1983年4月、中学校から明星学園に入学した私の志望動機は「地元の中学校のサッカー部では、入部する新入生は坊主頭にしなければいけない」という、昭和の香り残る慣習に抗うことがきっかけでした。『キャプテン翼』の影響でサッカーに夢中になっていた私は、「サッカーは続けたいけれど、それ以上に坊主頭は嫌だ」という理由で続けるか否か本気で悩んでいました。
サッカー仲間で同級生T君から「オレは明星学園ってところに行く」という話を聞き、「二中(地元の中学)じゃないところに行くことができるの?」「丸坊主にならずにサッカーができるの?!」「オレも行きたい!」と「中学受験」などとは全く意識せず母親に願書を手渡していました(T君のお母様が用意してくれたと記憶しています)。無事に合格した2人はサッカー部に入部。もちろん私は中学校の3年間「坊主頭」を回避したことは言うまでもありません(ちなみにT君は小学校から高校時代、そして現在もいがぐり頭です)。
バブル経済真只中の1986年に高校へ内部進学します。当時の家庭の事情(両親の離婚や引っ越し)や思春期特有の心の未成熟さも相まって、あまり登校せずフラフラ遊んでいました。
好きだったサッカーも高校入学時には止めてしまい、中学の終わり頃から高校での出席日数はあまり褒められたものではありませんでした。
その頃の私は少年マガジンに掲載されていた『バリバリ伝説』に夢中で、その主人公に憧れ「免許を取ってオートバイに乗る!」と、ここでも漫画に魅せられていた10代の少年でした。
暴走族や校内暴力のイメージから当時のオートバイは「悪」とされ、全国の高校では“3ない運動”(免許を取らせない・オートバイを買わない・オートバイに乗らせない…)が真っ盛り。それでも私は憧れのオートバイに乗るが為に免許を取ることに全力でした。中型免許の後は大型二輪免許を取得する為、数度試験場に通い、17歳になった晩夏にやっと合格。現在のように教習所では取得できず、試験場での実技試験に合格することのみで取得可能であり、合格率は3%以下とも言われていました。憧れだった750ccのオートバイを得ると、どこへ行くのも一緒でした。
卒業間近、欠席が続くと担任だった物理の小林先生(3年間担任でたくさん迷惑かけました)は家に電話をくれました。もっとも、「明星学園の…」と先生の声が聞こえると無言で切っていましたけど…。そんな怠惰な学園生活にも関わらず、担任をはじめ多くの先生や、仲間たち、家族のおかげで、なんとか卒業することができました。
好きなことだけやって過ごしていた中学高校時代。10代の若者らしく気持ちはそこそこ反抗的でしたが、校則もなく、制服もなく、少々悪いこと(!?)をしても、そしてオートバイで通学したことが発覚しても、ほとんどお咎めもなく。恵まれていたのか、もしかしたら見放されていたのか…。学生として多少の失敗はあったものの、幸い大きく道を外れることは無かったようです。