生意気な僕

 ジャズトランペッター・元NGO国際連合職員「紛争解決請負人」・東京外国語大学大学院教授 
伊勢崎賢治(元保護者)
 
 

 石の上にも三年。という言い回しがあるじゃないですか。何か一つのことを始めたら、脇目も振らず、我慢して一定期間やってみろ。そうすれば、何事も成就する、みたいな意味ですね。でも僕は、この【脇目】をしてしまうタイプなんです。

 僕は、東京外国語大学という、もろ文系の大学で、「なぜ人間は戦争をするのか」をテーマに国際関係論という、もろ文系の研究をし、教鞭をとっています。教授というエラそうな肩書きで。

 普通、このポストを得るには、大学も文系のその分野の学部で勉強し、研究室に入り、博士号をとり、助手⇨講師⇨准教授みたいに、辛抱強く「教授」に向かって”ハシゴ”を登って行かなくてはなりません。「三年」どころじゃありません。何十年も。でも僕の場合は、ステーキじゃないけれど「いきなり教授」になってしまったのです。

 それも国際関係論という分野の授業を僕自身一度も大学教育で受けておりません。それどころか、僕の出身は工学部、モロ理系です。国際関係論とは、海外のことを研究する学問ですから、英語を中心とする外国の言語に長けていないと、文献さえ読めません。ところが、僕は、中学、高校を通して英語は大の苦手。というか、「ざけんな!俺は日本人だ」と、結構アブないタイプの若者だったのです。

 僕の大学での専攻は建築学でした。安藤忠雄さんや、最近お亡くなりになった磯崎新さんなど、いわゆるスター建築家の名前は、皆さんも聞いたことがあるでしょう。僕の夢は、あんな人々みたいになることだったのです。なのになぜ?

 僕は親一人子一人、母親だけの母子家庭で育ちました。今思い浮かべても、よく生活できていたなと思うほど極貧で、そういう家族が身を寄せ合うコミュニティで育ちました。なんとかお袋に夢のマイホームを。これが建築学科を目指した最初の動機でした。

 でも建築学を勉強するうちに、あれっ?と思うようになったのです。

 建築家が手がける設計のほとんどは、まあ、どちらかというと裕福な人たちの家です。ていうか、脚光を浴びるのは、それを許すだけの潤沢な金を新しいアイディアの設計に注ぎ込める、セレブの家です。

 商業施設など公共のための大建築でも、例えばベンチなどにはホームレスの人が寝そべれないようにとか、貧しい人々を排除する仕掛けがデザインとして施されている。大学の授業でも、「貧困とは何か」とか、「公共とは何か」とかを考える雰囲気は一切ない。

 僕、こういうのダメなんですね。正義感なんて仰々しいものではなく、極貧家庭で育った僕の生い立ちのせいで、どうしてもそういう社会の底辺の人たちに目が行ってしまう。ただそれだけ。

 僕と同じ境遇の人たち、それよりももっとヒドい境遇の人たちは社会にいっぱいいるはずです。いや、そういう人たちの方がセレブより圧倒的に多いはずです。でも、そういう人たちの目線に立った授業が一つもない。おかしいじゃないかと、建築学という学問そのものに疑問ができてしまったのです。でも、お袋に無理をさせてやっと入学できたのに放り出すこともできない。

 そういうふうに悶々としているうちに、ホームレスの人たちの「追い掛け」を始めたり(彼らにとっては迷惑な話ですよね)、建築学が求める”キレイ”なものに何か反抗しているように見えるゴミ屋敷や、当時は日本にも点在していた貧民街”スラム”を追い求め記録することに没頭する始末。とにかく、建築学的じゃない、不規則でゴチャゴチャしたものに魅了されるようになってしまったのです。

 そうして、日本国内では飽き足らず、スラムで有名なインドに行く決心をしたのです。お袋の反対を振り切って。

 インドへの留学を機として、その後の人生はどんどん建築学から離れていくのです。【脇目】はどんどん加速して行って、インドからアフリカへと、人生の大半を海外で過ごし、実に様々な分野に首を突っ込むことになりました。最終的には、建築とは真逆の、戦争という”破壊”を扱う世界に身を置くことになりました。

 戦う両者を、何とか話し合いの席につかせ、太平洋戦争の広島・長崎への原爆投下のような悲劇的な結末を迎える前に、お互い銃を下ろせる条件を見つける合意を手助けする(これを”停戦”と言います)。国連や日本政府の代表という立場ですが、そんなことを専門としてお給料をいただくのです。アフリカ、中東やアジアの紛争地を現場としてきました。

 こういう経験が評価されて、「いきなり」となりました。【脇目】が功を奏したとしか言いようがありません(汗)。

 僕が歩んできたキャリアパスは、たぶん例外中の例外で、生徒の皆さんの参考になるものは何もないでしょう。学校でも授業に集中しないばかりか、先生方が教えようとする学問そのものに意味が無いとか根底から否定しちゃったりもする。まあ、とんでもない「生意気」が学生時代の僕の姿でした。こんな僕ですが、翻って教授という教員になった今、いつでもブーメランが飛んでくる覚悟を持って教壇に望んでいます。

 何が言いたいかというと、学生の僕の「生意気」を受け止めてくれた先生が、ごく少数ですが、いたのです。その人たちのおかげで、僕は、首の皮一枚で、日本の大学も、留学先(インドです)の大学院でも放校にならず、なんとかここまで来ました。

 この理由で、ここに認めた文章は、生徒の皆さんというより、むしろ学校関係者、先生方に読んでいただきたいと思っています。



伊勢崎 賢治

【プロフィール】
伊勢崎賢治
ジャズ・トランペッター。
東京外国語大学大学院、教授。
ジャズと出会ったのは国連PKO要員として赴いた2001年内戦中のシエラレオネ。内戦終結のため民兵の武装解除の責任を負った時。現場から宿舎に帰還して部下のアイルランド人が聴いていたCannonballのSomethin' ELSEにシビレル。
トランペットを手にしたのは9.11同時多発テロ後の2003年アフガニスタン。アメリカの軍事占領の中でアフガン軍閥の武装解除の責任を負うことになり、今度こそ死ぬかも、と買って持って行ったのが始まり。その後生き延び、精進を重ね2010年にプロデビュー。大学教授職はもうすぐ退官。