特別対談

杉田かおる (女 優 卒業生50回生)
    宮崎眞彩子 (明星会会報委員 卒業生50回生)
   川手晴雄  (本校元教諭 2人を受け持つ)


 リレーエッセイ第16弾は、杉田かおるさん(女優 卒業生50回生)・宮崎眞彩子さん(明星会会報委員 卒業生50回生)・川手晴雄さん(本校元教諭)による、特別対談の形でお贈りします。
 何十年来の親友宮崎さんと久しぶりに明星学園を訪れた杉田かおるさん。学生時代、ドラマの大役をこなしながらも、中学・高校の親友宮崎さんと繰り広げたドタバタ青春記。恩師川手晴雄先生とともに振り返ってくれました。特に、応援合戦でのバトルや明星祭での大事件は現在の生徒のみなさんにも身近な話題として楽しく読むことができるのではないでしょうか。
 2人のマシンガントークによって、45年前の記憶が鮮明に語られ、今でも続く「言いたいことを言い合える友人関係」が伝わってくる素敵な対談となりました。

   *杉田かおるさん=杉田(敬称略)、宮崎眞彩子さん=宮崎(敬称略)、川手晴雄元教論=川手(敬称略)、
    本校教員=進行









衝撃的だった、川手先生との出会い

進行: 今回は明星学園創立100周年記念リレーエッセイ特別対談にお集まりいただきありがとうございま
す。今日は3人にお任せするので進行は気にせず自由にお話してください。

杉田: ほとんどマコちゃん(=宮崎さん)がしゃべると思うけど。
宮崎: いやいや、どんなことをしゃべったらいいですか。
進行: 明星学園での思い出もお聞きしたいですが、それぞれどのような人生を歩んで来られたのか、そこに
明星での生活はどんな風に影響してきたのかをお聞きしたいです。つまり、現在から過去にさかのぼる感じで
‥‥‥。
杉田・宮崎:
 そんな。「生き様」を語らせたら1時間や2時間じゃ終わらないわよ。

   (現在から過去へと運ぼうと思いつつ、いきなり小学校時代のお話へ)

宮崎: 私は川手先生に特別な思い入れがあるんですよ。
杉田: なに? あ、そうだ、家が近かったんだよね。(宮崎さんと川手先生の)
宮崎: 川手先生には私、衝撃的な思い出があるんです。
杉田: なになに!
宮崎: 私は中学校から明星学園に入ったので小学校時代は明星に通っていなかったのだけど、当時は高井戸に住んでまして‥‥‥。
 高井戸から明星じゃない別の学校に通っていたんですが、近所で「原発に反対して電気代を払わない原始人の家がある」っていう噂が流れていたんです。
 子ども心に、「どんな人が住んでるんだろう」と思って、見に行ったんですね。
そしたら、顔中ヒゲだらけの‥‥なんか本当にジャングルに住んでるような人がいて、目が合っちゃって。すごく怖い思いをしたんです。で、しばらくそこを通らないようにして小学校に通っていました。
一同: へ~。(宮崎さんの話に食い入る。)
宮崎: それで、中学校から明星学園に入ったんですが、入学式で座っていたら、前の方にあの怖
いおじさんが座ってる。
 これから同級生になる子たちが、「川手先生、川手先生」って群がっていて、「地元で見かけた
あのヒゲの怖いおじさん、明星の先生だったんだ!」と初めてわかりました。
(一同、終始大笑い。)
   *川手先生は小学校5・6年生で杉田かおるさんのいたクラスの担任をしていて、そのまま
    中学校へ移動し、中学1年生(7年生)の担任になられた。入学式の時、内部生は川手先
    生のことを知っていたという状況です。

川手: 当時は高井戸に住んでて(後に三鷹市)
杉田: 川の近くに住んでましたよね。川の流れを利用して電気を起こそうとしてた。
宮崎: 地元の子は近寄れない雰囲気だった。

