シリーズ:「明星学園史研究会」① 大正デモクラシーと教育改革者の群像

大草美紀(資料整備委員会)

明星学園史研究会 第1回記録
1999.4. 11(日)14:00~17:00
於 永谷シティプラザ(吉祥寺)
大正デモクラシーと教育改革者の群像
第1部  講演者:依田好照(元明星学園小・中学校校長、元明星学園中学校社会科教諭)
第2部  問題提起・話し合い
記録まとめ:奈良正博・富谷久子

第1部
〈はじめに〉
 私は昨年3月、41年間在学した明星学園を卒業しましたが、その後も学園史の勉強をつづけております。
 その理由の一つは、かねがね、明星の歴史が世の中に十分に理解されていない、また間違った「神話」が流布されていることも少なくないので、これを実証的に訂正したいと考えていたことです。
 もう一つは、学園の現在と未来を担う人たちと、皆様のように学園を深く愛する人たちに、もっともっと学園の歴史を知っていただきたいとねがうからです。
 歴史を知るというのは、たんに古い昔の出来事を知るということではありません。私たちはどこから来たのか、いまどこに立っているのか、そして、これからどこへ進もうとするのかを考えるためです。
 私はもう学園の現場の人間ではありませんが、できうる限り正確な史料を整えておきたいとねがっています。世を挙げて教育改革が叫ばれている今日、明星学園の歴史的な研究はきわめて大切だと思うからです。
 学園にはすでに『明星の年輪』という記念誌が3巻あります。そのうち「50年のあゆみ」と「60年のあゆみ」の2巻は、学園の大先輩である原田満寿郎先生が心血を注いで編纂された労作です。また、広く日本の教育史のなかで明星のあゆみを位置づけた研究には、中野光先生の『大正自由教育の研究』をはじめ、すぐれた業績がいくつもあります。
 私は、それらの業績に学びながら、さらに埋もれた史料を掘りおこしていきたい、何よりも生きた史料である卒業生、父母、先生たちからも証言を集めたい、そしてここに集まってくださった皆様といっしょに勉強を深めていきたいとねがっています。
〈資料解説〉
 用意した資料のうち、中野光先生の『大正自由教育の研究』だけ、ちょっと解説を加えておきます。
 中野先生は1924(昭和4)年のお生まれ。東京文理科大学を卒業され、桐朋学園の小学校の先生、金沢大学、和光大学、立教大学を経て、中央大学の教授をしていらっしゃいます。大正自由教育研究の第一人者で、生前の赤井米吉先生とも親しく、赤井先生の論文集や遺稿集の編集もなさり、また、ご遺族から先生の日記の閲覧を許されるなど、深く信頼されている篤実な研究者です。
 学園創立60周年の年には、PTA主催の講演会で「見つめ直そう明星教育の原点」という講演をしてくださいました。その記録はPTA会報「道」107号に載っています。
『大正自由教育の研究』の初版は1968年に出版され、第23回毎日出版文化賞を受賞しました。今は同じ黎明書房の「教育名著選集」の一冊に入っています。30年以上前の労作ですが、いまだこの本の右に出るものはありません。
 なお、先生には本日のテーマにズバリ、『教育改革者の群像』(国土社、1,600円)というご著書がありますから、関心のある方はぜひ読んでください。
〈きょうのテーマ〉
 きょうは、学園創立までの歴史的背景を皆さんといっしょに探っていきたいと思います。きょうはまだ明星学園は創立となりませんが、次回は創立となりますので、どうか次回もご出席ください。
1.「大正自由教育」とは?
