100周年記念インタビュー

中村獅童(歌舞伎俳優・俳優 卒業生 59回生)



 
 明星学園100周年記念リレーエッセイ第12弾は、歌舞伎俳優としての活躍はもちろんのこと、近年では話題の映画に多数出演し、俳優としても輝かしい実績を残しておられる中村獅童さん(卒業生59回生)です。
 久しぶりに学校を訪れてくれた獅童さん。
懐かしそうに学校中を回られた後、「伝統を守りつつ革新を追求していく」歌舞伎の世界のお話から、明星での学校生活、お友達のお話、未来のお話などなど、2時間にわたってインタビューに答えてくれました。
 真摯に歌舞伎のこれまでと未来について語っている姿に感動しつつも、明星時代の話しになると、子どもの頃に戻ったように明るく茶目っ気たっぷりにお話してくれた獅童さん。
そんな獅童さんの「子どもの頃、現在、未来」がつまったお話をお届けします。







自分で自分の道を切り開く

 ゛獅童さん、歌舞伎の世界でずっと頑張ってこられて、最近では新作歌舞伎といった新しい世界にも挑戦してらっしゃる。
 振り返ってみて、ここまで「大変だったな」と思うことはありましたか? ゛

獅 童:
 歌舞伎の世界っていうのは血縁制度とか梨園制度とかがあって、昔は特に血統とか血の世界が大事だったりしました。僕は血はあるんだけど自分の父親が歌舞伎俳優を辞めていたんで、歌舞伎の世界においては父親がいなかったんですよ。
 歌舞伎って、父親から芸を受け継いでいく芸能みたいな所もあるでしょ。だから僕は弟子にもなれないし、かと言って生粋の御曹子というわけでもないので、「自分で自分の道を切り開く」っていうしか手段がないわけですよね。いわゆる大名跡(だいみょうせき:格の高い屋号の意)を襲名する予定もないし、中村獅童は2代目だけど、父が名乗っていた名前で、子役で廃業しているからそこでストップしてたんですよ。

 その大名跡とはほど遠いですけど、僕は子どもの時に「やりたい」ということで、歌舞伎の世界に入って2代目中村獅童を名乗らせてもらったわけです。いわゆる「自分で自分の名前を全国区にする」とか「みんなに知ってもらえる名前にする」ということを一つの目標にしてやってききました。

 というのは、他の人と同じことをやってても絶対に芽が出ないと思ってました。だから、外の世界にチャンスを求めてオーディションなんかもたくさん受けて、いっぱい落ちる中、いっぱい挫折もしたんだけど、たまたま『ピンポン』っていう映画のオーディションに受かった。『ピンポン』では高校生の役でしたが、実年齢は30歳でしたから、もう本当に遅咲きだったわけです。
 そこから火がついてもう逆輸入ですよね。歌舞伎で主役をやらせていただけるようになったんですけど、そこから「自分らしさ」を徐々に出していけるようになりました。
 「超歌舞伎」や『あらしのよるに』を創ったのは40歳を過ぎてからなんですけど、それまでの間は一生懸命に古典を勉強するんですよね。古典を勉強するからこそ「新しいものにチャレンジできる」という、それはどんな世界でも一緒だと思うんです。型があるから「型破り」ができる。だから型(古典や基本)を一生懸命勉強しないといけない。


