「なりたい自分になる」

パリのテーラー 鈴木健次郎(卒業生 62回生)
 
 卒業生の鈴木健次郎といいます。明星学園100周年記念のリレーエッセイに寄稿できることを、とても嬉しく感じております。

 私には二つの夢がありました。一つ目は中学生の頃、ただ漠然と『海外に出たい、海外で勝負したい』と願っていた夢。そして二つ目は渡仏後、なんとしてでもヨーロッパで三本の指に入るテーラーになること・・・。




ファッションに魅了された高校時代

 明星学園は小学校から高校まで続く学校ですが、私は高校より入学しました。いわゆる外部生です。その当時の学校の偏差値は60を超えていて、入学に向け塾に通い、中学2年、3年の頃は多くの時間を勉強に割いていました。高校に入学した当初は、塾にも通い勉強を頑張っていましたが、途中自分のやりたいことが大学進学ではなく、ファッションの道と分かってからは、ただひたすらにそこに時間を費やしていました。それは高校一年生の頃、たまたま兄が通っていた吉祥寺の、ある洋服店との出会いに遡ります。そこで店長さんと出会い、彼からたくさんのことを教えてもらい、結果そこから一気に洋服の道に進むことになりました。

 ファッションがとにかく好きで、高校在学時から代官山のお店で販売員をすることになりました。オーナーからは「高校生のアルバイトは取らない」ということでしたが、私の情熱が通じたのか、土日だけの条件で雇用してくれました。審美眼が高いお客様が集まる、大人のお店でしたので、それまでただ洋服が好き、というだけの浮かれた気持ちを根本から引き締めてくれるきっかけを貰えたお店でした。

 明星学園は私服ということもあり、毎日学校に通うために、今日はどんな服装にしようと考えるのが日々の楽しみでした。学校の校風は『自由』であまり制限がないものでした。都立高校に進んだ同級生と話していると、この学校は少し違うんだなと感じていました。今とは違って、当時は大学進学する生徒は基本少なかったですが、高校卒業して10年も経つと、やりたいことを見つけ活躍している同級生がたくさんいるのに気がつきました。ポールダンス世界大会で優勝したり、飲食店を数軒経営し、30人のスタッフを抱えていたり...。中々一筋縄ではできないことを成し遂げている同級生がいます。思うに、大学進学する一般的な高校では、塾に通い、レールに沿った生き方をすることで、自分と向き合う時間が少ないのではないかと思います。私は運がいいことに、高校2年生で自分のやりたいことに出会っておりましたが、周囲を見るとそうではない人が大多数ということに気がつきました。高校卒業して専門学校に通い、就職していくと、多くの人が大学には自分探しのために進学したということを知り、少なからずショックを受けました。洋服の専門学校にも、4年の大学生活を終えたのち専門学校に入学するという生徒もいました。

フランスの自己実現への教育プロセス

  私は2003年にフランスに渡り、在仏19年となりました。自分自身2児の父親です。子どもたちはパリの公立病院で産まれ、完全にフランス文化の中で育っています。現地校に通い、日々の言語は100%フランス語です。ただ、自分たちのオリジンをしっかりと持つために、日本語教育は大事にしています。週に一回日本語教室に通い、漢字検定も受けています。