 まず、「大正自由教育」とはどういうものか、そのアウトラインをつかんでおきましょう。コピーさせていただいた中野先生の『大正自由教育の研究』10ページ、最初の5行を読んでみましょう。
「大正自由教育」 ―必ずしもその呼称は一定しておらず「大正新教育」ともいわれるが― とは、主として大正期において、それまでの「臣民教育」が特徴とした画一主義的な注入教授、権力的なとりしまり主義を特徴とする訓練に対して、子どもの自発性・個性を尊重しようとした自由主義的な教育であり、そうした立場からの教育改造が一つの運動として展開されたことから、それは、しばしば大正自由教育=新教育運動とも呼ばれているものである。》
 それでは、そういう新しい教育運動のなかで、どういう学校がつくられたのでしょうか。
2.新しい学校の設立年代
 レジュメをごらんください。次のような私立学
校がつくられています。
  沢柳政太郎  成城小学校      1 9 1 7 (大正6)
  羽仁もと子  自由学園       1 9 2 1 (大正10)
  西村伊作ら  文化学院       1 9 2 1 (大正10)
  赤井米吉ら  明星学園       1 9 2 4 (大正13)
  野口援太郎ら 池袋児童の村小学校  1 9 2 4 (大正13)
  小原国芳   玉川学園       1 9 2 9 (昭和4)
 これらの私立学校のほかに、どういう学校で新しい教育運動が展開されたでしょうか。資料の地図をごらんください。
 地図を見ると北海道から九州まで、全国的に新しい教育運動が展開されていたことがわかります。
 この地図に載っていない学校もたくさんありました。たとえば、先日、以前明星学園中学校の校長をしておられた上川淳先生の金婚のお祝いの会があって、そのとき先生の自伝風エッセイを集めた『暦日』という本をいただきましたが、そのなかに「私と明星学園」という文章があります。ちょっと読んでみましょう。ちなみに上川先生は大正6年の生まれですから、今年82歳です。
私が小学校1年に入学したのは1924年(大正13年)で、関東大震災の翌年に当る。
同じ1924年に私の教師生活の大半を過ごした明星学園が創立している。
なにか因縁めいたものを感じるが、実は関係ありなのである。
小学校で私の受けた教育は、明星学園の創立当時の教育方針、大正自由教育の流れに添っていた。
当時、東京府豊多摩郡渋谷町にあった常磐松小学校で小学校教育を受けた私なのだが、その創立70周年記念誌に、会田満校長(1995年10月現在)は、常磐松小学校の創立時の教育方針を次のように紹介している。
 
「吾人は知識伝達の教育や記憶万能主義又は準備主義教育等を避け、飽くまでも児童を中心として、その自発活動を促がし、常に本校児童の実際に立脚し、その実生活に則して児童自身をして事物を自覚的に処理せしめ、以て器械的に陥らず抽象に流れず、而もそれが団体生活を営ましむることによりて、個人に陥らず、且つ知に偏せず情に走らず、知情意の円満にして統一ある全人格的活動を指導して、個別的にその成長を助成せんとするものである。……」
 
 この内容をみると、明らかに大正自由教育の流れを感じとることができる。
 私は小学校で受けた教育を思い起こすとき、何故か修身の授業が印象に浮かぶのである。当時私の担任内藤福蔵先生は、修身授業で教科書を使うことは殆どなかった。その時々、身近で起きた出来事や新聞に報道されたことなどをありのまま取り上げ話をしてくれたが、あまり説教がましいことはいわず、そのことについて話し合いを展開させたりするのだった。
 明星学園の創立者赤井米吉先生の修身授業について生徒たちの感想で、
「先生の修身授業はとても面白かった。海外旅行の話をしてくれたり、当時のファッションについてふれたりして、よその学校で受けた人たちが、修身は退屈だったというのが不思議なくらいだった。」
 と述べられている。私の受けた修身授業とどこか共通したものを感じるのだ。これこそ「大正自由教育」の反映といえるのではなかろうか。(後略)
 公立学校にもそういう学校があったんですね。今ではどうということもないと感じる方も多いと思いますし、とくに明星の父母の皆さんはそうだと思いますが、当時にあっては、こういう学校は異色というが、めずらしい学校だったのです。
 そこで、明治時代から大正初期の教育は一般にどういうものだったかを、ちょっと振り返っておきたいと思います。
3.それ以前の教育の一般的特徴は何か?
 年表のいちばんはじめ、私が書き加えたことがあります。―「1890 (明治23)年 教育勅語発布、新小学校令」
「勅語」というのは「天皇のおことば」です。この教育勅語が天皇中心の国家主義的な教育の大方針でありました。じつはその前の年に大日本帝国憲法が発布されています。と同時に「御真影」といわれる天皇・皇后の写真が全国の小学校に配布されました。教育勅語発布の翌年1月には教育勅語の写しが全国の小学校に配られます。こうして全国の小学校、どんな山の中の小学校でも、祝日には必ず教育勅語が読まれ、天皇の写真が礼拝されました。
