「社会情勢」―上田八一郎
大草美紀(資料整備委員会)
社会情勢
上田八一郎
創立前後の社会はどんな様相を呈していたであろうか。昭和3年2月には第1回普選が行われて無産代議士8名が当選した。3月には全国的に共産党の大検挙が行われた。4月には当時の水野文相が学生思想問題に関する訓令を出した。6月には張作霖氏の爆死事件が起こり、色々な問題を世間に投げた。翌4年になって四・一六事件があり続いて愛国主義の諸団体が出現したので、文部省は4年より5年にかけて思想問題に関し引き続き大学・高専等の校長会を開催した。5年11月には浜口首相が東京駅に於いて愛国社員に狙撃された。6年に入って官吏の減俸が行われ、同時に学園も一割の減俸を実施した。9月には満州事変が勃発し、相次いで起こった白色テロ、澎湃として起こったファッショの波、翌7年3月には上海事件が起こり、5月15日には犬養首相が暗殺(所謂五・一五事件と呼ばれるもの)され、8月には国民精神文化研究所が設立されるという極めて多事な時代が現出した。12月には陸軍省が上智大学と暁星中学の教育方針に不満を持ち終に配属将校を引き上げてしまった。昭和8年3月にはドイツ国会がヒットラー首相の全権委任法を可決してナチス独裁が成り、次いで日本は国際聯盟を脱退するに至った。
この年、中女は第1回卒業生を送り出したのである。昭和9年血盟団事件の裁判の判決に対し暗殺是認の風潮が出て来た。しかも徳富蘇峰氏の如き同事件を目して「報国の丹誠」から出たものだと公表した。かかる風潮が益々日本をしてファッショ化へ拍車をかけることになった。10年相沢中佐事件、11年二・二六事件、12年日華事変、かくの如き大事件が続出するに至った。国体明徴問題で美濃部達吉氏が貴族院と東大を追われ、「戦争は創造の母」と云う陸軍のパンフレットが出て日本は凡て軍部の天下となってしまった。それから後の事はもう書く必要もないであろう。ただ其の間にも明星は依然として自由教育を堅持して来たと思う。明星学園という文字が気にくわぬと配属将校を通じて師団司令部の意向が伝えられた事もあった。父兄の間にも将来軍人を志望する生徒は他に転校させたがよいと云いだした人もあり、先生の中にもそれに賛成するが如き言辞を弄する人も出て来た。事実子供の意向に反して自分の子供を他校に移した父兄もあった。父兄の中には子供達が自分の学校が好きになるということを恐れる不思議な現象も生まれた。学校が好きになるのは学校が生徒を甘やかすからで、学校に行くことを嫌う程に学校がピシピシ生徒に硬教育を施してほしいという要求も出て来た。何かすばらしい文句の額を校内至る所に掲げて欲しいという希望も出た。奉安庫の設置、校旗に対する敬礼、色々な命令指示が引続いたが、どれも実現するに至らなかった。ささやかな教員室の前で「○年○組何某○○先生に用事があって参りました」と大声に怒鳴られた時にはよく驚かされた。普通の声量で普通の事を云えば、もっと大きな声で言えと叱られたものだった。質問に対する正しい答は問題でなく「忘れました」「知りません」と特別に大きく発声すると「よろしい」といって誉められていた。随分恐ろしい教育が一時流行したものである。19年1月太平洋戦争もだんだん酷になった頃、第3学期始業式で「本日より校内は勿論登下校の際もゲートル着用のこと」と通達した時、当時の5年生Kが名状すべからざる不快な顔をしたことを今も忘れない。
(※編者注:「創立前後」とあるのは旧制中学・女学校の創立期のこと)
昭和24年(1949年)
「二十五年の回顧」より、“『漫思凡考』上田八一郎先生を偲ぶ”掲載