シリーズ:「明星学園史研究会」⑲ なぜ学校に音楽の時間があるんだろう?

大草美紀(資料整備委員会)

明星学園史研究会 第19回記録
2001年3月18日 (日)
リポート:奈良正博

●第1部

1. はじめにひとこと、ふたこと……
今日は「音楽」のお話をするので、まず音楽を聰いていただきましょう。

M1, D.スカラッティ ホ長調ソナータ(L.23)

 この曲は元来、鍵盤楽器(チェムバロやクラヴィコード)の為のものですが、今日は佐藤紀雄さんのギターで聴いていただきました。彼は三鷹市井の頭1丁目の住人で、現代音楽のギタリストや指揮者として活躍していますが、実は古典から現代まで広いレパートリーに音楽性豊かな演奏を聴かせてくれる人物です。(ギターに合うように移調しています。)私たちが製作した「ペロー童話集」の為の録音から聴いていただきました。
 「行列」というニック・ネイムがこの曲にはついているんですが、私には何か色とりどりの旗をなびかせた子ども達の行列が、踊りながら空中を進んでいくようなイメイジが浮かぶんですが、みなさんはいかがでしょう? いずれにせよ、自然で自由で純真な感情に満ち溢れた、何かこう、子ども達の笑い声が聴こえてくるような感じがします。
さて、音楽について語ることの難しさは二重三重のものがあります。一つは言葉の限界で、言葉というものがある物や、ことがらを完全に言い尽くすということが、実は非常に難しいということ。
 それと深く関わるのですが、音楽は芸術の一つとして何よりも個人・個体に発するものだということもその困難さの原因です。つまり、音楽は、(創る立場も、演奏する人も、聴くものも)個々の体験ですから、そこから普遍的なもの、共通なものを導き出すことはこれまた難しい業なのです。
 にもかかわらず、私たちが音楽から離れることができないのは、その魅力があまりにも深く、人生の歓びとか、元気とか、あるいは悲しみの底とかを私たちに体験させてくれるからなんですが‥‥。今日はあまりカタク考えず、ぽんぽんとあちこちを飛びまわりながら、音楽の本来的な力をみなさんがあらためて感じとれるようなことになったらいいなと思いながら話を進めることにいたします。体験を共有するという意味もあって、少しばかり持ってきた音楽も一緒に聴いていただきます。
 いろんな言い方ができると思いますが、「表現する」あるいは「その表現を受けとめる」というのは、決して人間の能力の一部の働きでは、できないのです。日本語でよく使われる「感」というのがありますね。――黒板に書く――この「感」という言葉は感覚、感性、感情、あるいは直感というようにすごくいろんな意味で使われていますけれども、芸術の世界はまず、「感」の世界です。この「感」をまず豊かにして全体的に働かせる、自分の対象に向かって「感」を働かせる、イメイジに向かって自分の全力を働かせる、そこが芸術が現実となる世界なのです。これは単に現実は個人から始まると言っても、それだけでは充分ではなくて、個人の全体の力を使ってやるのが、要するに芸術なので、ある意味で言うと学校教育の中で、そういう風な世界をきちんとつかまえ、そういう世界を体験し楽しんでもらうというのは、非常に大事なことなのです。
 もう一つ日本人が非常に誤解していると思われるのは、さっき「生きる歓び」だとか「人生の楽しさ」ということを言いましたが、その点についてです。これは3年くらい前、テレビを見ておりましたら、ニュー・ジーランドの老夫婦の話が出て参りました。ニュー・ジーランドは私も20年近く前に一度旅をしまして非常に面白いところだと思って好きな国だったんですが‥‥。そのおじいさんの方が、もう70歳くらいだったと、思います、ヨットレースに出たんです。一人で出るヨットレースです。ニュー・ジーランドは人口300万~400万しかない。で、面積は日本の3分の2くらいあるんです。そんな人口なのに、ヨットハーバーヘいくとものすごいヨットがブワーッと並んでいるんですよ。これはもうとても日本人は歯が立たないと、私はシャッポを脱いだんですけれど。だからヨットが非常に盛んなんですね。イギリス・イングランド以来の伝統。その一人でやるヨットレースにご主人が参加したんです。で、途中でものすごい嵐が起こったんです。連絡も途絶え、みんな心配していたんですね、レースの関係者は。その時に、その奥さんがものすごい一言を言ったのを私は未だに忘れられない。
「うちの主人は人生の楽しさを知っているから、絶対に生きて帰ってくる。」
と言ったんです、その嵐の最中に。非常に良い事に、事実、そういう風になったんです。「人生の楽しさを知っているから、絶対に最後の最後まで生きる意志を捨てないんだ」ということを言った、別に特別にえらい人でもなんでもない訳です。ごく普通に生活しているニュー・ジーランドのおばあちゃまのそういう発言を聞いて、「これは日本人はもう少ししっかりしないといけないな」と思いました。そういう風に自分自身の生活というのをきちんと把まえることをやらないと、それが一般的なレベルで市民の世界、市民社会というのが営まれていかないと、日本はまだまだだなと改めて実感させられたんです。人生の歓びとか楽しみというのを実はそういう風に把まえていただきたいという願いも、今日のお話にはございます。
 学校での音楽の教育を考える時に、実は音楽の専門家を育てる教育と、みんなが共通に持つ教育とがちょっと違うというのを最初に申し上げなければなりません。確かに音楽の専門家の為の教育では、小さい時代からある種の厳しいトレイニングをすることがどうしても必要だと、あるいは、それがあった方が良いということは一般的には言えると思います。中にはよく、例えばロシアでもう亡くなりましたけれど、S.リフテルという素晴らしいピアニストがいる。彼はピアノの専門家になろうと思ったのはおそらく16くらいの時だったといいます。ところが、彼はお父さんも音楽家だった。だから、小さい頃から「音楽というのはどういう風にしてやるのだ」ということに関してはいろんなことを自然に吸収していた。だから「自分は一生ピアノを弾いていくぞ」と決めたのは、例えば16歳であったにしても、彼がピアノの専門家に必要な基本的な訓練を自然に受けていたのは、実は非常に早い時期からだったということがあるんですね。ただ、声楽家の場合は、男性も女性も声がきちんとできてくる為には、ある年月が必要ですからね、全部専門家になるための教育がうんと小さい時にやらなきゃならないという風にも言えないかもしれませんけど、一般的な傾向としてはどうしてもそのことが‥‥。だから、今日は専門家としての教育のことは、私は音楽に関しての専門家ではございませんので、それを具体的に申し上げることはできないので、今日は一般的な学校教育の中での音楽がどうあるべきかということを問題にしてお話ししていきたいと思います。
 今日、いくつかそういう言い回しが出てくると思うので、まずひとつ申し上げます。例えば、芸術の場合には必ず「表現」ということが言われます。「表現」の反対語はなんだと思いますか? ――これは「印象」なんです。なんでそれを簡単に言うかと言うと、英語で「表現」はexpression、「印象」はimpressionです。つまり、私がなぜ「表現」の反対語は「印象」だというと、ここにpressionという同じ言葉があって、「ex」と「im」という言葉が違うだけで日本語では「表現」と「印象」という風になっているわけです。「im」と書いてありますが「in」なんですね。ラテン語に由来して「pression」は「press=押す」ことです。で、「ex」は「外へ」という意味で「輸出⇔輸入」も「export⇔import」ですね。そういう風に対になっている。だから、我々は翻訳されたものでヨーロッパ世界と付き合いながら、もう百何十年と経っていますが、実は意外とヨーロッパ語の対になっている概念を意識しないですましちゃっていることが多いんですね。だから、わざわざこんなところでexpressionとimpressionというのは対になっているでしょ? expressionというのは中から外へ出て行くこと、それからimpressionというのは外から中へ入ること、「表現」であり「印象」だということを申し上げねばならない。そういうことは、意外とあるんです。我々の普通に使っている日本語の世界にあるんです。それも気が付く範囲でいろんな事で申し上げたいと思うので。そういう風なことで外国語というものを扱う時に、日本語の世界と外国語というのを対比して基本的なことを理解するのは非常に大事なことではないかと思います。

2. 「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」のことども。
 それでは、表題に、看板に偽りがあってはいけないので、なぜ学校に音楽の時間があるのだろうというお話に入っていきたいと思います。
 資料で横書きの資料を見てください。これは私が勝手に書きぬいた明治時代の主な年表です。その次に「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)関係年表」というのが一つ。それから右の方は供田(ともだ)武嘉津(たけかづ)さんとう学芸大学で音楽教育史をずっと研究されていた方の「日本音楽教育史」(音楽之友社)から拝借しております。

上:【1880年】音楽学校(明治13年)▷文部省の音楽取調掛(1879~1887)の建物

A.明治時代年表抜粋
1867(慶応4) 大政奉還・江戸開城
1869(明治2) 東京遷都・五稜郭降伏
1872(明治5) 「学問ノススメ」
1877(明治10) 西南戦争
1879(明治12) 教育令制定
1884(明治17) 自由党解党・秩父事件
1889(明治22) 大日本帝国憲法発布
1890(明治23) 教育勅語・第一議会招集・開会
1893(明治26) 「君が代」文部省告示
1894(明治27) 日清戦争
1895(明治28)  〃
1900(明治33) 足尾鉱毒事件・治安維持法公布
1904(明治37) 日露戦争
1905(明治38)  〃
1910(明治43) 大逆事件

B.音楽取調掛関係年表
1879(明治12) 文部省に音楽取調掛設置・伊澤修二就任(劇作家 飯澤匡(ただす)の叔父)
1880(明治13) メーソン来日・授業開始
1887(明治20) 音楽取調掛を東京音楽学校と改称
1891(明治24) 東京音楽学校・東京美術学校存廃論争が帝国議会におきる。
校長伊澤修二非職・辞任
1912(明治45/大正元) 全国中学校長会議で中学校唱歌教育無用論答申可決
1949?(昭和24)東京芸術大学音楽学部となる