 ここで日本とフランスの教育制度の違いを少し書いてみようと思います。フランスは住む地域にもよりますが、基本完全な学歴社会と言えます。『階級意識』は日本よりはるかに強いでしょう。通っている学校がパリの中心部であれば、なおのこと学校教育は厳しく、宿題も日本よりずっと多いと思います。
 子どもたちの日々の勉強を見ていると、とにかくポエム(詩)の暗記が非常に多いことに驚きます。また、春休みや夏休み中でも本を読むことが義務づけられており、休み明けは学校で自身の感想をテストという形で発表しなくてはいけません。ただなんとなく読書してきなさい、という形ではなく真剣に評価されるので厳しいのです。小学生でヴィクトル・ユーゴーの本を読んだりと、日本の小学生と比べると読書への意識が高いのではと感じます。フランスでは自分の進路を日本よりずっと早い時期に決められ、大体16歳の時期に、自身の将来を決めなくてはいけません。
 進学したいのであれば、大学の方向に。文系、理系というのも決めていきます。親がものづくりをしている家庭では、時として子どももその道に進むと思います。例えば自分はものづくりの道に進みたいと考えたとします。ものづくりでもファッションがいい。それはメンズなのかレディースなのか?プレタポルテ(既成服)かシュールムジュール(オートクチュール:オーダーメイド)か?といったことまで16歳の時点で決めていかなくてはいけません。ものづくりを希望する子どもたちは、Lycée professionnel(リセプロフェッショナル:日本で言う高専)に進学します。その年齢から週の半分を実地研修に当てていきます。

将来なりたい自分と向き合い、今もがき続けること

 私は現在フランス、パリで自身のテーラーショップを経営しております。テーラーとは、『紳士服の仕立て』一点もので洋服をつくる仕事になります。お客様一人ひとりの体型にピッタリと合わせて、ミリ単位で調節し、仕立てていきます。
 コロナ前まではスタッフが7人おりました。家族経営の小さな株式会社ですが、うちにもたくさんのフランス人が研修希望で履歴書を送ってきます。時には研修希望ですと、母親と子どもが一緒に来店することも珍しくありません。

 日本とは違い、フランスでは基本自分で行動しなくてはいけませんので、研修先も16歳の子達が自分で見つけてこなくてはいけません。4月、5月の時期は特にそれが多く、こちらに届く履歴書も20通から30通位になります。そうして研修先を見つけた後は、会社としっかりcontrat(コントラ:契約書)を交わしていきます。その後高校卒業までの3年間、その会社で週の半分をずっと学んでいきます。週3日会社で企業研修、2日学校といった形が3年間も続くのです。

 学校卒業後、その会社ではすでに即戦力として育っておりますので、そのまま就職するか、はたまた違う会社で研修をしていくか...。ただフランスは日本にくらべ失業率が非常に高く、就職するのは至難の技です。上記の例で3年間下積みをしてきた子でさえ、雇用されるかは分かりませんし、仮に大学卒業しても履歴書は100通送るというのが一般的と聞きます。

 ここまで読んでくださったらお気づきかもしれませんが、フランスでは自分の道を決めるのが非常に早い年齢ということ。そして一度それを決めたら、そこから後戻りすることが非常に困難なのです。仮にその子が『ファッション』を選び『メンズのオーダーメイド』を選んだとしても、企業で実地研修を受けた後『やりたいことがこれじゃない』と気づくというのは起こり得ることですが、そこで進路変更をするのが困難なのです。

 日本では、『自分探しのために大学進学をする』という生徒が多いと思いますが、早熟なフランスと比べ、どちらのシステムが良いかは分かりません。フランスは学校教育でも『自分がどう思うか?』といった、考える教育に力を掛けており、結果自分の進路をかなり早い年齢で決めていくことに繋がっていくかと思いますが、それで大人になって、皆が自分が選んだ進路に満足しているか?といったらそうではないのですね。

 やっぱり自分は建築の道に進みたかった、ファッションに関わりたかった。など大人になってから気づく人もいるようです。

 その後『東京コレクション』に自身の作品を出すデザイナーさんと出会い、創業メンバーとして雇用して頂く機会に恵まれました。デザイナーの方がNY、パリに長く生活していた事もあり、仕事をする中で、自分自身海外で仕事をしたいと強く思うようになりました。もともと、中学生頃からずっと海外に出たいという想いがあり、早くここ(日本)から出たい。海外で仕事をしたい。という気持ちで溢れていて、どうやったらそれを実現できるんだろう。と考えていましたので、この方との出会いは私の人生を変える大きなきっかけとなりました。