杉田: いろいろ思い出してきた。
 私ね、4年生の3学期に明星に編入してきたんです。普通の公立の小学校に通っていたん
ですが、小学校2年生でデビューして、けっこう忙しくなって学校にいけなくなってしまったの
と、当時テレビってすごい影響力があって、すごくたくさんの人が来ちゃうということがあって
困っていたんです。
 ちょうどその時に最初のドラマの『パパと呼ばないで』で美術スタッフをされていた方の息子
さんが明星だったんです。その美術さんが「明星学園っていう学校があって、そこはとてもいいところだから」って紹介してくれて。
 4年生の3学期に転入試験を受けて転校することになったんです。
進行: そうだったんですね!
杉田: 転校した時の印象言っていい?
一同: どうぞどうぞ!
杉田: それまで通っていた杉並区立の小学校は公立学校なんですが、エリートを育てるみたいな
学校で、同級生もみんないい大学に行っていて、かなり厳しい学校だったんです。もう何か忘れ
物をしようものなら、すぐに廊下に立たされた。
 公立時代の思い出は廊下に立たされたことなんですよね。
 それが、明星学園に来たらまったく逆じゃないですか。自由で。みんな賑やかで、極端な話、
厳しい公立時代の前の幼稚園時代に戻った感じだった。担任の先生は善方先生っていって‥‥
進行: え! いま常務理事をされている善方隆さんのお父さんの? 善方国男先生ですね。
杉田: はい、4年生の3学期だけ善方先生に教わりました。善方先生は昭和の風格が漂う、学者
のような文化的な雰囲気の先生でした。だから、私が明星に入った時の印象は、「賑やかな仲間た
ち」と、「文化的な匂いのする先生」の2つでした。
進行: なるほど!
杉田: それなのに5年生になったら急にこの先生(川手先生)でしょ。
一同: 大笑い
杉田: 究極のリベラルで、授業でも産業革命がいかにすごいかを熱く語ってた。小学校の授業で、
産業革命だけで半年ぐらい使っちゃう。それと、当時はまだ語っている人が少なかった原発の問
題をすでに言ってた。
宮崎: そんな人を小学生時代に私は町で見かけ、おびえていた。
杉田: でも、5・6年生のときは私が学校にあまり来られなかったので、川手先生は「本をたくさ
ん読みなさい」って薦めてくれたんです。
で、進めてくれたのが「レーニンの本」だったんです。レーニンを読めって!
川手: 小学生にそんな本、薦めるわけないだろ!
宮崎: でも、からだの半分は川手先生でできてるよ、この人(←杉田さんのこと)!
杉田: そうですね。原発のことや、『橋のない川』のお話も先生から聞いて影響を受けました。
    *『橋のない川』=部落差別を扱った住井すゑの小説
川手: そうだったね。
杉田: 後は、本多勝一を薦められたんです。
進行: それはかなり影響を受けていますね。
杉田: 受けてますよ。バリバリ。全部読みましたよ。
 それから、5、6年生の時に「読め読め」って言われて「何読んでいいかわからない」って言っ
たら、「ロシア文学を読め」って。それで、ドストエフスキーなんかのロシア文学を片っ端から読んでいったら、難しい本しか読めなくなっちゃって。
 中学に入ったら、池田修次先生から出された夏休みの宿題が夏目漱石の感想文だったんですが、
『吾輩は猫である』って題名からして読みたくないって感情が沸いてきちゃって、それでメチャクチャ宿題の評価が低くて、国語の点数が低くなっちゃったっていう思い出がありますね。

進行: 今のは杉田さんの小学校時代と川手先生との思い出ですが、宮崎さんはこのときまだ杉田さんと出
会っていないんですよね。

杉田・宮崎:そうです。
 中学に上がってから。中学1年生と2年生、高校1年生が一緒のクラスでした。
宮崎: 私も小学校時代は、違うカトリック系の厳しい私立の小学校に通っていました。
 「校長先生がいらっしゃいました」って言われたら、校長先生が通り過ぎるまでお辞儀をして
いなくてはいけない厳しい学校だったので、そこが合わなくって6年生の時に外部受験することになりました。たぶん親が無着成恭先生にたどり着いたんだと思います。
 それで、6年生の時に受験だからって塾に入れられたんだけど、あまり通わずに下北沢を徘徊
したりしてた。でも、めでたく明星に入れてもらえることになり、入学式で川手先生を見て震え上がったというわけです。



