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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(36)中3「卒業研究」の実践-④なぜ中学生に『卒業論文』か?

中学校ニュース
*すっかり春めいてきました。来週の火曜日は中学校の卒業式です。例年のような合唱の卒業式というわけにはいきませんが、きっと感動的な式になることでしょう。

さて、〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第36話は、『中3「卒業研究」の実践』の4回目、『なぜ中学生に「卒業論文」か?」 それは、中学生を前に日々悩み、葛藤する中学教員が、それを克服するために考え、直接子どもたちに語り掛けた記録でもあります。

(中学校副校長 堀内雅人)


1 中学生の「卒業論文」との出会い(第33話)

2 中学生の「卒業論文」を提案(第34話)

3 早稲田中学校の実践(第35話)


4 なぜ中学生に『卒業論文』か?


卒業研究の取り組みが始まり10年を超えた2008年、学年の独自性とは別に、もっと大きな共通な目標を提示したく、次のような資料を生徒、教師全員に配布することにしました。


『卒業論文』の執筆に向けて(2008.5.7)


今年度の9年(中3)生には、「全員が原稿用紙20枚程度の卒業論文を書く」という年間課題を提示する。自分の興味・関心のあることをより深く掘り下げ、あるいはふだんから疑問に思っていたことを調べ上げ、自分の考えをまとめていくわけだ。たやすい作業ではない。

本来、卒業論文とは、ある分野を専門的に学んだ大学生が自ら研究テーマを考え、担当の教授の指導のもとに書きあげるものをさす。義務教育の最終段階で君たちに挑戦してもらう『卒業論文』とは、おのずと目的は異なる。

では、なぜ9年の時期に『卒業論文』を課すのか。まずはじめに、その目標とするところをここで確認しておきたい。



①「なぜ?」という疑問を大切にしてほしい

意味のある、大切な「疑問」というのは、自分の頭で必死に考えようとする人のもとに降りてくるものだと思う。テストの点数さえよければいいと考える人の頭ではない。深く考え、ある一つのことが分かったと思ったとき、また別の、もっと大きな疑問が浮かび上がってくる。人の意見を聞きたいと思う。参考になる本を読んでみたいとも思う。いろいろなものが、しだいにつながり広がっていく。とても楽しい営みである。

日常の授業の中に、あるいはその延長線上にそういう世界を求めたいと私は思うし、君たちにも求めてほしいと思っている。そのような意味で、「自分の感じた疑問を選び出し、テーマに決める」それ自体が一つの目標になりうると私は思う。ただ、あくまでもそれは疑問という名の小さな種でしかない。

もちろん、この半年でその種に花を咲かせよなどという大それたことを言いたいわけではない。それは研究者が多くの努力と時間をかけてなしていくことだろう。現実の社会や、自然科学、人間をとりまくあらゆるものに対して、「なぜそうなのか?」「本当にそれでいいのか?」という疑問を持ってほしいと思うのだ。そのことで、一面的に見えていた物事や現象が多層的で、多面的なものになってくる。

ならば、疑問の種を、中身のしっかり詰まった重みのある種にしてほしい。そのためには、実際に期限内に書きあげるということが絶対に必要なのだ。「もっと時間があれば……」誰もが言う言いわけである。確かにそうだろう。しかし、理想は常に現在の先にある。自分にとって不満足な出来栄えであったとしても、期限を決めて書くことで、当初の疑問は磨かれていく。思いつきであったかもしれない「疑問」を本ものの疑問に磨き上げていってほしいと思う。そして、ただ一つの答えの見つからないかもしれない大切な疑問の種を持って、中学校を卒業していってほしいと思う。


②“授業”の延長線上に

日常の授業の中では、どの教科においても学習材(教材)が用意され、課題が与えられる。自らの考え(仮説・予想・初発の読み…)を持ち、他の人の考えと交流しあい、また一方で先生から必要な知識が与えられる中で結果を導き出し、あることがらを理解していく。あるいは、自分の読みを深めていく。

これは一つの“学び”のスタイルである。授業以外の日常の中においても適用できるものである。もちろん「疑問」という名の課題は自分で見つけなければならないが、学び方を知ることはすべての教科共通の目的でもある。

自分の考えなしに正解のみを人から求めようとするなら、何の疑問も葛藤も生まれない。何のためらいも躊躇もなくそれを受け入れてしまえば確かに小テストの点数は上がるかもしれない。でも、それは本当の“学び”ではない。複雑な現代社会の中にあって、それでは時代や人の流れに身をまかせることしかできないし、何より、自分がどこに進んでいるのかも見えなくなってしまう。

逆に自分の狭い考えにとらわれすぎ、他人の意見に聞く耳を持たないなら、たとえそれが一面正当性のある意見だったとしても他の人にうまく伝えることはできないし、その考えを深めるには至らない。

自分の考えを深めるには、自分とは違う人(他者)の存在が是非とも必要なのだ。今回の『卒業論文』では、そのことを実践してほしい。疑問はいろいろな人に投げかけてみるといい。先生だけでなく、学校の仲間や家族や、そのほか誰にでも。そして、授業の中の先生の役割をしてくれるのが書物(参考文献)だ。知識を得なければ、自分の頭で考えることもできない。また、さまざまな参考文献は異なる意見を言い合うクラスの仲間でもある。星の数ほどある参考文献の中から、良き教師を、そして君の意見とは違うことを言ったり、君の意見を支えてくれもする複数のクラスの仲間を見つけてほしい。学校図書室だけでなく地元の図書館も大いに利用し、司書のかたがたにも協力を求めよう。


