PTA会報「道」より~心の宝 ――― 富永次郎
大草美紀(資料整備委員会)
1955年1月発行『PTA会報23号』より、保護者の寄稿
「心の宝」
富永次郎(22回生の父・美術評論家)
3、4日前のことだが息子が同級の女の方を誘って来た。ストーブにあたりながら二人の会話を側できいていると、卒業まぎわのせいと思うが話題が自然懐談になっていく。あの時、この時、という具合で、おやじのわたしにはよく通じないが、どっちも尽きない思い出があるらしい。
要するに、と、どっちかがいう。何のかのというがよかったな。満足だなと片方がいえば、相手は、そうそう、満足と答える。
満足という言葉はどんな場合にも微笑ましいものだ。子供に満足を与える教育というのはたしかに得がたい。
この子供達の幼年期は外的な条件からいえば決してめぐまれたものではなかった。つぎの当ったモンペをはき、ちびた下駄、ほつれかけたセーターなどを着た乞食の一隊みたいな子供たちの写真が、どの家にものこっているはずだ。わたしは、時折その写真を取り出しては、忘れかけたその頃の貧しさをひしひしと思い出す。子供たちはそれに耐えてきたのだ。
そういう時期をくぐり抜けながら子供たちはなお満足を味わっている。
満足か不満足かは、つまりそれを受け取る側の心組みにあるわけで、そういう明るい、素直な心を与えてくれた教育なのだとつくづく思う。
それはたしかに心の宝にちがいない。その宝はこの子供たちに一生ついてまわる。忘れもしないし剥げもしない。人生を許容する土台だからである。だからこの子供たちは一生満足を知る人間であり得るだろう。
どんなめぐまれた環境にいても絶えず不平不満の絶えない人もあろうし、はた目に気の毒そうに見える状態の中でも満足を知る人もある。後者のような人は平凡に見えても、実は非凡な心の持ち主にちがいないのだと、この頃しきりに考えるようになった。
多分それが明星教育の地味な非凡さなのではあるまいか。
こういう得がたい心の宝を与えて下さった諸先生方、明星の美しい伝統に、あらためて感謝の念を禁じ得ません。