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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(28)国語の授業『千羽鶴』(重松清)①生徒と協同で読む

中学校ニュース
*〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第28話をお届けします。4回にわたり、中学校の定番教材である『走れメロス』の実践報告をお届けしてきましたが、今回は重松清の作品と中学生がどのように向き合ったかをお伝えします。重松作品は中学校入試でもよく取り上げられ、また教科書教材ともなっています。
しかし、今回取り上げた「千羽鶴」(『きみの友だち』所収)は、教科書教材としては取り上げづらい作品のようです。教科書会社の営業の方に伺ったところ、中学生の心理をリアルに描いたすぐれた作品だと思うけれど、どのように扱ったらいいのか現場の先生方が戸惑ってしまうのではないかとおっしゃるのです。そんなものかと思いながらも、こういう作品こそ生徒を信じて、教室という場で共同の読みをすればいいと思うのです。
中学3年生がどのように作品と向き合い、そして自分と向き合い、何を感じ表現したか、ご一読いただければと思います。

(中学校副校長 堀内)



2 国語の授業―『千羽鶴』(重松清)を生徒と共同で読む<中3‐1学期の実践>


『きみの友だち』(重松清)は、小中学生を登場人物とする10の短編連作から成り立っています。一つの世界を描きながら、語り手が寄り添う人物はその短編ごとに変わります。つまり、異なる視点によって一つの世界が語られていくのです。どの登場人物も、まさに現実のどこの教室にもいるような生徒です。おそらく中学生にとっては作品と現実世界を、登場人物と自分自身を重ねてしまうことになるでしょう。

このように生徒にとって身近すぎる作品というのは、教材として難しいことがあります。初読の段階で拒否反応を示す生徒が現れます。自分の現在置かれている位置によっては、沈黙してしまう生徒も出てくるでしょう。でも、裏を返せばそれだけインパクトが強いということでもあります。私は、10の短編の中でもとりわけ、言葉に強烈な力のある、できれば目をそむけたくなるような中学生の心理を描いた『千羽鶴』を中3の教材として選びました。この作品で、共同の読みの空間を成立させるためには、表面的な読みの交流では許されません。何より、一つの言葉について、表現について着目させなければなりません。前年度、『走れメロス』を経験した学年です。

私は1つの節ごとに、「気になる言葉に波線をどんどん引いていきなさい」という指示を出しました。「線を引くか引かないか迷ったら、引いてしまっていいよ」と付け足しました。作業のハードルが下がったからでしょう。生徒はどんどん線を引いていきます。次に発表です。ある生徒が一つのフレーズを発表します。「同じところに線を引いた人はいますか?」多くの生徒が手を挙げました。発言者のほっとした表情が印象的でした。「なぜ、その部分に線を引いたの?」対話が始まります。


この単元の最後に、生徒に次のようなまとめの課題を提示しました。「たくさん引いてもらった波線の中から、これはと思う言葉を一つ選び、何を感じたかを書きなさい。」

生徒から提出されたものの中からいくつかを紹介します。


<『千羽鶴』あらすじ>

西村さんは中3の9月に今の中学校に転校してきた。前の学校では、ひどいいじめにあっていた。彼女はみんなとうまくやろうと新しいクラスで精いっぱいの気を遣う。クラスには入院中の由香ちゃんがいた。西村さんは彼女のために、みんなで千羽鶴を贈ろうと提案、クラスのほとんどの女子がそれに賛同するが、盛り上がったのは最初の二日間ほどだけだった。一人折り続ける西村さんはしだいにクラスの中で浮いてきてしまう。そんな中、初めから千羽鶴を折ることに参加していなかった唯一の女子生徒、恵美ちゃんの言葉が、西村さんの心を揺り動かし始まる。



