私の波乱万丈、バスケ人生記

プロバスケットボールプレイヤー・東京オリンピック銀メダリスト 
本橋菜子(卒業生 79回生)
 
 明星学園創立100周年、誠におめでとうございます。
 2012年度卒業生、プロバスケットボールプレーヤーの本橋菜子と申します。
 学園の大切な節目に自分のエッセイを書かせていただけること、恐縮かつ、とても光栄に感じています。
 とはいえエッセイというものを書くのは初めてですので(すみません読んだこともありません…)、これでいいのかという不安で溢れていますが、どうか温かい気持ちで最後までお読みいただけると幸いです。




はじめに

 私は現在、東京羽田ヴィッキーズというプロのバスケットボールチームでプレーしています。姉の影響で小学1年生の頃にバスケットボールに出会い、そこから中学、高校、大学、そして現在に至るまで約20年以上競技を続けてきました。
 バスケットボールを通じてこれまで本当に様々な経験をさせていただきました。
 有難いことにどのカテゴリーにおいても指導者や仲間に恵まれ、学生時代は高校生の時に全国3位、大学生の時に全国1位という成績を残すことができました。
 そして、2021年に開催されました東京2020オリンピックで女子バスケットボール日本代表の一員として出場し、バスケットボール界史上初となる銀メダルを獲得することができました。
 これだけみると小さい頃から着実に、将来に向け計画・実行し、順風満帆なバスケ人生を歩んできたように見えるかもしれませんが、実はここまでの道のりは自分では想像してこなかったことの連続でした。
 さまざまな困難(人生の岐路)に直面し、その度にコツコツと目の前のことに必死に取り組んでいたら、まさかまさかこの道に辿り着いていたのです。
 若干29年という100年もの年月を歩む学園の歴史には到底及びませんが、そんな中でも人生のターニングポイントとなるいくつかの出来事があり、それを経て今、昔の自分では想像もできなかった人生を歩んでいます。
 今回はその人生のターニングポイントとなったいくつかの出来事に触れながら、そこで感じたことや学んだことを中心に書いていきたいと思います。
 『タイトルや内容、全て自由に、心のままに書いていい』という依頼して下さった先生のお言葉を信じて書き進めていたら、そこそこ長くなってしまったので(←人のせい)、どうぞ覚悟してお読みください。笑

明星学園との出会い  〜 大学日本一へ

 その前に、学園に寄せるエッセイですので、せっかくなので明星学園に入るきっかけからお話しさせていただきたいと思います。
 小・中・高と12年間の一貫教育体制を築いている明星学園ですが、私は外部生として、高校よりバスケットをすることを目的に入学しました。当時からインターハイ出場常連の強豪校であったこと、そしてそこで長らく顧問を務めていた椎名眞一先生のバスケットに魅力を感じたことが私が明星学園を選んだ理由です。
 とは言え、他にも強豪校はあったし、じゃあどんなところに魅力を感じたのかと言われれば、正直、当時ははっきりとした答えは持っていませんでした。
 2歳上の姉が当時同じ東京都の競合する高校に進学していたこともあり、誰もが私も姉と同じ高校に進学すると思っていましたが、いくつかの高校へ見学に行った中、明星学園のバスケットを見学させてもらった時に、「あ、この高校がいい。なんか面白そう」と直感で思ったのです。
 大事な進路選択を直感で決めるのもどうかと思いますが、結果として、今ではその直感を信じてよかったと心から思えるほど、明星学園で過ごした3年間は間違いなくその後の私のバスケット人生を支えてくれる物となりました。本当はこの辺りについてもっと深く触れていきたいところではあるのですが、長くなるので、ただただ自分の直感も捨てたもんじゃないと感じたことだけ記しておき、あとは割愛させていただきます。
 (因みに、わたしにとって明星学園時代の思い出といえばバスケメインの思い出ばかりですが、バスケット中心の高校時代を過ごす中でも、当時から自分の“好き“を追求し楽しむ他学生の姿にはとても魅力を感じていました。明星学園の教育理念である「個性尊重」「自主自立」「自由平等」がまさにそれを示していたのだと思います。…しかし、完全にバスケットのみで高校進学を決断したため、入学式で髪が青い子や赤い子を目にしたときの衝撃は今でも覚えています…笑)