中学生になって、まず思ったこと

進行: ではここから中学校時代のお話にいきましょう。
宮崎: 中学から大きく変わったことがありました。それは親が離婚して苗字が代わったというこ
と。苗字も代わって『心機一転、中学から頑張るぞ』って思って中学生活のスタートを切ったんです。
 ところが、当時離婚はお家の恥みたいな時代で、親が離婚をしたことを知られないようにしてました。厳しい私立小学校だったから、「お父様がいらっしゃらないって本当? まさかねえ。」って、けっこういじめられてたんです。
 明星での中学校生活は新しい苗字『井上』でスタートしたのですが、この井上を間違えちゃいけないって肝に銘じていたのに、中学に入って3日目で間違えちゃって、プリントに『井上』って書くところを、それまでの苗字の『小田』って書いちゃった。それを隣の子に「小田さんじゃなくない?」って指摘されて。
 その時に「人生終わった‥‥‥」と思ったんだけど、その子が「自分の名前、間違えちゃうの馬鹿じゃない」って言ってそれっきり。何の興味もない。離婚してようがしてなくてもどうでもいい。
 それは「いいな」って思いましたね。
杉田: 実は、うちも親が離婚していたのを明星に入るまで隠してたの。
 その前の公立時代は、お父さんは出張に行ってるみたいってごまかしてた。本当に離婚したこ
とがわかると大変な時代だった。
杉田・宮崎:明星に入ってまず感激したのが、この「親が離婚していることを隠さないで堂々」と
できたこと。
宮崎: もう一つ中学に入って思ったことは、答えが出せるだけじゃダメで、例えば数学の授業で
百瀬弘先生から「過程」を聞かれて、「もう答えが合ってんだからいいじゃん」って思うんだけど、
「何故その答えになったのか」をすごく聞かれた。
 「本当やってらんない!」って思ったこともあったけど、理由を考えて行く授業が、結局は自
分を成長させてくれた。
杉田: それは川手先生も同じで、さっき産業革命だけで半年やってたって言ったけど、その前に
旧石器時代からネアンデルタール人まで3ヶ月ぐらいやってた。
宮崎: ネアンデルタール人が好きだったの? 先生?
杉田: 川手先生すごくネアンデルタール人をフューチャーされていて、人類の原点みたいな、す
ごく長くて、「またネアンデルタール人のこと話してる」って思ってた。

進行: ところで川手さんは、私(河住)が明星に入った時は中学校の先生だったけど、小学校から中学校
にきたの?

川手: 僕がどうやって教員になったか。今じゃ考えられない話なんだけど、明星の高校に教育実
習に来たとき、当時の校長の鈴木満男先生に「高校の先生たちと吉祥寺で飲むから来ないか」っ
て誘われたの。で、行ってみたら満男先生が「君はどこの大学だ?」って言うから「立教大学で
す」って答えたわけ。そしたら「じゃ、校歌を歌ってみろ」って言われたのででっかい声で歌っ
たら、鈴木満男校長が「気に入った。来年の春からうちに来なさい!」って言われてほんとうに
明星の教員になったんだよ。
 その頃、明星学園の内部では、教育研究をめぐってあれこれ論争がくり広げられていた。一部の小学校の先生が辞めていったりして、小学校の教員枠に空きができた。それを補充するために、新任の僕は小学校からのスタートになったわけ。
宮崎: それで善方先生も現役でやってたんだ。
杉田: 明星には教育観がハッキリしている先生が多かったですよね。
 私中学の時に、ある新聞に連載を頼まれて書いていたんです。そしたら学校でいきなり握手を
求めてきた(考え方に賛同してくれた)理科の先生がいたりしましたもん。
進行: え! 中学生の時に新聞に連載していたの?
杉田: 子どもの頃から芸能活動をしていたのでよく文章を頼まれてたんです。今でも。私、文章
を書くのが好きなので、いろんなところに文章を寄せていて、もうそんなことを50年ぐらいやっ
てます。
宮崎: 中学校の時よく連載やってて読んでた。
杉田: 文章書くの好きだったから。
宮崎: でも、私たちは同じ年だから『パパと呼ばないで』に出てすごく人気があったんだけど、
この人が「チー坊」の時は私たちも「チー坊」の年齢だから、その人気はよくわかんなかったけ
ど、大人の人たちが盛り上がっている感じだった。
 それと、よく男子が「杉田のレコード、吉祥寺の新星堂の廃盤コーナーにあんだぜ!」ってちょっかいかけてた。
杉田: ハ ハ ハ(笑)
宮崎: で、ある日突然、かおるが「オーディション受けて、受かったから今度『金八先生』って
いうのをやるから見て。」って言い出したの。
杉田: あ、思い出した。
 10年生の時、社会科の丸重俊先生が「君の金八先生は、僕たちから見ると、どうのこうの・・・」っていきなり言ってきてた。それ聞いた時も、明星の先生ってみなさんそれぞれ強固な教育観を持ってるんだなあって思いました。
 学生運動とかの時代の先生方ってのもあったのかな。
川手: そういう時代だよね。
宮崎: で、そん時に男子は、「『太陽に吠えろ』見るから金八は見ない」とか、あと「プロレス見
るから見ない」なんて言ってた。
 で女子は結構見たわけ。
進行: 『金八先生』を観ていない子なんていたのかな? 私の田舎ではいなかったと思う。
宮崎: 最初は、「かおるが映った、映った。」ってミーハーだからすごく喜んで見ていたんだけど、
突然3話ぐらいで「ハラッ」と倒れて、あの騒ぎ。