《西村さんの言ってる『友だち』って意味よくわかんない》  K.H.くん

同じ言葉をテーマに、これを書いている人も多いだろう。そう、それだけこの言葉は我々の心に刺さったのかもしれない。「友達」。そう、友達という臨機応変自由自在に使える言葉は、「普通」その他に並んで実に汎用性に優れている。決して悪い言葉とはいえないが、大体(私もそうなのかもしれない)友達とも思っていないクラスメイトや知り合い等に対して使うことが非常に多い。本編にもあるが「言葉はバンソウコウだ~前の学校では、言葉はナイフだった。」とある。果たして本当にそうなのか? 否、私はそうは思わない。読んでいるうちに腹立たしかったほどである。

「みんな」という言葉がある。この言葉も相当汎用が効くと思われる。「みんなはこうしてる」「みんなは言ってるよ」「みんなの中で流行ってるよ」。私も幾度となくこの言葉を使っただろう。何故憤りを隠せないのか? 私はこの言葉を使っていることが恥なのだ。実はこの言葉には弱点が存在する。それは、「自分の意見を伝えられない」のである。「みんなやってるよ」、「友達は言ってたよ」。自身の表現を伝えられていない。「みんな」という型に、自分がはまっているためだ。本当は自らの意見を述べたいのに、「みんな」に合わせないといけないという雑念にとらわれ、言葉のキャッチボールさえままならない。今まで、それに気付くことは無く使っていた言葉だったが、和泉のこの台詞によって気付かされた。

何故今までこのことに気付かなかったのか。なんとすっぱり斬ってくれる文章だろう。同時にこれまで使っていた言葉に、私は恥ずかしくなってしまったのだ。だが、この言葉のおかげで気付けたのだ、助かったのだ。これからは自分でモノを言える。自分の気持ちを伝えることができるのだ。もし、私だけでなく、「みんな」がそうだったら、どんなにすばらしいことだろう。



《西村さんは、友だちたくさんほしい人でしょ。》《一生忘れたくないから、たくさん思い出欲しい》    Y.K.さん

わたしは友だちがたくさん居る訳ではない。だれかれといっぱい友達になりたい訳ではないが、何でも素直に話せる親友が一人居る訳でもない。

だけど、西村さんの気持ちはちょっとだけわかる気がする。私もクラスの“みんな”と友達になりたい時があった。みんなに嫌われていないと思いたかったからだと思う。文中の西村さんみたいに、数人の中だけの『秘密のお話』とかしたら、その子と周りの子たちとの『特別』になれた気がしたし、嬉しかった。

でも中学に入ると、それがメンドくさくなってくる。その子たち以外と遊んではダメーとか、秘密守れーとか、一緒にお弁当、買いパン、帰る時も最後まで居なくちゃダメだし、道が違っても、遠まわりでも一緒に、トイレ、休み時間、遊ぶときは一人も欠けちゃダメとか、なにちゃんがウザいとか、メンドウで。

だから、そんなコトしなくても良い人が欲しい。分かってくれる人が、それで今は探し中なのだと思う。この中とか、これから会う人の中とかから。



《『みんな』が『みんな』でいるうちは、友だちじゃない、絶対に》   Y.N.さん

私は、この一文を読んだ時に、「あっこれだ」と思った。誰もが必ず考える友達とは何かという疑問。今まで、自分では表現できなかった、「友だち」についての考え方が、この一文とぴったり重なった。

「みんな」という言葉は、特定の人物をつくらず、全体の焦点をぼかしてしまう。便利だが、実際はとても扱いにくい言葉だと思う。私は、「友だち」とは、その人のことが好きになって、なるものだと思う。だから本来、友達のことを「みんな」とひとくくりには表せないはずだ。「みんな」と表してしまうと、一人一人としてではなく、集団として表すことになる。恵美ちゃんは、そんな一人一人の顔のない「みんな」という友達よりも、「いなくなっても一生忘れない友だちが、一人いればいい」と、そう思ったのだろう。私もその考え方に賛成だ。

集団でいることには、利点も弱点もあると思う。その他大勢の人にまぎれ、個人でいなくても良いという心強さと楽さ。また、集団でいることの窮屈さ。私は、一人になりたいと思った時には、一人でいられる、そんな強い自分をもった人になりたい。そして、友達もそんな自分を分かってくれるような人々であって欲しいと思う。



☆次回は、さらに7名の中学生の声をお届けします。

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