シリーズ:「明星学園史研究会」② 大正デモクラシーと教育改革者の群像
大草美紀(資料整備委員会)
明星学園史研究会 第2回記録
1999.5.15(土)14:00~17:00
於 武蔵野公会堂 第2会議室(吉祥寺)
成城・明星・玉川・和光の創立
第1部 講演者:依田好照(元明星学園小・中学校校長、元明星学園中学校社会科教諭)
第2部 問題提起・話し合い
記録まとめ:奈良正博・富谷久子
第 1 部
〈はじめに〉
きょうは明星学園の75回目の誕生日ですから、照井猪一郎先生が書かれた「明星誕生ものがたり」の一節を読むことからはじめたいと思います。
《大正13年2月29日、むさし野はまだふかぶかと冬のとばりの中に眠っていた。
霜柱にふくれ上がった麦畑を、一足一足かみしめるようにきざんで行く4人の一団があった。一行はぽくぽくの黒土の上をとりつかれたもののようにむさぼり歩いた。
畑中の小高い一地点に最後の歩みをとめた一行は、やおらかついで来た一本の標木をうち立てた。「明星学園建設地」‥‥‥したたるような墨あとが鮮やかに白木のおもてに読まれた。
彼らはそれをかこんで一せいに大空をふりあおぎ、さて思い深げにまわりの森や林をながめまわした。誰からともなく無言のほほえみがかわされた。
大海の底のようにしずまりかえったひと時だった。真昼の太陽は真珠色のスポットをこの謙虚な開拓者たちの上におとした。
輝く日光、すみきった天気、ゆたかな土壌、それは彼らの久しく憧れていた求道の聖地であった。
池近く富士遠き森の台地――彼らはこの日この地に真教育の精舎の礎をすえた。
* * *
この4人は明星学園の創立者赤井米吉と照井猪一郎、山本徳行、照井げんの全同人で、この時この仕事を援けた育ての親は、茶郷基氏というかげの人であった。
大正13年5月15日、明星学園開校の式典は、入学式を含めて行なわれた。あいにくの雨を半ぶきの屋根はしのぎかねて、式壇はぬれるにまかされた。参列の子供たちの、親たちの、来賓の頭から頬をつたって雫は床をぬらした。でもみんなの顔は輝きに溢れていた。* * *
校地は緑にかこまれた一千坪の畑地、校舎といってもそれは百九坪のほんのバラック普請、集まった児童は1年2年3年の3学級あわせて男女21名――これは明星学園発祥の種の起源であった。
併し将来への計画はすでに構想されていた。1学級の定員を30名とし、中学校、高等女学校を延長の上におき、男女共学をたて前とした。》
この一節の内容は、すでにみなさんもご存じのことと思います。私も在職中、何べん読ませていただいたかわかりませんが、読むたびに胸がいっぱいになります。
照井先生は次の「時のうごき」で時代の様相をヴィヴィッドに描いています。明星学園が誕生した1924(大正13)年は、関東大震災の翌年で、経済・社会は混乱し、また前回この会でとりあげた大正デモクラシーの気運はおとろえ、日本がふたたび暗い時代に入っていく時期でもありました。それまでヨーロッパやアメリカからいろんな教育思想や教育方法がとり入れられて、新しい私立学校がいくつも設立され、主として第一次世界大戦でうるおった新中間層の市民に支持されていましたが、その新教育運動(自由教育運動)も内部にさまざまな困難と矛盾をかかえていた時期でした。この年文部大臣に就任した岡田良平は自由教育を批難、抑圧し、翌年に中等学校以上の学校に陸軍の現役将校を配属し、軍事教練を強化します。
《めまぐるしい新教育の花園から、この草深いむさし野にわけ入って来た私たちのあの日の姿を人は何と見たであろう。
「あんなところに学校をつくったって子供なんかはいるものか。」
親しい友だちまでがそういってとめた。電車は東京から30分おき、駅から徒歩20分、お天気でも霜どけ道では靴を泥にすいとられる井之頭でもあった。
しかし子供と学び、子供と生きる私たちには、そこにいささかの不安もなかった。
個性尊重 ― 自主自立 ― 自由平等
ただそれだけが私たちの上に輝く教育の灯であった。ただそれだけが明星教育のゆるがぬ基本理念であった。(中略)
学校と家庭と社会 ――― それは子供たちの生活環境であった。両親と先生とちまたの人たち ――― それは彼らの指導体制であった。》
そして次に「三つの生命」として、「個性尊重の教育」「自主自立の人たらしめる教育」「自由と平等の教育」について述べておられます。
この「明星誕生ものがたり」は、1949(昭和24)年、明星学園文芸部というクラブが編集・発行した『明星』の創立25周年記念号に寄せられたものです。この年、照井先生は62歳、小・中学校長の職にありました。
「明星誕生ものがたり」は、照井先生の遺稿集『残照』に収められているが、創立70周年の1994年、依田好照先生が解説をつけて復刻され、小・中・高の生徒と教職員に配布された。
これら4人の先生たちは、明星を創立する前は成城小学校の教師でした。なぜ成城小学校をはなれて明星を創立したかという問題はあとでとりあげることにして、まず、成城小学校はどういう学交だったのかということについてふれておきたいと思います。
1. 成城学園
(1)沢柳政太郎と成城小学校
「成城」というと、みなさんは世田谷の「成城学園」を思いうかべられるでしょう。ところが今の世田谷、小田急線沿線の成城学園は明星創立の翌年、成城第二中学校、成城玉川小学校としてスタートした学校です。つまり、明星創立のころは世田谷に「成城学園」はなかった。いま新宿区に成城中学校、成城高等学校という「学園」のつかない学校がありますが、成城小学校はあのなかに誕生したんです。
成城小学校は1917(大正6)年、大正デモクラシーの気運が潮のごとく高まるなかで、沢柳政太郎を校長として創設されました。沢柳先生については前回お配りした『成城学園五十年』のはじめの部分にやや詳しく書かれてあります。
信州松本の生まれで、東京帝国大学を出てから文部省、中学校長、仙台の第二高等学校、東京の第一高等学校の校長、文部次官、東北帝大総長、京都帝大総長を歴任した、当時第一級の教育者、教育行政家です。京都帝大では大学の改革にとりくみ、数人の教授を更迭して、教授たちの抵抗にあって辞任。いわゆる「京都大学事件」、「沢柳事件」です。その3年後、東京牛込区(今の新宿区)の成城中学校に校長として迎えられます。
当時、「陸軍の成城、海軍の海城」といわれ、成城は陸軍士官学校の予備校みたいな存在でした。海城は今では東大受験の「御三家」に次ぐ学校の一つといわれていますが、「御三家」ってのは麻布とそれから‥‥‥まあ、そんなことはどうでもいいですね(笑) そのころ成城はおとろえていたので、これを復興するために沢柳に校長になってくれと。沢柳先生は以前から教育の基は小学校にありと考えていたので、中学校のなかに小学校を併設するという約束で就任したんです。
こうしてつくられた成城小学校は、最初の入学児童は1・2・3年生あわせて32名という小さな学校から出発しましたが、日本の教育界に大きな影響をあたえました。成城小学校をモデルとしていくつもの新しい私立小学校が生まれました。成城小学校は新教育運動のメッカとなったわけです。
それでは、沢柳政太郎と成城小学校はどういう教育をめざしていたのでしょうか。『成城学園五十年』の5ページ以下に「創設趣意書」が載っていますからごらんください。
《我が国の小学校が明治維新後、半世紀になした進歩はじつ嘆賞にあたいしますが、同時にまた、この50年の歳月によっていまや因襲固定のカラができ、教育者は煩瓊な形式にとらわれかけました。外観の完備にちかいほどの進歩のうらには、ややもすれば教育の根本精神をわすれて形式化せんとする弊害をかもしつつあるように思われます。‥‥‥さればこそこのかたまりかけた形式のカラをうちくだいて教育の生き生きとした精神から児童を教育すべきときであろうと思います。(後略)》
つまり、形式主義、画一的教育のカラをうちくだいて、生き生きとした精神によって児童を教育すべきだという主張です。そして、「我が校の希望理想」として4つの目標をかかげました。
1.個性尊重の教育(付 能率の高き教育)2.自然に親しむ教育(付 剛健不挑の教育)3.心情の教育(付 鑑賞の教育)4.科学的研究を基とする教育
各教科の名称、内容、教え方も斬新なものでした。たとえば、一般の小学校では4年生から教えていた「理科」は1年生から教え、戸山が原を自然の教室として「自然研究」をおこないました。1年生からの「算術」を「数学」として2年生から教える。「図画」を「美術」に、「唱歌」を「音楽」として芸術教育に高める。「修身」は低学年(1~3年)では廃止しました。沢柳は徳性を養うのは植物の種子が発育するようなもので、4年生までは種子を蒔く下ごしらえの時期だと言います。下ごしらえの時期ではすべての教科、日常の生活を通じて徳性を養うことが大事だと。沢柳はまた大人すら実行できないことを要求するのは二免を追うもので効果なしと言う。今でもエライ人たちが青少年のモラルが退廃している、徳目教育を徹底せよなんて言っている。ところが自分のやったことがバレて、「不徳のいたすところ」なんて言っている。具体例は申しません。みなさんで思い出してみてください。(笑)
こうして成城小学校は教育研究を実証的におこなう実験学校、研究学校として誕生したのですが、やがて日本の教育改造運動の中心的存在として大きな影響をあたえていきます。これには創設2年目に2代目の主事(教頭)として着任した小原国芳先生のはたした役割が大きかったのです。
(2)成城小学校での小原国芳