…話は戻り、そうやって入学した明星学園でしたが、素晴らしい指導者と素敵な仲間に恵まれ、結果としても高校3年次にインターハイ3位になることができ、そしてこの成績が大学進学の手助けともなり、スポーツ推薦で早稲田大学スポーツ科学部に入学しました。そしてここでも大学3年時にインカレという大学日本一を決める大会で優勝、ベスト5、アシスト王を獲得することができました。



人生のターニングポイント① 〜 怪我で気づいた本当の気持ち 〜

 そして、ここからが私の人生のターニングポイントとなったお話しです。
 そもそも中学校の時から、高校、大学、全て進路を考える時に私の中心にあったものは基本バスケット。学生時代これだけ真剣に競技に打ち込んできて、その後オリンピックまで出場することができたのですから、きっと小さい頃からバスケット選手になることが夢だったのでしょ。と思われてもおかしくありませんが、冒頭でもお伝えした通り、実はこんなに長くバスケットを続けているのが今でも信じられません…
 2人の姉が学生時代バスケットに打ち込む姿を見て、私もいつの間にか当たり前のようにバスケット中心の学生時代を送るようになっていただけなのです。(もちろん最終的に自分で決めたことなので、生半可な気持ちで学生時代バスケに取り組んでいたわけではありません。)
 バスケットは学生まで!と決意して取り組んでいたので、大学卒業後は一般企業への就職を希望し、就職活動を行なっていました。
 しかし、ここでその後の人生を左右する大きな出来事がありました。
 これで私のバスケット人生は最後だ!と気合を入れて最後1年を悔いなく過ごそうとしていた大学4年生の春、右膝前十字靭帯断裂という大怪我を負ってしまったのです。
 幸いな事にこれまで大きな怪我をする事なくバスケをすることができていたため、私にとって人生最大の大怪我でした。初めて自分の意思とは関係なくバスケができなくなり、バスケから離れなくてはならなくなりました。大袈裟かもしれませんが、術後車椅子や松葉杖を使うところからスタートしたリハビリ生活を過ごす中で、これまで当たり前のようにバスケをしていたこと、走っていたこと、歩いていたことすら全てが当たり前ではなかったのだと気づきました。
 この出来事が私の思いに変化を生じさせました。正確には、この出来事のおかげで自分の本当の思いに気づくことができたのです。

 実は私がバスケットは学生まで!!と決めていた理由は二つあります。
 一つは学生時代バスケットしかしてこなかったため、もっとそれ以外の広い世界を見てみたい。経験してみたいということ。
 そしてもう一つは、バスケットをすること自体に苦しさを感じていたからです。
 学生時代、常に勝利を目指してやってきた中で、楽しいことばかりではなくむしろ大変なことや苦しいことの方が断然に多い時間を過ごしてきました。もちろん、素敵な指導者や最高な仲間に巡り会え、その人たちとともに苦楽を乗り越えて掴んだ勝利は格別の喜びがあったし、達成感もありました。しかし長くこの生活を続ける中で、
 “なんで私はこんな苦しい想いをしてまでバスケットをしているのだろう…“
 初めは楽しくて好きで始めたバスケットですが、いつしか段々と
 “私バスケット本当に好きなのかな…“ と疑問に思うようになっていたのです。
 そんな想いを持ちながら過ごしていた時にこの怪我をしました。こんなに長くバスケットから離れて、初めて自分の気持ちとしっかり向き合う時間ができました。
「人は失ってから初めて大切なものに気づく」とはよく言いますが、まさにバスケットは私にとってのそれでした。
 “バスケがしたい“ と心から思うことができ、“あーよかった。私バスケ好きなんだなー“ と再確認することができました。そしてちょうどのタイミングでオファーをいただいた東京羽田ヴィッキーズでバスケットを続ける選択をすることができたのです。
 これが私の人生を左右する一つ目の大きなターニングポイントとなりました!
怪我をしたことは決して良かったとは言えませんが、怪我をしなければ気付くことのできなかったことがたくさんあり、今も競技を続けることができているので、今ではこの時の怪我に感謝しかありません。
(因みに、大学4年の春という進路を決める大事なタイミングで怪我をしている私をオファーするという球団もなかなかいませんので、今のチームへは本当に感謝しています。)

