明星学園

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演劇

校長だより
                                
校長 福田純一


 学習発表会が終わりました。衣装等でご協力いただきましたこと、またお忙しい中大勢の方に参観いただいたこと、誠にありがとうございます。お陰様で今年も見ごたえのある素敵な会になりました。残すところあと2週間。子どもたちは、いよいよ3学期の仕上げを迎えています。さて、今回は、劇のことについてお話ししましょう。

 毎年学習発表会で劇を上演していくことは、大変な労力です。劇は大変だから隔年にしてはどうか、学習発表会なのだから劇に限らずもう少し違う内容をやってみてはどうなのだろうか、など昔から何回も議論を繰り返してきています。詩の群読などを扱ったこともありますが、結局、どの学年も毎年劇の上演になります。それは、なぜなのでしょうか。
 一時期、私は国語で学習した作品を劇化し、その作品を再表現することにより、より深い読み取り、より深い理解ができると考え、そうしたところに劇の意義を置いていました。しかし、それだけではだんだん窮屈になり、何かしらの原作を仕立て直すようになっていきました。台本に仕立て直すには、フロアーバランスなど脚本家が考える舞台構成上必要となる定石も本で学びました。中でも、対立を表す場面でのフロアーバランスはとても印象的で、高低差をつけ左右対角線上に配置するなど、以後お気に入りの配置となりました。演劇指導が得意だった高瀬さんや川松さんからもたくさんの手法をもらいました。シルエットの効果、登場人物の導線などシナリオを描きながら、同時に舞台の絵を描きながら進めていました。高学年では、シナリオ委員会なるものを作り、こうした要素も含みこみながら子どもたちと本気で議論しながら進めたこともあります。演劇指導として私は優れた指導者とは言えませんが、過去に上演した「ハーメルンの笛吹き」は我ながらよくできていたと思っています。演技指導においても、身振りと移動は違うこと、動いてから話すことなどなど、ほんのちょっとした違いで一つの台詞を生かすことができるということも学んで行きました。
 このようにして、それなりの劇を上演することはできるようになっていきましたが、肝心の意義については、なかなか見えてきませんでした。昨今、公立学校をはじめとする多くの学校では、授業時数確保という名目で学芸会(劇)の実施がどんどん減ってきています。明星では、創立以来劇の取り組みが行われてきました。これは、成城学園の澤柳精神が貫かれているところです。子どもたちが舞台へ上がり、たとえ短い台詞でも全体の中の一人として役を演じていくことは、大変なことです。まぶしい程の照明が当てられ、観客席はほとんど見えません。そんな中で、一体誰に向かって言葉を伝えていけばよいのでしょうか。他者からの視点を持ち、観客席からどのように見えているのか、そうしたところを想像しながら、言葉を伝える相手の側から眺めなおしてみないことには、言葉が届きません。こちから発せられた言葉は、5mも飛ばずにフロアーに落下してしまうのです。
言語教育と表現活動が切り離せない所以はこうしたところにあると思います。

 平田オリザ氏は、次のようなことを述べています。
 ・諸外国においては、演劇が言語教育の一つの大きなツールとして認められているが、
  日本でだけはそうなってこなかった。その理由は先に揚げたように、演劇の言葉が
  「臭く」「暑苦しく」「わざとらしい」ものだからという一般的な認識から来ている
  のだと思う。
 ・演劇は他者を必要とし、「対話」の構造を要請する。
  (明星の劇では、こうしたわざとらしさを極力避け、言葉のキャッチボール「対話」
   を軸にしています)

 先日、中学校の合唱コンクールに出かけてみました。中学校の先生方から沢山の声を頂いていましたので。久しぶりに出かけてみて、驚かされました。学年合唱と課題曲、クラスで選択した自由曲をそれぞれの学年が発表していきます。思春期真っ盛りの時期を迎えている生徒たちが、真剣に、丁寧に、そして大胆に一曲一曲を歌いあげていきます。数曲の歌には完全に引き込まれてしまい、恥ずかしながら胸が熱くなってしまいました。多感な時期を迎えている中学生だからこそ、一つひとつの過程を大切にする取り組み、人に伝えるということを大切にする表現活動が必要なのだと感じました。来年の合唱コンクールを是非高学年の子どもたちに聞かせたいと思いました。

 大学入試が大きく変わろうとしています。これから求められる力は、英語力、コミュニケーション力、そして表現力です。それぞれの教科の学習を大切にしつつ、劇や合唱をみんなで創り上げることを通して、明星が大切にしてきた文化をさらに発展させていくことが、子どもたちの将来へつながると思います。