せるように馴らしてもらうことであった。教師のいとなみは、ただそれだけに結びついていた。教育は常に教師の一方的なおもわくで行なわれ、授業は相手の個性を無視した十把ひとからげのいっせい取扱いであった。
こうした技術をいやが上にもみがき上げようとする授業の研究会は頻繁に各所で行なわれたが、教育の本質をきわめるための研究会はどこにも見られなかった。」

二、教科書は自分でつくれ
赤井や照井は、自由教育とか新教育の名のもとで展開されていた教育改良の試みに対しても批判を加えたのでした。それは、ほかならぬ彼等自身の過去に対する自己否定でもありました。
明星学園に結集した四人の同人は、いずれも私立成城学園の教師たちでした。成城に見切りをつけ、独立した新学校を創るにいたるには、それなりの理由があったのですが、ここではふれないことにします。たた、成城学園こそ大正期の教育改造の中心的な実験校であり、とくに赤井米吉は、沢柳政太郎や長田新らが注目したアメリカのH・パーカースト創案になるダルトン・プランという自由進度学習の紹介者として著名になっていたことを念頭におく必要がある、と思うのです。
赤井米吉といえば誰しもがダルトン・プランを思い出したほどでしたから。その赤井が、明星を創設した頃にはダルトン・プランの限界を批判的にのりこえようとしていたのです。その方向は教育の方法と教育の内容とを結びつけて研究することによってきりひらこうとするものでした。大正14年の秋、教育問題研究会主催の「新教育研究会」において赤井は次のように述べております。
「とにかく、教材の研究がもっと旺んに興らねばならぬと思います。新教育の諸々の方案が唱へられていますが、国定教科書の範囲で果してどれだけ行なわれるものでしょうか。もともと、国定教科書は今日言われている様な意味の児童そのものの生活を指導して行くと言う考えで作られているものではありません。一日も早く大人生活を修得せしめよう、記憶せしめよう、授けようとして出来ているのですから、それを用いながら自学自習も、生活指導もあったものではないと思います。ダルトン案の如きは、教科課程は如何でもよい、それを習得する方法を考究したのだと言っています。それはダルトン案そのものの為には強味であるかも知れませんが、児童教育の方案としては大きな欠点であろうと思います。我々が教育の諸問題を現実に考えることになると、どうしても教材を研究せざるを得ないと思います。そこまで具体的にならねば、新教育も結局頭の内だけのことで終ると思います。」
こうして、明星学園の教師たちは、教材の自主選択・編成という至難の課題にたちむかっていったのでした。すぐれた教材と思われるものを騰写板でプリントし、子どもの受けとめ方をしらべてこれに修正を加え、次の学年の教育でさらによりよいものにしていく、という実践をつみ重ねたのでした。そうした研究実践の成果のひとつが、大正15年の4月に集成社という出版社から出された国語の「新読本」(56ページの写真)でした。これは、照井が成城時代からはじめていた試みを霜田静志(大高義一)らが深化させてまとめあげたものです。当時、国語の国定教科書では「ハナ、ハト、マメ」という単語の羅列からはじまっていたのを、子どもの経験や心情にもとづいて、韻律的な反覆を重要視する立場から「ハナ ハナ ハナヤハナ」というような詩教材を創り出したのでした。こうした実践はやがて昭和8年に改訂される「小学国語読本」の編集において採用されていくことになります。照井のばあい、そのほかに「児童曽我物語」「分科以前の地歴」等の自主編成教材を生み出しておりますが、日本の私立学校教育のあり方を実践的に探究していったことは高く評価されるべきでしょう。彼は戦後、赤井のあとをうけて明星学園小学校の校長をつとめましたが、私立学校の教師は「教材を自分で探し、教科書を自分で作るくらいでなければならない」とか「教科構造については、文部省が発表しているものを深く疑ってみるところから出発しなければならない」と強調していた、といわれます。戦前、国家の教育内容に対する統制が、今日よりもきびしかった時代に、赤井や照井のこのような主張と実践は、「抵抗と創造」の教育としての意味をもっていましたし、戦後の民主教育にとっても貴重な遺産であった、といえましょう。

三、抵抗と創造の教育