 もうニコニコとしていらっしゃる方がありますが、たぶんご年配の方だと思います。じつはこれは明治時代どころか、それから50年以上にわたって、1945 (昭和20)年の敗戦までつづけられたのです。奈良さんも私も昭和ヒトケタ生まれの軍国少年でしたから、今でもよく覚えています。
 学校に行って校門を入ると、グラウンドの向こうに「奉安殿」というコンクリートづくりの小さい建物がありました。校舎は木造ですが、「奉安殿」だけはコンクリートで火事でも絶対に焼けないようになっている。ここに天皇の写真と教育勅語が安置してあるわけです。登校・下校のときには必ず「奉安殿」に対して最敬礼、身体を90度にまげておじぎをするんです。
 祝日や入学式、卒業式のときには全員講堂に整列している。教頭先生が「奉安殿」から教育勅語を持って来られる。ウルシ塗りの黒いお盆にのせた黒塗りの箱をしずしずと運んで来られる。私たちは最敬礼をしている。チラッと見上げて盗み見すると、教頭先生は教育勅語の入った黒い箱を、壇上に立っている校長の前のテーブルにささげる。校長先生白い手袋をはめていて、紫のひもを静かにほどいて、ゆっくりと蓋をあけて巻物をとりだす。そして、ゆっくりと重々しく教育勅語を読むんですね。
 私、当時の校長に代わって読んでみます。(ところどころ暗誦する)「朕おもうに、わが皇祖皇宗国をはじむること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。……なんじ臣民父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習い、もって知能を啓発し、徳器を成就し、……一旦緩急あれば義勇公に奉じ……」どういう意味なのか、私ども小学生のチビにはわかりませんので、最敬礼をしたまま、ひたすらがまんして聞いているだけです。皆さんも耳で聞いただけではわからないでしょうから、だいたいの意味を申し上げましょう。(概略解説―略)
 さて、校長先生が読み終えると、やっと体を起こしていいことになる。そのとき、一斉に鼻水をすする音が講堂にひびきわたる(笑) なかには途中で脳貧血で倒れる者もありました。そんなことを、いま内藤先生も思い出してニコニコしていますね(笑)
 この教育勅語が発布されると同時に小学校令が制定されました。小学校教育の目的は、児童の身体の発達に留意することを前提として、三つありました。
 第一は道徳教育の基礎をつくること。これは教育勅語にあげられている徳目と同じです。つまり、天皇に忠義をつくし国家を愛すという「忠君愛国」のイデオロギーと、父母に孝行をつくし、兄弟なかよく、友だちを信じ、自己を重んじるというモラルを教えることでした。
 第二は国民教育の基礎をつくること。これも教育勅語やその前提になっている大日本帝国憲法に定められている天皇中心主義、国家主義に基づく国民の育成をめざしたものです。
 第三は生活に必要欠くべからざる知識技能を授けることです。
 そこでまず修身・読本・歴史の国定教科書がつくられました。この3教科が国家主義的な教育を行ううえで最も重要と考えられたからです。
 小学校の授業時間総数は27時間で、そのうち修身3時間、読書・作文・習字が15時間、算術が6時間、体操が3時間。(高等科になると理科・図画・唱歌・外国地理・裁縫などが加えられましたが、修身・読書・日本歴史・日本地理・体操などが授業時間総数30時間のうち約半分をしめていました。)
 1900(明治33)年になって、小学校の科目数が多すぎて児童の負担が重く、かえって知識が散漫になるというので、改訂し、それまでの読書・作文・習字の3教科を統合して「国語科」を新しく設け、また、小学校で用いる漢字の数を4年間で1,200字に制限するなどの改訂を行いましたが、各教科がもつべき固有の論理や教科内容は尊重されず、国家主義的なイデオロギーと低い次元の実用主義という2つの原理によってゆがめられてしまいました。
4.生徒や教師はどう感じていたか?
 それでは当時の教育を生徒や先生はどのように感じていたのでしょうか。
例1.武者小路実篤
 武者小路先生は明治18年生まれ。赤井・照井・小原の3先生は1887(明治20)年生まれですから、2歳年上です。(武者小路先生は、のちに4人のお嬢さんと7人のお孫さんを明星学園に託され、戦後初代の後援会長を務めてくださいました。)
 1893(明治26)年に学習院の初等科に入学しました。その思い出のなかで、こう語っておられます。―「僕は学校ではおとなしい学生で、先生の言われた通り行動する性だが、しかし学校の勉強をすることは、興味がなく、いやいややったわけである」(「教育」、1949=昭和24年12月号)。また、歴史や地理などは暗記物で、天皇や時の大臣などの名や業績を覚えることばかりだったと語っています。いわゆる画一的教育、注入教育で面白くなかったわけですね。
 この天皇の名前を覚えることは、その後もずっと第二次世界大戦が終わるまでつづけられるわけで、ハイ内藤哲彦君、歴代天皇のお名前をいってごらんなさい。(内藤―9代まで暗誦)それしか言えない? ハイ、バケツを持ってうしろに立っていなさい。(爆笑)
 ハイ、奈良君。(奈良―「それくらいですね」)落第ですね。(爆笑)
 当時の小学校には図画や工作もなかったし、とりわけ修身の時間が好きだという子どもはいなかったようです。
例2.内村鑑三
