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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(35)中3「卒業研究」の実践-③早稲田中学校の実践

中学校ニュース
*まん延防止等重点措置がさらに延長されました。中学校では期末試験期間が始まりました。卒業式もまもなくです。例年ならば卒業制作の作品に囲まれ、中学生全員で合唱し、さらに卒業生による熱い思いのこもった学年合唱でお開きとなるのですが、今年は合唱することが叶いません。それでも、一生の思い出に残るような卒業式になるよう準備を進めています。

さて、〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第35話は、『中3「卒業研究」の実践』の3回目です。

(中学校副校長 堀内雅人)


1 中学生の「卒業論文」との出会い(第33話)

2 中学生の「卒業論文」を提案(第34話)


3 早稲田中学校の実践

この実践を実現するに当たり、参考にさせていただいたのは早稲田中学校(新宿区)の取り組みでした。私が初めて「中学生の卒業論文」という言葉に出会った、あの学校です。研究テーマを複数の教員に相談しながら絞らせていくことや中間報告の持ち方など細部にわたる実施要項が早稲田中・高等学校の紀要『早稲田―研究と実践―』創刊号(1971年)に報告されていました。何度か私も早稲田中学校に足を運び、貴重な資料をいただくとともに、学校全体として取り組むことについての困難さを含めた当時のお話をうかがうことができました。中学生に論文を書かせる学校というのは、まだまだ少ない時代でした。

前掲の紀要の中で私は、早稲田中の3年学年主任(担任)会が奇しくも私達と同じ大月、嵯峨塩鉱泉で学年初めの合宿研究会を持ち、卒業論文を書かせるという取り組みが提案されたのを知ります。もう一つ、驚きがありました。この早中の実践について当時明星学園小中学校の教頭であった無着成恭氏の否定的な意見が紹介されていたのです。この試みの実質的な牽引者であり、報告者でもある国語科の小山荘司氏は、「『卒業論文』というやや誇張のひびきをもつ名称や、われわれの意図に反して新聞、テレビ等ジャーナリズムのメディアに媒介された独特の印象のために、若干真意を誤解された面があることは否定できない」としながらも、無着氏の意見を紹介しています。明星学園内での否定的な意見もおおむね氏の意見に通じているところがあるように感じました。そこで多少長くなりますが引用することにします。


<テレビに出演した折、アドバイザーとして出席していた無着成恭氏が、最後に「中学生の書いたこのような“卒業論文”―これは(言葉の真の意味での)論文ではありません」というような意味のことを述べ、時間切れのため反論や突っ込んだ討論の場が持てず、大変残念であったことを思い出す。

最近の無着氏の発言から推し測ると、このとき氏が言いたかったのは、次のようなことではないかと想像される。「戦後は生活単元学習などが提唱され、生徒の即自的な興味や生活経験から出発して問題を追究していく方式が盛んだった。その中で、教師の情熱や努力によって、確かに生徒等の自由な想像力・創造性は開花されたが、真の科学的精神は定着しなかったのではないか。今日必要な教育はいたずらに大きなテーマに向かって想像力を振り回させるより、生徒の発達段階にふさわしい、より基礎的な科学の原理・法則性を一つ一つ体系的に教えていくことではないか―」。

むろん、われわれもまた、生徒等の「卒業論文」を、その結果としての作品(論文)自体の価値において評価しているわけではなく、既に、何度も述べたような目的意識をもって、生徒等が一つのテーマに自己をぶつけ、知識の体系の森の大きさに迷いつつも自己発見と自己変革をくりかえす、人間形成の具体的過程(プロセス)そのものにこそ評価の重点を置いていたのだが、この点については討論の機会を失ってしまった。>(前掲紀要「中三卒業論文の試み―その評価をめぐって」小山荘司)


ここに紹介されている小山氏と無着氏(小山氏の想像する)の一見対立する二つの意見は、実は教育を語る上で最も重要な2本の柱であると私は考えています。教科教育の基本は<より基礎的な科学の原理・法則性を一つ一つ体系的に教えていく>ところにあると私は思います。生徒の発達段階に応じて、どのような課題系列を作るか、どのような学習材を準備し、共同の学びができるシェーマを用意できるか。仮説・議論・実験・検証・・・。一つの課題を学ぶことが更なる次の課題へと繋がっていく授業の流れ。子どもは、いや人間というものは時代の空気に流されやすいものです。何が正しいことなのか、誰を信じればいいのか、自分の頭で考えているようで、知らず知らずのうちにその時代の、その場の空気に同調していきます。<科学的に>ものを観る眼を育てることは、ますますこれからの時代にも必要性を増していくことでしょう。