③「他者と出会う」ことから「他者に伝える」ことへ

8年(中2)の夏季行事では、奥阿賀で民家泊をした。東京とは環境の違う農村で、しかも初対面の人のお宅に二泊お世話になった。日常とは異なる場所で、だからこそある戸惑いを感じつつも、民家の人の素朴な人柄に触れ、自分自身の、あるいは自分の置かれている環境を見つめなおすきっかけになった人も多かったように思う。

11月には職場体験があった。民家泊とは違い、お客さんではいられない。中学生であったとしても、その5日間はたしかに「職場の人間」にならなければいけなかった。「ふだんの自分」では通用しない。そもそも「ふだんの自分」とは? はたしてそれは「本当の自分」なのか? 職場体験で自分の新しい面を見つけたという声を何人もから聞いた。

自分を知るためには、自分とは違う人(他者)の存在が是非とも必要なのだ。

そして『卒論』執筆である。今度は自分の考えを文章としてまとめ、他者に伝えるのである。これが3番目の目標だ。そのために、今回は全員の文章を印刷製本する。当然読者は不特定多数を想定しなければいけない。4階の中3の各教室には10年以上前の9年生が書いた『卒業論文集』が置いてある。彼らは自分の書いた文章が10年以上後輩の9年生に読まれ、参考にしてもらえることなどこれっぽっちも考えてはいなかっただろう。でも、文章にして残すということはそういうことである。君のことを全く知らない人に読んでもらうことを想定しなくてはいけない。

「自分とは関係ない人のことなんか知らねえ」と言わないでほしい。他者を意識することが、自分の考えを深めるためのアクセル代わりになってくれる。そして何よりも「自分とは関係ない」と思っていた人に伝わったときほど嬉しいことはないのだ。

相手は、君の選んだテーマに興味を持っていないかもしれない。いや、持っていないと考えた方が賢明だ。知識だって、論文を書く君に比べ、はるかに少ない読者は多いだろう。そのテーマの持つ面白さに気づいていないのだ。そんな相手にどうすれば興味を持って読んでもらえるか。最初の数行を読んだだけでパスされないためには、どんな書き出しをすればよいか。内容がいかに素晴らしくても、読者を馬鹿にしたような書き方をすれば、たぶん読んではもらえないだろう。世の中には上には上がいる。すごい研究者がいることも知らずに偉そうなことを言うのはある意味、恥ずかしいことだ。どうすれば年下の人にもわかりやすく伝えられるか。そこが腕の見せ所だ。

『論文』を書いていく途中では、担当の先生が最良の他者になってくれるはずだ。「何を伝えたいの?」「言葉が難しくて、よくわからない。」「これ、本当に自分の考え? 他人事のような書き方だ。誰かの文章を持ってきただけなんじゃないの?」「ありきたりな考えで、つまらない。」 先生は助言はしてくれても、代わりに文章を作ってくれるわけではない。さまざまな注文がくるだろう。それに、いかに応えていくかが求められる。そのためにも自分から働きかけなければいけない。授業の中での〔先生―生徒〕の関係とは違うのだ。もしかしたら、ある意味反対の関係になるのかもしれない。


④一対一で向き合える関係を(「みんな」から「一人の自分」へ )

重松清の短編集『きみの友だち』の中に、次のような一節がある。≪そういう子(嫌な子)はいつだって「みんな」の中に隠れて、にやにや笑っているのだ。/きみ(恵美)は「みんな」を信じないし、頼らない。一人ひとりの子は悪くない。でも、その子が「みんな」の中にいるかぎり、きみは笑顔を向けない。≫

君たちには、場の空気に合わせ、「みんな」から外れないようにふるまう輪郭のない個人ではなく、欠点がたくさんあろうと(人間なんだから当たり前だ)、かけがえのない一人の個人になってほしいと思う。その時はじめて、ただの群れ(一見、仲の良いグループに見えるかもしれないが)ではない、本当の意味での人と人との関係を築いていくことができるのだと思う。頭ではわかっても、実際はとても勇気のいる難しいことだということは分かっている。自分のことを振り返ってみても、偉そうなことは言えない。だからこそ、全員の目標としてこのことを挙げたい。

先日のL.H.R.で、論文のテーマになりそうな興味、関心ごとをクラスごとに発表してもらった。学校での多くの時間を一緒に過ごしている人でも、改めてそんなことを考えていたのかと新鮮な驚きをもった人もいたのではないだろうか。でも、そこから対話が始まる。そんな小さなことが大切なのだ。本当に大切な友だちであるなら、その人が頑張って書こうとしているものにも興味があるはずだ。話を合わせてあげるのではない。全く逆だ。良き他者であってほしいのだ。感じ方は絶対に違う。だからこそ意味がある。論文執筆は、個人の作業であって個人の作業ではない。そのプロセスには、さまざまな他者との出会いがある。ただ、「みんな」の中の自分でいる限り他者とは出会えない。だからこそ完成した文章だけではなく、その途中経過についてもできるかぎりみんなの目につく所に掲示していきたいと思っている。理解してほしい。

また、担当する先生にとってもそんな生徒と語り合うことは楽しいことなのだ。良い時間を作ってほしい。良い空間を作ってほしい。くれぐれも「みんな」で相談に行くことのないように。休み時間や放課後の教室や職員室でそんなやり取りがあちこちから聞こえてくるなら、どんなに素敵なことかと思う。

(その2~本日配信~に続く)