 先生たちはどうだったかというと、たとえばクリスチャンの内村鑑三先生。内村先生は小学校の先生ではなく、第一高等学校(今の東京大学の教養課程)の先生でしたが、教育勅語が発布された年、明治23年の明治天皇の誕生日(11月3日)に「御真影」を拝むことを拒否したんですね。クリスチャンですから、唯一絶対の神はキリスト教でいう「神」なんです。大日本帝国憲法では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされているけれども、キリスト教の「神」は天皇よりも上なんですね。そこで「御真影」を拝むことを拒否してクビになってしまった。この事件をきっかけに、クリスチャンと国家主義者の間に大論争がおこって、クリスチャンは国賊とされるようになった。だから富谷久子君がそのころ生きていれば国賊です。(笑)
 その後も、「御真影」を火事で焼いてしまって、校長が責任をとって辞職するとか、今では、考えられないような事件がいくつもおこりました。ちなみに明治天皇のお誕生日の11月3日は当時は「天長節」と呼ばれて、大正天皇に代わってからは「明治節」となり、第二次世界大戦後の今では「文化の日」となっています。
例3.石川啄木
 啄木は1906(明治39)年に東北地方の小さな村の小学校の代用教員になりました。この年、処女作の『雲は天才である』を発表しています。自分をモデルにした代用教員新田を主人公として、当時の教育界における画一的な形式主義を痛烈に批判したんですね。
 新田は自分でつくった詩を自分で作曲して生徒に歌わせます。その詩のなかには「自由」とか「愛」ということばが入っていました。これが校長の逆鱗に触れて、教員会議で問題となります。啄木は『渋谷村日記』のなかで、「文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬ」と書いています。
5.それまでの教育に批判を加えた人たち
 啄木だけでなく、それまでの国家権力と結びついたとりしまり主義的な教育、画一的なつめこみ教育に対して、大胆に批判を加えはじめた人たちがいました。
例1.樋口勘次郎
 この人は長野県諏訪の出身で、1895(明治28)年に東京師範学校(教員養成の学校)を卒業して母校の付属小学校の訓導(今の教諭)となりました。彼は『統合主義新教授法』(1899=明治32年)を著わし、活動主義を唱えました。彼が主張する統合教授というのは、いろいろな教科をバラバラに教えるのではなく、なるべく関連させて、系統的に一体の知識として理解させるというものです。そして子どもの自発的な活動を何よりも大切にしなければいけないというのです。先生が一方的に注入する授業は子どもの内的自由を奪い、子どもを萎縮させてしまう。子ども自身の内部からおこってくる自発的な活動を重視して、今日のことばでいえば子どもを学習の主体者にしなくてはいけないという主張です。
例2.谷本富(とめり)
 この人は四国高松の生まれで、東京高等師範学校の教授となり、文部省の視学官を兼ねましたが、1900(明治33)年から3年間ばかり欧米に留学しました。欧米の新しい動きや教育界の様子をみて、日本の教育が立ちおくれていることを痛感しました。
 とくに「忠孝」のイデオロギーと武士道の倫理。これでは海外に雄飛する人物を育てることはできない。世界で活躍する人物をつくるためには、教育の内容も方法も、さらには学校の制度・運営をも大幅に改造することが必要だ。そう考えました。彼は理想とする新しい人物の要件として、自助努力と進取の精神に富むイギリスのジェントルマンシップを思い描いていたようです。
 帰国して京都帝国大学の先生になってから『新教育講義』などを書きましたが、そのなかで日本の教育の短所は、個人性を重んじないこと、自主自重の精神にとぼしいことだと述べています。これらの短所を克服するために、彼は教育というものは先生が教えてやるのが本体ではない、生徒が自分で学ぶものだ、先生は生徒が一人ひとり自分で学ぶのをたすけ導いていくものだと、「自学輔導」を強調しました。京都帝大の教授といえば権威ある存在でしたから、その影響は大きかったものと思われます。
 こういう先駆的な新しい教育の主張や運動のめばえが、すでに明治時代の後半におこっていたのです。それでは、大正時代に入ってから大きな運動となっていった、その時代的な背景は何だったのでしょうか。
6.時代背景
 皆さんはすでに中学・高校で歴史の勉強をなさってきたはずですし、お見受けしたところたいへんな教養人でいらっしゃいますから、私があらためて教科書風なことを述べるまでもないんですが、レジュメにしたがってざっとおさらいをしておきましょう。
 ご存じのように、日本の資本主義は明治時代の2つの戦争―日清戦争と日露戦争を通じて急速に発達しました。けれども、日露戦争後の日本の資本主義は全くゆきづまっていました。この不況に活気をあたえたのが第一次世界大戦でした。沈滞していた日本の経済は、この大戦に乗じて空前の好況にめぐまれたのです。