小原国芳先生は1887(明治20)年の生まれ。赤井先生、照井先生と同年です。小原先生は晩年に日本経済新聞の「私の履歴書」の欄に自伝を書かれて、それが『教育一路』(玉川大学出版部)にまとめられております。これを読むと、ほんとうにすごい人だなぁと思います。
鹿児島の薩摩半島の西南端の村に生まれました。7人きょうだいの三男。「赤貧洗うがごとし」とご自分でも書いておられますが、中学校に行けず、くやしかった。鹿児島の電信技術養成所で「トンツー、トンツー」という電信を勉強して、電信局で働きました。なんとかして勉強したいと鹿児島師範学校に入学し、さらに広島高等師範学校に進みます。広島高等師範学校は「東の東京高師、西の広島高師」といわれた超エリートの師範学校です。1年先輩に赤井米吉がいました。二人はよき友となり、キリスト教の青年団体「光塩会」でも一緒に活動しました。同級生に上田八一郎がいて、上田はのちに赤井が明星に旧制中学を設置するときによばれて中学部長となり、戦後初代の高等学校長になります。そういう人間関係です。
小原は卒業後、香川師範に2年半つとめ、さらに京都帝国大学の哲学科に学び、広島高等師範の付属小学校の理事(教務主任)となります。沢柳先生との出会いはそのころのことでした。
『教育一路』によりますと、「小原が中心になって、学校改革の大騒動をやるそうだ」といううわさが立って、主事(教頭)から「2週間ぐらい、東京方面に視察に行ってくれ」と言われ、「ははーん」と思いながら東京に出張。途中、京都に寄って、京大時代の恩師小西重直先生を訪ねたら、「東京へ行くなら、成城小学校を見てきたまえ。そして沢柳先生をお訪ねして、お話を聞いてみなさい」と言われた。沢柳政太郎といえば教育界の重鎮。「クソ度胸の私もブルブル震えて面会」と書いています。大先生は孫でもいたわるように、いろいろと新教育を論じてくださり、「年に一度は東京へ来たまえ」とおっしゃいました。翌年の秋、沢柳先生の使者として長田新(後に広島高師の学長となった人)がやって来て、小原は成城小学校の主事(教頭)に迎えられます。成城小学校創立2年目の12月。沢柳先生53歳、小原先生31歳のときです。
こんな調子でいくと延々3時間ぐらいかかって、きょうは明星学園が創立されなくなってしまう。(笑) 急ぎます。
『成城学園五十年』50ページに「鯵坂国芳主事の来任」という項がありますね。(鯵坂というのは鹿児島師範4年生のとき鯵坂家に養子に入ったからで、また小原姓に戻ります。)
《鯵坂主事就任によって成城小学校は一段と活気をもつにいたった。研究発表の機関雑誌『教育問題研究』も発刊された(1920・大正9年4月)。主事は講演に、著述に、学校内容改善に邁進して、成城の名声をさらに天下に高めた。》
『教育問題研究』という雑誌は、小原先生が赴任してすぐにつくった「教育問題研究会」の機関誌で、これは成城の雑誌というだけでなく、日本の新教育運動の機関誌としての役割をはたしていきます。小原はその第1号から「教育改造論」の連載をはじめます。
翌1921(大正10)年8月、小原国芳の名を高めた「八大教育主張講演会」が開催されました。8月1日から8日まで、大塚の東京高師付属小学校の講堂で8人の講師が講演をおこなった。大日本学術協会という出版社の企画でしたが、定員2,000名のところに5,500名の申し込みがあったそうです。大正自由教育の運動がぐーっとピークにのぼっていく時期ですね。画一主義的な、つめこみ的な、官僚主義的な古い教育を打破して新しい教育をつくろうと、ものすごい熱気が上がっていた時期です。前回やや詳しく紹介した及川平治も「動的教育の要点」を述べています。講演の記録は2年間に10回も版を重ねたといいますから、いかに教育改造の気運が高まっていたかがわかります。講演会の最終日に小原は「全人教育論」を情熱をこめて語りました。(これについてはあとで玉川学園のところでふれたいと思います。)
その月、沢柳校長は小西顧問らとヨーロッパ・アメリカへ教育視察に出かけていく。小学校1回生の卒業がせまってくる。中学校に進学させなくてはならない。このころ小原主事の頭のなかは第二中学校をつくることでいっぱいでした。『教育一路』に書いていますが、「軍人を養成するような学風の成城中学校には入れたくない、なんとしても理想の新教育で、一貫教育をしてみたい、寝ても覚めても、成城第二中学校の構想」というわけです。ところが金がない。そこで実業家の熊本利平を訪ねてお金を借りました。
こうして校長が留守の問に第二中学校をつくっちゃった(笑) 小学校の第1回卒業式も、第二中学校の入学式も、小原先生が校長に代わってやった。えらい人ですね。えらいというか、何というか、やっぱりえらい人ですね(笑) 舞台はまだ新宿時代の成城です。
(3)赤井米吉、成城小学校へ
赤井先生が小原先生に請われて成城小学校に赴任したのは1922(大正11)年5月。成城第二中学校が創設された翌月のことです。
広島高等師範学校で小原と友情を結んでいた赤井は、愛媛師範、福井の小浜水産学校、福井県立武生中学と転任し、小原が中心になっている『教育問題研究』にしばしば投稿し、またスペンサーの『教育論』の翻訳をすすめていました。沢柳・小原から「成城へ来い」というさそいがありましたが、秋田師範付属小学校主事としての招きがあったので、ひとまず秋田へ行きました。秋田師範付属小に赴任したのは9月ですが、校長が官僚的で、これに反発していたようです。それよりも3ヵ月前の6月に照井猪一郎が秋田師範付属小に訓導(教諭)として入っています。赤井と照井はここで出会い、主事(教頭)と訓導(教諭)という関係でいっしょに仕事をしていたことになります。
照井はこのころ秋田の学校劇の草分けとして活躍しており、学校劇を公会堂で発表して「自由教育の行きすぎだ」と問題にされ、照井先生の年譜をみると「秋田魁新聞で県知事と学校劇論争をやる」とあります。(どういう内容なのか、いつか調べてみたいと思っています。) この事件をきっかけにして、赤井は辞任して成城小学校へ移ります。このとき赤井は照井に、「きみを後で成城によぶ」と言っていたのかもしれません。
お手許の中野光先生の「沢柳精神の継承者 赤井米吉」102ページに、赤井の着任直前の3月に小原が「教育問題研究」に書いた文章が紹介されています。
《秋田の男子師範の主事、赤井米吉兄が来て呉れる。名は何としようか、勝手に理事とした訳である。高師を私より一回先輩である。学識といい人格といい弁論といい経験といい、すべて私の先輩である。小中学の連絡やら教務庶務の主任やらやって貰うつもりである。無論、授業もやって貰う。9月からは新尋一(引用者注・新1年)を御願するかもしれない。実は赤井君が主事で、私か主席訓導という処だが、不注意勝ちな私の監査役として指導役として君に来て頂くつもりである。‥‥‥「便所の掃除でもする」と手紙にはある。成城を更に改造して、根本的に改造して頂きたいのである。私は一日千秋の思いで待って居る。》(『教育問題研究』第25号、1922・大正11年4月)
赤井は5年生の担任となり、また学校経理の合理化をテキパキと処理していく。愛媛師範時代の教え子だった山本徳行、秋田師範付属小の照井猪一郎というすぐれた教師を成城に招く。(この二人はのちに赤井といっしょに成城をやめて明星を創立します。) 欧米視察から帰国した沢柳校長・長田新からアメリカの「ドルトン・プラン」を紹介され、エベレン・デューイ(『民主主義と教育』などで知られるジョン・デューイの妹)のドルトン・プランについての著作を『児童大学の実際』として翻訳する。ドルトン・プランの創始者ヘレン・パーカストの著作を『児童大学の教育』として翻訳する。このドルトン・プランの翻訳、紹介によって赤井の名は全国に知られるようになりました。(ドルトン・プランについては時間があればあとで補足したいと思います。) ここに小原国芳と赤井米吉という「両雄」が成城小学校において、よき同志として、よきライバルとして活躍することになります。
(4)「教科書民間刊行論」と「教材論を起せ」
成城小学校を拠点とした教育改造運動のなかで、赤井がとくに強調したのは、自分たちで教科書や教材をつくらねばならぬということでした。つまり、すでに国定教科書があって、その範囲内で「如何に」教えるかという「方法」の改良だけをやっているのではダメだ、「何を」教えるのかを研究して「教育内容」をつくり直していかなくてはならないという主張です。
「教科書民間刊行論」(『教育問題研究』第36号、1923・大正12年3月)はきわめて重要です。
《教科書国定は我国教育の一エポックをなした。それは確に種々の重大なる使命を果した。然し昨日善かりしもの、今日は必ずしも善くない。時代は進む。社会は動く。時代と社会を無視して一制度を固守するのは策の得たものではない。
もはや国定の時期は去った。再び民間刊行の時期が来た。》
教科書が国定とされる前は、たとえば福沢諭吉がつくった教科書だとか、いろんな教科書が民間でつくられ、自由に使われていました。
《教師、学校、社会、国家が課業を選択し、児童は従順にそれを受容れている時代には国定は賢し策であった。然し今や児童は自らの要求と願望をもっている。然して将来の社会、国家はかかる人を要求するのである。この新しい児童に、社会に応ずる教科書は多種多様、人々各自らの書を発見し得られる様でなければならぬ。》
赤井先生ご自身は忙しすぎて教科書をつくることはできませんでしたが、照井先生が『新読本』のシリーズを苦心さんたんしてつくりました。照井先生のこの仕事は、成城時代にはじまっており、明星で完成させました。これについては次回でとりあげたいと思います。もう一つは「教材論を起せ」(『教育問題研究』48号、1924・大正13年3月)という論文です。