忘れられない応援合戦での戦い

進行: 金八先生の時は何歳だったの?
杉田: 中学3年生の秋、2学期でした。後輩に上條恒彦さんの息子さんがいて‥‥
宮崎: 上條恒彦さんは金八先生で隣のクラスの担任やってた。
杉田: 私がちょうど9年生の時に、運動会で黄色組で上條君も黄色組だった。それで私、黄色組
で上條君をすごくしごいちゃって‥‥‥。
進行: え? どういうこと?
大草(卒業生51回生): 私が8年生の時に杉田さん・宮崎さんは9年生で、上條さんは7年生
だった。私も上條さんも杉田さんも、黄色組だった。
 とにかくあの頃の運動会は激しかったんですよ。
杉田・宮崎: すごかったよね。
大草: ほとんどの子が優勝するつもりでいたからすごかったですよ。
進行: 応援合戦が?
杉田・宮崎・大草:いやいやすべて。騎馬戦も百足競争(ムカデ競走)もすごかった!
宮崎: でも、かおるは黄色組の応援合戦の振り付けを「ピンクレディー」の振付師の人に頼んで
創ってもらってた。
杉田: ピンクレディーの振付師さんに創ってもらった振り付けを、下級生たちにすごく厳しく教
えたんですよ。
宮崎: それで、7年生の女の子がかおるのせいでお腹が痛くなっちゃって、かおるの指導が怖す
ぎて学校に来られなくなっちゃって、いろいろ言われてた。
杉田: すごく厳しかったと正直思います。
宮崎: 私は白組だったんだけど、黄色組の7年生8年生が私のところに泣きついてくるわけ。
「杉田さんが怖いんですけど、何とかしてくれませんか。」って言われて。
かおるには「お前なんだよ、後輩にいばってんの?」なんて言ってた。
杉田: 中学の時は、マコちゃんと仲良しというより、言いたいことを言い合ってた感じ。
宮崎: それで「なにを威張ってんのよ」って言うと、かおるは「そんなことは無いわよ。やると
きはやるのよ」って言ってた。逆に「あんたはメリハリが無いのよ」なんて言い返されてたね。
でも、私たち白組は、「絶対に後輩を泣かさない!」下級生たちが「楽しかった」って思うことし
かしないって決めて応援練習をしてた。
小学生も白組の練習が楽しくて、「おねえちゃん。おねえちゃん。」って喜んでついて来てくれ
てた。その時の1年生に中村獅童くんがいたの。超かわいかった。
    *当時は小中合同の運動会で、応援合戦は1~3年生・7~9年生で行われていた

進行: それで応援合戦の結果は?

宮崎: それは絶対「白組」の優勝と思うじゃないですか。
教育的にどう思います? 年下の子たちを泣かせて。なんかピンクレディーの振付師に頼んで。
完璧だけどみんなが泣きながらやってる応援と、みんなが楽しみながら取り組んでる応援合戦
と、どっちが教育的に優れてると思います?
みんな私たち(白組)が勝つと思ってたし、世の中的にも勝つと信じてたの。
杉田: ところが私たち(黄色組)が優勝したの。
 ピンクレディーの振付師さんの振り付けを完璧に覚えさせた上に、最後に“離れ業”で校長先生たちに投げキスをしたの。
宮崎: 結果、私たちは準優勝。これ私黙ってると思います? 黙ってるわけ無いわよ!
それで私、今でも覚えていますが、遠藤豊校長に詰め寄って「明星学園はそういう学校なんで
すか?!」ってタンカを切ったの。そしたら無着先生に「マサコはね、カッとしたら手を出すのは良くないのよ」「頭にきたらポケットに手を入れて3つ数えなさい」って言われたんだけど、すごいガチ切れしちゃって、泣き叫んでた。
進行: 実際、黄色でその厳しい応援練習をやらされてた下級生はどう思ったの?
杉田: 優勝すれば「すべてよし」みたいな感じだったよね。
大草: 当時の中学校は「点数の無い教育」って日頃から言ってたのに、運動会では点数がついて
順位がつき、優勝すればみんな大喜びだった。
宮崎: でも、私はそれが許せなくて「明星学園、ほんとムカつく。なんだかんだ言っても結果が
よければそれでいいんじゃないか。」って、やさぐれて、しばらく世の中に背を向けてた。
7年生・8年生・9年生と明星学園に「自己肯定感」を与えられて、充実した学校生活を送ってきたのに、この事件で根底からひっくり返されて、中学卒業までやさぐれてた。