 というのは、ヨーロッパの先進資本主義国が自分たちのおひざもとで食うか食われるかの戦争にやっきになっていて、アジアの市場から手を引かざるを得なくなったすきに、日本はそれらの地域に商品をどんどん売りこんだんですね。また、戦争のために船舶が不足して、日本の造船業や海運業が急速に伸びました。空前の好況で船成金、鉄成金などがあらわれました。その一方で、物価が上がって、多くの庶民は生活が苦しくなりました。
 大戦中にロシア革命がおこり、これに干渉して日本政府はシベリアに出兵します。シベリア出兵にからむ米の買占めもあって、米の値段がどんどん上がると、富山県の漁村の婦人たちの行動をきっかけに米騒動が全国に広がりました。
 一方、この時期、いわゆる都市の中産階層が幅広くかたちづくられたことも見のがしてはなりません。というのは、いま私たちが探っている「大正自由教育」が展開され、これを支えたのは主として比較的裕福で安定した生活を保つことができた、これら都市中産階層だったからです。
 時間がありませんから、かけ足で参ります。
 第一次世界大戦とその後における欧米のデモクラシーの風潮やロシア革命に触発されて、政治や文化の分野にも大きな変化があらわれてきました。
 大戦中の1916(大正5)年、東京帝国大学教授の吉野作造が「民本主義」を提唱して、普通選挙制と政党内閣制を主張し、その影響もあって政治の民主化を求める国民の声はしだいに高まってきました。
 国民大衆の政治的な自覚はレジュメにあるような、さまざまな動き、組織、団体の結成をみました。
・日本最初のメーデー‥‥‥‥‥1920(大正9)
・新婦人協会‥‥‥‥‥‥‥‥‥1920(大正9)
・日本労働総同盟‥‥‥‥‥‥‥1921(大正10)
・日本農民組合・日本共産党‥‥1922(大正11)
・全国水平社‥‥‥‥‥‥‥‥‥1922(大正11)
・普通選挙法と治安維持法‥‥‥1925(大正14)
 教育の分野では、すでに日露戦争後に小学校の就学率は97%を超えていたといわれます。中学校もだんだんと増えてきました。ですから、ほとんどの人が文字を読めるようになっていました。
 新聞は大正末期に100万部をこえる大新聞があらわれ、雑誌も『中央公論』や『改造』などの総合雑誌が発展します。活字文化だけでなく、1925(大正14)年にラジオ放送(東京・大阪)が開始され、映画も大正末期からさかんになり、新劇や新しい文学も知識階層の間に歓迎されるようになります。
 とりわけ注目しておきたいのは、夏目漱石門下の鈴木三重吉が創刊した児童雑誌『赤い鳥』です。これについては、何回か後に予定している「北原白秋と明星学園」というテーマのなかでとりあげたいと思います。
 以上ゴタゴタと述べましたが、それを中野光先生がうまくまとめておられますので、さきほどの本の10ページ6行目から後をご覧ください。
《周知のように、大正期は、とくに第一次世界大戦(1914~19年・大正3~8年)の前後において国際的にも国内においても、民主主義(デモクラシー)の高揚期であった。日本資本主義の発展に伴っていわゆる市民的中間層に相対的に安定した生活が可能になったが、大戦中にロシアに世界史上最初の社会主義革命が起こり、つづいてドイツにも革命が勃発し、世界資本主義の環が破れた。国内では1918年に「米騒動」が各地に勃発し、翌19年には植民地朝鮮に大規模な民族独立闘争が起こった。日本の政治史の上では、明治初年の自由民権運動に次いで民衆の政治的要求運動がもっとも高まったのであり、それゆえにこの時代は「大正デモクラシーの時代」ともよばれる。自由教育運動は、そうしたデモクラティックな潮流の中にあらわれた教育における顕著な動向なのであった。》
7.新しい教育運動はどのようにすすめられたか?
(1)臨時教育会議……1917(大正6)~19(大正8)
 第一次世界大戦中に臨時教育会議が内閣の諮問機関として設けられました。いまみてきたように「民本主義」が主張され、民衆運動の高まりに危険をさとった支配層は、天皇を中心とする日本独特の国家主義の教育体制を立て直そうとしたんですね。
 会議は1年半、精力的に・審議を重ねて、9つの諮問事項について答申を行いましたが、小学校教育に関しては大きく2つありました。レジュメをごらんください。
①「小学校教育二於テハ…帝国臣民タルノ根基ヲ養ウニ一層ノカヲ用フルノ必要アリト認ム」
これは従来どおりですが、さらにネジを巻いて、一層の努力をつくさねばいけないというわけですね。
②「児童ノ理解卜応用トヲ主トシテ不必要ナル記憶ノ為二児童ノ心カヲ徒費スルノ弊風ヲ矯正スルノ必要アリト認ム」
これは、いままでのような注入主義の教育のやり方ではダメなんで、児童の理解と理解にもとづいた応用を主におかなくてはいけない。したがって不必要な暗記暗記のために子どもを苦しませてはいけない。これは一種の自己批判でもあったと思いますが、しかし「改革」とか「改善」といっても国家権力のワクのなかでの部分的な改革、改善でありました。
 この会議が設置された年に沢柳政太郎が東京市牛込区(いまの新宿区)に成城小学校を創設しています。沢柳は、日本が経済的にも文化的にも国際社会にのりだすためには軍国主義はもはや時代おくれであって、人間の能力を開発することが急務だという認識をもっていました。成城小学校の創立については次回でくわしくとりあげますが、じつはこのころ沢柳よりも前に関西ですぐれた実践をつづけている人物かおりました。及川平治です。
(2)及川平治
