機械が考えられる!? 時代に 

 東京外国語大学副学長 元保護者 中山俊秀


 とんでもない時代になった。
 この原稿を、ああでもないこうでもない、と練っているうちに世の中が一変してしまった。いうまでもない、chatGPTに代表される生成系AIの登場である。
もともと、急激で不断の変化の時代における教育の話をエッセイとして寄せようと考えていたのだが、この数ヶ月の生成系AIをめぐる動向の中で、変化の体感がいきなりリアルになってきたので、一から書き直すことにした。

 AI技術の進化については、今まさに進みつつある研究の話として、我々が目にするサービスや製品に埋め込まれた技術の話として、またこれからの世の中の可能性の話として語られてはいた。しかし、いざ目の前で動いているのを見て、実際に使ってみると、その影響の大きさ、深さに「うーん、なんというか、とんでもない時代になった」としか言いようがない。






高度な知的生産物を作り出すchatGPT

 一見したところ、なんの変哲もないチャットサービスのようだが、これまでカスタマーサービスなどで見られた全く使い物にならない代物とは比べようがない。もしまだ触ったことがなければ、こんなエッセイを読んでいる場合ではない。すぐにでも使ってみてほしい。話題のchatGPTだけをとっても、この数ヶ月で大きな進化があった。これは知り合いが実際にやってみたものだが、一つ象徴的な例を紹介しよう。「秋葉原のメイドカフェに入店した時のように声をかけてください」という依頼に対して、数ヶ月前の旧バージョンでは「こんにちは、いらっしゃいませ!」という声かけだったのに対し、最新バージョン(執筆時ではver.4)では「お帰りなさいませ、ご主人様!」と返してきたという。この衝撃は読者がそれぞれ堪能していただくとして、単に文として構造が整っているというレベルははるかに超えて、やり取りの文脈は言うに及ばず、こちらが情報として与えていない文化・社会的情報をも踏まえた、適切で自然な返答をしてくるということの意味は押さえておきたい。この「適切で自然」な振る舞いの中には、実は我々の叡知が詰まっている。誰でも知っている「常識」や一部のその道の人たちが知っている「定石」から、達人が極めた「極意」「匠の技」に至るまで、再現可能なものは「パターン」を成している。
 人間の場合はその「パターン」を極めるまで非常に多くの時間と訓練を要するので、「極意」はごく一部の人にしか使えないが、AIはありとあらゆるパターンを学習し、それを自在に組み合わせて振る舞うことができる。つまり、これまで人間たちが長い歳月を費やし見つけ、身につけてきた思考パターン(問題の診断と解決、状況判断、論理的思考、推論・予測、アイデア創出など)を幅広く踏まえた上で、思考を展開することができるのだ。

 このような技術が存在すること自体、ただならぬことが起こっているという気がするが、恐るべきなのは、この技術が誰でも使うことができる身近なツールとして提供されるようになってきたということである。ごく単純化していうと、専門家や達人の思考法、思考力をツールの形で誰もが使えるようになってきたということなのだ。今までは専門家しかできなかった判断や分析や考察をして回答してくれるというのは、なんとも便利でありがたいことなのだが、これは実は社会構造や知的生産の営み、ひいては人間としての生き方に大きな影響をもたらす大変なことでもある。

 これまでは、高度な知的生産物(素晴らしい文学作品、難しい問題の解答、わかりやすい説明、深い考察など)は、長年の努力と訓練によって身につけた高度な思考能力があって初めて生み出せるものだった。だからこそ、人の思考能力や学習成果は知的生産物で評価されてきた。ところが、AIを使えば、誰でもいとも簡単に高度な知的生産物を作り出すことができる。自分では書けないような良いレポートを作れたり、自分では解けない問題が簡単に解けたり、自分では書けない小説を作ることができたり、と。こうなると、成果物に基づく能力評価や審査の多くは効力を失ってしまいかねない。だからこそ、今教育の現場ではAIというツールの活用方法と使用ルールの模索に追われている。それどころか、そもそも人間が考える必要が残るのだろうか?AIが、先人の残した思考作業の成果を基に答えを導き出し、説明を生成し、分析や診断を下せるならば、我々は思考のすべてをAIに預け、ただただAIからの答えを待っていればいいのではないか?AIの急激な進化の先、しかもかなり近い未来にはそうなるのかもしれない。