10年生、2人で起こした大事件


宮崎: 高校でもしばらくやさぐれてたんだけど、なんと10年生の時にそれを一変する出来事が
あって‥‥‥。
一同: え、何!
宮崎: それがこの洋服なんだけど‥‥(着て来たTシャツに描かれた絵を見せる)
杉田: あー! 『小さいおうち』だ。
宮崎: 『小さいおうち』っていう絵本があるんですが、瀬野卓志先生の哲学の授業で『小さいお
うち』の絵本を読んで、その感想を書きなさいっていう課題が出たの。
*『小さいおうち』=1942年、アメリカの絵本作家、バージニア・リー・バートンによる作品
宮崎: 『小さいおうち』って、周りが都会になっていって小さいおうちが取り残されちゃう、み
たいな作品なんだけど、私はこう書いたんです。
「私のふるさとは都会だ。都会がふるさとで何が悪いのか。なぜ、都会がふるさとであることにケチつけられなくてはいけないのか。ムカつく!」って、3行ぐらい書いて瀬野先生に出したの。あぁ?!‥‥みたいな態度で。「これで点数くれるだろ」みたいな態度で出したの。まだやさぐれてたから。
進行: へぇ~。そうしたら?
宮崎: 瀬野先生が「僕はこういう感想を求めてたんだ!」って。
杉田: アハハハ!
宮崎: 「これこそが思想なんだ。」って瀬野先生。
みんなが「都会になっていって残念だ」とか、「おうちがどんどん廃れていく姿がかわいそうだ」って感想だけでは無いはずだ。これこそ思想なんだ。
 学年の中で、「私のふるさとは都会なんだ。都会で文句あるか。」って言ったのはお前だけだ。お前に10をやるって。
 そして本当に10をくれたので、「この人信用できる」みたいな、久しぶりに自己肯定感を味わったのが瀬野先生だった。
 そこから斜に構えるのをやめたの。

進行: その頃、杉田さんは大分忙しくなったのでは?
杉田: 『金八先生』から『鳥の詩』の頃で、だんだん学校に行けなくなっていきました。
    *『鳥の詩』=ドラマ『池中玄太80キロ』の挿入歌 杉田かおるさんが歌われた。
宮崎: だんだん学校に来られなくなって有名になっていったんだけど、彼女自身も有名人だって
いう自覚がないし、私たちにも有名人の友だちっていう自覚がまったくなかった。
それで、私たち2人で、10年の時に大事件を起こしちゃったんです。
進行: へぇ~?
宮崎: 10年生の時はかおると私は同じクラスで、明星祭でクラスの出し物でお化け屋敷をや
ったの。当時かおるはラジオ番組をもっていて、「いいじゃん、いいじゃん、ラジオで宣伝しなよ」
って私が言ったんです。人寄せパンダじゃないけど。
杉田: いいよ。するするって。
宮崎: それでラジオで宣伝したら、ラジオの威力ってすごいんですよ。当日、人がいっぱい来ち
ゃって‥‥‥
杉田: ちょうど、『鳥の詩』がヒットする直前のタイミングだったからね。
宮崎: 『鳥の詩』へ向かって人気に火がついてたタイミングで、ラジオで杉田かおるが「明星祭
に来てください。」って言ったものだから、人がわんさか来ちゃった。もう人があふれちゃって、
収拾つかなくなっちゃって、かおるの手を引いて屋上に逃げたんだけど、何が何だかわかんない
状況になっちゃった。
それで明星祭が台無しになっちゃって‥‥‥
杉田: それで恩地邦夫先生がね。
宮崎: 恩地先生じゃないよ。上田八郎先生だよ。
上田校長先生が月曜日の昼休みに放送を入れて、「10年1組の井上眞彩子さん。校長室まで来てください。」って呼び出されたわけ。
 で、行った途端に指さされて、「お前は、杉田かおるが何たるかをまったくわかってない。あれだけの騒ぎを起こして、どう考えてんだ!」って、あの温厚な上田八郎先生が激怒したんですよ。
 かおるにも怒りそうだったんで、「私がラジオで言ってって頼んだので」ってかばおうとしたんだけど、かおるも「お前は杉田かおるという自覚がまったくない!」ってメチャクチャ怒られた。
進行: そんなにすごい人が集まって、台無しになっちゃたんだ。
宮崎: あの時の先輩に会うと、「まったく、私たちの最後の明星祭を台無しにして」って今でもメ
チャクチャ怒られる。
杉田: でも、今振り返るとそういうハプニングみたいなことはあったけれど、明星って自由な校
風だったこともあって、当時私が出ていた『金八先生』のように時代を反映する出来事、例えば
校内暴力とかが扱われていましたけど、そんなテレビが扱うような問題って、ほとんどなく過ご
してましたね。卒業式もほんとに穏やかで。
宮崎: 当時は公立学校から明星に入ってきた外部生はみんな荒れた学校を経験して、明星学園に
入ってきてた。
進行: 当時は社会的に学校が荒れてた時代なんだね。
 今日、来られなかった編集委員の人からぜひ聞いて欲しいって言われたことなんですが、当時金八先生
を撮影していて、同世代の人たちとたくさん話したりしたと思うけど、他の学校の人たちから聞いた学校の話や金八先生で演じた学校で、明星と違うなって思ったことってありましたか?
杉田:
学校としての違いというより、私『パパと呼ばないで』もそうですが、撮影所で撮影して
いたんですね。『金八先生』はTBSで撮影したんですが、TBSでの撮影はとてもきちっと撮ら
れるのが特徴的で、いろんなことを細かく決めてきちっと撮影していました。
私は撮影所育ちですし、昼間は明星のような自由な雰囲気の中で過ごしていたので、ある時「そんなきちっと杓子定規に動いたりしませんよ。自分で動いてみてくださいよ! そんな人形みたいな動き方しませんよ!」って言っちゃって、みんなにドン引きされたことがありました。

