新しい時代のサイエンスを担ってほしい

東京都立大学理学部化学科 教授  伊藤 隆(保護者)
 
 明星学園創立100周年、心からお祝い申し上げます。私はこの春に子供が明星学園高校に入学して初めてつながりができた“初心者”ですが、明星学園の自由主義教育の歴史と、主体的・探究的な学びを目指した精神に感銘を受けている者として、この場にエッセイを書かせていただけることは大変光栄なことと思っています。





明星学園との出会い

 私は出身が山形県で、まわりの大多数の子供と同じように公立の小中高と進学し、国立大学を卒業しましたが、この春に長男の受験に際していろいろと考えることがありました。きっかけは鶴見俊輔氏のエッセイ『思い出袋』(岩波新書)をたまたま手に取り、その後鶴見氏の著作をまとめて読んだことでしたが、彼はその中で、「自分の先生が唯一の正しい答えをもつと信じて、先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する」という表現を用いて、日本の教育を批判しています。この主張は私の心に響くものがありました。私は現在大学で研究・教育を行っていますが、確かに学生は、(鶴見氏の表現とは少し異なりますが)次のページをめくれば一つの決まった答えが書いてあるような“問い”に、可能な限り正確かつ迅速に答えるトレーニングをして来ていると言えるでしょう。一方で、4年になって私の研究室に配属されてきた学生には、私にも答えがわからない(場合によっては人類がまだチャレンジしたことがないような)研究テーマに取り組んでもらうので、答えがわからないことに不安を感じるというよりはむしろドキドキワクワクを感じるような学生になってもらわなければなりません。言ってみれば、大学の教育の神髄は学生の“問い”に対する考え方を大きく転換してもらうことにあるのかもしれません。そのようなことを考えつつ、私は受験勉強をする長男の背中に向かって「早く大学に進学して欲しい。そうしたらもっと楽しい勉強ができるはずだから」と念じていました。
 明星学園高校については妻がまず話を聞いてきて、その後私もHPを拝見したり、いろいろな情報を調べたりしているうちに、「この高校に行ったら、大学を待たずに“問い”の転換ができるようになって、楽しいのではないか?」と思い始めました。明星学園には鶴見氏の言う「生徒が(教師も)自分で問題を作る場」の伝統があるように思います。長男は幸いにも合格し、10年生(!)の一員になって通い始めましたが、公立中学時代とは打って変わって、とても生き生きしていて楽しいようです。本当に良かったと思っています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。



大学での「構造生物学」の研究

 話は変わりますが、ここで私自身の仕事(研究)について少し紹介をさせてください。私は現在、東京都立大学理学部化学科(大学院理学研究科化学専攻)で、「構造生物学」という領域の研究をしています。構造生物学は、蛋白質やDNAなどの「かたち」(立体構造)や「動きやすさ」(ダイナミクス)を調べ、それを基に生命現象を理解する、という学問です。
 最近の例として、(私たちの仕事ではありませんが)新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のスパイク(Spike)蛋白質と、ACE2と呼ばれるヒトの細胞表面にある蛋白質の結合について考えてみましょう。


図1(a)ウイルスのSpike     図1(b)ウイルスのSpikeとヒトのACE2の結合

 図1(a)に示したように、SARS-CoV-2はウイルス表面にスパイクと呼ばれる蛋白質が突き出しています。スパイクは同種の蛋白質の鎖が3本寄り集まったような形をしており、一方の端はウイルスの脂質エンベロープに埋め込まれていて、他方の端にACE2に対して高い親和性を持つ部分があります.この部分がACE2に結合することで、感染が始まります。ウイルスでは私たちに比べてはるかに高頻度で変異が起こり、結果としてより感染性の高いウイルスが生まれてきますが、もしスパイクとACE2の「かたち」が明らかになっていて、どの部分とどの部分が結合しているのかがわかっていれば、スパイクに新しい変異が入ったウイルスが見つかった時に、この変異が感染性を上げるのかどうか、という考察をすることができます。また、スパイクとACE2の間の結合をブロックするような薬をデザインすることもできるわけです。実際にスパイクとACE2については既に立体構造がわかっており(図1(b))、前述のようなことを研究者は現在も考えています。




