「教材論を起せ」 赤井米吉

大草美紀(資料整備委員会)

教材論を起せ
赤井米吉
 国定教科書の範囲内で自由教育論が唱導されているのは現代の一奇観であろう。児童の内的興味はむしろ研究方法よりも研究の対象にある。論者は国定教科書が児童の学習材料として最上のものであると認めるのであるか。学習は「如何に」の問題よりも「何を」の問題がより重要であることを考えないのか。
 ある所では児童の環境を整理すると称して教室内に處(ところ)狭き迄に学習材料を羅列し、宛として古物屋の店頭の如くにしている。然し宇宙間の凡ての材料を教室に集めることは出来ない。この人達は如何なる標準によってそれ等の古物を蒐集羅列するのか。
 或る人は教科課程は全然児童の撰擇(せんたく)に任すべしと云う。然し児童は自らの知らない物を撰擢することは出来ない。彼等の見聞の範囲に於てするのみである。然らば彼等の撰擇範囲に如何なるものを置かんとするか。
 教材論の起らざるは我教育界の浅薄と怠惰を意味する。曾(かつ)て教科書の民間刊行を論じたのもこの意味からであった。再びここに論じて識者の注意を促す。もし「教材」と云う言葉が嫌なら「学材」とでも言いなさい。児童の練習事項のことである。
 教材論をなすときにまずブッツかる問題は教育理想論であろう。夫から児童心理の問題、社会文化の問題にも逢着しよう。然し児童に対して明瞭な答をなしうるものがあろうか。教材論の起らざるも宣なるかなだ。
 浅薄と怠惰の我教育界は如何に「方法」の問題に花が咲いても実は永久に結ばない。情ないことだ。
『教育問題研究』第48号1924年(大正13)3月 成城小学校教育問題研究

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