人間だけに残された思考作業、「問う」ということ

 しかし、そうなった未来になっても、AIに任せきれずに人間に残る思考作業が一つある。それは、問うことだ。AIは高度な思考機械ではあるが、問うことはしない。AIは与えられた問いや依頼に応えて思考作業をするが、自分から問うことも考え始めることもしない。問いや作業開始のきっかけは人間が与えるしかない。なぜなら、AIは、何かをしたいという意思もこだわりも意図もないからだ。AIは、思考作業はできるが、思考する理由も意思も持たない。尋ねられたから応えているだけで、自ら考えたいという意欲があるわけでも、考えなくてはならないという理由があるわけでもない。何を問うのか、何を考えようと思うのか、その選択と判断は人間がしなくてはならない思考作業として我々の手に残される。

 何を問うかという問い。これは我々の生きる意味につながった問いだ。なぜ我々は生きるのだろうか、我々は何を成し遂げたいのだろうか、我々はどう生きたいのだろうか。これらの問いは遠い昔から哲学者と共にあったが、これほど広範囲の思考作業を我々から代行できる機械ができてしまい、普通の人間の問いにもならざるを得なくなってきた。

いやはや、とんでもない時代になった。





AI時代を生き抜く人間を育む明星の教育

 このような時代に、学校は、大人は、何を子どもたちに授けてあげられるのだろうか。
子供たちが生きていく時代、世界がどうなっていくのか。彼らが大人になった時、どのような課題に直面するのか。今の我々には想像さえつかない。それを実感する。
「答え」を前提とした教育ではどうにもならない。過去の経験、そこから得られた教訓や知見の蓄積はもちろん大事で、我々が生きる道を切り開くための重要なリソースであることは変わりない。しかし、確定された答えどころか、想定される答えさえも一意に決めることができない時代には、「答え」の知識を確実に記憶させることに意味がないことは明らかだ。

 人間社会の中で何を考え、何をするのか。人間として生きることの意味を考え、あってほしい人間社会の在り方を考える力。人と対話して繋がり、関係を深める力。より良い世界を作るべく懸命に行動する力。それらがこれから必要とされる力の中核だろう。個別の解法や公式や専門知識はそうした力を発揮するための道具でしかない。

 思えば、これこそ、明星学園が力を入れてきた教育だったのだろう。誰かに作られた答えを求めるのではなく、自分の五感をいっぱいに使って感じ取り、おもしろがり、不思議がり、じっくり観察し、考える。好奇心に駆動された探究を軸とした本質的な学び。明星学園が創ろうとしてきた学びは、このような時代にいっそう輝くだろう。先人たちの持っていた先見の明に改めて感服すると同時に、学園での学びづくり、そして人間づくりの発展に大きな期待を寄せる。









中山 俊秀

【プロフィール】
中山俊秀(なかやまとしひで)

1963年静岡県生まれ。言語学者。
東京外国語大学研究等担当副学長、学際研究共創センター長、アジア・アフリカ言語文化研究所・教授。
専門は、コミュニケーションの中での言語形成と変化、ヌートカ語(カナダ先住民の言語)の文法記述・記録、消滅危機言語の記録と再活性化など。現在は、学問分野を超えた学際的研究や大学と社会の境界をまたぐ研究協働を作り出すための場作り、機会創出に尽力している。

明星学園とは、二人の子どもの保護者として始まり、PTA改革、オヤジ会、卒業研究サポートから、評議員、監事などさまざまな役割をとおして幅広く関わってきた