《国定教科書の範囲内で自由教育論が唱導されているのは、一奇観であろう。児童の内的興味はむしろ研究方法よりも研究の対象にある。論者は国定教科書が児童の学習材料として最上のものであると認めるのであるか。学習は「如何に」の問題よりも「何を」の問題がより重要であることを考えないのか。(中略)
教材論の起らざるは我々教育界の浅薄と怠惰を意味する。曽て教科書の民間刊行を論じたのもこの意味からであった。‥‥‥浅薄と怠惰の我教育界は如何に「方法」の問題に花が咲いても、実は永久に結ばない。情けないことだ。》
今でも明星学園の小学校、中学校では自主的に教科書や教材をつくって実践しています。まず「何を」教えるか、どういう教材を子どもたちに用意するか。そしてそれを「如何に」教えるか、どういう方法がいいのかを研究する。教科ごとに研究を積み上げていますが、それだけでなく、教師たち全員で一時間の授業をみて、大いに批判し検討する「授業研究」を一週おきぐらいのペースでつづけています。こういうところにも赤井米吉先生の主張がうけつがれ、伝統が活かされていると自負しております。
ところで、赤井米吉ら4人の教師たちは、なぜ成城を去ったのでしょうか。
(5)「両雄並びたたず」
いよいよむずかしい問題に入ります。誰しも人間ならびに人間の行為というものはさまざまな要因がからんでいて複雑ですから、外から一面的にとらえて判断や評価を下してはいけないと思いますが、あえていくつかの資料からこの問題を探ってみたいと思います。
中野先生の「沢柳精神の継承者」106ページにも書かれておりますが、赤井先生は教育研究にたいへん熱心でした。きまじめで、自分にきびしく、人にもきびしい方でした。「このような赤井であるから職場の同僚の研究に対しても主事の小原に対しても素直に歯に衣をきせずに意見を述べた。とくに小原が講演旅行にしばしば出かけること、外遊の準備のため、ということで出勤が少くなったことに対しては、小原が冷いと感ずるような批判をしたようだった。」そういう事情があったと思います。
〈補注〉
1)中野先生の上記文章の後半の部分は『沢柳研究』第5号(成城学園沢柳研究会、1971年9月)に晩年の赤井が発表した「沢柳政太郎先生」に拠っているものと思われる。「沢柳政太郎先生」によれば、赤井が成城小学校に着任してまもないころ、《小原君はもう出勤が少くなりかかっていた。講演旅行によくでるのと、原稿かきで外遊の準備、つまり金つくりにかゝっていた。沢柳先生は外遊を急ぐ必要はないし、費用はどこからか出させるから、外遊の前日まで出勤するような気がまえでおれと露骨にいましめておられた。(わたしも沢柳先生の尻馬にのって、その日まで出勤するような気もちでおらねばならんといったりしたが、小原君にはとても気にいらなかったようで、後にケンカになった時、このことを指摘して、わたしの非同情的だったことを責められた。)》、《十二年になると小原君はいよいよ外遊準備がいそがしそうで、ほとんど出勤しなかったので、わたしの担任の桜組は小野誠悟君にゆずって、わたしは主事代理のようになった。》とある。ちなみに小原の外遊は実現しなかった。
2)小原はのちに「新教育の回顧」という一文のなかで「新教育を支えた学者たち」の第一に沢柳をあげ、こう書いている。
謹賀新年。昨年の欠勤時数27時間におよび候。本学年度は無欠勤にされ度候。早々。沢柳政太郎。
といった手紙。おやっと思いました。
となりの中学校の15学級の修身科を全部担当もしていましたが(これは全く奉仕でした。率直にいうとタダ働きです)、1週5回の合併授業は片手間の仕事としてはカナリの重荷でした。何しろ、私は小学校主事が本職なのでしたから。東北地方や関西地方へ年に一度は修学旅行に子供たちもつれて行ったのです。運動会や音楽会、バザーや教育研究会。それが重なって27時間になったのでしょうか。何しろ、年間、180時間です。いわんや、5学年ですから、1学級としては5時間か6時間の欠勤です。それぐらいは、ほかの諸君が代講してくれてもよさそうだと思いました。教務の山岡勘助君の申出でしょう。ジカにいう勇気のない男でした。
さて、その御手紙には、腹の虫がオサマリませぬ。中傷か。先生には罪はないのだが! 煩悶しました。》
小原は若い訓導たちと逗子に出かけ、一晩語り明かす。誰いうとなしに、興奮の結果、一同やめようということになった。
「先生、スミマセヌ、どうぞ、やめさせて下さい」
「よろしいです」
と、ただ一言! 何んという偉大さでしょう。
牛込のウチに帰ると、父兄の伊地知夫人が見えとる。
「先生に、今、やめられたら、精(一人ムスコ)はどうしましょう。先生を慕うて、親類の反対を押し切って、学習院から転学させたぱかりですのに!」(中略)
さあ、私はマドいました。ゼヒ、思い留ってくれとの涙の懇願! 涙にもろい私です。とうとう、翌日の午後また、義弟と二人、目白に出かけました。
「先生、スミマセヌ、やはり、つとめさせて下さい」
と嘆願する。
「よろしいです」
と、また一言! 何という偉大さでしょう! 一生のうちでの大教訓でした。》(小原国芳編『日本新教育百年史』第1巻総説(思想・人物)、玉川大学出版部、1970年)
3)関東大震災の9月1日、赤井は1ヵ月あまり留守をしたので(関西の四ヵ所で講演後、郷里金沢で家族と過ごして前日帰京)、休み中の会計がどうなっているかきくために、朝早くから出勤していた。ここで震災に遭う。
《翌朝からゲートルをつけて成城へ行き、職員や児童の罹災したものゝ見舞にかかった。沢柳先生はまだ信州の別荘だった。小原君は講演旅行の帰途にあったのだが、まだ家へはきていなかった。結城、山本、照井などは皆郷里へ帰っていて、東京にはいなかった。はじめの問はほとんどわたし一人であった。五日はじまりを十日にのばし、中学の松組のものだけ出てきて、古着をもちより、附近の家々をまわって、不用なものをもらったりして、見舞品にして、車につんで東京府へもっていったりした。
沢柳先生の出てこられたのは七日ころだったように思う。小原君もその前に帰京していたが、第一学期のつゞきのような態で、学校へは出なかった。この大事変にあっても、「まかせ」たといった態度を固執しているのが、淋しかった。しかしそんなことについて煩わされておるべきときでないので、沢柳先生と連絡するだけで、万事を進めていた。》(前掲「沢柳政太郎先生」)
沢柳校長の下でよき同志であり、よきライバルでもあった小原先生と赤井先生の対立は1924(大正13)年2月、「小原派」と「赤井派」の対立となって表面化しました。このことについては、中野先生の「沢柳精神の継承者」107ページと『明星の年輪一明星学園50年のあゆみー』19~20ページに記載されています。成城の内外ではこうした対立を評して「両雄並びたたず」といいましたが、結局、赤井は照井、山本、照井げんとともに成城をはなれ、明星学園を創設することになります。
〈補注〉
1)《「両雄並びたたずか」と塚原先生(引用者注・文部督学官の塚原政次)は率直にいわれた。わたしは「両雄」とも考えていなかった。彼が主事で、わたしはその下の「幹事」で、いわば彼を助けてやっていかれると思っていたのである。》(前掲「沢柳政太郎先生」)
2)《ある日先生から、「今晩おそく宅へくるように」とのおことずけがあった。(二月二十一、二日ころと思う。)‥‥‥先生の話によると、数日前に成城の‥‥‥8人が来て赤井の独裁的であること、職員に対してエコヒイキのあること、子供たちに厳格すぎること、母さま方に横へいであること、結城、照井などが赤井派をつくって、古いものを追払うとしている、などを列挙して、赤井を出してくれといった、ということを話され、その解明を求められた。
わたしは成城の経理、教育問題研究(引用者注・成城の機関誌)の経理の乱脈を直すには、暫く独裁的、厳密すぎるようにしなければならなかったこと、職員の研究の思いつき、デッチアゲ、発表主義であることを制裁するには、研究の発表に対してキビシイ批判を加えねばならなかったこと、児童の自由が学習の自習をこえて、生活全面の放肆になっているので、或る程度の規則の必要性を痛感したこと、月謝の高いこと、後援会を盛んにする必要から父母のきげん取りが度をこしていること、などをあげ、この人々の非難は全面的にみとめるが、少くともこれまではこういう態度でいなければならなかったことを弁明した。
沢柳先生はほとんど全部を認容して下さって、二十五日(月曜日)に職員会を開いてよく話合うことにして、十二時近くお宅を出た。
八人の意見、問題が出され、「小原」が全然出てこないところが臭い。わたし自身として最近特に小原君との問がよくいかないことを案じていたが、他の職員諸君からこうした問題が出されようとは全然考えていなかった。
十一日紀元節の式のあとで、小原君と数人のものが自動車で砧村の実地視察に出かけるのを牛込の道路でみた。その時わたしには何のさそいもなく、赤井に近い山本・結城・照井・清水・三田村なども全然知らなかった。恐らくこの時に、赤井排斥運動がはじまったのであろう。ほんとうに火元は小原であることはわかっている。それがシャクだった。しかし沢柳先生にはそのことはいわなかった。》(前掲「沢柳政太郎先生」)
2月25日に職員会が開かれ、沢柳校長も出席して、「双方とも言い分があるので、これから互いに話し合って誤解をとき、よい交りにもどしてもらいたい」と言いました。会議は4時間もっづき、徹頭徹尾赤井攻撃。小原はその間ひと言も発言しない。あとで小原から赤井に手紙がきて、その一部分が中野先生の「沢柳精神」の108ページに引用されています。この手紙は赤井先生の「沢柳政太郎先生」に収められていて、もっと長いんですが、( )内に赤井が手紙を読みながら感じたことを書きこんでいます。そして赤井は「この手紙を読んで、もう小原君とはともにやれないという感じが強くおこった。ではわれわれで別の学校をたてるより外はない」と書いています。
