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〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(39)中3「卒業研究」の実践-⑦最も大切なテーマ探し(その2)

中学校ニュース
*新年度が始まります。この時期はいつもワクワクします。皆さん、引き続きよろしくお願いします。

〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第39話は、「卒業研究の実践」の第7回、テーマ探しに悪戦苦闘する生徒の姿の2回目をお届けします。毎年のように忘れることのできない生徒のドラマがあります。それは単に研究が深いとか文章が上手いとか、そういうこととは別の人間としての成長をそこに見ることができるからでしょう。

(中学校副校長 堀内雅人)



1 中学生の「卒業論文」との出会い(第33話)

2 中学生の「卒業論文」を提案(第34話)

3 早稲田中学校の実践(第35話)

4 なぜ中学生に『卒業論文』か?(第36話)

5 『卒業論文』から生徒全員の『プレゼンテーション』へ(第37話)

6 最も大切なテーマ探し~その1(第38話)



(前回から続く)

7 最も大切なテーマ探し~その2(第39話)



こんな生徒もいました。20年以上前に卒業した生徒です。彼女の持ってきたテーマは『どうすれば痛くない注射針を作れるか?』。職員室に相談にやってきた彼女は、自分がどれだけ注射が嫌いか、蚊の針を応用すれば痛くない注射針を作れるのではないかと、得々と語るのです。おもしろいなあと思いました。身近な自分自身の実感から生まれる、こういう素朴な疑問こそ大切にしてあげたいなと思いました。近くにいた同級生も話の輪に加わり、盛り上がっていきます。「そうだよな。蚊に刺されると痛いとか言うけど、刺されているときは気がつかないよな。刺された後、痒くなるけど。」「あんなに細い針だけど、血液が中を流れているんだから確かに応用できるんじゃない?」誰もが一度は思い浮かべるような疑問、それでいてすぐに日常の中で消えていってしまうようなちょっとした思いつき、それを上手くすくい取ると面白いテーマが見つかります。

もちろん、こんな声が遠くから聞こえてきていたのも事実です。「中3にもなって子どもっぽいテーマだな。新聞を見れば政治のことや経済のことなど重要な問題がたくさん出ているのに。」教員の側の感性が問われます。彼女を担当した理科の先生は立派でした。一緒に参考文献を探し始めてくれました。そして、国立感染症研究所に問い合わせをしたのです。すると、その研究は現在まさに最先端の研究であること、そしてそういう疑問を中学生が持ち、調べようとしていることを大変褒めていただいたというのです。研究所の先生に紹介していただいた文献は、どれも専門書で中学生には歯が立つものではありませんでしたが、それでも担当の先生に手伝ってもらいながら、一つの論文を仕上げました。

一見子どもっぽく見える疑問が、実は最先端の科学研究に繋がっているという事実は多くの示唆を与えてくれます。彼女は学問の入口に立ち、そこに何があるかわからないながらも学問の持つ奥深さを感じることができたのではないでしょうか。それから数年後でした。私は車の中でラジオから流れるニュースを聞きながら思わず声を上げてしまいました。「蚊の針を応用した注射針がついに開発されました!」今すぐにでも、このテーマで論文を書いた卒業生に報告してあげたい、そんな気持ちでした。



もちろん、中には全くテーマの決まらない生徒もいます。「僕には関心のあることなんかない!」「どうせできっこない!」やる前からネガティブです。反発するのであれば、いろいろ話の持っていき方もあります。不安なのであれば、先輩たちの具体例を話してあげることもできます。ただ、挑戦しようとするエネルギーがないというのは、一番困ったことです。卒業研究以前に、生活すること自体が心配になってきます。ただ、14、15歳ごろの男子の中には時折、こういった生徒が現れます。特に能力がどうこうということではありません。先が見えず、殻に閉じこもってしまっている状態というのでしょうか。しかし、卒業研究に関する対話を続ける中で、それを突破できることもあります。

一人、今でも忘れられない生徒がいます。とてもおとなしい男子生徒がいました。おとなしいというより、無気力なといった方が正確かもしれません。先生に反抗したり問題行動を起こすということもありません。彼がなぜそうなっていたのかはよくは分かりません。小学校時代はもっと快活だったという話を聞いたこともあります。その子が中2の終わり頃、なんと学校に麻雀を持ってきたのです。ゲームではありません。本物の麻雀パイです。前代未聞のことでした。私たち教員が初めて見た彼の「主体的な行動?」だったような気もします。