 まず、「音楽取調掛」という非常に不思議な言葉が出てきますね。警視庁みたいですな。
 最初にですね、明治時代がどういう時代だったかと言いますと、1867年に大政奉還があって、江戸城が開城された。要するに内戦があったってことですね。翌年、明治2年は東京に遷都しますが、まだ五稜郭だとか戊辰戦争だとか色々ボカボカやっておりました。明治5年になると福沢諭吉の「学問ノススメ」という本が書かれて、これがあらゆる意味での日本の近代的な教育の出発点を示すものになります。ところが頭は進んだが、身体はそうでもないということが、その後の明治10年の西南戦争、これは有名な西郷隆盛が鹿児島で反政府武装蜂起する、だいたいこの辺はいわゆる旧士族ですね、お侍さんクラスの明治政府に対する反乱。そのあとチョンチョンチョンと経って、明治17年に、秩父事件というのが書いてある。この秩父事件というのは、すぐそこの埼玉県の秩父で起こった事件なのですが、これが要するに明治時代の武装蜂起による反乱の最後なんですね。それが明治17年なんです。そして、その後、この前の会にも色々お話があった大日本帝国憲法の発布というのが明治22年にあって、御名御璽の教育勅語が23年にあって、そこで第一議会というのが初めての帝国議会、いわゆる近代的な国会が始まって、その後に、君が代を文部省が告示したというのが26年にありまして、その後、27年~28年、日清戦争。それから、その次に足尾鉱毒事件っていうのが書いてあります。これは有名な田中正造が天皇に直訴したりするような事件ですが、これは結局、日本の産業革命があるレベルまで進んできてそれがちょうど最近でも公害の問題っていうのは、ずっと百何年経った後の日本でも大変な問題になったわけですが、そういう風な勢いで産業革命が日本の中で進行した、しかも外国を相手に戦争するような、そういう風な国力というのが急速に、加速的につけられてきたことを示します。そして、1900年、20世紀に入って明治37~38年、日露戦争になります。それから5年くらい経った時に有名な幸徳秋水の大逆事件が起こる。この幸徳秋水という人は、平民社という新聞社で、平民新聞というのをずっと出してたんですが、このころ、治安維持法というのが始まりまして、反政府的な思想に対して非常に厳しい弾圧が続きますが、その一番最初の大きな事件が大逆事件だったんですね。幸徳秋水以下、そこで逮捕された人たちの多くは死刑になったり、非常に残酷な目に合うわけです。私の書いた明治時代年表というのは国全体の雰囲気というのがどういう事になっていたのかというのを感じ取っていただくために書いたものなので、それを手がかりにしていろんな事を詳しく追求してゆく、探求してゆくのも大変に興味のあるところですが、今日は音楽関係のところへ戻します。
 今度は右の方の横書きのところを読んでいただきますと、明治4年に文部省が新設され、翌明治5年8月の学制頒布によって国民皆学の指針が示された。この学制では、音楽について「4ヵ年の下等小学校では唱歌当分これを欠く」つまり、唱歌は当分やらなくていいよっていう風に書いてある。「又、3ヵ年の下等中学校では奏楽、これを欠く。」つまり、音楽はやらなくていいよと書いてあったんですね。そこから始まったんです、日本の学校の音楽の時間は。
 ところが、明治12年に、文部省は「音楽取調掛」を創設した。次のパラグラフのところで。音楽教員の養成と唱歌教材の調査・研究に着手したというんです。だから実は「音楽取調掛」というのは、これは私も最初にひっかかったところだったんですが、結論的に言うと「学校でどういう風にどんな音楽を教えたら良いか」ということを取り調べようということになってしまったんです。西洋音楽そのものがどういう世界なのか、どういう歴史だったのかということを根本的に取り調べる、その部分というのはほとんど無かった。ほとんどないといっても大変かわいそうな事なんです。だって、この時代に西洋音楽の専門家は誰もいなかったんですからね、日本には。いたのは雅楽とかお琴とかです。例えば宮中を中心とした貴族階級、あるいはお琴の世界というのは武士の子女などを中心としてかなりの程度普及していたんです。民衆に愛好された音楽は無視されてしまった。そういう風なものはあったにしても、西洋音楽の専門家は外国人を呼んでこない限りいないわけです。まぁ、しょうがないと言えばしょうがない。
 でも、そのままずっと歴史が続けられた、主流がそういう風に動いてしまった、ということは、実は今の学校での音楽教育のひずみというのを作っているのではないかと、仮説として一つ申し上げたい点です。
 本当はもう少しなぞなぞめいて、面白おかしくやることもできるんですが、時間ばかりかかりますから簡単に進めましょう。「音楽取調掛関係年表」を読んでいただくと、「音楽取調掛」というのはですね、1887年(明治20年)に、まだ教育勅語の前です、東京音楽学校と改称した。東京音楽学校といえばお判りになる方は随分いらっしゃると思います。一番最後に、ちょっと正確な年代はわからないんですが、1949年(昭和24年)に東京音楽学校が、東京芸術大学音楽学部となるということがありますから、ここにもその芸大の音楽学部のご出身者がいらっしゃるようで、あんまりこれ以上たくさん言うとボロが出るから言いませんけれども。実は「音楽取調掛」というのは現在の東京芸術大学の音楽学部のそもそもの始まりということになります。
 最初に「取調掛」になった人が、これはよく音楽教育の本には出て参りますが、伊沢修二とおっしゃるんですね。私が信州で伊沢修二の話をして「この人はちょっと足りなかったんじゃないですかね)」って言いかけたら、「いや~、伊沢さんというのは信州の生んだ偉い人でね~」って言われてハッとカタまって、「あぁ、そうですね」って言ったことがあるんですね、実は。信州の伊那に高遠(たかとお)という所がございますね。桜の名所です。その高遠の士族のご出身で、非常に優秀な方だったらしいんですが。現在の東京大学の前身で学んで、別に音楽のことをやろうと思って留学されたわけでもないんですね。あの頃の人はみんなどんどんどんどん外国に行って何年か勉強してこいっていう時代でしたから。伊沢さんはアメリカに行ったんですね。これがまた非常におかしな話なんですけれども、伊沢さんは向こうで、学位とったかとらないか、いわゆるバチュラーですか、学士の。取ったか取らなかったかはちょっとわからないんですが、3年くらいは留学されてたんです。非常に恵まれた、良い意味での留学生活を送られたんですが、ある日、街でバッタリとあるアメリカ人に呼びとめられるんですね。その人が「お前は日本人か?」と聞いて、「そうだ」ということで、会話が始まるんですが、その相手の人物がですね、取調掛関係年表の2行目に書いてあるメイスンという人物なんですね。メイスンという人は、ほとんど独学だったというんですけれども、特に小学校での音楽教育に関してものすごい勉強して実績を挙げたという人で、当時のアメリカの小学教育というのは、ペスタロッツィ式の「個人を大事にする」いわゆる市民派の教育のちょっと厳しい方のやつですね、そういうのが主流だったところに、「それではちょっといけないかな」というので非常に独自のオリジナルないろんな試みをやって、このメイスンという人が、アメリカでもかなり小学校の音楽教育に関しては実績をあげていた人物だった。どうもその人が日本に興味を持っていたらしい。それで路上でバッタリ会って、場所はちょっとよくわかりませんが、ボストンかどっかそういうところだったと思いますけれども。「日本人か?」ということから、この伊沢さんとメイスンの関係が生まれた。「俺は日本へ行って、全く処女地のような日本で小学校の音楽教育の礎をつくつてやろう…。」というような風だったのでしょう。
 伊沢修二は自分が、文部省の音楽取調掛になった時に、「あ~、メイスンがいた。」ということで、すぐにメイスンを呼ぶんです。メイスンは最初からその気があったから、喜んで日本に来た。メイスンは最後まで日本にはいませんでしたけれども、初期の音楽取調掛、つまり、そこでは教員を養成したんですね。これが第一の主眼点だった。ところが、事件が起こる。取調掛関係年表の上から4行目に「東京音楽学校、東京美術学校存廃論争」が帝国議会、これ、帝国議会ってできたばっかりですよね。今もやってる予算委員会ですよ。つまり、予算を作ったんですね。その時に、実は大日本帝国政府は金がなかったんですね。だから秩父事件なんかでも、無理な取り立てをやるもんですから、地租を改悪したり、商法の色んな問題がおきてきて高利貸しが非常にのさばった時代ですね。その高利貸しに権力がくっついて、つまり高利貸しから金を取れば楽ですから、困ってる人間を助けないで、高利貸しの手伝いをして金を集めてたってのが、秩父事件なんかが起きる一番の大きな原因だった。逆に言えば、秩父事件で、それこそ死刑になった人たちってのはみんなその土地土地の名士が多いんですね。つまり世話役さんが多かった。長い間の地主であったり郷士であったり。そういう人たちが、自分も困っていた。いわゆる秩父の場合は秩父困民党というんですね。ここで初めて、たぶん17年ですか、ムシロバタに有名な「自由自治元年」と書いてボワ~ンとぶったてたのが実は秩父困民党、秩父事件だったんです。この時も、ずっと当時の自由民権運動をそれまで引っ張ってきた自由党がもうダメになったんです。今の自民党よりももっとダメだったかなあってのは私には正確には申し上げられませんが、もうガタガタになって解散していく過程だったんですね。それで、頼るのはもう自分たちの力だけだっていって民衆がやったのが秩父事件だったわけです。
 それで初めてメイスンなどの力によってですね、ここで忘れてはならないのが、伊沢修二という人は、「国楽」という、今ではもう死んでしまった言葉なんですが、この「国楽」というのを自分のイメイジの中においた。つまり、日本の伝統的な音楽というのを全部否定したわけではない。それから、西洋の音楽というのも全面的にそれでよいと言ったわけでもない。つまり西洋流で、日本風なものを、ひっくるめるような音楽を求めようとした。
 この「国楽」というもののイメイジはちょっと変な方向へすべって、後に軍国唱歌というのが非常に盛んになってしまったのです。それと伊沢さんが考えていた「国楽」とは違って、もっともっとリベラルなものだった。「国楽」の代表作は、私が思うに滝廉太郎であります。滝廉太郎の『荒城の月』と『箱根八里』という名曲は、つまり伊沢さん達がやった時代よりもうちょっと後になるんですけれども、その見事な結実です。滝廉太郎はドイツヘ留学するんですが、あの作品はすごいことに、留学する前にできてるんです。なぜそれが、留学前にできたのかと言いますと、私、実は一昨日いろいろ読んでて、誰も指摘されなかったことを大発見をしました。今日、後で皆様に申し上げましょう。
 もう一回存廃論争に戻ります。せっかく国を代表する美術学校と音楽学校を作っておきながら「予算が無いからあんなものやめちまえ!」っていうのを、大の大人が大真面目になってやったってのが、この明治23年~24年。その時に伊沢修二はもちろん「音楽とか芸術教育をやらなきゃダメだ」ということですから、あんまり表立ってはやらなかったらしいんですが、議員を音楽学校に集めて音楽会をやって、いわゆる裏工作的なことをたくさんやって、一応存続ということに議会はなった、これは良かったんです。これがもしもなかったら、日本の芸術教育なんて、およそもうどうなっていたか? 今の、今までの内閣のことを考えたらできたかどうかわからないですね。ところが、伊沢修二は、多分、そこで私の推測ですが、やりすぎたんですね。確かに美術学校や、音楽学校は残しておいてやろう、と。でも、「あそこに一人、気に食わない奴がいる。あいつはクビにしろ!」という声が強くなったのだろうと思います。歴史の本にはなかなかその辺はちゃんと書いてないんです。それで、校長、伊沢修二は非職になるんです。非職というのは要するにクビです。でも、この人は後々、ちゃんと音楽教育をやってるんです。それから文部省でのいろんな教育活動をやって、後には東京高等師範の校長にもなってらっしゃる。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、劇作家の飯沢匡(ただす)さんのお父さんのお兄さん、おじさんなんだそうです。ですから、飯沢匡さんがある時期、いろんな雑誌やなんかに、伊沢修二のことを中心にしていろんな記事をずっとお書きになっているようです。私は直接読んでいないので、ただ、そうお話をするだけなのですが。とにかく、そういうことの頑張りでなんとか日本の芸術教育・音楽の時間というのは、小学校なら小学校、中学校、女学校も含めて残ったのではありますが、日清戦争以後は富国強兵がどんどん進んでいく。そういう時に、多分こういうこと、一部にはそういう記述もありますから、要するに富国強兵の心情を高める、志(こころざし)を高める、小国民の心情を高めるんだということに帝国議会で存廃論争で存続を決めた時の一つの大きな要因があった。だからどうしても日清戦争だ、日露戦争だというとこの戦争唱歌というのが、学校の教科書以外にもどんどん作られてくるわけです。例えば、一番有名なのは「戦友」というのですね。「ここはお国を何百里」というアレです。これはある意味では非常に悲しい曲でもあるので、必ずしも代表的な軍国唱歌だとは言えないのですが、戦時中のいろんな、私が小国民として育った時代にはひどい曲がありましたよ。今でも覚えていますけど。
「出て来い、ニミッツ、マッカーサー。出てくりや地獄へ逆落とし」
これなんか、小国民、小学生が歌ってたんですよ。「あ~!」なんて大きな口開けて。マッカーサーは皆さんご存知ですね。ニミッツはその当時のアメリカの海軍の大将、アメリカの太平洋艦隊の司令官がニミッツ提督だったんです。「ニミッツとマッカーサー出て来い!」と、「出てくりや地獄へ逆落としだ!」。だから恐ろしいんですよ。学校教育の中の音楽の時間の持ち方でね。やっぱり勇ましいことだから、僕等も雪の上を裸足で歩かされてね、「その上で歌え!」ってんで、やけのやんぱちになって歌ってたから、今でも一節だけは覚えてるようなもんなんですけど。でもそうやって頑張る精神みたいなものへ、音楽は大変な力を発揮するんですね。これは別に日本だけでなくて、ドイツだってナチスの時代もね、有名な「ホルスト・ヴェッセル」だとかそういう行進曲があるわけです。単純で非常に熱狂的な歌ですから、若者たちがどんどん覚えて皆で合唱がどんどん広がっていく。そういう恐ろしい面というのが音楽にはある。もともと音楽はそういう素晴らしい力を持っているわけです。だからそういう意味できちっとした捉え方をしていかないと芸術教育というのも、間違った目的の為に多くの人々を駆り立てる、そういう麻薬のような働きをしたということを、この20世紀の前半で我々はイヤというほど学んだわけですから、そういう意味からも学校での音楽の時間というものをどういう風にしたらいいだろうかということをきちんと考え抜いて大切にするんだということがどうしても必要なのです。

3. 音楽の本来の力とは?
 では、ヨーロッパでは、明治初期の日本で「小学校でも音楽をやるけれど、当分これを欠く」という状態から救ったのは外国ではみんなそうだったからね、つまりアメリカでもそう、フランスでもそう、ドイツもイギリスも小学校で音楽の時間があったからなんですが、それは一体どういう理由なんだろう、ということをもう一度百何十年経った今、我々はきちんと把え直しておく必要があるという問題に移りたいと思います。
ちょうど時間もいいんで、ひとつ短い曲を聴いていただきましょう。

M.2:コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」から
――プレリュード「おとぎ話がはじまる」――