漠然とした海外への想いを実現する運命的な出会い

 私は、中学、高校の一番多感な時期にどれだけ自分と向きあえるか。というのが大事だと思っています。何に興味があるか。将来何をやりたいか、それを見つけるのは日々の日常生活の中でのほんの些細な出会いからだと思っています。学生時代に多くの時間を、塾や勉強で過ごしてしまうのはあまりにも勿体無いと思います。

 最初にお伝えしました通り、私の高校時代は代官山で販売員のアルバイトをして大好きな洋服に関わっていました。そこで大人と接することが出来たのは大きな糧だったと思います。厳しい店長のもとで真剣に接客をして、物を販売するということを数年間やり続けた結果、すでに作られた洋服ではなく、自分で好きな服をデザインして作っていきたいと気がつき、専門学校の道に進みました。卒業後はメンズパタンナーという仕事で就職しましたが、日本の会社で仕事をしていくことに疑問を感じ、30倍の倍率で入社したにも関わらず、退社しました。

念願叶って渡仏するも困難な日々の連続

 その後、結婚し2003年に渡仏。もうかれこれ在仏19年となりました。月日が流れるのは本当に早いと感じております。パリに渡ってからは、正直非常に困難なことばかりが続きました。
 一時期貧乏生活が続き、コーヒーを飲むのさえ躊躇するほど、夫婦で倹約しないと生活できませんでしたが、数年後実際にパリのテーラーで修行を始めるようになると、少しづつ食べていけるようになりました。

 修行をし、職人たちに揉まれながら、技術をはじめ、さまざまなことを学びました。日本ではあまり知られていないかもしれませんが、パリは移民都市と言われるほど、ものすごい数の外国人で溢れています。それは観光客という意味ではなく、実際この街で生活している人たちです。修行時代の同僚も非常にインターナショナルで、まわりにはイタリア、スペイン、ポルトガル、少数のフランス人。北アフリカのモロッコ、アルジェリア。トルコやユーゴスラビア。アフリカのコートジボワール、ギャボン、モーリシャス。南米のチリ、アジアのベトナム、ラオス、カンボジア、そして私、日本人です。アトリエ内の日本人は私一人で、言語は常にフランス語。語学学校で話す言葉とは違い、それぞれの国のアクセントも強く、同僚とのコミュニケーションは当初簡単ではなかったです。

日本人初の名誉ある職位獲得も嫉妬と偏見に苛まれる日々

 最初に修行したテーラーでは、縫いの職人として雇用されましたので、周囲の職人とも問題はなかったのですが、数年後、パリでナンバーワンテーラーとして有名な、フランチェスコ・スマルトに雇用されてからは、一変しました。フランチェスコ・スマルトはパリで1番と評価され、顧客リストにはアラブの国王、プリンス、世界の大富豪達が名を連ねており、世界中の映画スターも顧客リストに名前を連ね、そのクオリティの高さ、美しさはテーラーの本場ロンドンのカッターでも知っているほどでした。そのメゾンで(パリでは会社のことをメゾンと言います)、技術職の頂点であるカッターとして雇用されました。それは非常に名誉なことでした。

 未だかつてフランスで、日本人が技術職のトップであるカッターとして雇用されたことは、今現在私以外いない中、最年少カッターとして選ばれました。『あの、超有名なフランチェスコ・スマルトにカッターとして仕事ができる!』嬉しさに心躍っていたのも束の間、実際に仕事が始まってからは厳しいことの連続でした。技術責任者であるカッターは、かれら職人がいつか自分もあの地位を得たい..。と思い願っているポストでしたので、嫉妬の対象でした。

 日本では『嫉妬:ジェラシー』を剥き出しにすることはあまりスマートではないと思われるかと思いますが、ラテンをベースとしたフランス、イタリア、スペインではむしろ当たり前のことです。職人にあからさまに中指を立てられ「Kenのポストは俺が取るから出ていけ!」と言われたこともありますし、無視され続けることも多々ありました。ポルトガル人や、フランス人、ベルギー人の同僚とも嫉妬が原因で衝突し、心が折れそうなことが何度もありました。フランチェスコ・スマルトでは結局5年間勤務し、最後の4年間はチーフカッターに就任しました。アジア人に対して未だ偏見の目があるこの街では、黄色人種がカッターになるのは簡単ではないと、10年以上にわたって感じ続けました。