 明星は自由で解放されていた分、ヘンだと思ったことをハッキリ言える環境でした。当時、撮影仲間だけでなく、表面的には真面目に繕っていても、裏ではいろんなことをしている人が多かったですね。
 明星では、いろんな出来事があったけど(ケンカもしたけれど)、コソコソしている感じが全くなかったし、明るくて和気あいあいとしてた。そこは他の学校と大きく違うなあと思いましたね。







人生の岐路に立った時、救われた言葉

進行: その後、高校は通えなくなっていったのですか?
杉田: しばらく在籍はしていたのですが、とても忙しくなってしまって。通えなくなりました。
宮崎: 私も勉強ができるほうじゃなかったから、だんだん高校生活に行き詰まってきて「もう、
私も高校辞めて女優になろうかな」って思い始めたの。
 時々、かおるが学校に来るときがあったんだけど、ある時、屋上で「もう高校辞めて、女優に
なろうかな。」って言ったことがあった。
 そしたらかおるはものすごく怒って、「ふざけんな。高校も卒業できない。一つのことを全うで
きない人間が、女優になるなんてふざけたこと言ってんじゃない。」「その道にはその道のプロがいて、そんな軽い気持ちで馬鹿にしてんじゃないわよ!」って怒られた。
 その時は、もうその通りだと思って、謝ったのを覚えてる。
杉田: でも、あの時女優さんを目指していたら違う人生もあったかもしれないので、ごめんねっ
て思う。
宮崎: かおるとはいろんなことがって、応援合戦でひどい目に遭って、ズルいよって思うことも
あるけど、「ここはこの人の話を聞かないとダメだぞ」って思えた。
 それは、嫌なことがあるとその人を全否定しちゃう人が多いんだけど、そうではなくて「この
部分はダメだけど、この部分はすごく信頼ができる」っていう、人を全否定しない見方を明星で教わりましたね。
杉田: 私も、中学3年生で『金八先生』に出るようになってからだんだん学校に来られなくなっ
ていったんだけど、さっきの応援合戦の話もそうですが、マコちゃんには本当のことをハッキリ
言ってもらえるのがありがたかったですね。
 私、3・11の後に関東に住むのが嫌になってしまって、それこそ原発の放射能のことが怖くて、
九州の母親のところに家族みんなで移住してたんです。
 それで畑をやりながら自然農の先生にも出会ったし、私はそのまま芸能界の仕事をスッパリ辞
めて、母の実家で何か仕事をしながら暮らそうなんて考えていたんです。
 そうしたら今から10年ほど前の2012年、映画の撮影があってその特番かなんかでNHKで同
級生に出てもらう撮影があったんですが、マコちゃんが同級生を集めてくれて、その時にマコちゃんが「帰ってこい」って。この勢いで「女優を続けろ」って言ってくれたんです。
宮崎: 杉田かおるを好きっていう人もいて、同じくらい嫌いっていう人もいると思うけど、杉田
かおるを知らないっていう人はあんまりいないと思う。
 娘が聴いてる音楽を親は知らないってことがよくあると思うけど、杉田かおるのことは娘も知
ってるし私も知ってる。そいう芸能人って少ないと思うよ。
杉田: マコちゃんが「私だって女優を諦めたんだから、あんたも続けなさいよ」って。
宮崎: あんたに言われて「そんな甘いもんじゃないって思ったんだから、あんたは最後までやっ
てよ」みたいなことを言いましたね。
杉田: 今から10年ほど前には本当に帰って来る気がなかったんですが、マコちゃんに言われて
「まだニーズがあるうちは」と思って帰ってきました。帰ってきて1年目で母が倒れたんですが、
ちょうど関東の病院とかいいお医者様と出会えて、最後まで母を看取ることができたことも良か
ったと思います。