人生のターニングポイント② 〜 初めての日本代表 〜

 こうして2016年に東京羽田ヴィッキーズに入団し、トッププロとして始まった私のバスケットボール人生ですが、ここから東京オリンピックまでの数年間は、目まぐるしい程の激変&激動の日々でした。
 実は学生時代も含めこれまで日本代表には全く縁がありませんでした。バスケットの世界では現在日本代表に選ばれている選手の多くは中学や高校、大学時代から既に世代別の日本代表に選ばれ、世界大会を経験している選手がほとんどです。
 そんな中2018年春、いきなり日本代表強化選手として合宿に招集され、最初は50人近くの候補選手がいる中、日本代表の常連選手たちと何十回もの強化合宿を重ねていきました。毎回選手選考が行われる過酷な合宿でしたが、これまであまりに無縁の世界だったために、この当時は「なんとしても選ばれたい」という気持ちよりは、トップ選手が集まるこの環境で「少しでも多くのことを学び吸収しよう」という想いで必死についていきました。
 しかしそうした“怖いもの知らず“のような思いが功を奏したのか、まさか最終メンバーに残り、ワールドカップに出場することになったのです。
 毎回合宿の最終日に一人ずつスタッフルームに呼ばれ面談が行われるのですが、そこで「次の合宿にもきてください」と言われるか、もしくは「ここで終わりです」と告げられます。
 毎回毎回 “これが最後だ!“ とドアを開けて、毎回毎回、びっくりした気持ちで部屋を出ていました。
 こんな想いの日本代表選手も他にいなかったと思いますが、連呼するように、そもそもこんなにバスケットを続けるとは思っていなかったのにプロになり、そしてさらにはまさかまさかの日本代表。全く想像もしてこなかった世界に足を踏み入れてしまったのですから、本当、人生何が起こるか分かりません。
 一方で、これまで個人としてあまり評価されてこなった私ですが、その中でもその時その環境で自分のできることをコツコツ積み重ねてきた結果、こうやって見つけてもらえたことは、私にとって大きな自信となりました。
 これが第二の人生のターニングポイントとなり、ここからまた私のバスケット人生は大きく変わっていきます。


東京オリンピック前、新たな試練

 2018年、私にとって初めて日本代表として出場したワールドカップでは初選出ながら全試合スタートメンバーとして出場。翌年2019年のアジアカップではチームとして大会4連覇、個人としても大会ベスト5とMVPに選んでいただきました。
 まだまだな部分はありましたが、なんとか世界で通用する手応えを持てるようになったこの頃から、もしかしたら・・・と「東京オリンピック」が少しずつ視野に入ってきて、いつしかそれは夢へと変わっていきました。
 しかしそんな時、新型コロナウイルスという世界的なパンデミックが起こりました。日本代表に選出されてから順調に歩みを進めてきた中での1年延期は想像以上に残念な気持ちが大きかったのを今でも覚えています。