いっぽう、小原先生の方はどうか。
《新教育の夢は、ますますふくらむ。中学校の新設が成っても、数年にして高等学校の問題が追っかけてくる。小学校、中学校、高等学校と、理想の一貫教育を、ぜひ実現したい。そういう夢がふくらんだところへ、大正12年の関東大震災。おばけ屋敷のようなボロ校舎は不思議にこわれなかったが、牛込付近は大災害。
子供たちの安全のためにも、理想の学園造りのためにも、郊外へ移らねばならない。私は、武蔵野の森の中に、大きな総合学園を建設することを夢みました。わが人生の一大転換が、大きく始まりました。》(『教育一路』82~83ページ)
あちらこちらと土地さがしに奔走して、北多摩郡砧村喜多見、今の成城学園の場所にねらいを定めます。ちょうど小田急電鉄が敷設計画中で、社長と交渉して駅をつくること、駅名を学園名とすること、急行をとめることをとりっける。地主と交渉する。お金は父母の大同生命保険の社長から借りる。 24万5,000円。今のお金でどのくらいになりますか、とにかく莫大なお金です。その金で校地2万4,000坪を買収しました。さっき私は照井先生の『誕生ものがたり』を読んだときに「一千坪の畑地」と小さい声で読みましたが、小原先生は校地2万4,000坪。さらに校地付近の2万坪を買収して宅地にして分譲する。その利益で校舎・施設をつくる。こうして雑木林のなかに一大学園都市を建設する。この仕事はほとんど小原先生ひとりの力によるものです。
もう1時間たってしまいましたが、まだ明星学園創立にならない。「ローマは一日にして成らず」(笑) 大急ぎで創立にこぎつけます。
2.明星学園の創設
(1)学園建設の準備
草創期の明星については、創立50周年のとき(1974年)につくられた『明星の年輪一明星学園50年のあゆみー』に詳しく書かれています。この記念誌はじつによくできていて、原田満寿郎先生のご尽力にあらためて敬意をささげます。1冊1,000円でおわけしておりますから、お持ちでない方はぜひ学園事務局でお求めください。
19ページの「創立への歩み」に日を逐って書かれていますが、例の2月25日の職員会のあと小原からきた手紙を読んで、赤井は国分寺の茶郷基氏を訪ね、新しい学校設立について援助をお願いします。茶郷さんは朝鮮で鉱山を経営する実業家で、お嬢さんの喜久子さんが成城小学校の1年生のとき照井先生が担任をしていました。茶郷さんの快諾をえて、赤井は土地さがしをはじめ、現在の小・中学校の地に学園を建設します。
〈補注〉
《茶郷さんが国分寺の土地一万坪を成城へ提供しようとの申出があって、初めてお宅を訪ねたとき、茶郷さんの郷里が石川県のわたしの金石から一里もはなれていない五郎島の出身であることをきいて、急に親しい感じをもった。その成城へ一万坪寄付の件は思うようにならなかったが、経済的な力は十分もっておられるように思われたので、行って相談してみようと思ったのであった。
茶郷さんは快よく承諾して下され、至急に敷地をさがすようにとのことで、井の頭公園脇の大盛寺の地所を借りることにした。沢柳先生のご了解は得ていなかったが、許してもらえるものと考えていた。無理にいすわって、小原君としょっちゅうケンカをしている方がかえって沢柳先生を苦しめ、成城の発展を阻むことになると考えた。わたしに呼ばれてきた人々も、やがて成城を去らねばならないときがくるだろう。その時一つの根拠地となるものが必要である。そういうことを考えて、沢柳先生には無断で、新しい学園の創設計画をすゝめていた。
三月十六日(日)照井・山本・赤井の家族のものが井の頭の照井の家に集まった。(照井は成城の二階にいたがおげんさんと結婚することになってこゝに一軒借りてあった。そして結婚するとそこへ皆移っていた。)「明星学園建設敷地」の立札をもって、今の小学校のところへきて、麦畑の中にたてゝ、いよいよ新しい学園建設の一歩をふみだした。三月の明るい、暖かい日の午後早い時刻であった。》(前掲「沢柳政太郎先生」)
照井先生の『明星誕生ものがたり』では、1本の標木をたてたのは「2月29日」となっていますが、それは照井先生の記憶ちがいで、赤井先生の「3月16日」の方が正しいと思います。
こうして4人の先生たちは新しい学園の建設をはじめましたが、茶郷基氏の援助がなければ実現できなかったのです。茶郷さんは創立準備金のほか、初期のころの校舎建築費、先生たちの給料まで出してくださったのです。その茶郷さんのお孫さんの一人が、きょうこの会に出席してくださっています。高田恵美子さん(旧姓出口さん)。私が照井先生に拾われて中学1年生の担任を命じられたときの生徒です。この方のお母さんが成城の照井先生のクラスにいて、「人質」にとられていたから明星学園が誕生したわけで、恵美ちゃん、あなたのおじい様のお蔭です。私もやっと明星創立にこぎつけそうです。(笑)
さて、4月20日の開校をめざして準備をすすめたんですが、4月2日、ヘレン・パーカスト女史という例のドルトン・プランの創案者が横浜に着いた。パーカストを呼ぼうというのはもともと赤井先生の発案で、成城と大阪毎日新聞がタイアップすることで実現したものです。そういういきさつがありますから、赤井はパーカストの講演旅行に通訳を兼ねて同行しなくてはならない。東京をふり出しに仙台、富山、金沢、大阪、松山など20日ほどかけて回りました。赤井の留守中、照井・山本が準備を担当しました。
こうして予定よりも遅れて工事半ばの5月15日、ようやく開校式を迎えました。はじめに読んだ照井先生の『誕生ものがたり』、「あいにくの雨を半ぶきの屋根はしのぎかねて‥‥‥」の場面を思いおこしてください。赤井先生も沢柳先生が来てくださった当日の模様を回想して詳しく書いておられますが、残念ながら時間がないので、のちほど『明星の年輪』の「50年のあゆみ」20ページをお読みください。
(2)「社会立」の学校
その年、1924 (大正13)年6月21日の開校披露式の席で赤井先生が語られたことは、きわめて重要です。お手許の中野先生の「沢柳精神」に「明星の年輪」から転載されていますから、読んでみましょう。
《学園は私が創立者ということになっています。しかし、これは法律上の手続きでありまして、決して私一人の設立したものではありません。照井君夫妻と山本君の4人が一心同体で経営していくのであります。が、この4人でも実は経営はできません。この4人はここで仕事をするもので、ここの経営は私どもの陰にかくれて偉大な援助をしてくだされる人によってなされているのであります。その人は名を出すことを好まれませんので、暫く隠れた人としておかねばなりません。》
これが茶郷基氏ですね。
《が、その人も決して自分の学園を作るつもりで助けてくださっているのではありません。全くこの国、この社会の一教育機関を作るつもりでいられるのであります。これは全く社会のものであります。》
この明星学園は全く社会のものだというんですね。
《この社会において、この教育機関を利用してわれわれを教育者と思われる方は何人でもこれを利用することができます。私どもには一個の教育者の理想があります。この理想を実現するために新しい学園を建てることが必要であると思ってここにこれを建てたのであります。しかし、私どもの理想は決して私どもの私的な考えではありません。いわんや我儀勝手ではありません。
私どもは、この理想が、わが国社会の理想であると信じています。この理想によって我が国社会の必要とする人物を養成しようと思うのであります。かく経営においても、教育においても、ここは決してわれわれの我儀勝手をするところでなく、わが国社会の一教育機関で、私どもは暫くここに働くものであります。だから名は私立学校でありますが、公立ではないでしょうが、いわば社会立学校であります。》
ここがきわめて重要です。名は私立であって公立ではないが、「社会立」の学校だというんですね。
《したがってここの経営、教育の成否は単にここに働く私どもの事業の成否ではなく、この国社会の一教育機関の成否であります。この意味において、ご来会の各位に将来この学園の成長発達に対して深いご関心を持たれんことを希うのは、あえて私どもの援助を希う私的な希いではなく、実にわが国社会の発展を助けるための公の義務であることを訴えたいと思うのであります。》
これは赤井先生のレトリックではなく、私立学校の独自性・自主性と公共性を的確にあらわしている、すごい発言です。こういう認識がいまだに政府にもない、議員たちにもない、文部省にもない、地方自治体のエライ人にもありません。私立学校は金持ちの子どもが行く学校だ、そんなところに税金を回すことはない、なんて平気で言うんですから。いっぽう、いわゆる公費助成運動を私たちも進めているんですが、この「公費助成」という言い方も気にくわない。助けてください、援助してくださいじゃなくて、憲法第26条に規定している「義務教育はこれを無償とする」をちゃんと履行させるために堂々と主張すべきです。
こんな演説をやっていると日が暮れます。きょうは、あと急いで玉川学園と和光学園を創立させなくてはなりません。(笑)
明星学園の初期の実践については次回でとりあげることにして、レジュメにしたがって超特急でまいります。
- 1924 (大正13)年5月、明星学園創設。
- 1925 (大正14)年4月、成城第二中学校が砧村に移転し、成城玉川小学校、成城幼稚園が併設される。この年、明星では校地拡張(800坪)がおこなわれ、夏季生活がはじまる(三浦半島三戸)。母の会が結成されています。
