リレーエッセイ第16弾は、杉田かおるさん(女優 卒業生50回生)・宮崎眞彩子さん(明星会会報委員 卒業生50回生)・川手晴雄さん(本校元教諭)による、特別対談の形でお贈りします。
何十年来の親友宮崎さんと久しぶりに明星学園を訪れた杉田かおるさん。学生時代、ドラマの大役をこなしながらも、中学・高校の親友宮崎さんと繰り広げたドタバタ青春記。恩師川手晴雄先生とともに振り返ってくれました。特に、応援合戦でのバトルや明星祭での大事件は現在の生徒のみなさんにも身近な話題として楽しく読むことができるのではないでしょうか。
2人のマシンガントークによって、45年前の記憶が鮮明に語られ、今でも続く「言いたいことを言い合える友人関係」が伝わってくる素敵な対談となりました。
*杉田かおるさん=杉田(敬称略)、宮崎眞彩子さん=宮崎(敬称略)、川手晴雄元教論=川手(敬称略)、
本校教員=進行
進行: 今回は明星学園創立100周年記念リレーエッセイ特別対談にお集まりいただきありがとうございま
す。今日は3人にお任せするので進行は気にせず自由にお話してください。
杉田: ほとんどマコちゃん(=宮崎さん)がしゃべると思うけど。
宮崎: いやいや、どんなことをしゃべったらいいですか。
進行: 明星学園での思い出もお聞きしたいですが、それぞれどのような人生を歩んで来られたのか、そこに
明星での生活はどんな風に影響してきたのかをお聞きしたいです。つまり、現在から過去にさかのぼる感じで
‥‥‥。
杉田・宮崎: そんな。「生き様」を語らせたら1時間や2時間じゃ終わらないわよ。
(現在から過去へと運ぼうと思いつつ、いきなり小学校時代のお話へ)
宮崎: 私は川手先生に特別な思い入れがあるんですよ。
杉田: なに? あ、そうだ、家が近かったんだよね。(宮崎さんと川手先生の)
宮崎: 川手先生には私、衝撃的な思い出があるんです。
杉田: なになに!
宮崎: 私は中学校から明星学園に入ったので小学校時代は明星に通っていなかったのだけど、当時は高井戸に住んでまして‥‥‥。
高井戸から明星じゃない別の学校に通っていたんですが、近所で「原発に反対して電気代を払わない原始人の家がある」っていう噂が流れていたんです。
子ども心に、「どんな人が住んでるんだろう」と思って、見に行ったんですね。
そしたら、顔中ヒゲだらけの‥‥なんか本当にジャングルに住んでるような人がいて、目が合っちゃって。すごく怖い思いをしたんです。で、しばらくそこを通らないようにして小学校に通っていました。
一同: へ~。(宮崎さんの話に食い入る。)
宮崎: それで、中学校から明星学園に入ったんですが、入学式で座っていたら、前の方にあの怖
いおじさんが座ってる。
これから同級生になる子たちが、「川手先生、川手先生」って群がっていて、「地元で見かけた
あのヒゲの怖いおじさん、明星の先生だったんだ!」と初めてわかりました。
(一同、終始大笑い。)
*川手先生は小学校5・6年生で杉田かおるさんのいたクラスの担任をしていて、そのまま
中学校へ移動し、中学1年生(7年生)の担任になられた。入学式の時、内部生は川手先
生のことを知っていたという状況です。
川手: 当時は高井戸に住んでて(後に三鷹市)
杉田: 川の近くに住んでましたよね。川の流れを利用して電気を起こそうとしてた。
宮崎: 地元の子は近寄れない雰囲気だった。
杉田: いろいろ思い出してきた。
私ね、4年生の3学期に明星に編入してきたんです。普通の公立の小学校に通っていたん
ですが、小学校2年生でデビューして、けっこう忙しくなって学校にいけなくなってしまったの
と、当時テレビってすごい影響力があって、すごくたくさんの人が来ちゃうということがあって
困っていたんです。
ちょうどその時に最初のドラマの『パパと呼ばないで』で美術スタッフをされていた方の息子
さんが明星だったんです。その美術さんが「明星学園っていう学校があって、そこはとてもいいところだから」って紹介してくれて。
4年生の3学期に転入試験を受けて転校することになったんです。
進行: そうだったんですね!
