「学校と家庭」―赤井米吉

大草美紀(資料整備委員会)

学校と家庭(要旨)
赤井米吉
 戦後の学校は新しい民主的な社会を建設する市民を養成することを目的として、男女共学、生徒自治会等のことを行なっています。ところが家庭では依然として兄弟姉妹でも男女の差別的取扱いがあり、父親の意見が一家を支配しています。子どもの意見が顧みられないこのような状況では、子どもは封建的なものと民主的なものの間にはさまれて、自分のために民主的である方がよい時には民主的になり、封建的である方がよい時には封建的になるといったような、もっともわがまま勝手なものに育ってしまいます。今日の青年の間に、封建的な誠実さも、民主的な責任感もないものが多いのはこのためです。
 家庭は子どもたちの人生の第一歩を踏み出すところであり、いろいろな習慣がつくり上げられ、性格のできるところです。家庭の教育がよくなくては、学校教育がどんなに骨折ってもその効果はあがりません。学校教育のすべてが正しいものとはいえないでしょうが、家庭というものは元来後進的なものであることを忘れないで、学校の要求を好意をもって理解し、これに追従するように努めなければならないと思います。
 家庭教育ということは、家庭で学校の課業の予習や復習をすることではありません。家庭の教育は家庭生活の間に自然につくられる性格の教育です。家庭でつくられる性格の如何によって、その後の学校や社会での教育が効果を挙げるか、挙げられないかに分かれます。これからの民主的社会で活動する人間の基本的な性格を養うために、家庭で注意しなければならないことをあげると、次の四つのことが最も大切です。
(一) 男女平等観をつくること。父母の間に人格としての上下、いわゆる主従のようなものがあっては子女に正しい男女子等観をもたせることはできません。兄弟姉妹の間に男女の取扱いの不平等があっては、よその男女に対して平等的振舞をすることはできません。男女平等の考えは家庭で第一につくられるべき筈でありますが、実際は家庭ほど男女不平等なところはないのです。そしてこういうところで育った男女はおそらく何時までたっても正しい平等観をもち得ないでしょう。そういう子供たちが男女共学をさせられても、なかなかよくいきません。青年期の性的過失のもとは家庭における男女生活の間につくられるのであります。
(二) 子供を尊重すること。家族制度は父権絶対の制度です。子供たちは父に服従するだけで、父に認められません。これが子供たちの父に対する無意識的反抗心をつくることになり、それが学校教師に転嫁され、すべて権威を持つものに転嫁されるのです。子供の意見を聞くことは、彼らの自己表現をなさしめ、両親に認められているという感じから安定感をもたせ、家族社会の一員であるという自覚から結合感をもたせ、精神衛生をよくすることができます。これがその後の教育や経験をして十分に効力を発揮させるもとであります。
(三) 自分のことは自分で。これが自治精神のもとであり、自治の習慣のはじまりです。どんな小さい子供でも、自分の身のまわりのことは自分でする権利があり、責任があります。それは道徳的な義務だけではないのです。子供の身辺は子供たち自体が自分のすきなようにする権利がある。これは親でも侵してはならない。こういう権利感と、したがってよくしておかねばならないという責任感とが一緒になって自治の精神ができるのです。男の子は物を出しっぱなし、女の子はそのあと片付けは前項の男女平等観と自治精神を破壊するものです。
(四) 共同の仕事娯楽。これは共同精神をつくるもとです。家が一つのまとまった団体であるためには、全員が一緒になって働いたり、楽しんだりする機会がなければなりません。めいめいが勝手な仕事をし、勝手な遊びをしているのでは、いわゆる団らんを楽しむことはできません。自分のことは自分でやるという習慣と、皆で一緒に働き、楽しむ習慣と、相異なった二つの習慣は幼い時から平行して発達しなければ、自主性と共同性のある人間はできません。
C.ウォシュバーン著/赤井米吉訳『新教育の生かし方』
(1953年2月15日、学芸図書出版社)より

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