- 1926 (大正15 ・ 昭和1)年3月、明星で校舎増築(38坪)。4月、成城高等学校(7年制)創設。小原先生の功績です。
- 1927 (昭和2)年4月、明星で音楽・美術室の建設成る。
成城では高等女学校が開設される。 10月、明星で後援会が結成される。この年、照井猪一郎の『新読本』第1巻刊行。 12月、海外視察から帰った沢柳先生が、しょうこう熱が原因で1ヵ月余りで亡くなりました。まさしく巨星墜つです。
3.玉川学園の創設
(1)小原国芳、玉川学園建設に着手
1928 (昭和3)年4月、小原先生が成城学園の幼稚園、小学校、中学校、女学校、高等学校すべての学校の校長事務取扱となりました。この年、明星学園の中学校と高等女学校が開設しています。
12月、小原は小田急線沿線に100万坪の土地を購入して、玉川学園の建設に着手します。このとき、41歳。成城の校長でありながら、なぜ別の学園をつくろうとしたのか。小原先生によると、こういうことです。
《やがて先生も生徒も父兄も、帝大進学のための試験準備に追われ、せっかくの私の大きな理想が、うすれはじめました。「しまった。懸命に造りあげた成城だったが、ほんものの新教育は出来なかった。どうしても、もう一度、最初からやり直してみたい」という気持ちが、むくむくとわいてきました。》(『教育一路』93ページ)
小田急線を幾度も往復して、現在の町田市玉川学園の地を見つけました。地主たちに集まってもらって、ここに世界一の学校をつくりたい、ついては地価の3倍を払うから売ってもらいたいとふっかけた。地主たちもびっくりした。坪平均1円50銭の山林が3倍で売れるというんですから。小原先生は「まとまった土地を一度に人手するためには、市価の3倍払うという度胸は、成城経営の時身についた尊い知恵です」と書いています。
小原先生には考えがありました。ここは東京府に属している。地図で見ると今でも町田市は東京都だか神奈川県だかわからないようなへんな所ですが、東京府に属しているために宅地分譲がしやすい。(今でも神奈川県と東京都では地価がちがいます。)ところが金がない。そこで成城のときに助けてもらった王子製紙の社長に保証人になってもらって、当時最大の出版社だった講談社の野間清治から45万円を借りました。今のお金でどのくらいになるのか、見当がつきません。
「土地経営の最大の秘けつは、新しい駅が出来るかどうか。駅が出来れば、地価はグンと上がる」と小原先生は書いています。そこで小田急に土地と駅舎と引き込み線の用地を寄付して、駅名も「玉川学園前」としてもらった。こうして住宅地を造成して、分譲し、町づくりをはじめました。安いところで坪5円、だいたい坪7円で順調に売れて、100万坪のうち、現在の学園の敷地20万坪と校舎の建築費が残ったそうです。
私は玉川学園の正門から数分のところに住んでおりますが、バブルのころには坪150万だとか200万だとかバカなことを言ってました。ときどき玉川に遊びに伺いますが、山あり谷ありで何べん行っても迷ってしまいます。明星は迷いません(笑) 純情一直線、真実一路です(笑) 笑いごとではないですよ。朝な夕な玉川の森と白亜の殿堂を横目で眺めながら通勤していた私の胸中おだやかでない。けれども赤井先生は苦しかったにちがいない。くやしかったにちがいない。赤井先生の学園経営の苦悩は、お手許の中野先生の資料に日記が引用されていますから、どうかあとでお読みください。
(2)「全人教育」
小原先生の教育理念は「全人教育」です。全人とは完全人格すなわち調和ある人格の意味だと小原先生は言います。これは、あの34歳のときの「八大教育主張講演会」以来の主張です。
「全人教育論」(玉川大学出版部、1969年、1971年改版)に講演会の記録も収められていますから、関心のある方はお読みください。
教育の内容には人間文化の全部を盛らねばならない、と小原先生は言います。人間文化には六つの方面がある。すなわち、学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活の六方面。学問の理想は真であり、道徳の理想は善であり、芸術の理想は美であり、宗教の理想は聖であり、身体の理想は健であり、生活の理想は富であると。そして教育の理想は真、善、美、聖、健、富の6つの価値を創造することだと言うのです。真、善、美、これはよくいわれてきたことで、目新しいことではありませんが、小原先生はこれに聖を加えて、この4つを絶対価値、健富を手段価値という。それが小原先生の「全人教育」の根本理念です。
さらに、小原先生は全人教育と個性尊重の教育は矛盾するものではないと言います。《完全なる個性発揮が実によき全人教育なのです。竹は竹の、百合は百合の、松は松の本性を、太郎は太郎の、花子は花子の唯一無二の本領を発揮した時が最も美しいのだと思います。‥‥‥実に教育とは、その全宇宙とも取りかえられない尊き自己を発見することであり、天の与え給う各人の天地を十分に生きることだと思います。》(『全人教育』111ページ)
〈補注〉
《全人教育、個性尊重、自学自習に加えて労作教育。この四つが、玉川学園の根本になるものです。徳富蘇峰先生が、玉川教育のことを新聞に書いて下さるや、二十社近くの新聞雑誌が取材に来て書きたててくれました。おかげで、教育界の耳目は、急速に玉川に集まりました。前途多難は覚悟のうえでしたが、幸先のよいスタートを切ったといえましょう。》(『教育一路』100ページ)
(3)なぜ二足のワラジをはいたか
小原先生が成城の校長をやりながら玉川を経営する、つまり二足のワラジをはくことには、当初から成城の父母のなかに懸念があったようです。これについては小原先生自身、『教育問題研究・全人』第42号(1930年1月号)にズバリ、「成城学園と玉川学園」と題する一文を掲載しています。
つまり、新しく玉川学園が生まれたわけは「成城教育の充実であり、発展、完成、延長なのである」と。では、なぜ成城で実行できないのか。
《7年制高等学校は誰も知る如く帝大連絡の機関である。そのために、成城創立の精神目標が如何に試験準備といふ下らぬことによって壊されるかを解って欲しい。》
だから、
《成城としては7年制高等学校の使命を果し、玉川学園にあっては私塾として、労作教育の使命を果すことに於いて意義かある。父兄にして子弟を帝大に進めたいと思ふものは成城に、もっと徹底した真人間の教育を希望するものは玉川に志望するがいゝ。》
と言うのです。
小原先生は出版部、事業部をつくって、その利益を教育の方に注ぎこんでいきます。「玉川児童百科」って有名ですよね。あれは沢柳先生が外遊のおみやげにイギリスの児童百科20巻を持ってきた、それがヒントになったもので、昭和9年から4年かけて全30巻を仕上げました。また昭和5年にはスキーの名選手、オーストリアのシュナイダーを呼び、翌年にはデンマーク体操のニールス・ブック一行を呼んで教育内容を充実する。こういった事業の拡大が小原先生ご自身の命とりになって、昭和8年の「成城事件」で成城を辞めざるをえなくなり、玉川学園の経営に専念されることになるわけです。
4.「成城事件」と和光学園の創設
(1)「成城事件」
この事件については、もう時間が大幅に超過していますから、のちほどご質問があればふれることにします。簡単にいえば、小原先生を深く尊敬する父母・生徒・教職員、いわゆる小原派の人たちと、反小原派の人たちの争いです。
玉川学園が創設されて4年目の1933 (昭和8)年の3月、成城学園理事長の小西重直が京都帝大総長に就任するにあたって、小西は小原に「玉川の経営に専念するように」と辞任を求め、理事会は前京都帝大教授の三沢礼を後任校長に決めました。これに反発する小原派の父母・生徒・教職員が起ち上がり、いっぽう反小原派は小原先生が玉川の経営に成城の金を注ぎ込んだといって背任横領罪で告訴するとか、東京府や警察が介入するとか、秋までゴタゴタがつづいたわけです。
このなかで、小原派の父母の一人だった北原白秋は「成城学園を思ふ歌」144首をつくっています。
我が太郎声はあげつつ帰りたり 小原先生はえらしと云ふなり
父母よ挙り起つべし己が子の よき人小原今去らむとす
結局、小原先生は成城を去りました。小原去りしあと、小原擁立派の父母たちのなかから新しい学園をつくろうという動きがおこり、和光学園が誕生することになります。
〈補注〉
「成城事件」については、成城学園初等学校教諭(当時・現校長)竹下昌之氏の綿密な考証に基づく「昭和八年「成城事件」」の書誌目録・解題・関係年表(「成城学園教育研究所研究年報 別巻」、1993年6月)に詳しい。
(2)和光学園の創設
『和光学園五十年』によりますと、和光学園は1933 (昭和8)年11月10日に誕生しました。
その日の朝、世田谷の小田急線経堂駅の南へ徒歩数分のところにあった予備校の玄関前に、7名の教師と33名の子ども、そして父母たちが集まって、小さな学校を発足させたのでした。敷地も校舎もなく、学校の名すら決まっていませんでした。校長に予定されていた吉田慶助は、そこで「メイフラワー号」の話をしたということです。およそ300年前、自由の天地を求めて「新大陸」アメリカに渡った清教徒たちの希望と決意を、そこに集まった人たちと共有したいと願ったにちがいありません。
弘重寿輔を仮委員長とする設立準備委員会は、はじめ小原国芳に園長をお願いしたんですが、政府や東京府知事が「成城事件」に介入していましたから、とうてい認可される可能性はなく、小原の推薦で吉田慶助(東北帝大卒)を校長にして発足しました。明星よりもさらに小さい学校で、ほとんど父母の出資金で建設がすすめられました。校舎が落成したのは、明けて1934 (昭和9)年3月20日でした。