 今、聴いていただいたのは、もう亡くなりましたけど20世紀の前半を代表するハンガリーの大作曲家で、ツォルタン・コダーイという人がいます。彼が作った「ハーリ・ヤーノシュ」という喜歌劇オペレッタ的な曲のオーケストラ版の初めのところなんですが、一番最初に小さい音から「ヒュ~~~~~~~~~ッバンッ」という音がありますね。あれ、何の音だと感じられました? あれは、実はクシャミの音なんです。クシャミの音楽。音楽ってのは何でもできるんですね)ハーリ・ヤーノシュという主人公がいまして、これは大法螺吹きというか、やたらと話好きなおじいさんのお話なんです。日本では誰かが噂をしてるとクシャミをすると言うけど、ハンガリーでは誰かがクシャミをすると、その話は本当だという言い伝えがあるんだそうです。コダーイは一番最初にクシャミの音で、お話を始め、つまりナポレオンとハーリ・ヤーノシュという、ヨボヨボのよっぱらいの一兵士が戦って勝ったとか、そういうお話がこの後ずっと続いていく。ところが、一番新しい説は、「それは嘘だ」というんですね。「それは違う」というんですね。クシャミをするとその話は本当だという風に長いこと日本では言われていたんですが、ハンガリー人はそうじゃないと言うんですね。クシャミを誰かがしたら、その話は嘘だというんです。だから私の話もハーリ・ヤーノシュに近いかもしれないので、騙されないように、よく全身全霊を明快になさってですね‥‥。いろいろ感じとってもらいたい、そういうこともあって聴いていただいた、これは大変楽しい、子どもにもわかりやすく楽しめる、イメイジ豊かな音楽です。(演奏はA.ドラティ指揮のフィルハルモニア・フンガリカ)

 音楽というものの起源は言葉の起源と同じように本当にはわからないんですよ。いつから音楽があったか? その証拠になるものは随分いろんな所から出ている。例えば、旧石器時代(といっても日本ではないのでご安心ください。)の洞窟壁画の中に、明らかに踊っている絵が描いてあるんですね。だけど、踊ってるって言っても何もしないで、音を出さないで踊るわけじゃないんで、だから、そこにも音楽があったと推測できます。あと、もう一つは、動物の骨で作った笛ですね。そういうものが旧石器時代の遺跡から出ている。だから、人間の成立と同じくらい古いものだということなんです。で、事実、我々が今聞ける音楽の歴史というのは、本当に年代が特定できるものというのは比較的最近のものなんですね。比較的最近のものというのは1500年か、せいぜいそれくらいの範囲でのものです。つまり、楽譜とかができてきてからのもので、その楽譜というのも、実は中国流、中国にもあったし、ヨーロッパにもあったんですが、その楽譜の起源といっても、それを本当にどういう音をどういう風に出していたかってことはなかなかちゃんとは分からない。だから、たどれても2000年くらいの歴史のことしか確かなものではたどれないのです。
 文献的なことで言うと、エジプト人は音楽のことをこういう風に「××」――黒板に書く――と記したんだそうです。ヒューと発音する。ヒューというのは、もともと「楽しい」を意味した言葉なんです。さっきもちょっとヨーロッパの語源の話をしました。
 musicという英語の語源はギリシア語からきてるんですね。musicのMuseはギリシア神話の中の芸術をつかさどる女神たちのことを言って、icというのは、色々あるんですが、要するに「技」ということなんです。だから、「ミューズのやること」ということからこのmusicという言葉は出ているわけです。音楽以外にも美術だとか、建築、詩、ダンスだとか、いっぱいいろんなことがあるわけですが、その中でなんでまた音楽がミューズの技という言葉かと‥‥単純に考えたらそういう芸術のうちの代表的芸術だと。同じような使い方では、道具というのを英語ではinstrumentと言います。同時に楽器のこともinstrumentと言います。何もつけなくて、musicalとかつけなくてもinstrumentというと楽器のことを指す。つまり、「道具の中の道具」。よく「王の中の王」という言い方をしますけれども、そういうニュアンスでミューズの技という言葉が音楽になってきたんだ、と最初にそのことに関して申し上げておきます。これは別にヨーロッパだけの世界ではありません。我々が用いている漢字の「音」という字ですね。この「音」というのは、「日が立つ」って何だろう? って思いますが、これはこういうことなんだそうです。「言(げん)」ってありますね。これは「物を言う、言薬をしゃべる」。実は「音」の「日」は「言」の「口」に一本入ったんです。「口」ヘ一本入りますと、いっこく堂さんじゃないから我々はちゃんと言葉が出ないですね。ただ「ウー」という音だけが出ますね。それからこの字ができたんだという‥‥クシャミをなさらないですかね‥‥誰か。そういうことです。
 もう一つ、例えば「楽」という字。これはね、昔の中国人はすごいうまい解釈をしてるんですね。これは「木」は台を意味しているそうですね。その上に人間が向かい合って、で「白」は太鼓を意味します。太鼓を向かい合って台の上で打ってる姿なんです。ということが、中国の一番古い漢字辞典に出てるんだそうです。僕の大好きな藤堂明保先生という、漢字の先生がいらっしゃるんですけど、その先生が「これは嘘だ。」とおっしゃってたんですけどね。これは‥‥クシャミをするかしないか‥‥。
 いずれにしても、つまり、太鼓を叩いて皆楽しいと。楽器を打つってことだから、楽という字は元来は演奏をすることの意味だと。それが、楽しいというから、さっきエジプトの言葉で「ヒュー」という言業で楽しいという意味だと言いましたけども、だから、音楽というのは基本的に最初から楽しいというのと一体になってイメージされてきたようです。この「音楽」という言葉自体も、日本語ではかなり古くから、(中国からのではありますが、)用いられましたが、江戸時代はあんまり高い意味では使わなかったようです。歌舞伎の下座音楽ってありますね。劇伴、芝居の伴奏音楽ですね、あれを音楽と言ったようです。では、musicを何と訳すかということになって、知恵をしぼって、音楽という言葉を使おうということになって、今一般的に使われるようになった‥‥。それはそれで大変に正しいことだと思います。それも一つ頭に入れていただいて‥‥。