 そしてさらに私にとって大きな試練が待ち受けていました。
 オリンピック1年延期に関してなんとか気持ちを切り替え取り組んでいた2020年11月の合宿中(オリンピック開幕8ヶ月前)に、古傷である右膝前十字靭帯を再受傷してしまったのです。
前十字靭帯の怪我は手術し復帰するまでに、半年から人によっては8ヶ月ほどかかると言われています。ましてやそこから今までのパフォーマンスを取り戻すのがどれほど大変かは私自身大学の時に一度経験していたため痛い程分かっていました。
 怪我をした瞬間は本当に目の前が真っ暗になり、正直、東京オリンピックは無理だと思いました。(バスケット日本代表はオリンピックメンバーが最終決定されるのが6月末…すぐに手術したとしても半年後には選考…半年近く実戦から離れた私がすぐに日本代表として戦うレベルまでいけるのか…そもそも最短で復帰できたとしてもギリギリ…それで果たして選考してもらえるのかどうか…)一瞬でいろんなことが脳裏を駆け巡りました。
 しかし、もしかしたら届くかもしれなかった一生に一度しかないこの東京オリンピックというチャンスを、どうしても諦めきれませんでした。諦めきれないというよりは、たとえ間に合わなくても、何もせずに最初から諦めたら絶対後悔すると思ったのです。
 これまでのバスケット人生、常に目の前のことに全力で取り組んできた結果、今の自分にたどり着きました。そのため、少しでも可能性があるなら諦めずに、どんな結果になろうと後悔のないように最後まで戦い抜くことを決意しました。そう決意し、公言した時の周りの方々の温かい声援や後押しがとても心強かったのを今でも鮮明に覚えています。そして何よりそれが全力で取り組める環境を整え、さまざまな形でサポートして下さった関係者の皆さまには心から感謝しています。



やり抜く!という信念

 当時は1日、1分1秒も無駄にしたくないくらいの思いで無我夢中で朝から晩までリハビリをする毎日でした。心は強い方ではあると思っていましたが、やはり先が見えない不安や焦り、膝の痛みなど、知らず知らずのうちに色々なことが重なり、どうしようもなく涙が出てくることは何度もありましたし、正直、もうこの場から逃げ出したいと思うことも何度かありました。ですが、たった一度も“やめたい“と思うことはありませんでした。
どんなに “きつい、しんどい、苦しい” と思っても、“あ〜、くそ〜〜、あ〜“ と思いながら、(誰もいない時は叫びながら)、ペダル(室内用トレーニングバイク)を漕ぎ続けていました。
 そこにはもちろん“東京オリンピックに出たい“という強い想いもありましたが、それだけではなく、応援してくれる人たちの存在があったこと、同じように怪我で苦しんでいる人たちの希望になりたいという想い(目的)が自分の中にあったからだと思います。
 そのために、何がなんでも最後まで「やり抜くんだ!」という気持ちでいっぱいでした。
崖っぷちの私にとって、周囲の応援や期待に“結果“で応えるのが恩返しではなく、最後まで悔いなく“やり抜く“ことが、その人たちの応援に応えることだと信じていたからです。
 そう思えたきっかけはある友人にこう言われたからでした。
「多分、ナコのことを知り応援してくれている人は結果(オリンピックに出れるかどうか)なんてどうでもいいと思うよ。ナコが最後まで悔いなくやり抜くことができればそれだけで十分で、ナコが頑張っているその姿に周りはまた勇気をもらうんだよ」と。
 ちなみにこれを言ってくれた友人は明星学園時代のバスケ部の同期です。すごく心が軽くなりました。
 そこからも時々、不安になったり、焦る気持ちが見え隠れしたりする時ももちろんありましたが、毎日“今”を後悔なく全力でやり抜くことで、「大丈夫。きっとなんとかなる。」と自分にいい聞かせ過ごすことができました。

 結果、なんとか無事にオリンピック内定をもらい、チームとして銀メダルまで獲得することができました。内定が決まってからオリンピック本番まで、そして大会期間中も本当に沢山のドラマがありましたが、そこについてはまたどこか機会があった時にお話ししさせて下さい。笑
(なにせこのエッセイ、当初3000字ほどでと言われていたのに、私の技術が足りなくそんな文字数は遠に超えてしまっていること。ここまで読み進めてくださっただけでも有難いのに、これ以上書くと流石に読むのも疲れてしまうと思うので…次の機会があるかどうかは分かりませんが、もしあったらそれまでに伝えたい要点を短く簡潔に、そして分かりやすくまとめられるよう特訓しておきます。)