今日、和光は幼稚園ふたつ、小学校ふたつ、中・高・大学を擁する大きい学園となりましたが、出発のいきさつはだいたい以上のとおりです。
〈補注〉
1)創立当初に作成された「和光学園小学校入学案内」には、次のような「教育方針」がかかげられている。
1.定員を少数に限り、個別的指導をなす。
2.自学自習を補導して学習興味を喚起す。
3.情操教育を重んじ、品性の陶冶に資す。
4.郊外の健康地に位置すれば、児童の健康増進に益あり。
5.人格陶冶は和光教育の根本精神なり。(「和光学園五十年」10ページ)
2)《このような教育主張はあきらかに大正期の「自由教育」の延長上にあるものであった。他律的で画一的な注入主義の打破、ということは、思えば沢柳がもっとも強く願ったことであったし、発達段階を尊重する、というプリンシプルにしても、すでに軍国主義の教育が学校に浸透しつつあった状態を考えると、色あせたとはいえ「自由教育」の立場に立ってこそ強調できることであった。注目されるのは「生活訓練」「自治・自律の訓練」という概念が使われていることである。これは、1932(昭和7)年、池袋児童の村小学校の教師、野村芳兵衛が著わした「生活訓練と道徳教育」などの影響があったのではないか、と推測される。作業科の特設は、小原の玉川学園における「労作」教育や、北沢種一を中心とした東京女高師付小の「作業教育」の実践と理論に通ずるものであった、といえよう。だから、初期の和光学園は、大正期の自由教育が目ざしたところのものを、1学年20名の定員、6学級120名という少人数教育という条件をあらかじめ設定し、「児童・父兄・教師三位一体」で徹底的に追求していこうとしたのであった。》(同書、14~15ページ)
〈おわりに〉
以上、私は個人的な評価や浅薄な批評を加えずに、できる限り事実に則して、エピソード風に4つの学校のなりたちのあらましを述べてまいりました。人物評価は立場や見方によってちがいますし、一方的・一面的な評価は謹しむべきものと思います。とくに沢柳、小原、赤井という人物は余りにも大きすぎて、私などはとてもその足元にも及ぶことができません。勉強すればするほど、ますますその大きさに圧倒されます。
4つのいわば“姉妹校”に共通するものを挙げるとすれば、その一つは創立者たちの高い理想と熱情、不屈の批判精神、卓抜した実行力です。また学校は創立者だけでなりたつものではありませんから、そこで共に働く教師たちの研究・実践の並々ならぬ努力です。
もう一つは何といっても父母の支援です。大正自由教育運動のなかでつくられた学校は、多く都市中産のインテリ階層に支持されましたが、父母のふところはけっして裕福ではなかった。多くの学校は廃校を余儀なくされていきました。「窓ぎわのトットちゃん」の学校もそうでしたが、そこに共通している最も大きな理由は財政難でした。明星も和光も今日まで存続し得たのは、父母のみなさんの支援があったればこそと、つくづく思います。
もう一つ挙げれば、これら創立者と学園を支えてきたのは、ご夫人たちの力だったと思います。きょうはふれることができませんが、赤井先生にしても、小原先生にしても、和光の設立の中心だった弘重さんにしても、ご夫人たちの労苦たるやはかり知れないものがあったと思います。
予定の時間を大きく超えてしまい申しわけありません。とりあえず第1部の話を終わらせていただきます。
第 2 部 (要約)
〈奈良〉(元父母)私の家内の父は明治末ごろの生まれで、旧制の成城高等学校の卒業生。(亡くなられた元明星学園高等学校の船山先生と同級。)
当時の成城では、旧制高校の段階でもドルトン・プランが有効に活かされていたという思い出話を聞いたことがある。それはベーシックのプログラムが組まれていて、学生が興味のある学科に関して自由にどんどん自習していく。それを先生が定期的に、個人面接的だと思うが、どこまで理解しているかを、ていねいにチェックしていくシステムだったらしい。家内の父の下の学年には吉田秀和さんみたいな有名な方もいらっしゃった。そういう独自なプログラムで教育を受けて、「これだけの勉強をやって、試験で何点とらなければダメ」式の教育ではなかったから幸いしたのだと思う。
旧制高校だけでなく、成城では小学校からそういうシステムになっていたらしい。年代的には昭和の初めごろ。ドルトン・プランは現在の日本にはもう残っていないようだと思うし、内容がどうなっていたかよくわからないので、参考になることをききたい。
〈依田〉もともとヘレン・パーカストというアメリカの女性の教育家が考案した教育方法。パーカストは1900年前後のアメリカの学校教育が理想を失い、画一化していることを批判していた。大学を出て最初に勤めた田舎の学校では、8学年の子ども40名を一つの教室で教えていた。一斉授業はできないので、彼女は物置を改造して、そのコーナーを使い、ちがった学科を自習させる方法を考案した。
その後、「児童の家」のモンテッソーリに学ぶためイタリアに留学。帰国後、郷里マサチューセッツ州のドルトンという町のハイスクールで「ドルトン実験室プラン」を実施した。学校を社会のなかの「実験室」(ラボラトリー)のようなものにして、教育のシステムを改造しようとした。「実験室」の名を使ったのはパーカストが最初ではなく、すでにジョン・デューイがシカゴ大学に付属する小学校をつくり、「実験室学校」(ラボラトリー・スクール)とよんでいる。 ドルトン・プランはイギリスに紹介され、2,000をこえる学校で実施されたといわれる。
パーカストはニューヨーク市に小さな私立小学校をつくり、「児童大学」と名づけた。彼女は学校を社会なかのデモクラティックなコミュニティ(共同社会)と考える。その基本は「自由」と「協同」と「仕事」。これは『学校と社会』『民主主義と教育』などのデューイの思想と共通する。生徒は主要科目(数学、歴史、理科、国語、地理、外国語)のなかから自由に選び、研究テーマを決め、各自の計画にしたがって、それぞれの科目の研究室で自学自習する。研究室にはそれぞれ担当の先生がいて、相談にのり、アドバイスをする。
日本では吉田惟孝(熊本県立第一高女校長)らによって紹介されたが、広く普及したのは沢柳らが欧米の教育視察の途中ダルトンにパーカストを訪ね、このプランを成城小学校にとり入れてから。赤井が訳した2冊の本はベストセラーになった。これは当時の日本の教師たちがデモクラティックな教育改造の実際的なプランを求めていたことのあらわれ。成城だけでなく、いくつもの師範学校などでも実施された。
ここに赤井米吉訳・中野光編『ドルトン・プランの教育』(明治図書、世界教育学選集80、1974年)があり、成城小学校での実践例が収録されている。学習表、進度表(教師用・児童用の二種)などを見ると、綿密でていねいだが、手間のかかる方法だと思う。自学自習するためには豊富な資料、参考書が要る。研究室も要る。生徒の定数も少数であることが必要。当時の学校の貧弱な教育条件のなかでは、やろうとしても実現は困難だったのではないか。いっぽう、教育改造の動きを抑圧する教育行政も、この方法の普及をさまたげた。
赤井はドルトン・プランの紹介者で、他の方法に比べればはかるに良い方法だと考えていたが、明星にはとり入れなかった。赤井は「如何に」(方法)よりも「何を」(内容)学ばせるかがたいせつだと主張しており、教育内容の改革について何も語らないパーカストのプランは中途半端なものだと批判していた。
〈補注〉
《ドルトン案が他の諸々の教育説以上に、わが国で研究され歓迎されているのは、それが現今のわが教育制度内で比較的よく採用され得るからである。そのもっとも顕著な点は、これがわが国の教科課程を敢て改めようというのではなく、それをそのままにして置いて、その学習方法を改めんとすることにある。私一個の考えとしては現在の教科課程には多くの不満を感ずるものである。(中略)教育は方法の問題だけではない。「如何に?」の問題は解けても、「何を?」の問題が定まらぬ問は仕事は出来ない。ドルトン案が「中途の案」だと非難される所以はここにある。そしてドルトン案はこの非難に相当する。ただし現今の実際教育家には、「何を?」の問題に触れる自由が許されていない。(中略)かくドルトン案はわが国定の教科課程を学習せしめる方法であるという点において、もっとも都合のよいものである。(中略)
ただし、現今各地の学校で試みられているドルトン案が大体読方、算術、地理、歴史、理科等の知的教科に限られているのは如何なものであろうか。この点はパーカスト女史の考えにも、私は不満の感をもつものである。あまりに参考書による学習を考えすぎているようである。(中略)
どうか多くのドルトン案研究者諸賢が、その学校の事情に適したようにこれを修正して、実際に行なってみられんことを切に希望する。
しかしドルトン案は完全無欠な案であるかどうかといえば、私はどうも然りと答え得ない点がある。わが国の現代の教育に比しては遥かに優れた方案ではあるが、私の教育理念から考えて一、二不満なところがある。私がこれを実施する時には是非その点を改めねばならんと考えている。》
赤井は、筆答が多いこと、室内作業の多いことを挙げ、次のように言う。