 さぁ、これから明星学園得意の話になります。ピュタゴラスであります。明星の中学校の数学で三ヶ月もピュタゴラスの定理をやるからって文句を言う人がいる。私は明星でピュタゴラスの定理についてよく教えてくれるのは大変素晴らしいことじゃないかと思っているのですが‥‥。この人は、ソクラテスなんかよりもちょっと前の時代の人です。だいたい紀元前572年頃から500年くらいに活躍した人なんです。非常に急ぎ足でピュタゴラスのことを言いますと、この本は大変名著なので多分お読みになった方もいらっしゃるでしょう、バートランド・ラッセルというイギリスの非常にすごい大哲学者なんですね。平和運動なんかもやられた方ですし、私は全く理解しない数理哲学の達人、この人、だいたい数学者なんですね、その人の書かれた「西洋哲学史」っていう三巻本がみすず書房から、私の学生時代にもう出ていたんですけど、その中にピュタゴラスのことについてすごい文章があるんです。
 「ピュタゴラスは知的に言ってかつて生を受けたことのある人々のうちで、最も重要な人物の一人であります。彼が賢明であった場合と、そうでなかった場合との双方において、重要な人物であった。」と。これ、本当はみんな「ピタゴラス」って言いますけど、「ピタゴラス」じゃ、ちょっと外国人には通じないです。これは「py」なんですね。これが「ピュータゴラース」と読むのか、「ピュターゴラース」と読むのか、ギリシア語のアクセントのつけ方に関しては、2説あるようです。私が長いこと「ピュターゴラース」って読んで「タ」にアクセントがあるのかなと思っていたら、Pyにアクセントがあるっていう説もあって、これは方言の発音の仕方らしいんです。「なんでこんな死んじゃった言葉でうるさいことを言うのかな。」という気はするんですが、これは韻律上の問題で言うと音楽にも関係して非常に大事なことがあるんです。つまり、ギリシャ時代の音楽は、「ホメーロス」(「オデュッセウス」、「イーリアス」)など、琵琶法師が琵琶の弾き語りで平家物語を唄ったように、唄ったんですね。ですから、どこにアクセントがあるかというのは言葉の上でのリズム上では大変に大きな問題があったのですが、これは2説ありますからどちらでもお好きな方を読んで下さい。ただここにYがありますので、できるだけ「ピュ」とYの音を入れて発音して「ピュタゴラス」で結構だと思います。
 この人が、「豆食っちゃいけない」とか、いろいろピュタゴラス学派とか教団の決まりにも面白いものだらけですが、音楽的にとにかくピュタゴラスが大事なのは、「音程」っていうのを決めたんですね。例えばオクターヴの音は、糸を張って音をはじいたとしますね、それを半分の長さにすると、1オクターヴ高い音が出る、そういうことを実は昔からあったことだけれども、糸の長さとか、笛で言えば穴と穴の間隔だとか、きちんと数学的に数の上で処理できるんだよということを言ったのがピュタゴラスの功績だとされているわけです。例えば、これは非常に大事なことなのですが、オクターヴは1:2ですね。それから、5度は3:4。それから、4度は4:5。1から16までの数でずっといくと、例えば半音っていうのは15:16になります。こういう風なことをきちんと言ったのは、ピュタゴラスの功績だということにされている。それだけだったらば、中国にだってあるしインドにだってあるし、珍しい話ではないではないか、と言うかも知れないが、ピュタゴラスがさっきのバートランド・ラッセルの言ったように偉かった一番の理由は、「数が万物の根元だ。」ということを強力に言って、しかもピュタゴラス教団はソクラテスもプラトンもアリストテレスもみんなピュタゴラス学派だと言ってしまえばそうなんです。その「数」ということに関して。基本的な信念というか確信がね。どういうことを言ったかというと、空の太陽もちゃんと数で法則化される、数で表わされる法則のもとに動いている。夜になれば星もみんなそうだ‥‥と。それでピュタゴラスは「天空のハルモニア」と言った。この「ハルモニア」つていうのは、要するに調和っていう意味ですね。調和・協和音。さっき言った1:2とか2:3とか、3:4とかは人間の心に非常に気持ちの良い響きになる、響き合う。それを「ハルモニアと言った。すべてのものは数で表されるような秩序のもとにあるんだということを言ったのがピュタゴラスの偉いところ。本当にピュタゴラスが言ったのか、前から受け継いだことをまとめて言ったのかもしれないんですが、その為にヨーロッパの学校ではピュタゴラス以来その伝統がずっと受け継がれているんです。それで小学校でも音楽をやるんです。どこまで今のヨーロッパ人がそのことをちゃんとピュタゴラスと関連付けているかどうかは別ですよ。でも現に、この古代ギリシアでの「天空のハルモニア」という思想は、中世になりますと、「音楽は三つある」ということになります。
 ・天体の音楽
 ・人間の音楽
 ・楽器の音楽
 この三つがあるんだが、これは全部同じだと。確かに「天体の音楽」は人間には聞こえないですよね。それから、「人間の音楽」というのも人間の人体の構造のオルガン、つまり生命の働きもあまり聞こえないが数によって表される関係・秩序に支配されている、ということがあったのです。で、ヨーロッパの大学は中世に始まってくるわけですね。そこでは、むしろ音楽は自然科学の方に入っていたんですね。天体とか、自然学の一部として4科というのがあって、そのうちの重要な学科だったわけです。その影響っていうのが教会だとか、市民社会のいろんな所までずっと続いていって、ヨーロッパ人は自然に「きちんとした子どもの教育」という事を考えた時にそこに音楽というのをはじめからちゃんと入れていたんですね。その道筋は、僕が言ったみたいに「数の世界」へ迫っていくからだ、ということを一つ理解しておいていただきたい。なるほど、ピュタゴラスは、バートランド・ラッセルみたいな偉い人がなんで賞讃するのかというと、実はそういう歴史的理由なんです。もしも、そういうことに興味がある方は、日本はまだ遅れておりましてピュタゴラス以降のヨーロッパの音楽思想のいろいろな文献のきちんとした翻訳が充分でないんです。例えばみなさんよくご存知のアウグスティヌスが「告白」を書いた一方で、「音楽論」という素晴らしいものを書いたのですが、これもなかなか日本語で全部読むわけにはいかない。その後、ボエティウスというアウグスティヌスよりちょっと最近の人ですが、だいたい5世紀の終わりから6世紀にかけて活躍した人、これは政治家だったんですね。叛骨の政治家でしょっちゅう王侯貴族や他の政治家とケンカしたりなんかしていた人なんですが、この人の有名な「音楽論」というのがあります。これも、岩波文庫に「哲学の慰め」というのは翻訳が昔はあったんですが、アウグスティヌスも「告白」に関してはあるわけですが、「音楽論」に関してはまだないんですね。そういう風にまだ日本ではなかなか読めないんですが、外国語(英語、ドイツ語、フランス語とか、原語はラティン語です。)には翻訳されていますから、そういう形でたどることはできるわけです。
 それで、また大きく話を飛ばす為に、「では音楽の本質をどうとらえたらいいのか」ということにもう一度戻ります。音は、さっきも言いましたように、長さとかそういうものに表されるようなことから計られていくのですが、その正体は波ですよね。空気中を伝わる振動で、音の高さというのは1秒間に何回波の振動があったかによって決まる。つまり、音の本質は「波」なんです。さて、ここまで来たら、音楽がなんで全てのものに通じるようなもの、大きな力を持っているのかというのがわかりますね。
 波ってどんなものがあるか? 海、湖、河の水の波以外に、光も波ですね。電気も波です。磁気も波です。こういうもの全部波ですよね。だから、さっきからお聞かせしているCDや音響オーディオも、要するに音を電気的・光学的に変換して、それをまた音楽に戻していくということで成り立っているんですね。だから、ほんとは「天空のハルモニア・天空の音楽」というのは聴けるんです。
 夜になって星が見えますね。光が全部届いてるわけでしょ。その光を全部変換機にかけて、音に鳴らすとね。ただ、変換の仕方によって良い音になるのか、悪い音になるのかって問題はあるから。それが本当にあの音だよっていう風には言えない。「さそり座のアンタレスの音はこれだ。」という風に、つまり変換する時の約束で、あんなものヘロヘロヘロ~ッってかわりますから、いえないにはしても、それを聞くことはできるんですよ。現にそういうレコードがあったそうです。クジラの鳴き声とかそういうのを集めてレコードに収めた‥‥。その報告は私は読んでるんですが、僕自身は自分が聞いてる天空の音楽のほうがずっと良いだろうと思ってるから、実はあんまり聴きたいとも思っていない、イヤ、聴きたいですけれどもね、本当は。まだ聴いておりません。つまり、本質は波なんですよ。波だから万物の中に波が入っていって出てくる。だから、僕の体の中にある何か一つの物が、ある音になる、音にするメカニズムを通じてみなさんの方へ届いている。皆さんの声がまた私の中に入ってくる。そういうことっていうのが、基本的には音の本質だと考えれば良いんだろうと思います。そうすると、ヨーロッパの音楽というのは、私はヨーロッパの音楽だけがえらいとは言いません。日本の音楽でも、あるいは‥‥「あるいは」なんて言うと悪いんですけど、演歌でも素晴らしい音楽はあると思います。
 僕は若い時は演歌なんて大嫌いだったんですね。どっちかっていうとヨーロッパ主義者でしたから。戦争に負けたのは食い物がなかったから負けたんじゃないかなというようなヘンテコリンな思いにとりつかれもしましたが‥‥。
 ところが、学生時代に北悔道に初めて旅行した帰りに、あの頃はまだ汽車しかないから20時間か、あるいはそれ以上でしょうか、汽車に乗ってなきゃいけないんですね。ちょうど帰ってくるときに、北海道で働く季節働きのヤンシューっていう、ニシンだとか漁の季節に出稼ぎの漁師さんがちょうど帰ってくるのが、私のうしろに座ってたんです。これが、酒飲んで、何かよっぽどのことがあったのか‥‥、とにかく起きてると必ずね、「さようなら~、さようなら~、俺はさ~みし~んだ~」って、そこばっかり繰り返し繰り返し、汽車の私の後ろの席で歌ってるんですよ。初めは「なんだコノヤロ。」って思ってたんだけど、聴いてるとちっとも苦痛じゃなくなってきたんだね。それは、そういうリアリティがあるんですよ、彼の気持ちのね。それが直感的に判ってから、僕は演歌でも良いものは良いと思って聴いています。そういう風に、例えば北島三郎の「兄弟仁義」は絶唱だが、それ以後は及ばずだなぁといった風に、もともと音楽というものは、産まれた部分のエネルギーっていうのがどういう風にあって、それをどういう風に受け止めるかということによって、もちろん基本的には個人のものですから、個人の好き嫌いは最後には出てきますが、やっばり、そういう部分で根本的に人を包んだり、通過したり、電気なんかは我々の体でも何でも通過していったり、体の中で働いたりしますから、そういう風な性質の物ですよね。もともと、音楽の素材である音っていうのがそういうことであって、確かに使い方を間違えると、先程申したような「出て来いニミッツ、マッカーサー」みたいなことになりかねないけれども、それをやめれば、それを気を付けていけば、音楽というのは本当にすごいものなんだということなんです。
 なかなか明星学園に行きつかないんですが‥‥、もう一つだけ。
実は軍国主義的な全体の傾向にもかかわらず、我々には大変偉大な先輩がおりまして、実に見事な音楽の体験を、ちゃんとあの暗い厳しい時代にやった人がいるんです。それが誰かというと、多分もうお分かりでしょうけれども、宮沢賢治という人なんですね。宮沢賢治という人は実は、彼の詩の中にもさっき私が言いましたね、「天空のハルモニア」っていう言葉も出てくるんですね。例えば「シグナルとシグナレス」という詩の中には「ピュタゴラス派の天球運行の諧音(かいおん)」諧音というのはコード(cord)、和音ですね。そういう一節が出てきます。それからもっと私が宮沢賢治がすごいと思うのは第一詩集の「春と修羅」というすごい詩集があるんです。その表題になった「春と修羅」という詩の一節にこういう言葉があるんです。
「日輪青くかげろへば
 修羅は樹林に交響し‥‥」
 日輪は太陽ですね。修羅っていうのは、要するにやむにやまれぬ激しい力をもって動き回る、それこそ阿修羅というか、仏教の世界での疾風怒満の象徴的存在です。修羅の心が、あるいは修羅の動きが樹林に、「交響し」という、つまりシンフォニー(Symphony)の「交響」というのを動詞として使ってるんですね。これは、単に「交響曲」というだけじゃなく、「交響する」という動詞で彼は使うくらい、見事な音楽の理解者だった。彼は、当時のレコードはものすごく高かったですけど、SPレコードをレコード会社から表彰状をもらうくらいたくさん買ってたんです。彼は生活には困っていませんでした。花巻の農学校で教えていた給料が全部レコードになったんです。お酒も飲みませんし、そういう意味では他の遊び事、バクチはしませんし、全部レコードを買って、仲間や学生と一緒にレコードコンサートやったりとか‥‥。実にびっくりするのは、あの時代にベートーヴェンの後期の作品で「ミサ・ソレムニス」というすごい曲があるんですが、それもちゃんと持って聴いてるんですね。それと彼はストラヴィンスキやドビュッシィというような当時の現代音楽も好んで聴いていて、ストラヴィンスキの「火の鳥」なんかもちゃんとレコードを買っていたんです。とにかく、宮沢賢治という人は正しい音楽的な体験をしていて、自分でもチェロを勉強したり、オルガンを勉強したり、ほとんど独学でやって「セロ弾きのゴーシュ」なんかにそういうところが現れている。だから、作品を読むと音楽抜きでは1行も読めないくらい、音楽的センスに満ち溢れているんですね。
 それで宮沢賢治の言葉の中で私が是非皆さんにこの際伝えておきたいのは‥‥大正15年12月15日にお父さん宛てに借金をする為に、彼が東京から書いた手紙があるんです。その中に音楽も自分は勉強しているよということを書いて、だから金がいるから金を貸してくれという話をしてるんですが、そこに
「音楽まで余計な苦労をするとお考えでありましょうが、これが文学、殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしてもいるのであります。」
と書いてあるんです。つまり彼の考える全ての芸術的な表現の根底、一番底のところに音楽があるという風に考えていたんです。
 ここからおととい私が気がついた今日のとっておきの話を一つしますと‥‥さっき滝廉太郎がなんで外国にも行かないであれだけの曲を書いたのかということをちょっとお話ししましたね。それは実はここに偉大なる人物が一人いるのであります。もう最近の方はあまりご存知ないんですが、ケーベル博士という人がいるんです。ケーベルというのはドイツ系ロシア人なんです。最初にロシアにいたんですが、それからドイツヘ行って哲学を勉強いたしました。そして一番初期の明治時代の東京帝国大学の哲学科の先生になるんです。哲学を教えていたんですが、この方は日本で亡くなりました。本当は1914年頃にヨーロッパに帰ろうとなさったんですが、その時にちょうど第1次世界大戦が始まって、彼はロシア人だったせいもあったのか、足止めをくっちゃったんですね。それから帰れるようになっても帰らずに長いこと日本にいて、日本で亡くなった方なんです。ところが、これがまた、日本の音楽ジャーナリストの世界というか音楽学者の世界っていうのは私は頭にくるんだけど、このごろの日本で発行されてる音楽辞典の中にケーベルの名前がないんです、新しいものにはね。古いものにはあるんですけどね。
 では、このケーベルというのはいったいどういう人物だったのか? さっき私は彼はドイツ系ロシア人だと言いましたね。モスクワ音楽院で音楽を勉強していた。チャイコフスキの弟子だったんです。つまり、この人は芸術的な哲学論を極めたい為に先祖の故国であるドイツヘ行って、そういう系統のエドワルト・ハルトマンという哲学者のもとに学んで、いわゆる芸術的な哲学を学んで、そのハルトマンの紹介で日本に来たんです。日本へ来て、このケーベルは帝国大学だけではなくて上野の音楽学校でも教えた。その弟子が滝廉太郎だったんです。ですから数多くある日本の音楽辞典の中でケーベルの名前が出てくるのは滝廉太郎の先生だったということでしか出てなくて、ケーベルそのものに関しては一切出てこないんです。これはいけません。(「荒城の月」のすべてがケーベルの影響だとは申しませんが、そのあたり、もう一度掘り起こす必要があるでしょう。)
 ということに気が付いた。これは一週間くらい前にね。それでおととい気がついたのは、実は宮沢賢治の話をしまして、宮沢賢治がなぜ、あの時代にピュタゴラスだとかそういうことを、ちゃんと理解していたのか、僕は最初は彼の独特な宗教的な体験とか、芸術的な体験からそうだと思ってたんです。ところが、彼が盛岡の高等農林で、彼は鉱物学とか自然学をやったんですが、その時代の先生に玉置さんという先生がいたんです。玉置邁(つとむ)さんという先生。この先生が並々ならぬ方だというのは、官沢賢治の作品の中に例えばドイツ語が出てくる。そのドイツ語に読み方のふりがなをつけるんですね。その読み方が、発音の書き方が非常に正確なんです。ちょっとアクセントに問題を感じるところはあるんだけど。例えば「ツェ」というような発音。こういうことを宮沢賢治はハッキリ書くタイプなんです。その当時としては、僕は宮沢賢治っていう人は音感がすごい人だなぁっていうくらいにしか思わなかった。ところが、玉置先生に彼はドイツ語を習って(芸術史や思想史なども)、最後に彼は自分のストラヴィンスキの「火の鳥」のレコードを贈ってるんです。1年に何回かは玉置さんのところに行って会ってたんだそうです。玉置先生というのは宮沢賢治よりも長く盛岡にいらっしゃいました。ということまでは、やっと最近、宮沢賢治研究に書かれるようになったんです。ところが、この玉置先生は、当然、ケーベルの弟子なんですよね。そのことはまだ一言も書いてないから、それにおととい私が気がついて、ケーベルの年表と玉置先生の東京帝国大学での美学部にいらした年代とを合わせてみると、これは明らかにケーベルの弟子なんです。だから、どうりで宮沢賢治の、もちろん、彼独特の感性や洞察力はあったんだけれども… あったんだけれどもやっぱり、それなりの筋道があった。それで、玉置先生という方がいらっしゃって、宮沢賢治の世界というのは何倍も先に飛んでいったんだなぁということがわかった。忘れないうちにまずそのことだけは申し上げておきたいと思います。