杉田: 再婚するときも、私は前の旦那さんとずっと裁判が続いたから「もう男の人はこりごり」
って思っていたときに、今の旦那さんと出会ったんですが、初デートの時によくわかんなくなっ
て‥‥‥。
宮崎: 「何着てったらいい? 何着てったらいい?」って私に聞いてくる。
 そんな50近い女の人が、張り切ってすごい格好したらおかしなことになるから、ワンピースで行きなって言ったら、「ワンピースは去年のしかない」って。
 男の人が去年のなんてわかるわけないじゃんって言って、でワンピースで行かせたの。
 そしたら、しばらくして今度は「誕生日なんだけど、何あげたらいい」って言ってきた。
 付き合って2ヶ月ぐらいでバカラのグラスなんてあげちゃダメだよって言ったら、「バカラだめなの?」って。で、どこかのお店で話してたんだけど、そのお店のレジの所に「エコ箸」みたいなのが置いてあって、「マイ箸を持ち歩きましょう」ていうコピーがあったの。
 これいいじゃん、こういうのがギャップ萌えっていうんだよ、ってなって、エコ箸をプレゼントすることになったの。
杉田: それが結婚まで繋がったんですよ。
 ご飯をきちっと作ってくれるんじゃないか。芸能人なのにこういう素朴なところがあるんだと
思ってくれて。畑も見てくれて、それで結婚することになったんです。
宮崎: それで今、「あなたのおかげ!」ってすごく言ってくるんだけど、今は上手くいってるから
良いけど、上手くいかなくなったら「あなたのせい」って言うでしょ、って聞いたら、「言う」っ
て言うのよ。だからいつまでも末永く幸せに過ごしてほしい。
川手: 何歳で再婚したの?
杉田: 49歳です。
川手: 何度目なの?
杉田: 2度目です。でも一度目は半年ぐらいでした。
川手: でも、49歳で再婚ってえらいね。
杉田: マコちゃんのおかげ。
宮崎: 今まだいい感じだからいいけど、このまま一生添い遂げてください、って願ってます。
杉田: マコちゃんは、ずっとソウルメイトじゃないけど、同じ時代を生きてきて、まったく環境
も違うんだけど、要所要所で本気で話をしてくれる。こういう何十年も共感できる友だちができ
たのは、明星学園で過ごした財産だと思っています。