《かく考えてくると、ドルトン案はどうもアカデミックである。いわゆる学問風、学校風である。私はこの点が本質的にドルトン案にあきたらない。将来ドルトン案が棄てられるならば、恐らくこの点からであろうと思う。私かドルトン案を現在のままで私どもの学校で行なおうとしない根本的な理由はここにある。なんとなれば、かく室内だけに止まらず、広く校外に教場を求めて回って歩くことになると、児童一人々々の自由にというわけには行かない。やはり教師が中心になって一組の児童が一団になって行動する方が便利である。
即ちドルトン案は大学生の実験室における研究状態を模したということにその長所があり、また短所があるのではないか。もちろんこれはドルトン式教育の始期如何の問題にもなろうが、私一個の考えでは、この短所は小学校教育においては致命的短所であると思う。しかし現今我が国の多くの学校の如く、田園の真中にありながら大都市の真中にあるような生活をせしめている所では、ドルトン式にやる方が一斉式に優ること万々である。》(赤井米吉『ダルトン案と我が国の教育』、集成社、1924・大正13年9月)
〈梶原〉(父母)子どもが8年と10年に在学している。小原先生が次々に学校をつくろうとして実行に移されたこと、すごくよくわかる。子どもが中学から高校に行って、どこが公立の学校とちがうのか、明星といえども受験のための勉強がメインではないかと悩んでいる。大学まで一貫してあれば、小・中・高とつらなる理念で行けるはずなのに、という思いで親子で考えているところ。明星ではそういう動きはなかったのか。
〈依田〉個別的なかたちでは、大学をつくろうとか、つくりたいという考えが出されていたが、教職員、理事会をふくめて学園全体として検討されたことはなかった。二つの考えがあって、一つは小・中・高・大と積み上げていこうとするもの。これにはどういう大学を構想するかという問題と、お金の問題が大きい。もう一つは、これだけ日本に大学や学部がたくさんある現状では、自分の生き方を考えながら選択していくのがよいという考え方。私などは後者のほう。甘ったれた子どももいて、さらに大学で遊ばれたんじや困るという気持ちもある。(笑)
〈山崎〉(卒業生)小原先生の経営手腕の話があった。赤井先生、照井先生ほかのスタッフは、財政を確立するうえで小原先生式のやり方をとらなかった。小原先生との対立があって明星をつくったからそういうシステムをとらなかったのか、小原式の経営のやり方でなく、教育だけに専念するという考えだったのか。
〈依田〉むずかしい問題だ。小原先生は大きな夢を追求する理想家であり現実的な事業家。その大きさをみれば当時でも今日でもむしろ特殊な人。赤井先生も理想家だが、事業家には遠い。学園の中心、経営の責任者として必死だった。中野先生の「沢柳精神の継承者」にも昭和3年、4年の赤井先生の日記の一部が紹介されている。苦悩が赤裸々に告白されている。(一部朗読) 小原先生の経営のやり方を批判しながらも、経営者としての力量の差もよく自覚していたのではないか。たとえば1929(昭和4)年10月3日、「玉川学園に小原氏を訪う。土地○○について何物かうるところがあろうと思って。彼の経営は実際的である。夢の様なことを云っているが、確かに現実に立脚している。赤井の如き及ぶところではない。大いに啓発せられた。」
照井先生は実践家。ガリ版を切り苦心して教科書をつくるとか、子どもと取っ組んで生活するとか、教育現場の人。それだからこそ、すごい仕事をしたのだと思う。
〈山崎〉明星のよさはそういうところにあると思う。
〈依田〉大正自由教育の運動のなかでいくつもの新しい学校ができて、いくつもつぶれていったが、そのころの先生たちは本当に子どもたちのためにいのちをかけていた。苦しみぬいて無念の思いを抱いてたおれていった人たちも多い。中野先生が赤井先生の評伝にあえて「沢柳精神の継承者」というタイトルをつけた意味は深いと思う。
〈山崎〉自山が丘にあったトモエ学園はどういう学校だったか?
〈依田〉小林宗作という先生がつくった小さな小学校。自由な校風は黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』に生き生きと描かれている。やっぱり苦しい経営で、第二次大戦の空襲で焼け、貴重なともしびを消していった。東横線の自由が丘駅から歩いて3分、現在はピーコック(スーパーマーケット)とその駐車場になってしまっている。
〈補注〉
私が小林宗作を「成城小学校の先生」と言ったのは誤り。小林は群馬県吾妻郡の生まれ。東京音楽学校(現東京芸大)の師範科を卒業後、成蹊小学校の音楽教師となり、ヨーロッパに留学してダルクローズが経営するパリのリトミック学校でリトミックを学んで帰国。成城幼稚園創設に際して、小原国芳に招かれ、主任に就任した。『窓ぎわのトットちゃん』(講談社文庫)の本文と「あとがき」に詳しい。
〈高田〉(卒業生)沢柳精神の継承者という意味では、沢柳先生のお孫さんがみんな明星に来ている。そのお一人と親しくしているが、成城にやらずに、あえて明星を選んだというところにも「継承」の意味があらわれている。
〈依田〉北原白秋も小原先生に傾倒して二人のお子さんを成城に入学させ、「成城事件」のとき小原擁護派の戦列に加わったが、小原先生が去ったあと、お子さんを明星に入れた。玉川学園が通学するのに遠かったこともあったのかもしれないが、それだけではないだろう。
息子の隆太郎さんはたしか7回生。同級生に谷井精之助さん(前明星会会長・理事)がいて、いつか「明星学園報」に書いておられた。谷井さんのご両親も小原派で、「成城事件」のあと玉川に転校させたが、中学は明星にと‥‥‥。
〈補注〉
《昭和3年、学齢に達した時入学したのは、家の近くにあった目黒区立菅刈尋常高等小学校でした。しかし、いわゆる自由主義教育に憧れた両親は、3年生から小原国芳先生の成城学園へ転校させました。ところが5年生の時「成城騒動」が起り、小学校から旧制高校まで、教師も生徒も父兄も二派に分れて争い、私の担任であった佐藤加寿輔先生も両親も「小原派」であったため、6年生は玉川学園で過しました。当時の玉川学園小学部は「労農教育」を標榜していたためか、昭和9年からの中学は、明星学園中学校(旧制)へ編入させられました。中学4年を修了して、武蔵高等学校(旧制)文科甲類へ編入し、東大文学部では東洋史学を専攻しました。ふりえってみると、現在までの67年間のうちで、のちのちの「ものの考え方」(大袈裟な意味でなく「判断の方向」くらいの意昧)について一番影響が大きかったのは、4年間の明星時代であったと思います。換言すれば、「明星精神」を体得し、それが身にしみ込んでいるともいえましょうか。(後略)》(谷井精之助「教育雑感」、『明星学園報』No.28、1989年4月」
〈松浦〉(卒業生、元父母)
①赤井先生はクリスチャンだが、明星創立のときにキリスト教をもちこまなかったという。宗教と教育についてどう考えておられたか?
②京大の「沢柳事件」というのは?
③うちの娘が大学で教職課程をとったとき、ある先生から、大正デモクラシー時代の自由教育運動のなかでさまざまな学校ができたが、創設当時の教育を引き継いでいるのは明星学園ぐらいだ、と教わったそうだ。家に帰って、うれしそうに話してくれた。
①と②について聞きたい。
〈依田〉①赤井先生は14歳のとき洗礼を受けて以来、熱心なクリスチャンで、信仰を生活の根本に据えていた。明星創設5年目、小原先生の玉川学園出版部で発行された『日本の新学校』に「明星学園の教育」を書いて、宗教教育とは働き生産する人間をつくることだと言っている。
もうひとつ、明星にキリスト教主義をもちこまなかったことについて、私は赤井先生が開校披露式のとき述べた「社会立」の学校という思想と関連させて考えている。赤井先生はおそらくこう考えていたのではないか。父母のみなさんはそれぞれに思想・信条をもっている。4人の創立同人も必ずしも思想・信条は同一ではない。共同体である明星は一つの思想・信条あるいは特定の宗教によって統一すべきではないと。しかし旧い卒業生に聞くと、赤井先生の修身の授業や集会では聖書の話や宗教的な話題がたくさん出たという。
②大正2年、京都帝国大学総長に就任した沢柳は、次々に大学改革を行い、7名の教授の罷免を断行した。教授会は、教官の任免には教授会の同意を得るべきと反発し、世論に訴えた。この事件を機に沢柳は京都帝大を辞めた。クビになった教授のなかには前回とりあげた谷本富もいた。
〈補注〉
1)赤井は広島高師在学中の夏休み、山口県秋吉台に本間俊平を訪ねた。本間は集団的な労働を通じて人間教育にうちこんだキリスト教伝道者。本間のもとでの1ヵ月のきびしい生活体験が赤井の思想形成に大きく影響した。
2)《宗教教育として従来考えていたものは、儀式と聖典の研究であった。……その宗教教育は宗教的知識を幾分教え得ても、児童の全身を動かしこれを宗教的たらしむることは出来ない。昔の宗教の修行者は聖典の研究と共に、一方には大いなる筋肉的修行をなした。彼等の或る者は自ら耕し、生産して自ら食となし、また他に施す料とした。わが国の寺院においては皆自らの田畑をもち、これを耕し、蒔き、収穫し、或は薪をとり、米をつき、やがて自ら炊ぎしたのである。これ等の勤労生活が、実は聖典の研究などよりももっと深く僧侶の魂を教育したのである。宗教生活は寺院の奥深いところで聖像にひざまずくこと、祈梼瞑想をこととすることではない。白日の街頭において、工場において、店頭において、人々の生業の中に働く精神、敬虔なる奉仕的生涯でなければならぬ。だから宗教教育とはやはり働き生産する人を造ることであり、また働き生産することによって敬虔なる奉仕の人が出来るのである。》(赤井米吉[明星学園の教育]、小原国芳編「日本の新学校」、玉川学園出版部、昭和5年)
〈阿部〉(現父母)玉川学園も自由学園も労働を重視した。明星の場合は?