4. 第2次世界大戦後の音楽教育 そして明星学園
 戦争で日本は負けまして、音楽教育をどうするかということになったわけでございます。その時に現在の体制ができて参りました。文部省で学習指導要領というものを作って全国の教員に授けました。これが一番最初に出た音楽の学習指導要領です。小学校から高校まである。こんなに厚い本なんです。これを作ったことによって、部分的な改定はありましたけれども、今日までの公立学校での音楽教育の時間っていうのは成立してきた。ところが、ここには非常にいろんな問題があるんです。それはなぜかというと、この第一回の学習指導要領は作曲家で有名な諸井(もろい)三郎さんという大先生がいらっしゃる、諸井さんがまだその時、文部省におられて、彼がほとんど書いた労作なんです。実に精密に色んな問題を扱っているんです。そういう意味では、教員を養成するためには非常にすばらしい内容を持っているんですが、子どもには果たしてどうなのか。これをまともにそのままやって、どうなるのか?
 例えば、最初「ちょうちょ ちょうちょ」という歌がある。それを次に五線譜で書いていくんです。「こうなってこうなって四分の二拍子が‥‥。」っていうようなことも、翌日教えるようにできてるんです。
 更に問題だと思うのは、採点目録っていうのがあるんです。音楽っていうのは、そういうことではないんですね。みんなが楽しくやるっていう‥‥音楽っていいなぁ、生きてるっていいなぁっていう風に、みんなが喜んでやる。ところがこれをやってたら学習指導要領どおりやったら、音楽が嫌いな子供がゾロゾロ出てきますよね。採点まで書いてあるんですよ。それでいて肝心の、例えば「大きな声で歌う」っていうことが人間にとってどれだけ良いもんだっていうようなことが、抽象的にしか書かれていない。「音楽を理解し…」とか「鑑賞によって何とかし…」とかそういう難しい、冷たい言葉でしか書かれていない。その点に関しては、非常に立派な反論がいくつもあるんです。
一つは、林光(ひかる)さんという、現在お元気に活躍中の作曲家の書かれた「音楽教育しろうと論」。もう一つは、小泉文夫さんという世界の民族音楽学を日本で根付かした芸大の小泉文夫さん。この方はもう亡くなられました。この方の「おたまじゃくし無用論」。小泉さんもおたまじゃくし無しに自分の民族音楽学をやった訳じゃないですよ。この方は非常に西洋音楽に関しては、自分もヴァイオリンを演奏したり、深い体験をお持ちの方です。ただ教育上、まずおたまじゃくしを教えたり、そういうことより、もっと前に学校の音楽の時間ではやることがあるんじゃないかということなんです。
そこからまた明星学園に飛びます。
 林光さんという方もすごく宮沢賢治が大好きなんです。「注文の多い料理店」とかそういう劇音楽、いろいろやってらっしゃいます。彼はまさに明星学園そのものみたいなことを言ってるんです。宮沢賢治の「風の又三郎」の中の一節をひいています。又三郎が初めて学校に行った時にこういう一節があるんです。
「2時間目は一年生から六年生までみんな唱歌でした。そして先生がマンドリンを持って出てきてみんなは今までに習ったのを先生のマンドリンについて五つも歌いました。三郎もみんな知っていてみんなでどんどん歌いました。そしてこの時間は大変早く経ってしまいました。」
 つまり、これが林光さんも「音楽の時間の本当の姿だ」と、言ってるわけです。もちろん、その中で彼はおたまじゃくしを否定しません。だけど、歌を歌ったらその次の時間に「おたまじゃくしだとこうなってて…」とか「四分の二拍子がこうなってて…」とかいうようなことをやめなさいと言ってるわけです。
これを読んだ時に、明星の小学校の音楽の今の授業っていうのをご覧になったり、楽しんだ方は「うん、これこれ!」と膝を打たれるでしょう。一年から六年まで。秋野先生は、楽譜はお使いになりますけれども、とにかく、一つ一つ楽譜に書いてあることはずっと前の段階であって、一番大事なのは今ここで歌う時にどういう風に歌うのか、ここの音はなんで強く長く歌って欲しいのかってことを歌いながら、音楽的に体験させていく授業ですよね。
 コピーした「Sound of Music in明星学園」っていうのは、これは、私が編集部をやっていたときに、もう15年前に明星学園の秋野先生、もう今は辞めてしまわれたけれども須山先生、現在もいらっしゃる遠藤先生、高校の辞められた松尾先生。四人の先生に集まっていただいて、「道」に座談会を載せたんですね。これを読んでいただければわかりますが、まず最初のページで言えば、秋野先生が
「明星では合唱だけなのですが‥‥」
と、こう始められてるんですね。
 「三年生くらいから声をコントロールしていく。そういう風なことにも注意してやっていく。それから、歌と演劇を結びつけていきたい。」
そういう風にお考えになってる。
 それから、須山先生は今はいらっしゃらなくなりましたが、やっぱり小学校を教えてらして…。次のページの頭から3行目に
「自分の歌っている歌がどれだけ自分に浸透していくかが大きな問題だと思っています。」
と、こう前提されている。
 それから、同じページの上の段で、遠藤先生の中学校について、
「流れは小学校の方針とほとんどかわらない。やはり歌を歌っていっている。」
という風に書かれていますね。
 中学校には、例えば合唱祭がありますね。高校は、このごろちょっと変わってしまったんですね、この時代は10年生は音楽は必修だったのが、今は10年生から必修ではなく選択になっている。しかも、音楽祭というのを毎年やるんですが、それもやめにしたらいいんじゃないかというようなことを言われた時代もあるんですが、「そんなことになったら明星学園は明星じゃなくなる」と私は思っていたら、幸いなことに、現在でも音楽祭というのは続けられております。これは各クラス毎に歌のコンクールをやっていくんです。ま、コンクールと言ったって、選ぶのは仲間うちだし、先生方が集まってするわけです。学校の大きい流れの中で、音楽祭を必ずやっているのは良い、歌うということが、音楽を選択した何十人かの人だけに限られてしまわないで、やっぱりベースになっているってことは変わっていないから、それはもっともっと強くなっていって欲しいなと思います。
 ということで、だいぶ時間もきてしまいましたので、一区切りをつけたいと思います。

 明治時代に、メイスンが日本に来て一番最初に行った場所がある。つまり伊沢修二が連れて行ったんです。それはどこかというと、まず一つは、宮内庁の雅楽のグループです。日本のいわゆる西洋音楽の最初の時期に、宮中の雅楽部が果たした役割は非常に大きい。彼らは非常に数少ない日本の伝統的な音楽のプロフェッショナルだったんです。管楽器・弦楽器・打楽器、みんなあるわけです。今朝、TVでちょっと東儀なんとかさんっていう若い坊やの話をやってたけれども。それで、奥(おく)さんね、我々の奥さんです、後援会の奥さんのお家も雅楽の弦のお家です。それから、「宵待草」の多(おおもの)も弦の家。それから、薗(その)さんっていうのは管の。だから薗さんっていう方はそれがホルンだったりフルートだったり、いろいろ別々ですけれども、薗さんとか芝(しば)さんて方はだいたい管楽器ですね。そういう宮中の雅楽所の方は専門家だからすぐ「おまえ、こういう楽器をやってみろ、やってみろ。」って言われて、まず最初にやられたわけです。ですから、音楽取調掛の一番最初の卒業生でその後活躍された、奥好義(よしいさ)という方がいらっしゃるんです。あの我々の奥さんはこの方のご一族か、あるいは直系か… 今度うかがってみたいと思いますけれども。〔後日、奥さんにお目にかかって確かめたところ、御主人のお祖父様である由。〕
 だから、日本の伝統音楽にも非常に力があったんです。さっき言ったように波とかなんとかでつながってくる性質のものに関しては、そういう認識が日本にもあったんですよ。
 あ、言い忘れたけど、驚くなかれ弘法大師が既にそれを言ってるんですよ。弘法大師の「正字実相義(しょうじじっしょうぎ)」という、真言宗の極意を書いた本があるんですが、その中で、弘怯大師の言葉で「五大に響き在り」(「五大在響」)というのがあります。
 『五大』っていうのは、おわかりの方もいると思いますが、ヨーロッパで言うと元素なんですよね。普通『五大』と申しますと「天」「地」「水」「風」「火」です。これ、「天」を入れないで「地」「水」「風」「火」ということもあるし、そうなると『四大』ですね、四つだから。こういうもので世界は構成されているということです。その構成する「五大に全部響きがあるぞ」というのが弘法大師の言業で、その響きの中で一番高いところ深いところに、仏様の言業があるんですね。嫌な響きもあるし、良い響きもある。その中で一番最高の響きが、「真言(本当の言)」なんだ、と。それで真言宗が始まったという。だから、その真言についての前の詞句がこの「五大在響」なんですね。世界中のいろんな物は全部音を発している。そのことも、恐らく空海という人はすごい厳しい自然の中で修行した人ですから、自然界の、あるいは恐らく天の響きというのを、自分では聞いた覚えがあるという思いだっただろうし。それだから、直感的にこういう表現をとったんですが、それは今日の我々にとっても音が波の世界だということを思うと、全然間違えでもなんでもない。東洋の思想の中には、別に今日は空悔を引き出しましたけれども、孔子の中にも老子の中にも、そういう意味で音楽というものを大事にするというか、あるいは、その楽しさ・効果についてのいろんな表現っていうのがたくさんあります。明星学園での音楽教育、多分他の学校と一番差をパッと瞬間的にわからせてくれるのが「音楽の時間」じゃないかと私は思います。
 ではちょっと休憩しましょう。


●第2部

 小・中で出している「明星の教育」というシリーズに「1時間の授業」というのがあるんですね。で、これは皆さん、お聴きになった事がありますか? このカセット・テープの中に音楽の時間のね、五年生と六年生の授業が2時間分入っているんですが、じやあ、その六年生の部分をちょっと聞いて頂きましょうか。どういう風に、今、授業が行われているか、ほんのもう最後の方の、時間的には最後の方の一部です。

M.3「明星の教育」
「1時間の授業」――小学校篇から“6年生の授業”
〈未知という名の船に乗り〉〈ホーホーホタル来い〉

「ホーホーホタル来い」っていうのは、皆さん、童謡ですよね。これは小倉(おぐら)朗(ろう)さんっていう、バルトークなんかの影響で良い曲をたくさん書かれた作曲家(かなり年配の方は覚えていらっしゃるでしょうが、初期の時代のNHK TVの「事件記者」、あの音楽は確か小倉さんでした。)が三部の輪唱に編曲したものを、六年生の教材で使ってるんですね。最初の「未知という名の船に乗り」っていうのは、よく卒業式で、これを歌って卒業していく。うちの娘なんかも確か… 歌いました。まぁ、これはたまたまやった時間が途中だったんですね、時期的に。だから「未知~」は途中まで創っていく、そのプロセスの時間。これは本当に、さっき宮沢賢治の「風の又三郎」を読んで、その後、林光さんはこういう事を言ってるんですよ。要するに「先生が音楽家だったら教科書なんかいらないんだ」と、こう言ってるんです。つまり、先生がいかに「いい音楽ってのはこうだ」って事を見せ聞かせしているから、もう楽しい内にどんどんどんどんね、子供たちは音楽的な成長をどんどんしていくんだっていう事が、この林光さんの「音楽教育しろうと論」では、骨子の一つになっているんです。明星の音楽の時間っていうのを聞いていると、秋野先生なんか、並々ならぬご苦労なさっている。僕はね、娘が特に小学校の時は、うちの娘は六年間、秋野先生にお世話になったものですから、公開授業の時だとか、なんとかだっていう時に記録のビデオを撮っていたんですね。準備のため、始まる時間の前に行きますとね、自分で調律なさっているんですよ。ピアノを。だから、小学校・中学校のピアノっていうのはね、つまり、ああいう劇と音楽の会だとか、そういう時の前には必ず秋野先生は、一般的な調律師がやる調律と別に、ちゃんと自分でハンマーを持ってきてね、全部、きちんと調律なさってるんです。だから我々は非常に贄沢をしているんです。一般の方は全然それはご存知なかったかもしれない。でも、あれは大変なことですよね。いかに、つまり自分が作る響きを大事になさっていらっしゃる。秋野先生は実際に二期会のコーラスで歌ってらっしゃって、現役の音楽家でいろんなオペラだけじゃなくて、コーラスなどをやってらっしゃいますからね。そういう体験からもそんな細かいところまで、神経を使って自分の手で響きを作って、子供と一緒になって音楽をやるっていう先生は、本当にこれまたカネやタイコで探しても滅多にいるもんじゃないと思いますね。
どうぞ。

富谷(旧父母) 「今、秋野先生のお話だったんですけど、先生にPTAのコーラスお願いした時、「ホタル」やったんです。物凄く難しくて、もう私歌えなかったんですよね。やはり、あの相手の声を聴くっていう事をね、要するに、自分のパート以外の声を聴くっていう事を凄くおっしゃって、それがすごい印象的でね。あの授業っていうか、あのコーラスの数回しかお願いしなかったんですけど、大変に素晴らしい授業でした。すごい難しい歌です。」

馬場(13回生、旧父母) 「あのね、私もね、何十年も昔の明星のPTAのコーラスで、やったんですよ。とっても綺麗な曲、‘‘ホタルこい”」

そうだったんですか。
今日はもう本当に飛石で、かっ飛ばすのが好きだっていうか、それしかできないものですから、かっ飛ばしてお話ししたんで、細かいことで分かる事でありましたらば、何でも…。

