明星学園100周年記念リレーエッセイ第12弾は、歌舞伎俳優としての活躍はもちろんのこと、近年では話題の映画に多数出演し、俳優としても輝かしい実績を残しておられる中村獅童さん(卒業生59回生)です。
久しぶりに学校を訪れてくれた獅童さん。
懐かしそうに学校中を回られた後、「伝統を守りつつ革新を追求していく」歌舞伎の世界のお話から、明星での学校生活、お友達のお話、未来のお話などなど、2時間にわたってインタビューに答えてくれました。
真摯に歌舞伎のこれまでと未来について語っている姿に感動しつつも、明星時代の話しになると、子どもの頃に戻ったように明るく茶目っ気たっぷりにお話してくれた獅童さん。
そんな獅童さんの「子どもの頃、現在、未来」がつまったお話をお届けします。
゛獅童さん、歌舞伎の世界でずっと頑張ってこられて、最近では新作歌舞伎といった新しい世界にも挑戦してらっしゃる。
振り返ってみて、ここまで「大変だったな」と思うことはありましたか? ゛
獅 童: 歌舞伎の世界っていうのは血縁制度とか梨園制度とかがあって、昔は特に血統とか血の世界が大事だったりしました。僕は血はあるんだけど自分の父親が歌舞伎俳優を辞めていたんで、歌舞伎の世界においては父親がいなかったんですよ。
歌舞伎って、父親から芸を受け継いでいく芸能みたいな所もあるでしょ。だから僕は弟子にもなれないし、かと言って生粋の御曹子というわけでもないので、「自分で自分の道を切り開く」っていうしか手段がないわけですよね。いわゆる大名跡(だいみょうせき:格の高い屋号の意)を襲名する予定もないし、中村獅童は2代目だけど、父が名乗っていた名前で、子役で廃業しているからそこでストップしてたんですよ。
その大名跡とはほど遠いですけど、僕は子どもの時に「やりたい」ということで、歌舞伎の世界に入って2代目中村獅童を名乗らせてもらったわけです。いわゆる「自分で自分の名前を全国区にする」とか「みんなに知ってもらえる名前にする」ということを一つの目標にしてやってききました。
というのは、他の人と同じことをやってても絶対に芽が出ないと思ってました。だから、外の世界にチャンスを求めてオーディションなんかもたくさん受けて、いっぱい落ちる中、いっぱい挫折もしたんだけど、たまたま『ピンポン』っていう映画のオーディションに受かった。『ピンポン』では高校生の役でしたが、実年齢は30歳でしたから、もう本当に遅咲きだったわけです。
そこから火がついてもう逆輸入ですよね。歌舞伎で主役をやらせていただけるようになったんですけど、そこから「自分らしさ」を徐々に出していけるようになりました。
「超歌舞伎」や『あらしのよるに』を創ったのは40歳を過ぎてからなんですけど、それまでの間は一生懸命に古典を勉強するんですよね。古典を勉強するからこそ「新しいものにチャレンジできる」という、それはどんな世界でも一緒だと思うんです。型があるから「型破り」ができる。だから型(古典や基本)を一生懸命勉強しないといけない。