 彼は1875 (明治8)年、宮城県の農村の次男として生まれました。宮城県の小学校の訓導・校長を務めましたが、向学の志にもえて1902年に上京し、小学校の訓導となりました。(この年、赤井米吉は石川県の尋常師範学校の講習科を終了し、山の中の分教場の準教員となり教育者への道を踏み出しています。15歳でした。)
 及川は小学校の先生をしながら英語やフランス語を勉強し、欧米の教育改革の動きをも知ろうと努めました。 1907年―あの石川啄木が自作の歌を生徒に歌わせて大問題となった翌年ですが―及川は兵庫県の明石女子師範付属小学校の主事(教頭)となりました。 33歳の若さでした。(ちなみに赤井米吉はこの年20歳。分教場の準教員を5ヵ月でやめて石川師範学校に学んだ赤井は、この年金沢郊外の尋常高等小学校の訓導となり、翌年広島高等師範学校に入学することになります。)
 さて及川平治ですが、明石に赴任した彼は大きな問題に直面します。この年の年度末に成績不良のため進級できない子どもが13名いたんです。青年教師及川平治はその子どもたち一人ひとりに個別に勉強を教えました。その事がきっかけとなって、彼は一つの確信を得ました。つまり、「劣等児」といわれている子どもは、子どもが悪いからではないんだ。劣悪な環境と、まちがった教育が「劣等児」をつくるんだ。だから、学級編成、進級制度、教育課程のいずれかを子どもの現実に合わせることによって、子どもを救済することができる。そういう確信です。こうして彼は学校の改革にとりくみます。もちろん一人でやったのではなく、明石付属小学校の教師たちと一緒に研究をつみ重ねながら実践していったのです。
 レジュメに「為さしむる主義による分団教授法」「分団式動的教育法」とありますが、これは子どもの生活経験・直接経験をもとにして、子どもの自主的な活動を促すことを通じて知識や技能を修得させ、人格を形成・発達させていくという教育のやり方です。「為すこと」というのは行うこと、行動すること、活動することですね。及川平治は具体的に書いていますが、たとえば自分の目で見させる、自分の頭で考えさせる、自分の言葉で話させる、自分の手でつくらせる。そういう子どもの自己活動、自己表現によって興味と注意が生まれ、必要と価値を自覚し、人類に貢献する人間であることを自覚するんだ。だから、とくに作業を尊重するんだ。
「動的」というのはダイナミックということですね。これは子どものダイナミックな態度・活動というだけでなく、子どもの心身の活動にはたらきかける教材や教材の構成をダイナミックにとらえ直すということです。「分団式」というのはグループ学習、個別学習を加えた方法です。及川は学級組織や一斉授業を否定しているわけではありません。けれども子どもというのは十人が十人ちがうんだから、必要に応じてグループや個別に分けて学習するのが当然と考えたわけです。
 今ならめずらしくもありませんが、当時にあっては極めて斬新な教育法でした。前に述べた樋口勘次郎の活動主義や谷本富の自学主義をうけつぎ、さらに発展させようとした実践でした。具体的に実践例を紹介したいと思いましたが、もう時間がありませんので省略します。
 ともあれ、及川と明石女子師範付属小学校の教師たちの理論と実践は、それまでの画一的な注入主義やとりしまり主義を打ち破るものであり、当時のヨーロッパ・アメリカの教育改革の潮流を視野に入れての主張でありました。
『分団式動的教育法』という本はベストセラーとなって、25,000部売れたといわれます。今でも教育書で25,000部売るのはたいへんなことですが、当時としては驚異的なことで、しかも読者はほとんど先生だったでしょうから、いかに評判が大きかったかがわかります。さらに『分団式各科動的教育法』を出版してから明石女子師範の付属小学校は「日本革新教育巡礼の本山」といわれるようになり、参観者は年に1万人を超え、3万人を超えた年さえあったといわれます。明星学園で公開研究会華やかなりしころ、約3,000人、それもたいへんなことでしたが、明治の末から大正の初めの当時にあって3万人というのは驚くべきことです。
 しかもこの学校は8クラス、先生は9人、校舎は老朽化したボロ校舎でした。教育のなかみと、教師たちの集団的な研究、日本の教育を革新していこうという教師たちの熱情が注目を集めたのです。ついでに言えば、及川平治は「万年主事」として30年間も仲間といっしょに仕事をつづけ、若い後進を育て、晩年は郷里の仙台に帰って教育研究所長を務め、ここでもカリキュラムの研究にうちこみました。
(3)赤井・照井・小原
 及川平治が『分団式動的教育法』を出版した1912年、年号は明治から大正にかわります。私が年表に書き込んだことを見ていただきますと、それから5年後の1917(大正6)年、沢柳政太郎先生が東京に成城小学校を創設しておりますね。
 赤井米吉先生は『分団式』が出た年に広島高等師範学校を卒業して愛媛師範に赴任、大正5年に福井県立小浜水産学校に赴任しています。小浜は漁師町です。ここで水産学校の生徒たちと学校生活をともにするなかで労働の教育的意義を深く認識し、このときの体験がのちに労働を重んじる教育を明星の教育のなかに位置づけることになったと思われます。