三田村(現父母) 「いいですか? あのー、今秋野先生のお話が出たんで…。うちの子が今、18なんですけど、その子が小学生に入った時に、やはり、秋野先生に教えて頂きまして、音楽得意じゃないんです。うちの長男は非常に音域も狭くて、ハッキリ言って音痴じゃないかって親はずっと思ってたんですね。で、秋野先生に音楽の時に『音痴だと思うんですけど、大丈夫なんでしょうか?』って心配なんで相談したんですよ。そしたら、秋野先生が、『お母さん、音痴ってのはいないんですよね。音域の幅が少し狭いお子さんがいるかもしれないんですけど、だからコーラスなんですよ。自分が高い音が出なければ、高い音が出る友達にまかせて、そこは歌ってもらえばいい。低い音が出なければ、低い声が出る子に任せればいい。自分は出る所を出しやすいように歌って、全体でまとまれば、それがいいんですよね』って。『だから、別に無理して高い音、低い音、全部自分でやろうと努力するのが、音楽ではないんですよね』っていう話をされて、『ああ、明星の教育ってすごいな』って。もうそれで、明星大好きになったんですけどね。その精神って他の教科にも全部発揮されてて、音楽だけじゃなくて、自分があえて全部やらなくても、友達に助けてもらって、全体でバランス取れればいいじゃないっていうのが。それからすごく子育てが楽になりました。で、やはり、秋野先生というと、それをいつも思い出すものですから。あと、もう一つ、新しい校舎の声の響きが、私は全然音楽に関して素人なんですけども、子供たちの声が綺麗に聞こえないなって思うんですけど、それは専門の方から見て、どうなんでしょう? いつも思うんですけど…気になるんで、何回か授業参観に行ったんですけど‥‥」

それは実はよく聞く話なんですね。私も新しい校舎で、実は子供たちの歌を聞いたことはないんですが、最初に出来たときにちょっと行ってみたら、まだバタバタしてる最中だったんで、あんまり響きの事はよく確かめられなかったんですが。私の判断で言うと、全体に音を吸い過ぎちゃってるんではないか?

三田村 「そうですね。」

だから、この部屋なんかね、そんなに大きい声出してるつもりじゃなくても、だいたい気持ち良く、これ結構響きがいいんです。で、音楽の場合はですね、やっぱり響きのある空間っていうのを、やる人の好き好きっていうのは勿論あるんですけども、やっぱり響きがある程度、基本的にないと、自分の声は細く、小さく聞こえるものですから、皆、大きな音を出さないと、相手に伝わってないんじゃないかって力(りき)むんですね。あと、自信なくなりますよね。一生懸命歌ってるんだけれども、ちゃんといい響きが返って来ないから、本当にこれでいいのかっていう気持ちになって、楽しめない。だから、例えば、私は得意ではありませんが、カラオケなんかでもワワワワーッてエコーかけるでしょ。あれは、やっぱり、もとの声をごまかすってだけの事ではなくて、響きが響き易い空間っていうのは、音楽にはどうしても必要なんですね。だから、この頃、日本の演奏会場でも、随分響きを豊にする。残響、エコーが大きい所では2秒くらいかかる。そういう風なホールも出来てきてますね。ところが、明星の場合、残念なのは古い音楽室、つぶしちゃった。あそこはとっても響き良かったんですよね。で、あれは、要するに、小笠原先生とか長い間の歴史で、恐らくいろんな事をおやりになって、ああいう風な子供たちの音楽をする場所がだんだんに積み重なってでき上がったものでしょう。そういう風な事が、新しい教室でも受け継がれていると思っていたんですが…。

〇〇(現父母) 「直せるんでしょうか?」

直せますよ。かなりの程度はね。要するに穴開きボードなんか使ってるでしょ。小ホールは特に、下に絨毯ひいちゃってますから、講演会やお話しをする時には良いんですね。つまり残響が2秒っていうのは、どういう世界かって言いますと…。僕等が素で大きな声で話をしますね。するとね、言葉が聞こえにくい時があるんですね。あの、響きすぎちゃって何を言っているか明瞭でない世界が、残響2秒なんですね。だから、音楽ホールで残響2秒ってホールだとすれば、そこでは細工なしに講演会はできないんですよ。ではどうするかって言ったら、明星みたいに限られたスペースの所で、いろいろな事をやりたいなら、響きを大きくしたり、少なくしたりするしくみを作ればいいわけですね。例えばカーテンを、カーテンもですね、厚いカーテンというのは音をよく吸収しますから、音楽をやる時にはそれをバァーッと開いちゃって、反響をよくするとかね。そういう事をきめ細かくやっていくとですね、よく風呂屋ですごいエコーがかかる所、あるじゃないですか。皆さんは、そういう事なさらないでしょうけど、私なんか、大浴場で人がいない時、うなっちゃったりする事もあるんですけれど。いい気分ですよ。でもそういう場所を講演会が出来るような状態に直すのは、カーテンだとか、吸音とかね、そういう事をちょっとやると、わりと簡単に出来るんですね。ただ、非常に残念だったのは、あそこを手掛けた大成建設っていうのは、そういう音響ホールを作る、本当に大ベテランの企業なんですよ。で、いろんなデータ持ってただろうにも拘わらず、それが活かされなかったっていうのが、私は本当に返す返すも残念ですね。明星学園、貧乏学園らしからぬ手抜きがあったのでは? 本当はもう少し、響きを上手く調整できるような物を作るべきだったと。それは、現場の音楽の先生の声が、建築委員会なら建築委員会に届かなかった、断絶があったってことだと思います。

三田村 「私なんかは、上の子達が歌ってきた音がまだ耳に残っていて、プレハブに一年間いた、どうしようもない音楽室の荒れた一年を過ごしてきて、戻ってきた時に『あれ?』って。子供たちの響きが違うっていうのを前の音を知っているから思ったんですね。ド素人の私でも。でも、これから入ってくる子供たちは、いきなりあの音楽室で歌って、あのイチョウホールで発表会とかすると、それしか知らないと…。」

そうですね。それは大問題だと思いますね。

三田村 「それはすごい問題だなって。今、それしか知らないと、それが当たり前になってっちゃうってのは、すごい恐い事だなって、今思うんですけど、どうしたらいいんでしょうか」

例えば、高校の音楽室って行かれた事あります?

三田村 「はい」

あそこも非常にデッドでしょ?

三田村 「そうですね。あ、そう。金曜日に小学校の卒業式がありまして、高校のコーラスの方たちが祝う会で歌を歌ってくださったんですよ。なんですけども、高校のあの音楽室で聴いた歌がとても素敵だったにも関わらず、イチョウホールで聴いた時は『あれ?』っていう感じだったんですよ。」

確かに慣れもあるんですよ。それにしても、音の吸い方がよくないのかなぁ? 材質によって、高い音を吸うものと、低い音を吸う性質のものと、いろんな材料があるんですね。吸音材っていうの。だから、それのバランスがよくないんですね。で、高校の音楽室は、非常にデッドですから、楽器の音なんか、非常にきつく聞こえるんですけどね。それでも、響きのバランスが、ある一つの良い形になるようには考えられているんでしょうね。同じでも、あそこのイチョウホールっていうんですか? 小学校の新しい小ホールはね、音楽とか芝居とかやるには非常に不向きな空間だと思うんですね。

三田村 「歌ってる高校生自身が『あれ?』みたいな感じで、ちょっと首をかしげてたんで、歌っているご自身が感じたんだろうなと見てたんですけど。」

あるところまでは直りますからね、そういう事は。響きは相当に直せますから。ただ、本当のこと言うとね、吸われっぱなしの場合はいつやってもいいんですけれども、本当は1年か2年経って、コンクリートが完全に乾いてから最終的に調整するのが、僕はいいと思います。コンクリートが乾いてないと、重い音になります。だから、低い音が非常に豊かに聞こえてきて、それで、ブーミーとか、そういう風にいうんですけど「ドーンドーン」っていうね。あれがうんと強くなって響く。でも、それがコンクリートが乾いてくると、すっきりした音になります。同じ残響でも低い音が早くなくなってくれる。よく響くようになるんですね。だから、響きが多い音場であれば、2年か3年経ってから、手を入れるのが本当はいいんですけど。ああいう風に響き自体がないホールはね、それは早く手を入れて響かせてやるんです。まぁ私は今、もう現役ではないんで、ついでがありましたら、それは私も申し上げますけれども、現在の父母の皆さんからドンドン言って、で、先生も恐らくすごく苦労なさってると思いますよ。小学校の先生方もね。劇やったってそうですからね。

三田村 「そうですね。」

だから、例えば厳密な事を言うと、器楽のための音楽ホールとオペラハウスの場合とでも、響きの度合いが違うんですよ。で、やっぱりさっきも言いましたように、残響があんまり強いと、人間の言葉のセリフが聞き取りにくいんですね。だから、オペラハウスの残響は、例えば音楽ホールが残響2秒の世界だったらば、1.6秒とか1.8秒とかね。そういうところで、だいたいオペラハウスは出来てるはず。だから、芝居の小屋もそのくらいですよね。だいたい1.5秒とか1.6秒とかっていうぐらいの所でやってるのが派劇の劇場としても非常にいいですね。僕もね、たまたま子供の芝居をもって歩いて5年くらい日本のいろんなホールを歩いたんですが、出来た年代によってホールの作り方の基本設計っていうのが非常に違いましてね。だから、例えば劇伴で入れてるオーケストラの弦のヴァイオリンの音なんかのニュアンスが響きのあるホールだとブァーッと出てくるんですけどね。もう吸っちゃうホールだとね、ペソッとしちゃってまるでカルテット、室内楽やってるみたいな、そういう風に迫力が落ちちゃいますね。だから、殊にそういう意味では、響きっていうのは表現に、表現のニュアンスにとても多く関ってくるんです。

アッ!ついでだから、さっき言ってなかった、この響きという字ですね。これはね、ちょっとお話ししようと思ったんだけど、今丁度‥‥これはね、響という字はさっきの音楽の所でちょっと言いましたけどね、これはやっぱり人が両側にいるんですね。で、真ん中にこういう字(艮)が入ってますけど、これはテーブルの上にご馳走がのっかってる字なんですね。これはあんまり異論が無いんですよ。だから、これ自体に楽しいという字、さっき言いましたけど、あれは楽器をやる、これ自体が楽しいということなんですね。つまり宴会をやってる。あの場所の説明なんです。で、それは音ですよって言う事でこの音っていう字がついてる。これは本当に宴会やってるご馳走の方の美味しさっていう楽しさだとすると、ここへ食べるという字がついて饗(=饗宴)っていう…。シンポジウムってのは、元々は皆であってお話しし合うっていう、そういう作りになったそうです。この元々の字の大元というのはね。だから、響きっていうのは、やっぱり楽しくないといけないですよね。元々、楽しいって字なんだから。だから、それはなんかよくないなっていう風な感じじゃなくて、みんなが楽しく響きあうような音場っていうのも、もう明星学園だからこそ、是非、欲しい…だから体育館でやりますよね? 卒業式、今でもそうでしょ?