〈依田〉「労働」を重視するのは大正自由教育運動を進めた人たちに共通した思想。小原先生も、自由学園の羽仁とも子先生もそう。赤井先生の教育の根幹の一つは労働。それは時代の風潮(ロシア革命、労働運動の高まりなど)。たとえば下中弥三郎(のちの平凡社経営者)は労働と教育を結びつけることがたいせつと考え、「万人労働の教育」を出版している。リベラリスト赤井は台頭してきたマルクス主義、唯物史観への理解と批判をもちながら、労働を明星の教育の根幹の一つに据えた。明星でも畑をつくり、農作物を栽培し、ニワトリ・ウサギなどの飼育もおこなった。
いままでこの研究会では都市中産階層の子どもの教育だけをとりあげ、労働者や農民の子どもの教育についてふれなかったが、日本の教育を考えるためには労働者・農民の教育も明らかにしなくてはならない。そうでないと、成城や明星のよさも、いわゆる「限界」もみえてこないと思う。だが、いまの私には手に負えない問題。
〈補注〉
1)《1924年5月、4人の教師と21人の児童で小学校の仕事を開始した。新しい時代の新しい教育を導き出したいものとの意図をもって、一つの実験学校としてのウブ声を上げたのである。当時付近には人家両三軒しかない畑と森の中であった。自然に親しむこと、勤労を喜ぶことの二つが眼目であった。(中略)教育とは人の子を日々に進ませ、更生せしめることである。したがって教育は働くことを教え、いよいよ働く人となし、常に自ら更生し、生産して止まぬものとなさしめることを努めなければならぬ。(中略)
従来の徳育は殆ど御談義であった。教師の訓戒、説諭を児童が謹聴するだけであった。進んで善きことをなす機会が与えられていなかった。そして働かざることと消費が、誇とされている風があった。ここに従来の徳育不振の大原因がある。善とは働くことである。働かざる善はない。惰眠は個人においても社会においても罪悪でる。働くことを教えざる学校は決して善を教えることは出来ない。新しい学校には勤労と生産がもっとも重んぜられねばならぬ。そして働かざることと消費が実に人間のもっとも恥ずべきことであることが、理知においても感情においても十分に教えられ、勤労怠らず、何物かを生産して人のため、社会のために献じるように導かれねばならぬ。(中略)
思うに従来のわが国の教育には、働くことと生産することが、ただ物質にかかわるものであり、物質とは極めて卑しいものであると思われていた。しかし今や物質もその当然の価値を払わるべきことを要求してきた。生産に従事する人々が、その十分の価値の認められることを要求してきた。いわゆる唯物史観の横行、労働問題の勃興はこれを物語るものである。新しい教育は、物質をその当然の価値において認めねばならぬ。》(赤井米吉『明星学園の教育』、小原国芳編『日本の新学校』)
2)下中弥之郎は1919 (大正8)年、日本初の教員組合的組織「啓明会」を結成している。1923 (大正12)年に出版した「万人労働の教育」では、資本主義社会の矛盾を鋭くっき、働く者こそが未来につながる健全なモラルを形成すると説いた。1924 (大正13)年(明星創立と同年)、野口援太郎を校長として創設された「池袋児童の村小学校」の創設メンバーの一人として加わり、翌年の「芦屋児童の村小学校」の創設メンバーに加わっている。「児童の村小学校」の設立母胎は、1923(大正12)年に結成された「教育の世紀社」。野口援太郎、下中弥三郎、為藤五郎、志垣寛の4人を同人とし、原田実、小原国芳、赤井米吉、三浦藤作を社友とし、機関誌「教育の世紀」を発行した。
〈松浦〉昭和24、5年ごろ、畑が教室の裏にあって、ナス・キュウリ・トマト・サツマイモなどをつくった覚えがある。
〈高田〉今も小学校では畑をつくりはじめたようだ。高校の横に新しく買った土地を農園としている。
(※この間、卒業生の発言が入り乱れて記録不能)
〈山崎〉私たちの小学生のころ、昭和20年代の後半には英語教育もやっていた。同級生のお母様が英会話を教えてくれた。その後どうなったか?
〈依田〉英語をふくめてカリキュラムにはいろいろと変遷がある。できれば次の回で若干とりあげたい。次回は照井猪一郎の『新読本』を中心に。きょうとりあげられなかった国家との関係も。自由教育は国家権力による弾圧を受けている。
〈川連〉(元父母)弾圧があったのか?
〈依田〉はい。たとえば「明星行進歌」。赤井先生の証言が『明星の年輪』に収められているが、戦時中、「めざめ若きたましい」の「めざめ」はけしからんというので変えさせられた。あの時代、社会的に「めざめ」させてはいけないという理由からだろう。小原先生もあちこちではなばなしい講演をやり、そのために関係者は処分されている。
〈捕注〉
1)《戦時中は何でも統制ばやりで、「校歌」も東京都の許可をうけなければならないというので提出した。すると許可にはなったが、「めざめ若き魂」を、「さめよ若き魂」と訂正せよとの条件がっけられていた。大詩人白秋さんの詩を訂正する官吏の無謀さにおどろいたが、暫くそのように直して歌っていた。戦争がすんでまた元どおりになった。》(『明星の年輪-50年のあゆみー』110ページ)
2)明星学園が誕生した1924 (大正13)年は、自由教育に対する干渉・弾圧が組織的になった年。文部大臣に就任した岡田良平は8月の地方長官会議で次のように訓示した。
「近年種々の名称の下に教育の新主義を鼓吹する者輩出し、学校教員にして軽率に之に共鳴して実際に之を試みる者少からず其の甚だしきに至りては往々法令上の規定を無視するが如き者ありと聞く‥‥‥軽信妄動徒らに新を街い奇を弄して彼の人の子を賊うのみならず其の法令に背反するが如きに至ては厳に之を諌めざるべからず。」(「東京朝日」大正13年8月8日)
この訓示に符合するように各地で自由教育に対する弾圧がおこなわれた。9月に長野でおこった「川井訓導事件」はその典型例。
9月5日、東京高等師範教授樋口長市が長野県臨時視学委員として来県、畑山学務課長とともに松本女子師範学校を視察。付属小学校4年生担任の川井清一郎訓導は、修身の授業で森鴎外作「護持院ヶ原の敵討」を副教材として使っていた。授業がまだ終わらないうちに、畑山学務課長は子どもたちに「修身の本を持っていないものは手をあげよ。」と要求、川井訓導に対しては「なぜ教科書を使わぬか、国定教科書とこれ(副教材)とどちらを重くみているか。」と質問した。川井は「どっちを重くみるというようなことではありません。」と答えたが、樋口視学委員は「それは君、誰弁だ。」と詰問した。
翌日、付属小に梅谷知事が訪れ、川井訓導の教室へいきなり入り、読方の授業を2、3分参観し、池原主事(教頭)に対して、川井訓導に修身の授業で国定教科書を使わなかったという「始末書」を書かせ提出することを要求。川井訓導は休職処分となった。信濃教育会は雑誌『信濃教育』を通じて川井訓導を支持するキャンペーンを張り、長野県出身の知識人15名に意見を求めた。沢柳政太郎、長田新をはじめほとんどが川井を支持し、当局の不当な処置をきびしく批判した。(処分は撤回されなかった)
翌10月、新教育運動の西のメッカといわれた奈良女高師付属小学校も文部省から攻撃された。理由は「教科書を使っていない。法規に反している。児童の好むことだけをやっている。」というもの。同校は主事の木下竹次を中心に「学習時間」を特設して自律的学習を進め、「合科学習」という新しい学習指導形態を創り出していたが、文部省はこれらの実践が官制の教科構造をくずし、「教科書の権威」を無視する可能性ありと危険視した。槙山校長は教員に「此の際注意して、突飛だと思われるようなこと、法規に触れるようなことのないようにしてもらいたい。」と自重を促した。
11月、文部省から森岡督学官が来て、「特設学習を2時間とることは多きに過ぎるのであろう。」と指示。木下主事は異論をとなえず、職場からも白分たちが創造した実践形態を不当な干渉から守るという動きが出なかった。木下は「思想が自由であると、思わず口に出る。それが問題になることがあるから注意せねばならぬ。屈してもまた伸びる時があるから、細心の注意を以て臨まねばならぬ。」と「悲憤の心を押えながら」述べた。(奈良女子大学『わが校五十年の教育』84ページ)
「如何に」よりも「何を」と主張していた赤井米吉は、その年9月に出版した『ダルトン案と我が国の教育』のなかで次のように述べている。
《岡田文相は、教育家が政治家の真似をすると言って戒めているが、一体、政治家なる専門家のあるのがおかしいことではないか。国民の政治である、国民挙って政治家でなければならぬ。さらば国民である教育家が自己の立場から政治運動をするのがなぜ悪いか。かくの如き偏狭な考えをもっているから国政が進まず教育が振わぬのである。要はそのことの正、不正の問題である。いやしくもそれが正義であるなら、われ等は何者をも顧みず、そのために尽さねばならない。》(183ページ)
3)岡田文相は上記の訓示で次のようにも言っている。
「学校に於て脂粉を施し仮装を施して劇的動作を演ぜしめ公衆の観覧に供するが如きは質実剛健の民風を作興する途にあらず。」(同「東京朝日」)
前年、『自由教育論』『学校劇論』を出版した小原国芳は、のちに「当時の岡田文部大臣は、私たちの学校劇を認めないばかりか、圧迫さえしました。まったくの悪平大臣でした。」と書いている。(『教育一路』68ページ)
なお、当時の新聞にはこんな記事もみえる。
女学生の運動競技に 腿を出させぬ算段
神宮競技を見て感心出来ぬと 文部省が各学校に通牒(「読売新聞」大正13年11月11日)
岡田文相が神宮競技場での徒競走を視察して不満をもらし、当局が指示。通牒の趣旨は「女らしくない風習が出来て種々の幣害が激しくなるため」。
〈奈良〉会場使用の終了時刻がきてしまったので、残念だが、きょうはこれで閉会とする。次回は1999年6月27日(日)、2:00から。この階の和室がとれたので、またぜひご出席をお願いします。