もちろん、学校に麻雀を持ってくることなど認めるわけにはいかず、学年で指導を行いました。「なぜ、いけないんですか?」「賭け麻雀なんかしていません。純粋にゲームとしての麻雀です」「なぜ将棋は良くて、麻雀はダメなんですか?」「人に迷惑をかけません。昼休みの予鈴が鳴ったら片づけます」。こんなにきっぱりとした口調で、先生方にものを言う彼の姿を初めて見た気がしました。彼に対して、論理的に納得させられる理由は持っていなかったように思います。ただ、「学校に麻雀を持ってくるなんて・・・」という声は、生徒の側にもいわゆる常識としてあり、この問題は形の上では収束していきました。ただ、残念ながら彼は元のおとなしく、無気力な状態に戻ってしまっていました。

「卒研なんてどうでもいいよ!おれなんて関心のあることなんて何もないし!」彼が小さな声でつぶやくのを聞きました。「君は、あれだけ麻雀が好きだったんじゃないのか? 麻雀のことをテーマにすればいいじゃないか!」その時、彼の目が鋭くこちらを向いたのを感じました。「麻雀なんかをテーマにしていいの・・・?」「麻雀なんかって、君は麻雀を馬鹿にしているのか?」すかさず私は、たたみかけました。「麻雀って面白いゲームなんだろ!」「そうだよ。すごく頭を使う、奥が深い遊びだよ。」「だったら、テーマになるんじゃないのか? なんでそんなに奥の深い遊びが、不良の遊びと言われたりするんだろう? もしそれが偏見だとするなら、君が麻雀の魅力をしっかり調べ、誤解している人たちに向かって伝える論文を書いたらどうだろう。」

彼は、自らさまざまな文献にあたり始めました。もともと麻雀は中国の貴族の間で行われていた高貴な遊びであったこと。日本へ渡り、広がるにつれルールが変わると同時にその背景も日本独自なものになっていったこと。日本における今後のマージャンの可能性。中間報告会の場では、普段見られなかった前向きな彼の姿が見られ、内容的にも他の先生方から評価してもらえるものになっていました。

中学生時代には、自我が生まれます。大人に対して、世の中に対して疑問が生まれます。しかし、それを上手く伝えることのできる言葉を持っていません。余裕のない物言いは誤解を生みます。真意が伝わりません。「どうせ、分かってくれない!」「どうせ俺なんて!」「どうせ・・・」の回路から、いかに生徒を解放させてあげられるか、それが身近にいる教員の大きな役割ではないかと思います。



また、別の男子生徒は「スケボー」について研究しようとしていました。若者の間で一つのファッションとして流行りだし、同時に町の公道で大きな音を立てながら遊ぶ迷惑行為として取り上げられだしていた頃でした。彼は当初から「スケボー」を一つの立派なスポーツとして考えていました。スケボーの魅力とスポーツとしての可能性を伝えたい。その時に、一番大きな妨げとなるのが、スケボーを愛していると言いながら、迷惑行為を繰り返す人たちであるということも指摘していました。もちろん、安全にスケボーを楽しむことのできる場所が今の日本では整備されていないという事実が前提の上でのことですが。そのように語るとき、彼はスケボーに何の興味も持っていない人たちと対話できるチャンネルを持っているのです。自分中心で語られる言葉を、いかに他者と繋がることばに変換してあげられるか、それは「子ども」が「おとな」へと変わるときでもあるのです。



オタクという言葉が生まれてから、かなりの時間が経ちました。この日本において、完全に市民権を得たようにも思います。たとえ狭くても、一つのことに強い関心を示し、深く追求することは、けして悪いことではありません。むしろ、文化はそういうところから生み出されてくるようにも思います。問題なのは、その狭い世界の中で満足してしまうかどうかでしょう。同じ関心を持つ者同士の世界では、多くの言葉は必要ありません。その中で差異が生まれれば、さらに細分化され、「あいつらとは違う」といった方向に進んでいきます。ネット文化はますますその方向性に拍車をかけるでしょう。

時代はますます、自分に都合の良い情報と自分に賛同してくれる人とつながることをたやすくしてくれるでしょう。一見一人一人が尊重されているようでいて、「多様性を認め合い、共同的に生きていく」豊かな社会とは、まったく逆の方向に進んでいることは、誰の目にもはっきりしているのではないかと思います。

大切なことは、自分と価値観の違う他者とつながること。その回路を開いてあげることではないでしょうか。自分を否定されることは誰にとってもつらいことです。価値観の違う人とのコミュニケーションをとることに勇気がいるということもよく分かります。しかし、この世の中は、YESかNOで割り切れるものではありません。100か0でもありません。他者の考えに出会い、対話が生まれ、自分の考えが変わっていくことは豊かな学びです。勝ち負けではありません。

『卒業研究』という1年間の取り組みは、たくさんの他者と出会うことでもあります。担当教員との出会いであり、複数の参考文献との出会い、折々に報告しあうときに聞き手となってくれる仲間との出会い。他者と出会うことによって人は磨かれていきます。

(次回に続く)

*明星会FB(卒業生の活動をご覧いただけます)