型があるから「型破り」ができる。

型(古典や基礎)を学んで新しいものにチャレンジする。

 ゛なるほど、「型破り」ってそこから来てるんだ! ゛

獅 童: そう。型があるから「型破り」ができる。型がないのに破ろうとすると「形無し」になっちゃう。それは、多分音楽でもバレエでもみんな同じだと思うんです。
 新しいものをやろうとする時、やっぱり古典や基礎をしっかりと学んでおかないと。スポーツもそうですが基礎を学んでおかないと単なる「自分流」で終わってしまう。
 歌舞伎もまさにそうで、古典や型を一生懸命学んだ後、外の世界で学んだことを「どう歌舞伎の世界で昇華させるか」が中村獅童の課題でもあったんです。
 その自分らしいものを創るという課題の中に『あらしのよるに』がありました。喰う・喰われるの間柄のヤギとオオカミが親友になるとてもメルヘンチックでファンタジーな物語ですけど、ああいうのって小さなお子さんからお年寄りまで皆さんが一緒に涙を流したり笑ったりという普遍的なストーリーっていうものがあるんだなと再認識できた作品なんですね。
 また、バーチャルアイドルの初音ミクさんと共演した「超歌舞伎」では、今のオタクと言われる人たち、というか、オタク文化はここ何年か「あの人たちのエネルギーってすごいな」とずっと思っていて、そこに突き刺さるような歌舞伎を創ってみたいなって思ったんです。お相手はデジタルの世界の方だから、一緒に演技するというのが一番大変でしたね。また今年の12月には歌舞伎座でも上演されることが決まりました。


゛先ほど、「歌舞伎の世界では何の後ろ盾もなく、自分の道は自分で切り開いていくしかなかった」って言ってたけど、君のお母さんはものすごくオーラがあって、いっつも着物を着ていて、遠山の金さんのような所作で「うちの息子をよろしく」って言ってた。本当に君の歌舞伎界での活躍を応援してるんだなぁと思ったよ。 ゛

獅 童:
 当時は思春期だったんで、本当にそれが嫌だった。日本ってお母さんに守られているみたいな感じはちょっと恥ずかしいっていう文化というか風潮があるじゃないですか。だから当時はすごく嫌だったんですよ。どこいってもお袋が頭下げてる。全然売れてないのに。「別にそんな頭下げたからって人気なんか出ねぇよ」って、そんな感じだった。
 でも亡くなってしまった今「本当にありがとう」って言えますね。だけどもう遅い、亡くなっちゃったから。「ありがとう」ってちゃんと言えなかったし、先生から話聞いて今もグッときちゃうんですけど、そうやってよく言われるんですよ、「お母さんが家に来て頭下げてましたよ」って。そんな風に言われて、「自分一人で這い上がってきたような気になってたけど、ちゃんと親として、学校で悪いことをしても頭を下げ、役者として売れるためにも頭を下げ、僕のこと支えてくれて、あ~親あっての子だな」って思いましたね。
 母は大変だったと思います。僕は初舞台が1981年の6月なんですよね。小学校の3年生だったと思うんですけど、井の頭公園駅から迎えに来て、東銀座の歌舞伎座まで梅雨時の暑い中、和服着て送り迎えをするわけですよ。手を引いて、初舞台に。本当に歌舞伎の世界に親がいない分、マネージメントから鏡台とか絨毯とか着物とかを、普通ならお弟子さんとか付き人がやるんですが、母が全部やってくれてた。本当に母には随分迷惑をかけました。



意外と図太くてたくましい明星生

゛明星学園にはどうして入ろうと思ったの? ゛
獅 童: 最近世代は違うけど、土屋アンナちゃんとか小栗旬君とかと仕事で一緒になるんですが、2人ともすごく個性的じゃないですか。明星学園って僕の時代は、今もそうかもしれないけど、個性くっきり、通信簿もその頃は無くて、その子の個性を伸ばしてくれるところが、うちのお袋が気に入って受験させたんですね。
 お袋だけでなく、僕自身も明星に入りたかったですよ。あの頃、無着先生がラジオやってたんですよ。「子供電話相談室」ってすごく有名で、あの先生がいるところって聞いて自分もすごく無着先生の学校に行ってみたいと思いましたね。無着先生って、すごく優しい。優しい印象しかない。

゛ 明星学園でできたお友だちとは今でも交流はありますか? また、学生時代でも卒業してからでもいいんですけど、友だちと何か思い出深いエピソードみたいのがあったら教えてくれませんか? ゛