最後に、100歳を迎える明星学園に一言

進行: すごく楽しいお話を聞かせていただきましたが、これで最後の質問にしたいと思います。
100歳を迎える明星学園に一言ずつお願いします。
川手: 明星学園はね、僕は『日本近代教育史の中における明星学園」という本を書いたんだけど、
その最初にも書いてあるんだけど、日本の私立学校、特に自由教育の中での明星学園の影響力
って未だに大きな力を持っていると思うし、それは変わらないし、変えてもらいたくない。そして、そのことを多くの人に知ってもらいたい。だから僕は本を書いてる。
 今度書いているシリーズは明星学園のことも書いてあって、もう3巻まで書いている。M学園シリーズ。ここには無着先生も登場するんだけど、そこで子どもたちがいろんなことをする。問題を起こしたりもするんだけど、そこで先生たちがどんな風に子どもたちと向き合ってきたかが書いてあるんだ。この本は日本中の先生に読んでもらいたい。
 当時から明星学園は何か問題がおこった時、罰したりしないわけよ。みんなでどうすればいいか考えてくことを根底に置いていた。やっぱりそこに明星学園のよさがあるなって思うんだよね。
 さっき運動会の話が出てきたけど、ああいう運動会は他ではなかったよね。今はわからないけど、君たちが生徒だった頃の運動会はとにかくすごかった。世間の人たちにそういうことも知ってもらいたいなあってすごく思うし、残してもらいたいなあって思いますね。
進行: ありがとうございました。それでは杉田さん一言。
杉田: 今の川手先生の話にも通じることですが、人の気持ちがわかるようになるには、話し合い
ってすごく大事だと思います。明星で過ごした思い出のなかで、特にロングホームルームの時間
が一番印象に残っています。
いろんな人がそれぞれ自分の意見を持っていて、先生が一方的にしゃべったり、誰かが一方的
に主張するのではなくて、みんなが話し合いの中でそれぞれ自分の考えを述べていく。その経験の中で、人の気持ちを考えられるようになっていったので、みんなで話し合っていく貴重な経験ができたことに感謝しています。
 私も議題に上がったことがありましたが(杉田が掃除をして帰らないのは良いんですか?)、そのことで、「回りの人はそう思ってたんだ」って気づかされた。人というのはいろんな方向から見ていて、いろんな意見を持つものなんだなあ、って明星で学習していたので、だから50年も芸能界の中にいてもぶれなかったっていうか、動じなかったように思います。
 それは芸能界だけじゃなくて、どんな場所でも、人の気持ちをどれだけわかって、どれだけ人の立場になって考えられるかということが、人間として最も大事なことだと思います。そしてそれは、教科書を暗記するだけでは身につかない力だと思う。そういう教育を受けられたっていうことが自分の宝だと思います。
 明星の教育はすばらしいなって、だからこそ100年の歴史が続いたのだと思います。

進行: ありがとうございます。では宮崎さん、お願いします。
宮崎: はい。
 今までの明星学園100年の歴史を創ってきた人が帰れる場所としていつまでもあり続けてほし
い。それが一番の願いです。これからの100年も100年後の人たちが、私が思ってきたような思いを、その次の100年の人たちに語れるような明星学園であってくれたらいいなって思っています。

本日は、本当にありがとうございました。









杉田かおる

【プロフィール】
杉田かおる
70年劇団若草入団。
72年帝国劇場「春の坂道」にて千姫の子供時代を演じ舞台デビュー。同年NTV「パパと呼ばないで」、「あなたのワイドショー」のインタビュアーとしてレギュラー出演。
79年TBS「3年B組金八先生」、80年NTV「池中玄太80キロ」、翌年同番組の挿入歌「鳥の詩」がヒット。
2000年代からはバラエティにも多数出演。「すれっからし」他出版本も多数。オーガニックダイエットの実践を機にローフード、有機農業を学びシードマイスターを取得。
11年震災以降はオーガニックや自然農法などの講演会も行っている。財団法人結核予防会の大使、北海道平取町トマト大使を歴任。佐賀県武雄市の食育アドバイザーを務め、16年観光大使に任命される。日本健康生活推進協会の「健康マスター名誉リーダー」として健康リテラシーを上げるための活動をしている。
20年1月からYouTubeチャンネル「杉田かおるのオーガニックヘルスリテラシーofficial」でユーチューバーとしても活動を広げている。

宮崎眞彩子

こよなく明星を愛する専業主婦。
Face book卒業生コミュニティー管理人

川手晴雄

(経歴)
1970年 立教大学経済学部卒
1972年 明星学園小学校教諭
1977年 明星学園中・高社会科教諭
2012年 同上退職
2012年 東京女子大学非常勤講師
2017年 同上退職
現 明星学園学童保育所名誉顧問
(著作)
・「日本近現代史」   尚昴文化(台湾)
・「私の父はノーノーボーイだった」青山ライフ出版
第16回日本自主出版文化賞 自分史部門賞受賞
・「ノーノーボーイ」  角川書店
・「ピンクの車いすを街の風景に」 エテルナ舎
第21回日本自主出版文化賞 自分史部門賞受賞
・「日本教育史の中の明星学園」 エテルナ舎
・「山崎君に上履きをはかせる方法」freedom
・「太郎君を高校に入れる方法」  freedom