 照井猪一郎先生はその大正5年、秋田県の小学校の代用教員となって、国語・歴史・学校劇などの独創的な研究・実践を続けていました。
 小原国芳先生は、広島高等師範時代に赤井米吉と相識り、生涯の友となりましたが、四国の香川師範の教諭になり(1913=大正2年)、さらに京都帝国大学文学部哲学科に入学して(1915=大正4年)、のちに提唱する全人教育の基礎となる勉強を続けておりました。
 3人とも同い年で、うつぼつたる雄心を抱きながらも、人生いかに生くべきかを厳しく自らに問いつづける20代後半の青年たちでした。やがて3人の青年教師は成城小学校の沢柳政太郎先生の下に集まり、よき同志として、よきライバルとして、日本の教育を改造するという壮大な仕事にとりくんでいくことになります。
 今日は、とりあえず、このへんで終わらせていただきます。

第2部(要約)
 
〈奈良〉雑談風に後半をはじめさせていただく。
 先日、『明星の教育』の最新号(1999年春)を電車の中で読んでいたら、見知らぬ人から声をかけられた。明星学園のイメージは、見ず知らずの人に声をかけさせるような強さをもっている。学園の歴史の中にあるすばらしい力を一層理解しなくてはと感じた。
 依田先生の話に質問や感想などがあれば発言していただきたい。
〈杉山〉歴史をみると、農業革命、産業革命があり、今は情報革命の時代といわれる。アメリカは情報革命の流れにのってうまくやっている。日本は産業革命の物をつくる最後の時期にははなばなしい活躍をしたが、今は苦しい時代におちいっているといわれている。とくに物をたくさんつくるには、よい均一な労働者が必要で、それには明治以来の日本の教育は非常に役立ったと聞いた。ところがそれでは創造的なことはできないので、教育を変えなくてはいけないといわれている。そこで、明治政府が行なった教育はどういうものだったかを、江戸時代の教育とくらべて教えてほしい。
〈梶原〉大正デモクラシーといわれる時代に教育改革にとりくんだ人たちが続出したということだが、単に資本主義が刻々と変わっていくからでたのだとすれば(それは大きな要因だが)、後にもそういう機会はあったと思う。なぜ大正時代に集中したのか、江戸から明治にかけての変化と関連して知りたい。
〈依田〉いろんな要素がからみあっているのでむずかしい問題。的確な答えにならないと思うが、若干補足したい。
 江戸時代の教育水準はかなり高く、それが明治以降の日本の発展の大きな基盤の一つになっていたことは事実。幕府の学校として昌平坂学問所、各藩には藩校があり、これらは武士階級の教育機関。民間には私塾があり、庶民の教育機関として寺子屋があった。寺子屋では読み・書き・そろばんや日常生活に必要な道徳を教えた。それらは性格、目的、内容、方法もさまざまだった。
 明治政府は中央集権国家を確立するために、欧米を手本としてさまざまな改革を行なったが、教育面では政府の手に国民と学校を直接にぎり、国民教育を形成しようとして、1872(明治5)年に「学制」を定めた。けれども新政府は初めのうち、すでにあった藩校や、私塾や寺子屋などの庶民教育機関を利用しなくては教育政策を実現できなかった。
 政府は欧米の教育制度や教育内容を積極的にとり入れた。そのためのたいへんな努力は高く評価しなければならない。けれども、それは庶民の生活と大きくかけはなれたものだった。教育内容は欧米の教科書の翻訳に近く、しかも日常生活に直接役立たないことを先生から一方的に注入されるだけだった。農民や小さい商人、職人にとって子どもは大切な労働力だから、学校へやらない者も多かった。徴兵令や地租改正に対する不満と結びついて学制反対の一揆までおこった。
政府は富国強兵をめざして殖産興業に力をそそぎ、近代産業の育成をはかった。そのためには青少年を速く兵士や労働者に適したものに仕上げる必要があった。近代日本の教育は「国民のため」をたてまえとしながら、「国家のため」という意図をになって出発した。国・公立学校の設立と平行して、慶応義塾をはじめ私立学校の運動があったが、「官尊民卑」の風潮が強く、その後も私立学校はいばらの道を歩むことになる。
 政府の教育政策は明治20年代にいたって、「教育勅語」を頂点として国家主義を強化したが、欧米の学校をモデルにすることは変わらなかった。とくにドイツのヘルベルト派の理論が部分的に模倣され、管理や訓練が重視されて、授業は形式的・画一的なものになっていった。それに対して批判を試みたのが樋口勘次郎。実践例―日本の昔ばなしを中心教材とする修身教科書づくり。飛鳥山遠足を場とした総合的学習。(略)
 さらに大正期に入り、自由主義思想が高揚するなかで、子どもの自発性・創造性を重視する欧米の教育思想が紹介され、児童中心の教育方法が主張された。資本主義の発達によって市民社会が形成され、とくに都市中産インテリ階層が新しい教育を支持する基盤となった。
〈川連〉私の主人の母は1872(明治5)年生まれ。市ヶ谷に住んでいたが、当時は小学校は4年生まで。高い月謝をとられたそうだ。母はどんな教育を受けたのかなと思いながら聞いていた。