獅 童: 学生時代は本当に学校が楽しくて、自分の中では羽目を外しすぎちゃった部分っていうのがあって、楽しい思い出もたくさんあるんだけど、卒業後は自分をちょっと正さないと、社会っていうか歌舞伎界で大人になっていく上で、ちゃんとしないといけないと思いましたね。「ここからが戦いなんだな」って。今思うと、今まで学校に来たら仲間がいて、楽しくやっていけて、もちろん歌舞伎に行けば友だちもいるんだけど、結局舞台の上では誰も助けてくれないし、自分が評価されるんですよね。
友だちがいて、優しい先生がいて、そこからポンと1人になった時に、「そっか自分で自分の名前を大きくしないと一生無名の役者で終わるし、一生その他大勢の役者で終わるんだなぁ」と思った。それが嫌だから、一度、優しくしてくれる明星の友だちとちょっと距離を取るというか、何か集まる時も、あんまり行かなかったですね。

 そういう気持ちがなくなったのは、本当に恥ずかしいけど40過ぎてからですよね。20代の時は、何か学校の延長線上で楽しい世界に甘えちゃ駄目だなぁと思って、なかなか友だちと会わなかったんですね。

 今は、そういうのはなくなって、ちょくちょく明星の友だちにも会うようになりましたね。この間もアメリカに家族で行った時なんかアメリカ在住の小中の同級生、滝口さんや島津さんに会いましたね。
 泉谷君っていう高校の友だちがいるんですが、高校2年生ぐらいの時にLAメタルというLA(ロサンゼルス)のロックがすごく流行ってて、88年と89年ぐらいだったと思うけど、ロサンゼルスツアーみたいなのに、僕と友だち3人で行ったんですよ。
 もう当然未成年だからそういう夜に入れるライブハウスやクラブみたいなものもなくて、一軒だけ入れるお店があって、それが「Whisky a Go Go」という店で、本場のLAのヘヴィメタルが聞けるすごく楽しい場所だったんですね。で、その時の友だちの1人が、ロサンゼルスにPIPっていうパーカッションを専門に学ぶ学校があるっていったんです。ドラムなんかもその学校で学ぶとプロミュージシャンになっていくような一流の学校なんです。泉谷君と「俺は高校卒業したらPIPにいく!」って、夢を語り合ったんですが、泉谷君、本当に高校を卒業してPIPに入って、今でもアメリカで生活してる。
 僕が30を過ぎた頃、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』で、初めてハリウッド映画に出させていただいて、舞台は日本なんですがアメリカでの撮影だったんですよね。滞在がロサンゼルスだったんで、元気にしてるかなと思って連絡取り合ったら、まだずっとロサンゼルスにいたんですよ。
 それで会うことになって、お互い新しいとこって場所がわかりにくいから、「あの時夢を語り合った『俺は、プロのドラマーになるんだ』と言ってたライブハウスの隣のバーで待ち合わせしよう」って言って会ったんです。
 泉谷君は10代の時に見た夢を今でも追いかけて、いまだにまだアメリカにいるんですよね。だから意外と明星生って図太いっていうか、なんか根性あるっていうか、アメリカとか海外行っても生き抜いてる人が多くて、家族で会った滝口さんの旦那さんも、旦那さんは明星生ではないけれど、奥さんや明星のお友だちを見ていて、「明星生はたくましい。どこに行っても生きていける。」って言ってたんですよ。

 あと、藤田君と小学校一年生から中学校を卒業するまでずっと一緒に過ごしたっていうのは、僕にとって大きかったと思います。
 *藤田君=病気のため小学校・中学校時代を車椅子で過ごす。
 人間誰でもいろんな一面があると思うんですが、自分にとって優しい一面を持てたとしたら、それは藤田君と過ごした日々が創ってくれたのかなぁと、大人になってからすごく思うんです。僕たちは、3年間同じ今の視聴覚室のところで過ごした。3年間ずっと1階で過ごしたんですね。
 藤田君、車椅子だったから、お手洗いとか、僕がどんなにやんちゃしたりふざけてても藤田君のオシッコはちゃんと取ってあげてた。それはもう友だちだから本当に仲良くて。藤田君は亡くなってしまったけど、藤田君だけじゃなくて友だちには多くのこと学ばせてもらったなぁって思ってます。






