明星学園

トピックス(中学校)

お知らせ

〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(6)自由について①

中学校ニュース
*毎日本当に暑いですね。日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第6話目をお届けします。毎週土曜日の10時に配信しています。今回は「学校において自由とは何か」について考えていきます。

(中学校副校長 堀内雅人)


6 自由について①

みなさん、おとなと子どもとではどちらが自由だと思いますか? こんな質問をすると意見が分かれるだろうと思います。「子どもは仕事をしないでもすむ。遊んでいてもいい。大人にはやらなければいけないことがたくさんある。たぶん重い責任というものがあるのだろう」。一方こんな意見も出てくるでしょう。「子どもは親の言うことを聞かないといけない。お金を稼げないから、自分で好きなものを買えないし、好きな場所にも行けない」。「では、お金があれば子供も自由?」 私たちは、自由と言う言葉をどこか漠然と捉えているように思います。

では、こんな質問をされたらどう答えるでしょうか? 「生徒の自由を大切にする学校についてどう思いますか?」 数年前、教員を目指している大学生たちに問いかけたことがありました。意見が分かれました。とても大切なことであると答える学生がいる一方、「自由だけでは怖いと思う。自由を第一に考えていたら秩序がなくなってしまうのではないか。先生が大変そうで不安」。こんな回答も少なくなかったのです。これはある面で当然なことのように思います。「自由」をどうとらえるかによって全く異なる意見になりうるのです。互いの意見はすれ違ったままです。

自由とはもともと獲得するものでした。与えられるものではありませんでした。それがいつの頃からか、何でもあり、わがままといったマイナスのニュアンスでとらえられることが起こるようになってきました。現代の学校教育の中での「自由」とはいったい何なのか、まず私の考えを述べておきたいと思います。

学校の中で理不尽な校則がないこと、制服がないといったことは、自由な学校の表面的な事象であって、それをもって自由な学校と言えるわけではありません。自由の本質は、生き方の問題にあります。自分、そして自分をとりまく周りの人間ができるだけ幸せになる選択を自らの責任と意思で選び取ることができることこそが自由であると定義したいと思います。

そこには他者の自由を侵す自由はありません。自分を粗末にする自由もありません。自分さえ良ければという発想からは、結局は他者からの信頼を得ることはできず、自分の幸せにはつながってはいきません。ただ、幸せというものを具体的に考えていくとき、それがだれにとっても同じではないという困難さにぶつかります。それを乗り越えるためには他者の心を思いやる想像力が必要です。

もちろん自分のことでいっぱいいっぱいの時、そんな余裕がないということも当然のこととしてあります。でも、他者の心を想像することは自らの心を客観視することでもあります。異なる視点でものを観ることができなくてはなりません。

自分や周りの人にとって何がより良い選択か自分の頭で考えられること、そしてその先に進んだとき、自らの意思と責任で進む路を決めることができるようになること、このことこそが「自由な学校」の存在理由なのではないかと思うのです。

選択肢が多いというだけでは、人は身動きが取れなくなってしまいます。自分で選ぶためには、知識も、勇気も、他者との信頼関係も、知恵もなくてはいけない。それを授業や行事、さまざまな活動を通して獲得していくことが、中学校時代の目標であると思います。

このように考えると、初めから自由があるわけではなく、学校は生徒一人一人が「自由になる」ために「自由に生きる」ことができるために存在することになります。それは「おとな」になるということでもあります。ここでいう「おとな」とは、もちろん年齢上のことではありません。「自由」の裏にある「責任」をしっかりと受け止めることのできる人間のことです。責任のない役割というのは楽です。でも、楽しくありません。そこには自分の意思、自由がないからです。必然的に他者からの評価を気にする生き方になってしまいます。逆に、自分の意思で行動することは楽ではありません。失敗したらという不安が必ずつきまといます。努力しなければなりません。しかし、勇気をもって自ら考え、行動することは、その結果が必ずしも自分の思い描いたものとは違ったとしても、楽しいことなのではないでしょうか。そのような意味で「自由」を生き方の問題であると述べたわけです。



数年前、卒業を迎える中3の国語の最後の授業で、大澤真幸の『もうひとつの自由-思考のヒント-』の一部を読みました。エンデの作品に『自由の牢獄』という童話があります。かぎのかかっていない、無数の扉のある部屋に入れられた男は、ついにどの扉を開けることもできなくなってしまうという寓話が語られます。自由と言われる現代社会において、「決められない」ということが何かキーワードになっているような気もします。「ニート」「ひきこもり」「自分探し」といった言葉を持ち出すまでもなく、自分や現実とかけ離れたところに責任や理想を求め、そのせいで逆に身動きがとれなくなっている空気が充満しているように思うのです。

中学校最後の期末試験、時間が余った人のためのボーナス問題として次のような設問をつくってみました。

あなたが考える「自由の困難さ」とは何ですか。いくつかの具体例をあげながら、わかりやすく説明しなさい。また、それに対する現時点でのあなたの意見があれば述べてください。

(*次回は生徒の意見をご紹介します。8/14配信予定です。)