 (といいつつ、あともう少しだけお付き合いください…)



全ての経験はかけがえのない宝物

 夢や目標を持ち、そこに向かって一直線に突き進めるならそれに越したことはありませんが、人生そんなにうまくいきません。これまでの私のバスケ人生、振り返ると想いもよらない出来事や困難なことがたくさんありました。
 でもこれら全ては私にとってかけがえのない経験になったと今は胸を張って言えます。

 毎回、通り過ぎた先には本当に素敵な景色を見ることができました。
 それは、最終的に結果が伴ったから感じる感情だろうと思われるかもしれませんが、いろんな環境、境遇の中でもその時その状況でしっかり自分の想いと向き合い、それを大切に過ごしてこられたから、その過程の中で見えてきた世界や感じた感情がたくさんあったと思うし、結果的に多くの景色を見ることができたのだと思っています。(その最中はそんな余裕を持てない時ももちろんありましたけどね…)
 なので “たられば“ ではあるかもしれませんが、たとえ結果が伴っていなかったとしてもその経験で得られたことにきっとまた違う感情で感謝をしていたと思うのです。

 何が言いたいかというと、、、
 人生、本当に何が起こるかわかりません。
 けど、どんなことがあってもその道のりで出会った人やもの、感じた感情や見えてきた景色はきっとその人にとって大切な経験となり宝物になる。ということです。

 全ての人が強く勇敢に立ち向かえるわけじゃないと思っていますし、そうしなければならないと思っているわけでもありません。逃げたっていい。立ち止まったっていい。遠回りしたっていい。
全てが経験で、その時どんな選択をしてもその選択にきっと間違いはありません。
 しっかり自分の想いと向き合い、自分が進むと決めた道で、自分の信念を大切に、忘れずに生きていればきっと自分の想像を超える未来が待っているのではないでしょうか。
 たとえその時、形として残らなくても、後々その経験があったからと思う未来がきっとくると信じています。

 そんな未来を想像しながら、私は今日も “今“、“ここ“で、“自分“ができることをこれからもコツコツ積み重ねていきたいと思います。




最後に

 明星学園時代はもちろん、卒業してからもずっと応援し支えて下さった大切な恩師、椎名眞一先生は実は2022年の6月に永眠されました。溢れるほどのバスケットへの愛情を持ち、溢れるほどの愛情を生徒に注いでくれた椎名先生。勝手ながら、そんな先生への深い感謝と心からの敬意を込めて、このエッセイの結びの挨拶とさせていただきます。
 最後までお読みいただきありがとうございました。





本橋菜子

【プロフィール】
本橋菜子
2009年、明星学園高等学校へ入学。明星学園高校12年生の時、全国高等学校総合体育大会(秋田大会)で全国3位となる。
2012年、早稲田大学に進学。3年生の時、全日本大学バスケットボール大会で優勝。優秀選手賞とアシスト王に輝く。
2016年、羽田ヴィッキーズに入団。
2018年4月、24歳にしてバスケットボール女子日本代表に初選出される。
2019年も日本代表に選出され、アジアカップ(インド・バンガロール)に出場。決勝戦の中国戦では24得点8アシストを記録し、日本の大会4連覇に貢献。全5試合出場で1試合平均17.0得点、5.0アシストは1位で、MVP、得点王、アシスト王、オールスターファイブを受賞した。
2020年11月、右膝前十字靭帯を損傷。手術を受けてリハビリに励んだ。2021年代表合宿開始時点では練習に参加できなかったが、五輪直前の国際強化試合で試合復帰し、東京オリンピックに出場、銀メダルを獲得した。