個性や想像力を伸ばしてくれたことが、今の自分をつくってくれた。

゛ 獅童さん自身、明星学園で良かったなと思うこと、自分の人生やお仕事に活かされてるなぁと感じていることはありますか? ゛ 

獅 童: 多分僕ね、普通の学校だったらとっくに見放されていたと思う。本気で怒ってくださったりとか、校庭まで追いかけてくださったりとか、今思うと先生たち僕のこと最後まで見捨てなかったんだなぁと思いますね。
 明星に入って良かったことっていっぱいあるんです。やっぱり役者の世界って個性じゃないですか。みんなと同じじゃつまらないじゃない。その個性を伸ばしてくれて「自分らしく生きる」ということを教えてくださったのは明星学園かなと思いますね。


゛ それが演技に活かされたりするわけですか? ゛
獅 童:日常に感じ取ってることとか、自分の生きざまとか、自分の思想とか、自分がどういうことを勉強してきたかとか、傷ついたり日々生きていればいろんな経験をするわけじゃないですか。
 学生時代だけでなく、生まれてからこの日までの経験とか自分が普段感じ取ってるその全てが役者だったら演技に現れるし、音楽家だったら音楽に、画家だったらその人の生きざまが絵に表れ、写真家だったら写真の作風に表れたり、その人の個性がその人の思想、そういったものの全てに繋がってくるんですよね。

゛先ほど、明星に入ってよかったことをお話いただいたんですが、特に歌舞伎の世界に限っていうと、何か明星の教育が役立ったなぁと思うことってありますか? ゛
獅 童:
 歌舞伎でもテレビでも映画でも同じですが、自分のやらせていただく役柄があるでしょ。台本いただいて全体読むわけじゃないですか。そうするとその人の役柄っていうものが生い立ちから何から全部台本に書かれてるかっていうと、そうじゃないわけですよ。台本全体を読んで自分の役がこの役なんだなと思った時に、想像力が豊かな方が役を造形する時に「この人ってどういう人生を生きてきたのかな? 幸せだったのかな? それとも不幸ばっかりだったのかな? 両親に愛情たっぷり注がれて育ってきたのかな? それともひとり親家庭だったのかな?」とかっていう。そこは想像して自分で役作りをするんですよね。

 想像するということにおいては、明星学園ですごく自由に個性くっきりっていう感じで育ててもらったおかげですね。想像ばっかりしてましたから。何の根拠もないのに、「有名になって新人賞いっぱいもらった時に、授賞式で何喋ろうかな」とか、何の根拠もないのに、そういう想像、「成功する想像」ばっかりしてたんですよ。

 それって、やっぱり自由に育ててくださったおかげなのかなって思いますね。
 フィギュアスケートなんか見てると勉強になるんですよね。選手のインタビューを聞いてると、調子が悪い時って失敗する想像しちゃうことが多いみたいなんですよね。しっかり練習を積み重ねて、自分がばっちりと成功してる演技のイメージが浮かぶ時って、勝つことが多いみたいで。負ける時って失敗する想像をしちゃう。

 歌舞伎の舞台に立つっていうのもね、小っちゃい頃から稽古するんだけど、歌舞伎座だったら2000人のお客様がいらっしゃるんですよ。これは歌舞伎に限らず生の舞台は、大劇場だったら2000人、もっと大きいところだったら3000人のお客様の前で演技をすることになる。それは普通の人間なら誰だって、僕だっていまだに緊張するわけですよ。

 それが「いい緊張」に繋がるか、「悪い緊張」に繋がるか。「いい緊張」に繋がるために稽古を積み重ねている。スポーツ選手だったら練習を積み重ねていくっていうことだと思うんですけど。「いい緊張」に繋がるように稽古を詰めていきますし、想像力を働かせていきます。



明星生時代の経験が、新しい歌舞伎に活きている。

~新作歌舞伎『あらしのよるに』に込められた思い~




獅童:お客様が何を求めてるのかなっていうことも一つの想像力かもしれない。
 「今の時代に何を求めてるのかな?」とか、コロナ禍になって世の中全般的に静まり返った時「じゃ、この時期だったらどういうものを見たいのか。」 お客様の気持ちを想像すること、相手の気持ちを考えること、これはさっきの繰り返しになってしまいますが、藤田君がかわいそうだからやるんじゃないんですよ、友だちだから当たり前に一緒に過ごしてきたことで、相手の気持ちになるという想像力が養われましたね。
 ハンデキャップをもってる人に対して、「かわいそう、かわいそう」って言うことはそれがとっても差別になるんだってことを僕は藤田君に教わった気がしますね。普通に接してたし、言い争いとかして、頭叩いたりすることもあった。逆に藤田君が僕に鉛筆なんかで対抗することもあったし。
そういう想像力、相手が何を求めているのかという相手の気持ちを想像する力を明星の教育や友だちから教わりましたね。イメージが湧かないと何も物を創れないんですよね。