杉田: 転校した時の印象言っていい?
一同: どうぞどうぞ!
杉田: それまで通っていた杉並区立の小学校は公立学校なんですが、エリートを育てるみたいな
学校で、同級生もみんないい大学に行っていて、かなり厳しい学校だったんです。もう何か忘れ
物をしようものなら、すぐに廊下に立たされた。
公立時代の思い出は廊下に立たされたことなんですよね。
それが、明星学園に来たらまったく逆じゃないですか。自由で。みんな賑やかで、極端な話、
厳しい公立時代の前の幼稚園時代に戻った感じだった。担任の先生は善方先生っていって‥‥
進行: え! いま常務理事をされている善方隆さんのお父さんの? 善方国男先生ですね。
杉田: はい、4年生の3学期だけ善方先生に教わりました。善方先生は昭和の風格が漂う、学者
のような文化的な雰囲気の先生でした。だから、私が明星に入った時の印象は、「賑やかな仲間た
ち」と、「文化的な匂いのする先生」の2つでした。
進行: なるほど!
杉田: それなのに5年生になったら急にこの先生(川手先生)でしょ。
一同: 大笑い
杉田: 究極のリベラルで、授業でも産業革命がいかにすごいかを熱く語ってた。小学校の授業で、
産業革命だけで半年ぐらい使っちゃう。それと、当時はまだ語っている人が少なかった原発の問
題をすでに言ってた。
宮崎: そんな人を小学生時代に私は町で見かけ、おびえていた。
杉田: でも、5・6年生のときは私が学校にあまり来られなかったので、川手先生は「本をたくさ
ん読みなさい」って薦めてくれたんです。
で、進めてくれたのが「レーニンの本」だったんです。レーニンを読めって!
川手: 小学生にそんな本、薦めるわけないだろ!
宮崎: でも、からだの半分は川手先生でできてるよ、この人(←杉田さんのこと)!
杉田: そうですね。原発のことや、『橋のない川』のお話も先生から聞いて影響を受けました。
*『橋のない川』=部落差別を扱った住井すゑの小説
川手: そうだったね。
杉田: 後は、本多勝一を薦められたんです。
進行: それはかなり影響を受けていますね。
杉田: 受けてますよ。バリバリ。全部読みましたよ。
それから、5、6年生の時に「読め読め」って言われて「何読んでいいかわからない」って言っ
たら、「ロシア文学を読め」って。それで、ドストエフスキーなんかのロシア文学を片っ端から読んでいったら、難しい本しか読めなくなっちゃって。
中学に入ったら、池田修次先生から出された夏休みの宿題が夏目漱石の感想文だったんですが、
『吾輩は猫である』って題名からして読みたくないって感情が沸いてきちゃって、それでメチャクチャ宿題の評価が低くて、国語の点数が低くなっちゃったっていう思い出がありますね。
進行: 今のは杉田さんの小学校時代と川手先生との思い出ですが、宮崎さんはこのときまだ杉田さんと出
会っていないんですよね。
杉田・宮崎:そうです。
中学に上がってから。中学1年生と2年生、高校1年生が一緒のクラスでした。
宮崎: 私も小学校時代は、違うカトリック系の厳しい私立の小学校に通っていました。
「校長先生がいらっしゃいました」って言われたら、校長先生が通り過ぎるまでお辞儀をして
いなくてはいけない厳しい学校だったので、そこが合わなくって6年生の時に外部受験することになりました。たぶん親が無着成恭先生にたどり着いたんだと思います。
それで、6年生の時に受験だからって塾に入れられたんだけど、あまり通わずに下北沢を徘徊
したりしてた。でも、めでたく明星に入れてもらえることになり、入学式で川手先生を見て震え上がったというわけです。