困難を乗り越え、独立

 その後、2012年に独立。妻と共に自身の株式会社をパリで立ち上げました。結果として見ると、パリでは日本人初のチーフカッターになることが出来、テーラーとして独立し路面店で二店舗構えることが出来たのも、日本人初となりました。

 お客様は、フランス人、イタリア人、イギリス人始め、アメリカ人、ドバイや中東諸国の方、そして日本人の方々となります。パリのお客様は日本の方に比べ、より厳しいクオリティを求めますので、本当に細かくミリ単位で3D(立体的)に服を仕立てていきます。そのため仮縫いは最低3回行い、1着を仕立てる納期も早くて3ヶ月、長いと6ヶ月ほどかかります。
 この仕事はTravail manuel(トラヴァイユ マニュエル:伝統的な手仕事)と言われ、一人前になるまで早くて20年かかると言われています。50歳の職人ではまだ若手と見なされるほど、道のりが長い職業になります。

 パリで独立してから10年が経ち、すでに5000着以上も仕立ててきました。日々の仕事の中で技術、感性は着実に上がり、今ではパリのトップテーラーの一人とみなされるほど知名度が上がりました。



なりたい自分に向き合った高校生活

 私には二つの夢がありました。一つ目は中学生の頃、ただ漠然と『海外に出たい、海外で勝負したい』と願っていた夢。そして二つ目は渡仏後、なんとしてでもヨーロッパで三本の指に入るテーラーになること。両方とも実現までは非常に時間がかかりましたが、結果として夢は叶いました。

 私がそのように自分の夢を達成できたのは、三つ理由があります。一つはファッションへの情熱が非常に強かったこと。二つ目は人との出会いがあり、たくさん助けてもらえたこと。熱意は人に必ず伝わります。本気の想いは確実に人に届く。そしてその想いが本気だと人は必ず助けてくれます。渡仏前、渡仏後数多くの方が助けてくれました。その感謝は忘れられません。そして三つ目は自分一人ではなかったこと。妻と2003年に渡仏してから、二人で手を取り合い互いに話し合い、会社を作り成長させてきました。

 渡仏した当初、妻と二人でパリの安ホテルに滞在していた頃、アルコール中毒のSDF(エスデーエフ:路上生活者)に「このアジア人!でてけ!」と酒を投げつけられていた自分たちが、パリで会社を立ち上げ、人の心を揺さぶるような美しい服を作れるようになったのも、『二人で頑張ろう』という想いがあったからだと思っています。

 明星学園での3年間は、私は勉強に向き合う時間は少なかったですが、結果自分のやりたいことに進むきっかけをくれた時間だったと思います。10代、20代の頃は時間が無限にあるように感じますが、30代になると、そうではなかったと皆気がつくと思います。やりたいことを見つける、多感な時期に自分と向き合うことは非常に大切で、明星学園の高校生活は、将来の道をみつける大きなきっかけを与えてくれました。皆さんが夢を諦めず、なりたい自分になれることを願っております。




鈴木 健次郎

【プロフィール】
1976年東京生まれ。明星学園を1995年に卒業。2003年に渡仏。パリのモデリスト養成学校A.I.C.Pを首席で卒業、型紙技術者としてモデリスト国家資格を取得。ARNYS、 CAMPS De Lucaなど主要メゾンで仕立て技術を取得し、2007年にフランスを代表する名店Francesco SMALTOにてカッターとして招かれる。2009年にはフランスで日本人初のチーフカッターに就任。2013年、パリ8区に自身のショップ『KENJIRO SUZUKI SUR MESURE PARIS』をオープン。パリ大統領府から徒歩数分の場所に2店舗目を構え、世界中の顧客の要望に応え続けている。
WebSite:http://kssm-paris.com/jp/