 絵本「あらしのよるに」を新作歌舞伎にして上演しましたが、ヤギとオオカミが親友になって、喰うか喰われるかの間柄なのに、オオカミはヤギを食べるのを我慢して親友になっていくという話です。
 もしかしたら今の人種差別とかね、多様性みたいな問題にも繋がるかもしれないし、いろいろな思いを込めて創ったんですが、そういう想像っていうのもやっぱり明星で学んだ影響ですよね。
 歌舞伎って未就学児の入場制限があるんだけど、『あらしのよるに』は年齢を引き下げて「親子連れで来てください」と言ってるんですよ。
 「子どもがいるんでちょっと」なんて言われる方がいらしゃいますが「いやいや、お子さんと一緒に来てください」って言うと、親子連れできてくれる。家族で泣いたり笑ったりしてくれてる姿を見ると「あぁ、これを創ってよかったな」思いましたね。
 歌舞伎って難しいだけじゃなくって、「小っちゃい子どもから大人まで楽しめるようなものもあるんですよ」って伝えたかったし、この『あらしのよるに』が歌舞伎の入り口になればいいなっていう想いと、やっぱり歌舞伎の敷居を下げるということ、歌舞伎を観たことない人、興味のなかった人を振り向かせるってことが自分の使命だと思いますね。
 僕は学生時代、学校の課外授業とか観劇に行ったりしても、何ひとつ真剣になったことはないんです、どこ行っても。
 恥ずかしいですけど。「これを見ときなさい」って学校で言われても、どこか茶化しちゃったりとか。そんなことよりも、茶化してクラスメイトに笑いを取ることの方が自分の使命だと思っていたんです。

 だからこそ自分が逆の立場になった時に「歌舞伎なんてつまらないよな」って思ってるような人たちを振り向かせたい、という逆転の発想じゃないけど、自分が興味がなかった立場として若い人たちや学生さんと触れ合った時に、どうすれば若い人に歌舞伎が浸透するのか、どうしたら振り向かせることができるか、を考えましたね。

 だからすごく役に立っているんですよ。自分がやんちゃだった頃のことが。「こういう人が出てきたら見るな」とか、「こんなふうに歌舞伎を創ったら全然興味のない人も振り向いてくれるんじゃないかな」って想像しながら新しい歌舞伎を創るんです。




『 獅童 』という芸名

 ~ 童心のように「夢を見続け」、獅子のような熱い魂で「追いかけていく」 ~ 


゛ 私は息子2人を明星学園に通わせている保護者なんですが。獅童さんがこれまで歩んできて、「これだけは大切にしてきた」という信念みたいなものがありましたら教えていただきたいのですが。 ゛

獅 童: 簡単に言うとやっぱり「夢を諦めない」「夢をみ続ける」ことです。
 夢ってやっぱり諦めやすいんですよ。「無理かな」と思ったり、「無理なんじゃない?」って人に言われたら諦めちゃうんですよね。夢ってのはみるのは簡単なんですけど、実現することが一番大事ですよね。だけど、夢はみ続けないと実現もできないですから。夢をみなくなっちゃたら実現もなにもない。
 諦めない気持ち。夢をみ続ける。先ほどの想像力って話にもちょっと繋がるんだけど、「自分で自分の道を切り開く」「最大のライバルは自分自身」、弱い自分もいれば強い自分もいる。他人様がライバルとか何とかって言うんだけど、そうじゃないですよね。
 自分がライバルなんですよ。
 自分の人生は自分で切り開く。誰のせいでもない。失敗することもありますよ。僕もたくさん失敗してきたけど、やっぱり失敗することよりもそこから先、まだまだ人生が続くことを考えると起き上がることの方が難しくて。やっぱり先を見て、夢をみ続ける。
どこか童心の気持ちを忘れないで夢をみ続ける。自分の名前は「ししのわらべ」と書いて獅童ですが、獅子のような激しい魂を持ちつつ、いくつになっても童心の気持ちを忘れない、若い時にもったがむしゃらな気持ちを忘れない、といった意味が込められているんです。
 前にも言いましたが、絶対に中村獅童の名前を全国区にしてみせるというそういった熱い気持ち、若い時のそういう激しい気持ちや、童心の時に培ってきた優しい気持ちとか、自分の芸名のように生きていけたらいいな、って言い聞かせてきましたね。