しかし、それだけで十分であると考えるのはあまりに理想主義的であるようにも思います。目の前にいる生徒を見る時、彼らが必要としているものが<目的意識をもって、生徒等が一つのテーマに自己をぶつけ、知識の体系の森の大きさに迷いつつも自己発見と自己変革をくりかえす、人間形成の具体的過程(プロセス)そのもの>にあることを一方で強く感じます。おそらく無着氏もそのようなことは人一倍感じていたはずです。にもかかわらず、マスコミの切り取りはわかりやすい二項対立を求め、人はその関係性の中で語ってしまいます。

前者と後者、どちらが正しいかといった問題では無論ありません。教員にとって大切なことは、この二つの視点を持っていることだと思うのです。二つの視点を持ったうえで、今不足しているのはどの部分なのかを感じる感性、そのことを意識したうえで、目の前にある取り組みの目標をどこに置くのかを決めることです。


両者の考えを浅くとらえるとき、わかりやすい対立の構図が浮かび上がってきます。「それでは、教師中心の授業じゃないですか。生徒が積極的に意見を言っていても、所詮教師に動かされているだけですよね?」「目の前の課題を考えているだけで、それが何の役に立つのか、何のために勉強しているのか生徒には見えてこないですよね。それで主体性というものは育つのですか?」

別の立場の人は逆にこんな質問を投げかけるでしょう。「それで力はつくのですか? 勉強した気になっているだけなのではないですか? 義務教育の時代には全員が学ばなければならないことがあるはずです。そもそも、学校で学ぶ意味は何ですか?」

これらが表面だけの批判であることはご理解いただけるでしょう。不十分な実践を互いに批判すればこのようなことになります。本当はどちらが正しいかではなく、生徒にとってはどちらも必要だと思うのです。

小山氏が<時間切れのため反論や突っ込んだ討論の場が持てず、大変残念であった>と感想を述べておられるのは、まったくその通りだと思います。表面的な部分ではなく、生徒の成長や認識という観点から、深く議論を掘り下げていくとき、必ず共通理解する地点へと降りていくことができると思うのです。

しかし、教育論というものは、いかに提唱者が深い思考を重ねていても、それが広がっていくうちに二項対立的な議論へと矮小化されていきます。分かりやすい議論はマスコミにも取り上げられ、一般の人たちの話題にもなっていきます。経験主義か系統主義かという問題もそうです。浅い意味の「経験主義」と同じく浅い意味の「系統主義」は互いに、いくらでも批判の言葉を述べ立てられるでしょう。

あれだけ持ち上げられた「ゆとり教育」が学力低下を招いたということで、短期間のうちに否定されていったのも同じことです。マスコミに取り上げられ、評論家が分かりやすい切り口で発言します。賛成か、反対かを分かりやすい資料を用いて説明します。その資料が確かなものか、分析の仕方におかしなところがないかは問われません。世論が形作られ、教育政策にも影響を及ぼします。あるいは、先行する教育政策に表面的で分かりやすい部分において追随する解説が生まれます。国の教育政策が変更され、検定教科書が改訂されるたびに、教育現場は右往左往させられます。

そもそも、「わかりやすい」という言葉は曲者です。本当に大事なことはそれほど単純ではありません。学力とは何を指すのでしょうか? 教えたことをどう評価することができるのでしょうか? 中学生にどのような力をつけ、どんな大人になってほしいと願っているのでしょうか? もちろん、これが正解といった答えのある問題ではありませんし、それを押し付けられるようなことはとんでもないことです。しかし、その一つの正解のない問いに対して、一人一人が誠実に考え続けることこそが大切だと思うのです。そして、考える前提となるのが学校での日々の実践であり、目の前にいる生徒の姿なのです。さきほど本当に大事なことはそれほど単純ではないと言いましたが、このような意味で使うならとても単純なことだと言い直すこともできます。どんな立派な教育学者や教育評論家の先生方も現場の先生以上に現場を見ることはできません。現場の教員は彼らの主張に真摯に耳を傾けつつも、自らの感性、生徒を観る眼を鍛え、自ら考えるべきだと思うのです。(次回に続く)