さらに、注目に値するのは、明星の教育では、教科外活動がとりわけ大事にされていたということです。赤井も照井も、日本における「学校劇」の開拓者でした。脚本づくり、配役、人選、練習、発表という一連の活動を展開する過程で子どもたちが集団的に成長をとげていくことに大きな価値を認めたのでした。とくに照井のばあいには自ら脚本を創作し、上演にあたっては、すぐれた指導を試みました。霜田静志も学校劇の教育的意義を豊かな実践をふまえながら、次のように述べています。
「我々が子供の生活をよく注意して見るならば、彼等の生活に於ては、此の遊戯と劇とを到底判然と区別することが出来ない。彼等の好んでやるままごとにしても、戦争ごっこにしても、或は売屋ごっこにしても、もうその儘(まま)劇的演出になっておるのである。彼等は豊富なる想像を逞しうして、忽ち劇中の主人公になりすまし、夢中になって遊んでいる。斯くの如き劇的生活、劇的要求は、見方によっては児童の生活の全部であるとすら考えられる。新しき教育が児童の生活に立脚せねばならぬとしたら、我々はどうしても此の点を閑却することが出来ない。斯くの如き児童の劇的生活に基礎を置いてこそ、始めて本当の教育が出来るのであって、これを無視しては真の教育は出来得ないと思う。………(中略)
これらの劇を指導して私の痛切に感じたことは、劇の教育的効果は最後の演出の時にあるのでなしに、そこにまで至る道程にあることである。……」
個性尊重、自主自立、自由と平等、この三つが明星学園教育の原則でしたから、教科外の諸活動はこれを実現していくための重要な場になったのでした。学校劇については当時にあっては岡田文相はじめ教育行政当局はその教育的意義を認めず、かえってそれを白眼視した圧迫を加えるような状況でしたから、明星の教師たちのこうした実践はやはり「抵抗と創造」の教育であった、というべきでありましょう。
こうした教育をおしすすめた教師たちには、とうぜん自己の実践をささえる思想の形成があったはずです。いわゆる大正デモクラシーの潮流の中で、彼等がどのように教育思想を自己のうちに形成しきたったのか、ということが問題にされるべきでしょう。そして、とくに、大正自由教育の退潮期に自由教育の成果に立脚しながらも、それをのりこえようとしたとき、新たな思想的基盤をどこに求めたか、ということがわたくしたちの関心の的になります。そうしたとき、赤井が次のように述べていることが注目されます。
「社会の前途を考えても私はこの儘で進むものだとは考えられません。即ち、遊惰階級と勤労階級、消費階級と生産階級が、分離対立して行く様な社会相は遠からず非常な混乱をひき起すにちがいないと思います。然してその時に苦しめられるのはこれまで特権に誇っていた階級で、しいたげられていた人達ではないと思います。こんな様なことから、私は自分が教育している比較的富裕な家庭の児童を見ると先きが心配になってならぬのです。これが直接私をして労働教育の問題を考えさせた原因の一つです。
将来の道徳教育の課題は公正ということであろうと思います。或るものは働き、然も十分に酬いられず、或るものは遊び、然も限りなく与えられる、ということは公正の理にもとることです。すべての人が自営自活しなければなりません。人々その天分に従って各々自らの能とするところに向うのはよろしい。然し、その間に上下、貴賤の別はつけられないものです。いわんや人を己が生活の具とすることは許されないのです。この公正の理念が十分に発見されねばならぬと思います。そしてこれを実際生活に行ったものは万人労働ということであろうと思います。従って、将来の教育に於いては、労働がもっともっと重んぜられ、そこで生産に関する教育を行うと共に、体験による道徳教育、公正の教育が行われねばならぬと思います。」
ここには社会の歴史的発展動向に対する赤井のするどい洞察がありますし、社会主義につながる教育のあり方が、「万人労働の教育」ということばで示唆されています。社会変革の展望と労働の教育の必要性を結びつける論理は、ルソーの「エミール」にももりこまれていますが、赤井もルソーの思想的影響をうけていたと思われます。
しかし、こうした洞察や展望のもとで教育の実践をすすめていくことは、明星の教師たちにとって容易なことではありませんでした。歴史の発展をささえ、かつになう階級的主体、つまり、ひたいに汗して働く人たちから、へだたったところでの構想を具体化していくための条件がいちじるしく欠けていたのですから。