最後に100歳になる明星学園にひとこと



獅童:学生時代は、自分の家からバスで永福町まで行って、井の頭線で井の頭公園駅まで行き歩いて学校まで通っていました。50歳の中村獅童は今日初めて車で学校に来ました。
 東京は近代化でどんどん緑が無くなってきていますが、緑豊かな自然があふれる井の頭公園、春になったら桜が咲き、秋になったら紅葉っていう日本ならではの風景が見られる所って本当に限られてる。
 
 どんどん世の中が近代化して、デジタル化して、インターネットも普及して、段々と人と人の触れ合いもなくなっていく。もう全部自動ですよね。人間がいなくてもコンビニなんかでも会計ができちゃう。僕なんかもう昭和の人間だから、いまだにコンビニのあの自動でやれずに迷っちゃう。
 そうやってどんどん人と人が触れ合わなくなってデジタル化していく中で、学園に来たら、桜があって小学校の教室の前に花壇があってみんな何か創ったりしてた。小学校の校舎は新しくなっていたけど、いまだに教室の前に土があったり、木工の授業も続いているんでしょうね、木もあちらこちらに感じられる。そういう自然に触れられるところがいいなって思うんですよね。ノスタルジックというかアナログな部分が残っているっていう感じがして、明星らしいなと思いますね。今年51歳になりますが、今喋りながら気持ちは10代に戻ってるわけですよ。
 50年後も、100年、200年後も世の中がどんどん進化しても、そういうアナログな人間らしい部分っていうのを、明星学園という学校も明星学園に関わる皆さんにも残していってほしいな、と思います。






雑 談



姫 野(姫野英二先生):今日は獅童の話しが聞けてよかったよ。感動したよ。午前中はWBCに感動し、午後は獅童の話しに感動した。やんちゃな獅童君がここまで成長してるなんて。
河 住:中学までは小さくてかわいいイタズラ小僧ってかんじだった。
獅 童:そう、中学の3年ぐらいからグッと背が伸びていきましたね。
姫 野:でも、40年前の記憶が今でも鮮明に残ってるから、やっぱり愛されキャラだったんだよ。
獅 童:いや、僕こうみえて学校うけがいいんですよ。学校の先生からもいっぱい手紙いただいたりするんです。「超歌舞伎」の時なんかに(初音ミクとの共演)。
河 住:やっぱり、学生時代のやんちゃがよかったのかな。
獅 童:なんか説得力というか、学生にしっくりくるものがあるみたいなんですよ。
河 住:三絵さんは、どうですか?
三 絵(石井三絵先生):とても感動しました。ぜひ、中学生に話して欲しいな、と思いました。中学生の時期って「自分は何者なんだろう」って悶々としている。本当に悩んでいるのがよくわかる。
 そこを私たち教員が言うと説教みたいになっちゃうんだけど、ぜひお話をしていただきたいし、子どもたちにも歌舞伎を観せてあげたいと思いました。
獅 童:やっぱり歌舞伎も今の若い人たちが見てくれるようにならないと先細りで、ただただ国に保存されていくってだけの演劇になっちゃつまらないでしょ。
 だから今、高校生、もっと言えば小・中学生とかそういう子たちも見てくれるようにならないと、つまらないものになっちゃうじゃないですか。そこを一生懸命、これからも「歌舞伎ってかっこいいな」って若い子たちが見にきてくれるような演劇でありたいから、いろいろ学生さんたちに向けてメッセージを発信してるんです。だって歌舞伎ってその当時の最先端だから、「かぶき者」っていうぐらいだから、その当時の今でいうパンクみたいな人たちが歌舞伎の世界を切り開いてきたわけです。*かぶき者=異風で派手な身なりを好んだり、常識を越えた行動をとる人
 だから新しいことをやるっていうのは「伝統を守りつつ革新を追求する」、これが大事で、現在では、その「かぶき者」の精神を持って生きるって大変だと思う。
 我々昭和を生きてきたアナログ世代は、人と人の触れ合いも多かった。コロナ禍で、「そうかぁ」と思った出来事があったんですけど、去年「超歌舞伎」で中校生、高校生の貸し切り公演を1週間ぐらい行ったら、みんなどういうふうに反応していいか、最初わからなかったみたいだった。
 「いいんですよ、拍手しても」って言ったんです。「何で静かなんだろう?」と思った。本当ならやっとコンサートに行ったりとか何かとできる年齢なんでしょうが、コロナ禍でコンサートは全部中止、学校でみんなで力を合わせて運動会とかそういうのも全部中止、「課外授業でみんなで鑑賞教室に来たのが、この『超歌舞伎』が初めてです」っていう子たちだったんです。
 そっか、みんなコンサートとか行ったことないんだ、どう表現していいかわからないんだ、と思いましたね。「いいんだよ。これ「超歌舞伎」だから難しくないし、初音ミクちゃんが出てくるし、みんなもう面白い時は、よかったら拍手していいんだよ」って言ったら、最後にはみんな総立ちになって盛り上がってくれましたね。「超歌舞伎」をぜひ多くの学生に見てもらいたいと思いますね。