「そうですね。」

で、あそこでやるとどうですか? わりと音がワォーンと…。

〇〇(現父母) 「そうですね。」

外の車の音だとか、飛行機の音だとかも入ってくるけど…。

〇〇(現父母) 「今年、学習発表会で雨の音がすごい入ってきちゃって、子供の声が聞き取れなくてね、かわいそうだったんですよ。」

だから… 小・中の場合だとね、僕はむしろ体育館の防音・遮音をちゃんとした方が、良い音場が出来ると思います。あそこで随分何回も聞きましたけど、お腹にこたえるような低音がドーンとくるような、そういう風な所の方が私はいいと思いますね。新しい小学校の音響関係に関しては、直感的にがっかりしましたね。前にあんなにいいサンプルがあったんだからっていう風に思いました。何とか現役の方に頑張っていただいて…。

〇〇(現父母) 「そうですね。」

何か他にまた…。

富谷 「最初に言うという中にやっぱり音の最初は弦楽器からですか? 太鼓が先?」

それは判らないですね。それは全く判りません。

富谷 「あ、そうですか。変な話、聖書に竪琴ってのがよく出てくるんですね。で、やっぱり弦かなぁって…。要するに竪琴を弾いてどうとかってのが…」

はい。これは私がさっき申し上げた林光さんの本と、小泉文夫さんの本なんです。ちょっとまわすんで、、だいたいどんな本かってのをサッとお目を‥‥。
不確かだといけないんで、ちょっとアンチョコと‥‥ 確かにそうですね。これはまたちょっとヨーロッパ語の語源の話をしますと、音はドイツ語で、トーン(Ton)というんです。で、この元はギリシア語のトーノス(tonos)、これは何かっていうと、糸を張る事なんです。「張る」、あるいは「張られた弦の糸」のことです。この言葉は日本語に訳すといろんなメロディーなんかでもトーンだし、単純な響きもトーンです。ベートーヴェンの第九の有名な、「この音じゃない」っていうのは、テーネ(Tone)です。このトーンの複数形ですね。この音ではない、この歌じゃないという意味です。英語のTuneってのも、これもメロディの意味もありますね。それで多分、Soundの、ちょっと私、英語の方はあまりよく分からないんで…。これもね、イタリー語では、ソーノ(sono)っていうんですね。これもね、TがSに変わったものだと思うんですね。だから、「引っ張られた弦」っていう、そういう所から、実はヨーロッパ語の場合は音っていう事の意味がきてる。その流れが一つある。で、それから今日、私、ちょっと探してみたんだけど、これ、ちょっと読みにくい本なんですけど、日本でも翻訳された「世界は音」っていう本があるんですよ。これは人文書院から出てた本ですが。ベーレントって言う、これは不思議な人で、ドイツ人なんですね。ドイツ人でいながら、世界で一番厚いジャズ・ブックを書いた人なんです。ジャズの本を書いて‥‥ コンサートメーカーっていうか、プロデューサーみたいな事もやってる人です。で、彼が、サンスクリットでナーダ・ブラーフマって言葉があって、それは、現代語に訳せば「世界は音」っていうことなんです。ドイツの放送局で放送した内容をもとに書いた本です。彼は難しい言いまわしを使うんです。インテリなんですよ、要するに。私なんかと違って。僕はインテリゲンチャンですけど。本当にインテリなんで、サンスクリットから、何から一杯出てきてね、だから、難しい言い方をするんで読みにくい本なんですが、さっき私がピュタゴラスの話をした時の音程のことは、彼の本から引用したんですけどね。だから、そういう意味では元々は弦の長さっていうか、「張られた弦」からtuneは出てきたんです。
それで、私は今日少しずつヨーロッパ語語源のことに触れましたが、私は英語のことはあんまりよく分からないんですが、この語源についてやる事ってのは、多分これからの子供たちにとっても大事な事だと思います。で、それは何故かっていうと、同じ事を表現するんでも…。例えば、「ありがとう」… で例えば英語を使う人だったら、「Thank you」って言いますね。これは実は確かに同じ意味で使いますよ。で、間違いないんです。だけど実は違うんですね。元の意味は、本当は違うわけです。ちょっと考えてみて、「ありがとう」つていうのは多分「有りにくい」って。有り難いってのは、そういう事ですね。だから、むしろどっちかと言ったら「Wonderful」ですよね。英語で言えば「Wonderful」の世界です。ところが、「Thank you」っていうのは「お陰様で」って意味でしょ? つまり、目の前にいる人に「あなた」って事をハッキリ意識して発せられた言葉だし、それを発することでの人間関係っていうか… があるわけです。でも「ありがとう」っていうのはもっともっとフリーなんですよね、そういう意味では。直接あなたっていう事じゃなくて、「いやぁー、良かったな」っていうか…。だから何にでも言えるわけですよ、逆に日本語の「ありがとう」っていうのは。「雨が降ってありがとう」自分にとってそれがね、本当にwonderfulだったら、そういう風にいえば良いっていう、そういう風にやっぱりこう、人とか物とか、人と人とか、人と物との基本的関係っていうのを見抜く事、理解するっていう事が大事なことなんじゃないかなと思います。だから、僕は別に知識として、こういう事が必要なんだっていう風には思っていないんです。ただ、なんでそういう風になってきてるのかって言う事をきちんと把えておくことは、例えばある言葉を使ったり、あるいは、ある歌を歌ったりする時に、より正しい意味というか、より本当の意味に近づく為の手段として、やっぱりどうしても必要なんじゃないかなと思います。で、そういう事に関して、日本人はさきの表現と印象の事で言いましたけれども、もう百何十年使ってる言葉、先人達におんぶしちゃって、それを今の僕達は少しないがしろにして、忘れたりいい加減にしてるところがある。そこを一回きちんと把え直すって事は、どうしても必要なんじゃないかと思いますね。だから、今日あんまり必要じゃないかもしれないけれど、そもそもの言葉はどういう事でしょうかっていうお話しを少ししたんですけど。
 あと、今おまわししてる本の中で、小泉文夫さんがすごくおもしろい例を挙げてるんですね。小泉さんっていう人は、まぁ、さっき西洋音楽を非常によくマスターした人なんだ…ってことを申し上げたんですが、彼が「おたまじゃくし無用論」って言う事の骨子にしているのは、要するに外国の歌ばかり歌うなということですね。つまり、もっともっとわらべ歌、そういうものを沢山歌いなさい、そこにだってちゃんと日本人の、日本的な音楽の世界のすごい世界があるんだぞっていうことから、「おたまじゃくし無用論」みたいな事をあえて、逆説的に言ってる部分があるんです。でも、彼が理想的な音楽教育の一つの姿として書いてる例があるんですが…。それはね、インドネシアの「ケチャ」っていうのがあるんですよ。後でちょっとお聞かせしましょう。そのケチャをやるのは、ある村の住人全てなんです。で、これは、チャチャチャチャチャ… そういう殆ど言葉のないリズムの世界の組み合わせです。だから、例えばインドネシアなんか、それからあれは、ガムランgamelan音楽っていって、影絵で、ヒンドゥー教かなんかいろんな神話の世界を影絵で写しながら、それにいろんな楽器だとか、そういう事でやる。ところが、そのケチャっていうの、まぁ、ガムランもそうらしいんですけどね。ケチャの場合は、専門家っていないんですよ。あのケチャの世界に。その村に行くと全員がそうなんです。お百姓をやっていたり、それぞれ郵便局をやってたりなんかする人が、夜になって集まってきて、突如としてそのケチャをやるわけです。チャチャチャ…と。その曲に関しては、その村の人は何でもできるわけです。どの役もできるんです。そういう風にして、その自分の生活のベースと音楽的生活とが、全く一緒になったものが最も優れたところではありませんか。子供達もそうだし、大人達もそう、そういう世界じゃないかって言う事を小泉さんはどうも言いたいらしいです。で、それは、僕も‥‥ まぁ、日本にはないですからね。昔はまぁ、あったかもしれない。でも、もうこの百何十年、日本の世界はそういう事をなくしてしまって、その代わりに自分が望む、望んでそういうものを身につけるっていうか、楽しむってことはできるわけだから。だから逆に言えば、その立場に立って、みんながそういう意味での音楽活動とか芝居と一緒になったもの、映像と一緒になったものという風にしていくためのベースですからね。それを学校でつくることが大きな目標なのではないかと、まぁ、思い切ってどんなもんなんだっていう事をとにかく体で分かってしまうっていうか、そこから全部が始まるっていうような気がするんですが。
大脱線してしまいましたが、最初の楽器が何かっていうことは断定できません。聖書の世界はずっと後のことですから。竪琴は古いものにはちがいありません。

馬場 「さっきの小泉文夫さんのわらべ歌ですけど、うちの下の子供が一年生になりましたときに、音楽の先生、藤田先生とおっしゃる先生が、小泉先生の、小泉文夫さんのわらべ歌、そのまま実践なさって、ハンガリーのコダーイの…。そうそう、ハンガリーから女の先生、お名前ちょっと忘れちゃったんですけど、夏休みにおいでになって、子供達みんな、夏休み出ましてね、学校に。それで何か教えていただいたりして、という時期があったけど、その先生ね、何かおありになったようで、急にお辞めになっちゃって、あんまり長いこと教えて頂けなかったんですよね。その後、また変わっちゃったんですけど、とても面白い実践をなさってらしたんですよ。」

この前ね、今度川連さんとご一緒に評議員なさっている繁下先生と、たまたま御一緒したんですが、明星学園の始まる時にね、ゲン先生が子供たち集めて「きらきら星」… まだその頃、校歌も無かった時代ですから、「きらきら星」を教えて、最初の入学式の時に歌ったんだって話がアレに書いてありますねって話をしたらね、繁下先生は「いやあ、それは非常に当時としてはモダンなっていうか、新しい事ですね。」っておっしゃったんですよね。だから、明星のね、特に恩地先生なんかにうかがえばよく分かるんですが、あの時期の前衛ぶりっていうか、社会に対して本当に突出した、そういう教育っていうのは、特に芸術的な面では沢山…。いつか馬場さん、デンマーク体操の話なさいましたよね?

馬場 「はい」

デンマーク体操の前に舞踊の事ですよね?

馬場 「そうなんです。」

いわゆる当時の… 石井小浪(こなみ)さんが教えていらした。あの石井漠(ばく)さん一家というか… そういう事で言えば、一番最先端を走ってたような所から始まってると言えると思いますね。

馬場 「そうですね。ヴァイオリンとかピアノとかね。私がおりました頃。それは放課後、ちゃんとお弟子さんとは別にお願いして、個人的に教えていただくというのが、ちゃんと学校の中にあって、ピアノを習いたい人、ヴァイオリン習いたい、絵も油絵も教えて下さってて、みんなそれぞれ自分の好きな事を放課後、先生について、個人的に教えていただく、そういうのもあったんです。」

いつか恩地先生からもうかがいましたけどね。子供たちに音楽を聞かせて、その印象で絵を描くとか… 今でも宮沢賢治の童話を読んで、そこから絵を描くとかね、そういう風なことというのはね…。

馬場 「あの、私がやったのは絵じゃなくて、やっぱりレコード聴きますでしょ。そして、自分がどうイメージを浮かべたかってのを表現するんですよ。それぞれ皆違うんですけどね。違って勿論なんですけど。私はこういうイメージを浮かべましたって、こう、小さな物語を作っちゃって、そういうイメージの世界っていうか、表現力っていうか、そういう事もやったんですね。音楽の時間に。」

それはすごい授業だと思いますね。

馬場 「すごく面白かったですよ。それは。」

それはね、今の学習指導要領のどこを見ても出てきませんよ。そんな事は。採点もしてしまってますからね。とにかく、それはね…

馬場 「だから、そういう事ってのは、点数つけられませんよ。イメージなんてそれぞれ違うんで、どのイメージが良くて、どのイメージが悪いとは言えないわけですからね。だから点数にならないっていうのが音楽の授業で、それをちゃんと明星ではやって下さったんですよね。昔から。」

ちょっと、ケチャってどういうのか、さっき話しましたが、聴いてください。面白いですよ。誰でも出来るんですよね。

M.4 「神々の森の中のケチャ」から

これなんか、ムシの声が聴こえますね、外でやってる、夜の。
これなんか、鳥の声ですね。真似してる。
というようなのが、いわゆるケチャと言われる文化ですね。

〇〇(多数) 「面白い」

すごい面白いですね。これが、あのガムランっていうのは、物語のある影絵につけられた音楽っていうか、だから、音楽の古い形っていうのを提供するには非常にいいものだと思いますね。
あと何かまだ… まだまだもう少し時間ありますから、いろんな問題がありましたら…。
じゃあ、今日は少しいろんな音を持ってきたんですけど。じゃ、これをお聴きになって…コマーシャルなんかでもやってましたからね。ちょっと系統の変わったヨーロッパ音楽の例なんですね。ブルガリアン・ボイスっていう、ブルガリアの女性合唱なんですね。これもまぁ、あんまり今まで私達が聞いた事のない、非常にローカルな、だけどとっても素晴らしい声です。ちょっと聴いてみてください。