 私は大正10年生まれ。お仲間に武者小路さんの三女の辰子さんがいるが、私たちが受けた教育の話をしていて、明星で天照大神のことを教わったかときいたら、そんなの全然教わらなかったとのこと。明星はすばらしい学校だったと思った。子どもは1947(昭和22)年の生まれ。小学校に入ってから社会科の本を見たら縄文時代・弥生時代から書いてあって、ビックリした。私たちは見たことも聞いたこともなかった。それで友だちと一緒に歴史を勉強するようになった。
 女学校は宮城県の田舎。さっき宮城県出身の及川先生の話を聞いて思い出したが大正デモクラシーのよき時代の影響が残っていたのか、女学校はそれほど厳しくなかった。
〈阿部〉話を聞いていて、教育ってこわいと思った。大正時代にいろいろなすばらしい教育者が出て来るというのは、その方たちが明治のはじめに小学校で習ったことと、そういう自分を反省したりして、ちがう教育をやろうとしたのだと思う。今の若い先生や教育論者のなかに、教師はプロであるべきだとして、道徳教育とか子どもを押さえつけるべきだとか昔みたいなことを言う人たちがいる。その人たちは私と同じぐらいの年代だから、戦後教育を受けた人たち。戦後教育は昔と違った教育なのに、発想がちがってくるのがふしぎだ。
〈依田〉さっき一面的なことしか話さなかったと反省している。次回で補って訂正していきたい。教育勅語や天皇制国家主義を強調したので、教育改革者たちはそれに真っ向から抵抗したと受けとられていると思う。
 大正自由教育の改革者たちは天皇崇拝。たとえば赤井先生はクリスチャンで自由主義者だが、途中から国家主義に傾いて戦時体制に協力していく。照井先生もそう。小原先生は熱烈な天皇崇拝者。しかし、これらの先生はリベラリストでもあった。矛盾しているようだが、やっぱり時代の子。そういうことをていねいにたどっていくと、社会史としても人間史としても面白い。それは次回でとりあげてみたい。
 今の戦後生まれの先生たちも時代の子で、いろいろな考えの人がいる。親も子もそうだ。ぼくも昭和ヒトケタ生まれのかなしいさがが身についてしまっている。
〈小泉〉私は明星の小学校の生徒だった。音楽の授業で照井げん先生から「君が代」を習った記憶がある。
〈依田〉何年ごろのこと?
〈小泉〉1956(昭和31年)に入学。4年生ごろか?(夫は4歳上だが「君が代」の内容をあまり知らない)学校で歌っていたのではなく、歌詞の意味とメロディーを授業で習った。
 明星では「奉安殿」の「御真影」を拒否したとも聞いている。
〈依田〉それも冒頭で述べた「神話」の一つ。たしかに「奉安殿」も「御真影」もなかったが、だから明星は反権力・反体制の学校だったという話が流布されている。それは正しくない。歴史は事実にもとづいて考えないといけない。歴史のおそろしいのは、話しことばは消えてしまって、まちがったことでも文字に書いて残っていれば、10年、20年たつとそれが一級史料にされてしまうこともあるということ。
〈梶原〉いま宮沢賢治のものを扱っているが、何が本当だったかは何十年もかかって調べないとわからないぐらい。
〈奈良〉はじめに杉山さんと梶原さんから出された問題だが、私も気になること。きょうの話は明治時代の憲法発布と教育勅語からはじまった。しかし、直前(1884=明治17年)に秩父事件があり、西南戦争からはじまった反政府運動の最後になる。それまでの間の明治維新は、日本国という国の成立をめぐってすごいエネルギーが一気に噴き出した時代。大半は不幸な終末に終わったが、そういう要素は憲法や教育勅語を発布しても消え去ることはなかったと思う。それがいろいろなところで、いろいろな機会をえて、たとえば自由教育のもとになるようなエネルギーとして出てこようとしていたのだと思う。
 だから、さきほどの問題を歴史的に考えてみる場合、きょうの話の前の時期にいろいろな大事な要素があるという気がする。
 それから、たとえば赤井先生の話が出たが、一人の人間が変わっていくことは人間としてある意味で当然のことだから、ある部分をとって最終的な価値判断を下してはならないと思う。キチンとした吟味をしていくことが大切。たとえば戦前・戦中に反戦運動、反帝国主義運動をやった人たちがいろいろなてんまつに至るのだが、それが本人の決意の問題として、どういう原則でそうなったかが意外にキチンととらえられていない。
 過去の出来事をこれから先の問題に役立たせるためには、もう一度自分たちで把握して、厳しい吟味を加え、その原理までていねいに扱わないとほんとうの答えは出てこないのではないか。
 
〈依田〉同感。教育に限らないが、事典や簡便な本などを見ると、限られたスペースのなかに収めねばならないつらさはわかるが、たった1~2行でバッサリ書かれてしまうと困る。たとえば大正自由教育はプチブルのおけいこ事だったみたいに書くのは本質ではない。リベラリストから国家主義者に変わっていった問題も、あえて強調することもないが恥部だと伏せることもない。その要因をさまざまな面から探っていきたい。一面的な評価は本質を誤る。
 
〈川連〉明星は国定教科書を使っていたのか?
〈依田〉時期にもよる。国定教科書とプリントを併用した時期もあるが、自主的に教材をつくるのが伝統。たとえば照井猪一郎先生がつくった『新読本』は、成城小学校時代からはじめて明星で完成したもの。これは3回目の会でレポートする予定

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