 そして僕自身もいろんな人と出会って何か成長させてもらったのが歌舞伎『あらしのよるに』なんですね。
 あるご家庭からお手紙いただいて、「うちの子は体が不自由なんですけど、ずっと何ヶ月も前から、『あらしのよるに』を楽しみにしていました」って、「何列の何番から、見てます」って書いてあったんで、カーテンコールの時に僕の手ぬぐいを座っている席に渡しに行ったらすごく喜んでくれて・・・、うん。
 でも、思いがけず、しばらくして亡くなられたという報せをご両親からいただいて・・・。
 最後までその手ぬぐいをすっごく大事にしてくれてたって聞いて、悲しい出来事だけど、みんなに喜んでいただける仕事をやってるんだな、がんばらないといけないなってことを感じるんですよ。

 だからもっともっとまた何かみんなに喜んでもらえる作品を、これからも創っていきたいと思っています。




中村獅童

【プロフィール】
中村獅童
SHIDO NAKAMURA
    
昭和47年9月14日生まれ。
祖父は昭和の名女方と謳われた三世中村時蔵、
父はその三男・三喜雄。
叔父に映画俳優・萬屋錦之介、中村嘉葎雄。
8歳で歌舞伎座にて初舞台を踏み、二代目中村獅童襲名。
『義経千本桜』、『封印切』、『かさね』などの古典歌舞伎、歌舞伎と最新のICT技術とのコラボで生まれた「超歌舞伎」、念願の絵本の歌舞伎化『あらしのよるに』と、古典から新作まで様々な歌舞伎に挑戦し続けている。
2002年映画『ピンポン』のドラゴン役にて各新人賞五冠受賞し、一躍注目を集め、映画『男たちの大和』、『硫黄島からの手紙』、『レッド・クリフ』、『孤狼の血』シリーズ、『キャラクター』、「Village」、「怪物」、「首」など多数出演。
声優としては映画『あらしのよるに』、『デスノート』シリーズ、また日本語吹替として『スパイダーマン』、『ヴェノム』などにも出演。
ドラマでは、WOWOWプライム連続ドラマ「鉄の骨」、大河ドラマ「八重の桜」、「いだてん~東京オリムピック噺~」、「鎌倉殿の13人」など。
伝統と格式の世界に生まれながらも常に新しい挑戦を続け、映画、舞台、ドラマ、ファッション、バンド活動と幅広く、歌舞伎の枠を超え、日本のみならず世界に向けて発信している。