M.5 「ブルガリアン・ヴォイス」から

これもね、いわゆる、ベル・カントbel cantoの発声と随分違って、こう、声をちょっと潰した演歌的発声にちょっと近い。これの中のソロの人は名前が出てるんですが、他の人はね、いわゆるプロフェッショナルな合唱団じゃないんですね。どっかの、ある地域でずっと歌い継がれた歌を長くやってるっていう、そういう団体のようですね。だから、そういう意味では我々が目指す、目標とする音楽生活っていうかそういうものっていうのは、綺麗な形のものだけではなくて、いろんな所にいっぱいあるし、それこそ安芸さんなんかもおやりになってる、「井の頭わが街コンサート」なんてのは、素晴らしいアイデア、素晴らしい実践だと思いますよ。だから、僕はわが街っていうわけにはいかないから、わが村とか… そういう風にでも音楽をやっていくって事はとっても大切な事だし、それから、皆を、非常に音楽の一番いいところって…そうじゃないですか。自分がうんと滅入っててもなんか一発グワァーンと聴くとブワァッと元気になってくる、そういう… まぁ私は「カレーライス効果」というんですけど。一日三食カレーライス食ってても、私は元気になる、どんな落ち目な時でも元気になる。
それと、この頃よく「癒しの音楽」とかなんかもったいつけて言うんですが、これはいわゆる音楽療法っていうか、殆ど未開拓の分野で、今まで日本の音楽療法の本って、多少あるけど、私も立ち読みしたり、一冊か二冊は買って読んだんだけど、まだまだね。本当に音楽の一番大事な所が人間にとって、この憂鬱さがなくなるんだとか、解消してくれるんだっていう事は、やっぱりまだまだ… で、むしろこれはまぁ、ちょっと聞きかじりで恐縮なんですが、ユングっていう心理学者・思想家がいますよね。フロイトなんかの後に出てきて、河合(かわい)隼雄(はやお)さんなんかユングの研究家として有名なんですけど。ユングはね、かなりそれを意識してるんです。例えば、ユングなんかのそういう動きっていうのは、学校でいうと、あの有名なシュタイナー学校ですね。自由教育のシュタイナー・シューレと非常に深いつながりがある流れなんで。だからルードルフ・シュタイナーの学校っていうのも、みんな音楽をやるんですね、とにかく。音楽を基本にしていく。だから、そういう前提がないと、なかなか音楽療法の本当の歩みも、まだまだ整理されない。これからの皆さんは、むしろどんな人でも第一線だと思って、例えば、いわゆる音楽療法を自分の体験の中で考えていく。子供たちも、そういう風に「あの音楽を聴いた時、俺はあんな落ち込んでたのが、グーンと元気になったよ」っていう風な経験の積み重ねをどんどんやってくことが、音楽療法を今後ずっと本物にするか、しないかの分かれ道で…。
なんとか博士のたまわく、
「はい、Mozartの、この曲を聴くと頭がよくなります。」あれはおかしいですよ。(笑)私も同じ曲聴いてね、戦闘力が湧いてきますよね。Mozartの、例えば小さい方の卜短調って、「アマデウス」っていうMozartの伝記映画があったんですが、あれの一番最初に出てくる卜短調の25番のシンフォニー、あれは頭をよくするっていうけど、私はMozartのこの曲、聴いてて、何となく多分Mozartってのは基本的には喧嘩っぱやいとこあったと思うんですけどね。そういう感性的にブワァーッといく感じにはなるんだけどね。頭が良く動くとは思わないですね。だから、まだまだ僕でさえそう思うんだから、みなさんが自分の音楽体験をどんどん話し合ったり、積み重ねていけば、音楽療法の世界はもう日本なんか本当に素晴らしい展開が見られると思うんですよ。不景気だ、どうのこうのなんて言ってないで。

富谷 「先日ですね、胎音、胎動、要するに赤ちゃんのお腹の中の心音って言うんですか? あれを効果で出して、ハープでもって聴いたんですよ。不思議な世界というか、ずぅーっと聴いてると、なんかすごく本当に安らぐっていう…」

そうです。そうそう

富谷 「心拍っていうんですか?」

人間は母の胎内で、目で物を見る前に既に音を聴いている。19世紀のヘッベルっていうドイツ人の劇作家が「人間は生まれる前に素晴らしい音楽を聴いたことがあるのだ」と書いています。
これだけはね、ハッキリさせといた方がいいんですね。さっきピュタゴラスの話をしましたけど、ああいう事でいったい何が出てきたのか。つまり、さっきのブルガリアのコーラスも、実はピュタゴラスと無関係じゃない、なぜなら、あれは合唱でしょ? 声部がちゃんとある。その大元は、さっき言った「天空のハルモニア」も含めて、ハルモニアの思想にあるわけですよ。だから、ヨーロッパ音楽はある意味でいうと、非常に対位法だとか、和声学だとか、そういう事で非常に複雑な事をやっても、音楽のニュアンスが総体として、どんどん拡大されていくっていう世界を作りあげられたんですね。ところが、邦楽の場合に、それをやったのは殆ど雅楽の中に、小さい世界ですよね? 雅楽っていうのは。聴いたことが無い人が多いんですから、その雅楽の世界にずっと閉じ込められていて、その大切な部分っていうのは、一般のものにはならなかったんですね。じゃあ、今、僕等が聞いている音楽は、演歌もそうだし、Popsもそうだし、Jazzもそうだし、全部、西洋音楽ですよ。言ってしまえば。ハーモニーがちゃんと付けられてるじゃないですか。それから、いろんな声部を、いろんな楽器を使ったり… 要するにやっぱり邦楽の伝統の音っていうのは、基本的に全部一音一音のメロディっていう、一本の楽器から一つの音っていう事が基本になってきてるわけですね。それと逆に世界を拡大してみせたのが、やっぱり西洋音楽さっきのピュタゴラスのハルモニア、調和の思想から、そういうものが出てきたわけですよね。そっちの方が、ずっと人間にとって豊かだなあって感じがするから、西洋音楽のずっと今まで長い間の歴史が支えてきたものだったんです。だから、邦楽を僕は体験することはすごくいい事だし、大事なことだけれども、じゃあなんで、邦楽が、あの邦楽の世界だけでずっと止まっていたのかって言う事を逆にちゃんと考えぬく必要もあるんです。

〇〇(現父母) 「そうですね。子供が生まれた時に何を食べさせようかって考えた時に、パンとか、その西洋料理を食べさせる前に、まずごはんと味噌汁と漬物と青菜のおひたしとか、そういう食事をまず、子供たちに与えたいって思ったんですね。で、それと同じで音楽に関しても、その西洋の音楽はやっぱり西洋の風なりに、その限りの中で生きてきた人逹が自然に作ってきたものが西洋の音楽だから、そうすると、日本人に生まれた、この子達に、どういう音楽を食べさせてったらいいんだろうって考えたときに、演歌も違うし、三味線を習わせるっていうのも変だし、すごく困ったんですね。とりあえず、お教室っていうとピアノ教室だとかヴァイオリン、鈴木メソードだとか、そんなのしか周りになくて、全部それって、フランス料理みたいな、そんないきなり、ご飯と味噌汁の味がわかんないうちにフランス料理も変だなぁと思うし。じゃぁ、身近な音楽っていうと、何かマクドナルドのハンバーガーみたいな音楽が周りにゴロゴロあって、本当に子供たちの血となり肉となる音楽ってなんだろうって、未だに答えが出せないでいるんですよね。だから、邦楽が入るって聞いた時に、『んー、どういう方向に行くのかなぁ』と思って、興味津々で見てるんですけど。」

邦楽も本当に面白い… 面白いっていうか、楽しい、楽しいってだけじゃないな、素晴らしい音楽家はいますよね。私は津軽三味線なんか大好きですけども、じゃあ、あれ、例えばさっきからの筋で言うと、トーンっていうか、チューンっていうか… が違うんですよね。日本の、東洋は五音階で、その五音階も、どの、どれとどの音を抜くかってことで、演歌の場合、四七(よな)抜きって言って、4度の音と、7度の音がはずれて、それでメロディを作るってね、そうすると、独特の風味になるとか、そういう…。まぁ、それもだって、ヨーロッパ音楽の知恵なんですよ、実はね。で、ただ、調弦っていうか、弦の元のアレが違うんですよね、割り方が。日本の伝統的な音楽とヨーロッパ音楽の、要するに12音というか、あるいは7音というかで出てきたものとは、しかもヨーロッパ音楽の中でも、平均律と、純正律という違いがあるとか、そういういろんな問題があるから、まずどんな楽器とか、何を聴いても響きの特徴というか… それをパッと掴む… 全身で掴むような、そういう風な聞き方をやっぱりして欲しいですよね。そうすると、ヨーロッパの音楽も、我々が、「あんな曲は誰でも知ってらー!」なんて曲も、まるで違って聞こえてくると思うんですね。だから、本当にこのごろは津軽三味線なんだかって、ものすごくブームに、そういう意味ではちゃんとした本当の音楽的評価っていう事をされるようになってきたんだけども。なんで明治の時に、要するに雅楽とね、もう一つはお琴の世界なんですね。音楽取調掛の拠点になったか。尺八とか、それから三味線とかっていうのは、最初はそうじゃなかったんですね。「遊里で流行るものはイカン。下等な欲情をあおりたてるだけだ」とか言われてね。でも、やっぱり、だんだん市民権を獲得してきた。当然のことです。東京音楽学校の邦楽科にも、きちんとそういう形で揃ってきた。音楽学校の邦楽科ってのは、一番最初は雅楽とお琴だったんですね。だから、そういう事を少し厳密に考えると、やっぱり邦楽なら邦楽の中の、優れたものっていうのを全部、合わせて把まえると、体験すること。そういうものと、ヨーロッパのいろんな優れたものと、体験する事)それは、小泉先生流に言うと、まず並列的でなければいけないと思います。

〇〇(現父母) 「そうですよね。これから明星の中で、どういう風に扱っていかれるのかなぁなんて‥‥。」

公立の学校の場合は小学校の段階でお琴だとか、三味線だとかを取り入れて教えてる学校もあったようですね。割と最近。今はどうなっているか、分かりませんけど。公立の場合は、先生がしょっちゅう学校変わらされるでしょ? 一ヶ所にいると、悪い事するっていうんですかね。癒着するとか、なんとかいうんですかね? あんなのはおかしいですよね。悪い事する人もいるかもしれないけど、良い事する人も一杯いるんで、そんな事にこだわってたら、先生の方は、「どうせ2~3年したら、俺はまた向こう行っちゃうんだから…」ってな事をやってたら、落ち着いて自分の実践なんてなかなか出来ないと思うんですけどね。まぁ、それは別にして、そういう学校が確かにあったんです。
例えば下町でね、割と皆さん、周りに三味線を、お三味線をやる方がいらっしゃったりなんかするっていうと、そういう事はやりやすいんじゃないでしょうか。現に、日本の学校で、一番最初からピアノがあったわけじゃないんですよね、明治時代の小学校に。お金が無いわけですから、買うお金が…。そうすると、その時に非常に役に立ったのが、お琴だったらしいですね。お琴っていうのは、かなり地方にも普及してたんで、ただ、調弦法っていうか、調律のアレが違いますから、要するに、お琴とか、胡弓とかね、そういうものを西洋音楽流に調律して、それで教えたんです。あるいは、ヴァイオリンを日本で作らせて、自分たちで作らせて、それでメロディを弾いて先生が教えたんですね。そういう風なやり方でオルガンが入ったり、ピアノが入ったりするのは、かなり時間が経ってからだったわけです。だから、逆に言えば、その最初の時期には、日本の楽器でいわば、西洋風音楽をやってた。だから、考えてみれば、不思議でもなんでもないわけですよね、そういう事は。この頃は、お琴なんかも五線譜で書いてあるんじゃないですか?

富谷 「三味線も三本譜ですよ」

だから、そういう事が、一般的になってくると、さっきのケチャじゃないけど、ケチャやガムランの世界じゃないけど、みんなできると、何でもできる…で、集まってくれば、それで歌を歌うっていう一番望ましい形の音楽生活っていうかね…。

〇〇(現父母) 「そうですね。日本人にとって、そういうのってなんだろうって…。子供が産まれたとき、一生懸命考えたんですけど、盆踊りかなぁ…とかって。盆踊りの太鼓なのかなぁとかね。何なんだろうって。でもね、無かったんですよね。すごく困ったんですよ。結局子供は不本意ながらピアノか何か習ってたんです。習ってるんですけど、未だに。」
富谷 「やっぱり家庭、家庭で、私だって6月6日から、6歳の6月6日から、しつかりと邦楽の方でさせられましたけどね。お唄いとか、そういうものをねその家のなんか色々とね…。」
〇〇 「先生がね、いないんですよ。本当に。ピアノ教室ばっかりで。」

あの、ちょと違いますけど、和太鼓クラブも今あるでしょ?

〇〇 「そうですね。」

あれなんか、いいですよね。ストレス発散に太鼓ぐらいいいものないですよ。こう言うと、なんか私はすごいストレスがたまってるように…。(笑)
アッ!! もうそろそろ時間ですね。それじゃあ、そろそろ、お時間なんで、また… と思います。
これね、私、今日ご紹介しようと思ってたんですが、そちらにいらっしゃるピアニスト安芸疆子(きょうこ)さんの妹さん晶子さんの出された、素晴らしいCDです。これね、吉祥寺の新星堂に行くとありますから。これね、シューマンのヴァイオリン・ソーナタ、ドビュッシィのソナータ、アンコールでガーシュウィンのポキーとベスが入ってますけど、とても素敵なCDで、お妹さんは水戸室内管弦楽団とか、サイトウ記念のオーケストラの、コンサート・マスターもつとめていらっしゃる…。
まぁ、非常にとりとめのない話に終わりましたが、時間になりました。

来月は堀内先生が中学校の国語教育をテーマに、4月22日に開きます。


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