サイエンスでは、先入観にとらわれすぎてはいけない

 蛋白質の立体構造を決める手段として、X線結晶解析、核磁気共鳴(NMR)、電子顕微鏡単粒子解析、という3つの手法があります。私はこの中で一番マイナーな手法であるNMRを用いた研究を行っています。構造生物学では2000年ごろに「バブル」のような時代があり、大きな国家予算を投入して蛋白質の立体構造を網羅的に決定しようとする動きがありました。例えるならば、「職人として修業をしてきたのに、親方になったら大量生産の時代になっていた...」という感じでしょうか。
 いろいろと迷っていたあるとき、たまたまテレビを見ていたら、人間の先入観についての番組がありました。「引き戸」は水平方向にスライドさせて開けるドアですが、これに回して開けるタイプのドアノブを付けておくと、大人は先入観にとらわれすぎていてドアを開けられないが、幼稚園児は一定の割合でドアを開けられる、というものでした(有名な話のようです)。これを見て考えたのは、「もしかして自分は、これまで学んできた手法に縛られてない?」ということと「そもそも何が知りたかったんだっけ?」ということでした。
 実は、他の手法と異なりNMRのみが水溶液の状態の蛋白質の立体構造やダイナミクスを決定できるのです。そして、蛋白質は水溶液の状態ではたらいており、私はそもそも水溶液の中の蛋白質のふるまいが知りたかったのでした。そう考えると「NMRにとらわれているのではなく、NMRがベストだった」と確信することができました。
さらに、「精製してきた蛋白質の試験管の中(希薄溶液中)のふるまいを知るより、生きた細胞の中の蛋白質のふるまいを知る方がいいに決まっているじゃないか!」という発想に至り、ラッキーなことに世界に先駆けて「生きた細胞の中の蛋白質の立体構造決定」に成功することができました。面白いことに、生細胞中で決定した蛋白質の立体構造やダイナミクスは、試験管内とは少し違っていました。普通の水溶液の環境とは大きく異なり、細胞の中は実は満員電車のように様々な分子がひしめき合っています。そしてこの混雑した環境が蛋白質の立体構造やダイナミクスに大きな影響を与えているのです。言い換えれば、細胞の中で働く蛋白質は「満員電車」の中で最も効率よく働くように進化してきたともいえるでしょう。
 細胞の中の蛋白質のふるまいに関しては、最近もう一つ面白いことがわかってきています。理科の教科書を開くと、私たちの細胞の中には核やミトコンドリアなどの、脂質二重膜で隔てられた器官(オルガネラ)が存在すると書いてあります(図2(a))。ところが、細胞の中で蛋白質同士が集合して相分離し液滴を作るということが最近大きく注目されています(これは多分教科書にはまだ出てない!)(図2(b)および図2(c))。この液滴はいわば「隔壁のないオルガネラ」と言っても良いようなもので、生物学的にも重要な意味があるようです。そして何より面白いのは、この液滴の形成には、きちんとした「かたち」を持っていない蛋白質が関係していることです。特定の「かたち」をもつ蛋白質はそのかたちを利用して生物活性を発揮しますが、液滴をつくる蛋白質は「かたち」がないことを利用して働いている、ということで、研究者の発想の転換が求められる非常に興味深い事象です。






AIと共存する時代のサイエンスの「学び」。直観力を研ぎ澄ませ!

 私が子供のころにはサイエンスに対する期待感が社会に満ちていたように思います。少し時代は遡りますが、チャップリンの「独裁者」の最後の演説の中には“Let us fight for a world of reason. A world where science and progress will lead to all men’s happiness.”「闘おう、分別ある世界のために。科学と進歩がすべての人たちの幸福へと導くような世界のために。」という一節があります。そのような雰囲気の中で、私は自然と科学者になりたいと思うようになりました。現在はサイエンスに対する社会の関心が低くなっていると問題視されていますが、私は、明星学園の児童・生徒の皆さんの中から将来サイエンスを目指す人がたくさん出てくれればいいなと思っています。「主体的・創造的に探究する力」の育成を目指す明星学園の教育方針はおそらくサイエンスにぴったりです。人間社会の役に立つという動機で応用を志向した分野に進んでいくのももちろん素晴らしいですが、(私は理学系の人間なので)できればサイエンスそのものの純粋な面白さを追求する分野に勧誘したいです。
 最後に、AIと共存する時代のサイエンスについて最近思うことを書きたいと思います。私は小学生の頃に、「科学者になったら、研究されるべきものは全て研究されつくされてしまって、何も研究するものがなくなっていた!」という悪夢を見た記憶があります。現在、AIの登場によってこの悪夢は一部現実のものになりつつあるようです。構造生物学についても、googleが開発したAlphaFoldプログラムによって、実験データなしに蛋白質の立体構造が精度よく予測されるようになったというニュースをご覧になった方もおられるのではないでしょうか。AlphaFoldは深層学習という手法を用いたシステムで、確かに驚異的な精度で蛋白質の構造を予測します。しかし、AlphaFoldの出現で構造生物学のすべてが終わったのかというと決してそうではありません。まず、深層学習はそもそも学習データ(膨大な数の蛋白質の立体構造のデータベース)を用いて特徴を抽出するものであり、基本的には学習データから質的に大きく離れたものを予測するのは難しいと思われます。希薄溶液中(精製してきた蛋白質の試験管内)の蛋白質の立体構造と細胞内での立体構造は少し異なっていた、と述べましたが、このような細胞内環境を反映した立体構造は、データベースにはほとんど含まれていません。また「液滴」のところで述べたような、構造を持たずに機能している蛋白質の立体構造を予想しても仕方がありません。さらには「生物学では常に未知の要素が見つかる」という経験的かつ半ば哲学的な原則があります。
 このAlphaFoldの例で、要するに何が言いたいかと言うと、AIの時代の科学においては「人間の直感をより研ぎ澄ます必要があるのではないか?」ということです。AIに予測できないものにこそ次の飛躍の種があるわけで、その「種」をビビッと感じる力が大事であると思います。「一つの決まった答えを正確かつ迅速にこたえる」ことでAIに勝つのは困難だと思われますから、人間の直感力を育てる「学び」を取り入れるべきと思います。そして私には、本質理解を目指し、各人が自分自身の仮説を持つことの重要性を追求するという「明星学園のスタイル」がAI時代対応のアプローチとしてビビッと来ているわけです。未来の明星学園の卒業生が新しい時代のサイエンスの先頭を走ってくれることを大いに期待しています。







伊藤 隆

【プロフィール】
1965年北海道生まれ(山形育ち)。1993年東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻中途退学。1993年理化学研究所研究員、1997年博士(理学)の学位取得。2005年理化学研究所生体内分子動態NMR研究ユニットリーダーを経て、2005年より東京都立大学・教授。
研究内容:In-cell NMRを用いた蛋白質の細胞内動態の研究、およびNMRを用いた高分子量蛋白質・蛋白質複合体の解析法の研究