「漫思凡考」―上田八一郎
大草美紀(資料整備委員会)
漫思凡考
上田八一郎
僅か百名に過ぎない少数の生徒であるからには、きっと手の届いた仕事が出来るであろうと親達は期待されるが、実際やって見ると中々そうは行かぬ。十人十色と云うが此処では正しく百人百色である。少数であるだけ其色合が可なりの程度までわかるが、少くとも太陽の七色だけでは分類出来ぬ事は事実である。
白味がかったとか灰色がかったとか云う形容詞を用いぬと表現出来ぬのもあれば、又桃色に藤紫を加えたといったような複雑なのもある。所詮百人百色である。誠に各人の持つ個性──特異性──は造花の妙だと思う。
如何に巧みな植木屋でも松を梅に変性せしむる事が出来ない様に、如何に巧みな教師でも生徒の個性を変える事は出来ない、否、それは却って自然に対する冒瀆であろう。そこで吾々のなし得る仕事はただ其個性によき方向を与えしむるにあるのみと云う事になる。と云えば至極簡単なようだが、この仕事が中々並大抵でない、恐しく事業難である。白を黄と見違えたらとんでもない方向に彼等を導くことになる。世間には白を赤と誤診されて前途のある一生を棒に振った者もある。胃アトニーを胃下垂と診たって大同小異だろうが、時に腸チフスを肺炎と誤診する事がないでもない。従っていくら薬を投じて見ても一向に利目がない。かくして教育者は診断の正確な名医であらねばならぬ事になる。ルビッチと云う映画の監督が患者を看る様に共に働く女優を観察すると言う。そして彼は唯一つの美点すらも持ち合せない婦人は殆どない、どんな婦人でもよき方向を与えれば自己分析の結果、自分に恵まれた点を発見するものだと言う。これは彼が名監督と呼ばれている所以であろう。
私は飽く迄個性の尊重者である。世間では(個性-自由-我侭-放縦)(団体-規則-服従-統制)という風に飛躍的に考える人が多い。しかし私は特異性を持った大個性の集団でなければ団体も社会も強固なものにならないと信ずる。個性を滅却した団体は、よし強制によって一時的の統制は得られるであろうが、決して永続きはしないと固く信ずる。
二十余年前、私がまだ学生であった頃、三宅雪嶺氏が「教育上の疑問と仮解答」と題し「学生時代、数学が不得意で落第の憂目に遭った者で現在これこれの要職にある者があるかと思えば、又英語が不得手で悩み切った者で現在華華しく国政を料理している者もある。人には各々其特異性があるので数学や英語だけで其人の全体を量ることはどうかと思う」と云った様なことを直截簡明に、しかもあの咄弁で投げつける様に吐き出された事を思い出すのである。そして二十年後の今日、雪嶺氏の疑問が私の疑問となり、雪嶺氏の仮解答が私の仮解答になっている事に気がつく。然し現実は誠に憂鬱である。上級学校への入学試験なるものが私の夢の一切を叩きこわして了う。
「ほしかげ」第12号/1934年(昭和9)12月15日より